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  • 病気と自己責任(2)

    昨日の続き

     本当に病気というのはありがたいとしか、他に言いようがない。病気になったことで我々は死なずにすむからである。もし、病気が起きなかったら、たちまちにして回復し得ない重症に陥ってしまうだろう。病気というものは、からだの危険性をいちはやく知らせてくれる警報器でもある。いと精巧な警報器がついているからこそ、「病気」になれるのであり、痛いとか、痒いとかも言えるのである。
     そこを間違えて、病気を悪者扱いにし、闘病モードに入って病気と闘うというようなことは、決して考えてはならないことだ。病気になるのには必ず原因がある。しかるにその原因を取り除けば、病気は必ず消えてしまうが、これはきわめて簡単な論理であるのに、ほとんどの人が理解していない。病気は決して嫌ってはならないものであり、その原因を見つけ出して取り除くべきことなのである。

     病気になって痛みがあると、それはありがたい警報であり、また同時に原因を取り除こうと血液を呼び集めている尊い働きである。その痛みは、病気そのものではないのに、痛み止めの薬を飲んで痛みが止まると、治ったと思い込んでしまうのだ。これは治ったのではない、痛いと感じる神経が殺されたのである。未だかって死んだ人が痛いと言ったことがないのと同じで、鎮痛剤を使えば、痛みがなくなるのは当たり前のことだ。
     
     たとえば盲腸炎というのは、破裂していない限り、簡単に治るものである。それを切り取ってもらい、これで盲腸炎が治ったと言って喜ぶ人が多いが、とんでもないことである。盲腸というのは、腸機能の警報器だ、この警報器がなくなると、腹に故障が起きても感じることができないようになる。盲腸が存在していることが原因で、盲腸炎になったのなら、当然、その原因たる盲腸は、切り取るべきものである。しかし、健常者が、盲腸はいぜん生まれたままについていても、盲腸炎で困ることはないのであるから、盲腸炎とは、盲腸があるからではないというのは明瞭な事実である。
     盲腸炎の本当の原因は、肉類や砂糖の過剰摂取や腰椎二番の副脱臼、それに左膝の故障、あるいは心の不平などであるから、それらを治せば、姿がなくなれば影も消えるように、盲腸炎は消えてしまうものである。およそいかなる手術にしても、切り取ったところは、神経も同時に切られているから、警報線を外されたようなものだ。するとそれだけ、からだが無防備になり、それだけ寿命を縮めることにもなる。

     これは薬剤についても、ほとんど同じようなことが言える。一般薬品というものは、肉体にとっては、必ず異物であって、健康体の人に与えて実験したら、その害毒作用はすぐに分かる。健康体に害を及ぼすぐらいであるから、病弱体には、もっと強く害を及ぼすことになるのは、論理的に言っても間違いない。
     神経痛を患った人が長いこと、副腎皮質ホルモンを射っていて、あるとき床に尻餅をついて、立てなくなりレントゲン写真で見ると、骨盤が三つに割れていたそうだ。またコーチゾン薬と病気の板ばさみにあって苦しんでいる人も意外に多い。それは一種アレルギー中毒にも似た症状である。他にもストマイ注射のために耳が遠くなったという、西洋医学ではストマイ難聴は治らないものと言われている。このように薬を服用するのは、それなりの覚悟が必要だ。いくら医者が薬を処方しても服用するのは、あくまでも自己責任なのである。

    明日に続く

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • 病気と自己責任

    今週は日下が担当です。 テーマは操体療術家らしく「病気と自己責任」ということで。
     今回は病気というものの真の姿と、その病気になるための素因である息食動想と、それに皮膚を加えた自己責任との関係性について考えてみたい。 まず、病気で苦しんでいる人は、病気とは何であるのか、ということを理解しなければならない。病気というものは、からだが持っている本能の働きであり、健康を回復しようとする尊い努力の賜物であるということを。
     たとえば病気になって熱が出るのは、高熱によって害菌を掃滅している姿であり、その発汗によって菌毒を排泄する働きをしている。また痛みが出るのも、その痛みによって血液を患部に寄せ集めて、病根を清掃している尊い相であり、嘔吐をするのも、下痢をするのも、すべて毒物を一時も早く排出しようとするありがたいからだの活動である。したがって感謝こそすれ、闘病などと称して病気と闘うなんてことを言い出すのはとんでもない話であり、からだに対して恩知らず、恥知らずであると言うしかない。

