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  • 今月からバッグを変えてみることにしました。
    普段使っているものが傷んできたというのもあるのですが、極力身軽にしようかと思い立ちました。

    以前はA4サイズの書類や本が入