     およそどんな病気にしても、正常な健康を、一刻も早く回復しようとする働きがないものはない。そんな自然の条理が手に取るようにわかってくれば、人はまず、病気そのものに感謝せざるを得ない。感謝というのはこのようなことを言う。「病気になってありがとう」そのように心で合掌できるようになったとき、病気の半分は、そのとき、もうすでに治っていると思ってよいのである。
     なぜなら、感謝することで明るい心になれることと、からだが教えてくれる治療の方法を過らなく、受け取ることができるからである。反対に病気を悪いもの、と思い込むと、何よりもまず、たちまち自律神経が弱ってしまい、血管と内臓の働きが落ちてしまう。たとえば心配すると胃の活動が落ちるという体験でもわかることだ。

     最近流行の「癌」! これもありがたいと思うしかない。本当に癌というものは、ありがたいものなのである。もし癌ができていなかったら、もうすでに死んでいたかも知れない。からだの本能が、一生懸命に癌をつくってくれて、他へその毒が散らないように、その部分だけに押さえ込んでいてくれている。
     洪水のとき、堤防の土手に砂袋を重ねて水を防いでくれている自衛隊の方々を、我々はきっとありがたいと感謝するにちがいない。癌の症状は、その土手に詰まれた砂袋であり、まず心から感謝しなければならない。それから癌を起こさないような、正しい生活を実践することで、血液を清めることができる。血液が本当にきれいになれば、どんな癌でも、洗い流されて消えてしまうしかないのである。事実、いかなる種類の癌であっても、手術や薬剤によらずに治る、いや治るのが当たり前である。

     病気になったら、からだの本能への感謝と、正しい生活の実践を実行することで、血液は浄化され、病気は洗い流されてしまうものだ。病気の症状というものは、からだの本能からのメールであり、病気になったその時、「症状」というメールを開けて、よく読み通したらよい。何をしなければならないのか、ということを症状自身がよく教えてくれる。
     たとえば熱が出たら、脚湯、半身浴などを行うことによって意識的に頭寒足熱状態をつくり、もっと汗が出るようにすればよいし、吐き気がしたら、指でも突っ込んで、もっと吐くようにし、食欲がなくなったら、水分だけは補給して、絶食すればいい。また痛むところがあれば、からし湿布などしてその部分に血液をたくさん集める算段をすればいいのである。しかしこのような処置はあくまでも応急的な処置であり、病気をつくった本当の原因は、必ず別にあるのだから、その原因を追求して取り去らなければならない。それが「症状というメールをよく読む」ということである。

    明日に続く

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • p1*[岡村 郁生(おかむら いくお)『イロ色あるから人生じゃないか』

    「万能」はあるのでしょうか。それを求めているのは欲なのでしょうか。
    そんなの当たり前といえる「理」もあるのでしょうか。
    仮の姿である花びらも現実、真の姿は土の中に広がるのでしょうか。

    〜なんとなくしっくりこない〜

    「イイじゃない似合ってるよ」
    「ウン、ピッタリだよ」
    人にはほめられてはいるものの、なんだか、しっくりこない。

    ピッタリだなと感じられるものとは何なのか?
    小さい頃からそれを知りたかった。実感を伴いたかった。

    自分の感じている、この感覚を共に分かちあうこと、
    それは大人になるにつれ、巡り会えるならいいなァ・・・、と。

    アノネ・・・いいんだ。我慢はしても無理はしなくていい。
    無理に目の前にある状況に合わせなくても、
    無理して合わせるその前に、その違和感を大切にしておいて欲しい。

    妥協するのは、計算なのかもしれない。
    どこから違和感を感じているのか。
    どこから引っかかってしまったのか。
    分かれ路では、小さな相違を大きくするきっかけを感じなかったかい。

    それでもいいんだから・・ネ。
    いいかい、焦って急いだら、きけないよ。
    それは理に適っていないからわからないんだ。

    そう・・・ユックリ・・・で構わない、元に戻ればいいだけなんだから。
    しっくりこなかったのは、
    「からだにききわけて」みなかっただけじゃない。

    「楽」を求めて、「からだの要求」ではない”何か”を求めすぎたのかもしれないよ。

    そう。「快適感覚」は、からだ本来の要求している感覚。
    「からだにききわけて」しっくりしないときには、しっくりくる理由もあるんだから。

    〜生まれてきてヨカッタ〜

    性の探求において我が性に命をかける。これなら命を惜しむことはないのです。
    私自身という救いを感じ、死生観において気づきを与えられることもあります。
    静的良心に通じ、性的両神にも教えて頂きながら、反省する日々もあります。
    いわば、食は命なら、色も迷ならぬ”命”にかなっているのです。

    大人になる社会のなか、身につけてしまった固定観念や価値観に縛られ、
    知られたら格好悪いとか、こんなこと恥ずかしいとか、
    傍目に変人と思われるとか、原始的でみっともない・・云々。

    いいかい、それは要らないんだ。
    そんなモノ身につけていなくてもいい、そんな ”間” は合っていいんだ。
    起こっていることに条件を求めず、肯定して受け入れてもいい ”間” は合っていいんだ。

    合一には、時間が要らない。そこに満ちているのは愛、
    絶対的な信頼感と、絶対的な安心感による唯一無二による不文。

    あたしゃ・・生まれてきた自由さえ否定している人生なんて、まっぴらゴメンだね。

    ね、大自然のオッカサンに感謝できるんだ。それでイイじゃない。

    ・・・では、このあたりで・・・今週のブログ担当は岡村郁生。
       一週間のお付き合い、本当にありがとうございました。
       皆様〜春季フォーラムでお会いしましょう!!

    そしてお待たせしました!いよいよ明日からは、知る人ぞ知る伝承者、日下実行委員の登場です。。ご期待下さい!!

    B2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • [岡村 郁生(おかむら いくお)『みまもり』

    受け入れる器を洗練させていること、磨き上げていくこと、シンプルにすること。
    そうなっているんだな、と実感していくことにおいて、
    指導者は何も人との接触のみに限りません。
    ラジオ、テレビ、書物であったり、インスピレーションであっても、導かれるときは導かれるものです。

    私自身も「からだ」を通して大切にしているのは、闇の帳から感じ取れる情報です(深夜から早朝)
    「オイ、起きているか?」「一番シンプルで、一番愛に満ちて、一番調和を図るのはなあんだ?」
    しょっぱなから質問ですか・・・?勘弁して下さいよ〜太極の意志じゃないですか・・。
    一番よいもなく一番悪いもなく、一番は一番だから・・・自分自身のからだ、でありイノチかな・・云々。
    「見守り」「これをゆめゆめ忘れないようにな」
    ・・・ん?夢か?イヤとりあえず書いておこう・・とっまあ、こんなこんな具合で日記に書くわけです。

    欲しくて入ってくるもの、欲しくなくても入ってくるもの、この線引きをしているのは誰でしょう。
    心を通じて入ってくる情報。ある意識を通して受け入れる情報。情報と言っていいのかわからないもの。
    とまあ・・・私達は、知らないうちに多くの情報を受け取っています。

    五感の中で一番多く情報を取り入れているのが、特に、”視覚”による情報。
    その割合は、8割以上と言われています。

    あえて意識しているわけでもなく、入ってきてしまう情報。
    視覚情報は、明暗と色彩。
    特に「色」は、感情や思考を通さずに影響を与えることも可能なのです。

    また、心は特に、その影響を受けやすいとも言えます。
    普段、何気ないことでも意識すれば、
    その影響を工夫することも可能となるのです。

    わかりやすい例を挙げれば、
    「赤」は、気持ちが前向きになる。
    「青」は、気持ちを落ち着かせる。

    心はそれを受けて、どう感じているか。
    そうです。ココで大切にして欲しいことがあります。

    心の感じかたと、「からだにききわけて」みたことは、
    同じではないのです。心はうつろうもの・・ではないでしょうか。

    赤をみてエネルギッシュな行動!?
    いや・・そんな気分になるどころか、なんだかうるさい感じがする・・・。

    それをそのまま、そのまま、そう・・、
    「からだにききわけて」どうでしょうか。
    あなたの心と、「からだにききわけた」なにか、は・・・同じですかねェ。

    もう一つだけ、
    「痛覚」の専門書の記載してあり、印象的だったの言葉があります。
    痛みにもリハビリテーションが必要であるという事実(現在〜病歴の関与)です。

    人が治るというのは、それは、(本人の)”自主性の復活”である。
    「自主性」および「独立心」を喪失した状態から回復することである・・・と。

    橋本敬三先生の映像を見ていると、来院されている患者さんに語っておられますよね。
    「こんないいからだしてんだから!」
    もともと、いいいから、その元の「からだにききわけて」みたらいいんですよネ。

    きょうはこんなところで・・・有り難うございます。

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • p1*[岡村 郁生(おかむら いくお)『ききわける』

    昨年、初めて体験したことがあります。
    それは、お世話になった人が亡くなる瞬間に立ち会うことだったのです。

    変化を怖がらなければ、拒否しなければ、不思議なことってあるんですね。(不思議ではなくなることかもしれませんが)
    操体を通じ”感覚”を本気で学ぶまでは、自分の知識で考え、頭と経験で想像できる範囲を重要視したのですが、
    何かが弾けて”目に見えない感覚”を本気で学ぶようになり、感覚を最優先にしていくことで、
    「からだ」とは、「ききわけて」いると、何か必要なときには、何かを教えてくれるように感じ始めています。
    ですから、大切なことを「からだにききわけて」・・・なにかを感じたら色々な理由をつけずに大切にします。
    このときも、何となく会いに行ったほうがいい…そう感じただけでしたが、このことはかんじとれることなのかもしれません。

    ともかく立ち会うことは出来たのですが、呼吸の納まり方というか、息の引きとりかた・・とは静かでした。
    まるで土砂降りであった雨が上がり、虹が現れてくるかのような時にも似て、移り変わりかたの自然そのものだったのです。
    その方は白血病感染症を繰り返し、多くの抗生物質が効かない手の施しようがない肺炎を併発していましたので、
    それまでは非常に苦しそうな呼吸(チェーンストークス呼吸)を通していたので、本当に変な言い方ですが最期は感動しました。
    出来ることを行い、生きてきて、その先にある死というのは、本当に自然なことなんだな・・と教えて頂いた感じなのです。

    橋本敬三師は、「(あの世は)みんな行くんだからいいところに決まっているさァ」と語っていたそうです。
    ハイ!そうなんですね。今から途轍もない財産を継承させて頂きました!ありがとうございます。
    今まではなんとなく思っていたことを、実際に感覚として受け入れたのです。本当に今思いだしても有り難くて心に沁みています。

    そもそもイノチを宿す権利とは、なにかといえば、それは、神性を相続されている「からだ」にあります。
    元々の「からだ」は、元々いいもの。
    それこそ確かな判断力として備わっている絶対基準はあります。

    自分にいつもピッタリと寄りそっている「からだ」を見失ってしまうほど勿体ないことはありません。
    周囲に問いかけ、周囲から入るモノに多くのイノチを費やしているのなら、ふと、一人になってみるわけです。
    一人という時間ではない、時感をつくって・・・「からだにききわけて」みるのです。

    何をですって?
    それは、あなたのイノチの源泉を。
    それは、自然法則を。それは、快適感覚を。

    今、決断を迫られていることは何でしょうか。
    その選択肢には、どんなことが挙げられますか。
    思いつく限りの選択肢の中で、もっとも現実的なことで、愉しめること。
    自分自身の「からだにききわけて」その上で納得しうることですか。

    それは、いつから必要なんでしょうか。
    今も、そう、たった「今」も、必要なのでしょうか。

    必要の無いモノ。必要の無いもの。必要の無い物。
    薄めても薄まらないのでしょうか。
    その感情は。そのこだわりは。その欲求は。

    それを「からだにききわけて」

    背負っていなくてはならなかった縛りを脱いでいく。
    磨いてみると向こうはうっすら・・感じられる。
    原始感覚を磨くのに、多くのことは要らないものです。
    たった一人になって感じてみるのです。

    無人島に来た私にも、必要なのかどうなのか。
    「ハイ、これは必要です」と。

    そうなんですよね。きっとわかるんですよ、誰でも・・・有り難いことだけなんです。
    わかってしまえば、そんな誘惑も、あんな迷惑も要らない。

    今日はこんなところで・・ありがとうございます。

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • [岡村 郁生(おかむら いくお)『想いを重くしない』

    〜一匹狼を気取る〜

    生きているんだから、
    この娑婆にいるかぎり、避け続けることはできない。
    それは、人とのかかわり、その関係ですね。

    みんなでワイワイ!
    みんなとワクワク!
    みんなもイキイキ!

    何がいけないの?
    楽しければ良いことじゃない。

    「からだにききわけて」
    すると私自身は、ロックマンになりますね。
    (両手外旋しているのに、頭の方へ肩を持ち上げている不自然な連動性)

    私自身孤独を愉しむ・・・時感はあります。
    一つに、心を通わせるもう一人の自分に向き合う。
    一つに、「からだにききわけて」いられる”間”。

    これを外してしまうことは、自分でいなくなること。
    20代後半で結婚をする前、三つ条件を提示しました。

    ・・・どうしても聞き届けて欲しいお願いがあります。
    一つは、僕を縛らないで下さい。私には自分の時間が必要なのです・・・と。
    (後の二つは書くほどでもありませんので、あしからず)
    仕事で縛られたり、遊びで縛られたり、学びで縛られるほど、苦しめあう必要などありませんから、
    男性も女性も受け入れあうのに、志は必要ですし、それは意外と外でなく内にあるのかもしれません。

    日々感じること。
    日々思うこと。
    日々語りあう相手のあること。

    それなら孤独はない、仮のロックマンは消え去る。
    師に恩を感じて味わえるほどのの孤独。
    この孤高の悦を愉しめる故に、常にリッチマンでいられるのが自然法則です。
    (両手を外旋して、肘が中心に向かいつつ肩は下がる、自然な連動性)

    ハイ、学びましょう〜学びに来なしゃんせ。

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • [岡村 郁生(おかむら いくお)『地と血と知』

    「息」と「環境」
    血液は滞ることなく常に流れていますよね。
    生命維持に関わる呼吸とは、つい肺でのガス交換に限って考えがちです。
    ただ、これは狭義の呼吸なんですよね。

    操体の「息」を学ぶには、常識だけでとられていてもわからないのです。
    本来じっとしていようといまいと関係なく、流れるものは流れているんです。
    これも「からだ」からすれば立派な動きになるんですよね。

    呼吸を止めていると苦しくなる・・・・では、飲食をしなければ苦しくなるのでしょうか?
    確かに、炭火で焼いた○○(好きなモノをどうぞ)を嗅覚に入れてしまえば苦しいかもしれませんね。
    ただ、それは本当に「からだ」も苦しいんでしょうかねぇ。。。

    閑話休題
    血液型は不思議だと思いませんか?
    性格との関連性に限らず、運命との関係性もあるでしょう。
    そうかと言えば、科学的関係性を求める調査も行われている筈ですが、
    真っ向から否定する科学者も多いのが、血液型ですね。

    もう7年前以上前になりますが、ABO血液型分類について扱ったテレビで忘れられないのは、
    確か、大きな保育園か幼稚園に協力してもらって、まず、幼児のクラスを四つ(A・B・O・AB型)に分け、
    そこでクラス別に、ある課題に対する集中時間・周りの仲間との協調性・あるテーマに沿った行動の個性等を、
    しばらく観察し、それぞれの血液型とそれに対応するような行動や特性には関連性があるかを番組内で調べたところ、
    まだ社会性が大人ほどに影響していないこともあるのか?それぞれの血液型に応じた特徴を裏付ける有意差を認める結果でした。

    ただ私の場合この番組の見解以上に、この番組を見ていた方達・・・つまり、
    大人の反応こそ様々で興味深い反応をしていたので、子の大人の血液型を調べてみたら更に面白いのではないか?
    そんなことを考えていたのを思い出しましたネ。
    まあ・・・血液型の件は影響も大きかったのか、二回ほど特集された後、
    何かしら有意差を撤回するようなことも放送しており、傾向を参考にするか、差別になっていくのか、それまで考えると微妙ですね。

    ではちなみに、地球を生命体だとすれば何型になるんでしょうか。
    地球上の生命体には、血液型はあるのでしょうか?(ハイあります!)

    まずは植物から行きましょうか。
    モミジは、O型とAB型しかなく紅葉時に黄色はO型、赤色はAB型が多いのです。
    煮ても擦っても美味しい大根は、O型ばかりです。

    東京操体フォーラムでお馴染みの猫といえば、A・B・AB型・・・ですね。
    それに対して犬は、なんと13種類もあるようです。
    ついでにゴリラは、なんとすべてB型、
    最大のほ乳類である鯨も、ほとんどすべてB型だそうです。

    では、日本人はABO型で分類されることが多いので世界中の人もそうでしょうか?
    いいえ、血液型人間学といわれている分類は、日本独自の文化と言えそうです。
    なぜなら、南米インディオは人口の9割方がO型であり知らなくても問題ないようです。

    では、医学で検証されている血液型とはあるのでしょうか?
    ハイ、ありますよ。
    それはABO型分類ではありませんが、血液中の成分で性質で区分する方法ですね。
    赤血球と、白血球、血小板、血漿成分での分類のことです。

    まあ、これを考えてみてもヒトはみんな違って当たり前です。
    ・・・と、同時に不思議に思いませんか?
    だって、あの人と私が一緒であるわけがない、とかおもいつつ、
    ほぼ同じ造形で生まれて、その後の成長も基本的なことは同じです。
    だから、分析も可能なんでしょうね。

    当たり前と思っていることと、当たり前に持って生まれている、というのは違います。
    操体を学んでいると、このような現象を興味深く丁寧に見届けていく意識も生まれてくるようです。

    きょうはこんなところで・・有り難うございます。

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • p1*[岡村 郁生(おかむら いくお)『お洒落は人の為成らず?』

    私自身思うんですよ。
    これは「からだにききわけて」みたら「快」と「楽」ほどに異なってきます。

     操体を通じて操体法を学び、謙虚そのものを感じ、
     創始者の想いを継承し、伝道者に師事することから始まり、
     操体法の伝道者となる努力を積み重ねてゆくこと。

    素直に「ハイ」と返事をできる自分自身でいられること。

    それが、ただの利用者でよいのなら方向性が異なってきます。
    操体を通じて操体法を学んでも、自分の勝手な解釈で済ませ、
    操体を利用して、操体法をテクニックにしていくこと。

    「ウン」と返事をしておわり、返事も自分勝手に持ち去ること。

    情けは人の為成らず…といいますが、いったい誰の為に学んでいるのでしょうか?

    例を挙げましょう、ハイ「お洒落」です。
    そもそも橋本敬三師は、とてもお洒落だったと聞いています。
    そして、三浦理事長も、とてもお洒落なのはご存じでしょう。

    操体に限りませんが、
    尊敬して学ぶ姿勢を育んでいれば、その想いに少しでも近づきたいものです。
    それを踏まえて敢えて語らせて頂きます!!
    情けは人の為成らず、然り・・・、お洒落も人のためならず、デス。

    私自身は、
    橋本敬三師の写真や映像を見たとき、とてもお洒落な方だな、と、嬉しくなりました。
    三浦理事長に直接お会いしたとき、やはりお洒落な方だな・・と、更に嬉しくなったのです。

    私の祖父もお洒落で、ループタイとベレー帽を愛用し、小さい頃から会うたびに嬉しかったものです。
    私の母親もお洒落で、今でも出かけるときにも思いっきり時間をかけてお洒落を愉しんでいます。
    私の弟もお洒落で、今も質素な生活をしているのにお洒落なので、友人からはお洒落乞食?と言われています。

    私のクライアントの方にもお洒落な方が多く、私に向かって・・・、
    「お洒落な方じゃないと、”触れられる”のもイヤなの」と断言された方さえ一人ではありません。
    これは、少なくとも身ぎれいになる努力を忘れずにいることであり、臨床家なら聞き捨ててはいけないと思いませんか?
    それだけではなく、”お洒落”には、(いやな印象を与えない+α=個性)を大切にしなくてはいけません。

    ともかく私には、お洒落とは何かを教えてくれた、師、親、友人、クライナントは多く、
    簡単に言えば、自分自身をみがく意識を忘れない為のお洒落とは、常に相手を意識していることにもつながり、
    朝起きて、天候を感じて、自分自身の身につける素材の選択、色の組み合わせ、全体を鏡で映し、
    顔だけでなく、全身のバランスを観て、日々自分自身との関わりかたを捉えなおすのっきっかけになります。
    ですから、人と環境を結びつけているサムシング・・・努力の種を蒔く必要性は”お洒落”にもある、というわけです(笑)

    生命力を最大限に保たせるように、自然の要素を活用することも、”お洒落”につながるのかもしれません。
    美しいものや身の回りの鮮やかな色彩の変化が、病んでいる場合には特に、”お洒落”は効果があるそうですし、
    皮膚で言えば、見ているものだけでなく、触れるものにも色彩効果は影響し、気分的なものに過ぎないのではなく、その効果は「からだ」にも及ぶのです。

    まとめましょう。
    ”お洒落”で成すべきことは、自然が働きかけるのに、最も自然な状態に自分自身を置くことなのです。

    このあたりは、先日のブログにもあったオシャレ番長!三浦寛幸実行委員に詳しく聞いて下さいネ。
    「からだにききわけて」みれば、たかがお洒落されどお洒落。。。。なのです。
    本来、動物も植物も”お洒落”ですから。お洒落は一種の本能です。
    自分の中に納得できる答えを持っているかどうかのでもありますね。 

    きょうはこんなところで、有り難うございました。

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホールにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • p1*[岡村 郁生(おかむら いくお)『神性相続権』

    四月が過ぎて都会へと旅立っていくあのひとよ・・・。

    新学期が始まり、様々な方達は切り替わった生活を始められているのだな・・、
    ソメイヨシノは緑の葉を茂らせ、八重桜も散り始めている今日この頃、
    みなさま如何お過ごしでしょうか?
    ハイ、有り難うございます。
    今週を担当します岡村郁生を、宜しくお願いします。。

    きょうは新しいことを始めるにあたって、謙虚という意味を考えてみたいのです。
    東京操体フォーラムの三浦理事長は、
    操体橋本敬三先生から、お借りしているのだからちゃんと学びなさい」
    まあ、そのような意識であれば、自分勝手にこうしよう・これでいいやでは成り立ちませんね。

    今までの自分に垢がついていたんじゃないか・・・捉え方の意識をシンプルにして学ぶ。
    自分を中心に置かず、生かされていることを謙虚に意識していく。
    そんなことを大切な、自分自身の”根っこ”としているのか・・・です。

    閑話休題
    さて、少年少女に薦めたくなるような名著を、日本では推薦図書といい、
    米国ではこの選書をグレイトブックスというそうです。

    私の場合、初めに読んだ橋本敬三師の著(『万病を治す妙療法』農文協)を思い出しました。
    学生諸氏にもわかりやすいように書かれたという、この著書。
    そういえば、読むのは勿論、音読で聴いて味わえるような・・・、ハイ!読み方も工夫ですね。

    著者である中世ドイツのキリスト教神学者マイスターエックハルト氏の著から、
    『マイスターエックハルトと裸の男の子』の一節を書き出してみます。

    エックハルト説教集 (岩波文庫)

    エックハルト説教集 (岩波文庫)

    マイスターエックハルト氏は、
    「自分が感じているもの、あるいは経験しているものすべてを、
     あたかも事前に選択したかのように生きることによって、
    真の自由が得られる」とも語っています。
    (以下抜粋)
    マイスターエックハルトは 一人の美しい裸の男の子と出会った。
    そこで師はこの子に どこから来たのかたずねた。 

    男の子は答えた。
    「神のところからやってきた」 

    「どこに神を置いてきたのかい?」 
    「徳のある心の内に」

    「どこに行きたいの?」
    「神のところへ」 

    「神はどこで見つけるの?」
    「すべての被造物から離れたところ」

    「君はいったいだれ?」
    「王」 

    「君の王国はどこ?」
    「心の内」 

    「だれかにふみこまれないように気をつけなさい」
    「そうするよ」

    そこで師は この男の子を彼の部屋に連れて行き、語った。

    「どれでもいいから好きな上着をとりなさい」 
    「そんなことをしたら王ではなくなってしまう」

    そう語って男の子は姿をかき消した。
    それは神自身であった。
    神はわずかの間であったが、マイスター・エックハルトと共に過ごしたのであった
    (以上抜粋)

    ・・・いかがでしょう、何とも言い難い感覚を味わえませんか?
    私には、感覚の訪れのような、一種独特の読後感があります。
    多分、解読しなくてもその感覚でいいのでしょう。

    私自身思うに「心」というのは、なんとも曖昧なものなんだな、と感じています。
    だからこそ、曖昧である意味を愉しむ”間”もあるようです。
    ですから、
    キーワードは「からだにききわけて」です!(今週はこれでイキマス)

    橋本敬三師は、シンプルにこのように語っています。
    「現象以前の救いの悟りを得たものは、人生の至福を得たものである」と。

    「からだ」に必要なこともシンプルです。
    「きもちよさを探してランデブ〜しようぜ〜」なんてあり得ません!
    「からだにききわけて」いるのは、「快適感覚」ですネ。

    そして、「快適感覚」をききわけ、味わっている”間”とは、まさに妙味。
    また、「快適感覚」を味わった後の脱力後の爽快感とは、
    なんと言ってよいのか、言葉にしがたい”有り難い”味わいそのものです。

    ハイ!・・・では改めて、今週からのお付き合いを宜しくお願い申し上げます。
     
    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致しますヨ。
            

  • 『活性化!』

    秋穂です。いよいよ最終日7日目のブログよろしくお願いいたします。

    今朝はいつもより早くに家を出てバスに乗りました。特別に早く出勤する必要はないのですが、気分的に活動的になっているのでしょうか。

    今週末は毎月第2日曜日に開催されている東京操体フォーラム実行委員の勉強会が開催されます。

    こんかいは私も半年ぶりに参加させていただく事になりました。どのようなお仕事でもそうだとは思いますが、常に世の中の情勢や技術は更新され続けています。

    あまり新しい物にばかり目を奪われるのもどうかとは思いますが、やはり古きを温めて腐らせて棄てるのでは無く、古きを温めて新しい気づきを得られるようにブラッシュアップし続ける努力は必要です。

    「さぁ、今週末は東京だ!」と考えるだけで今日の私のように自分の内面が活性化されるのがわかります。自分という人間の単純さに驚かされます。

    先日人から聞いたの話なのですがどうやら鹿児島県の霧島に仙人がいるらしいのです。仙人とはいってもサラリーマン生活を早期リタイアされたかたが新天地として選択したライフスタイルが仙人生活なのだそうです。

    しかし現実的にみんなが大自然の中で自給自足で生活が送れるのかというと難しい面も多いと思います。ライフスタイルとしては東京の街中で仙人生活を送られている三浦理事長のライフスタイルの方が個人的には憧れます。

    青年は教えられる事よりも刺激される事を欲するものである。

    ヨハン.ウォルフガング.ヴァン.ゲーテ

    待てよ。考えてみたら…もう青年といえる歳では無くなってしまったのではないか?否、ココロに情熱と好奇心があり続ける限りは永久に青年時代なのだから。

    では明日からは岡村実行委員長のブログで良き刺激をいただいて下さいませ。

    一週間ありがとうございました。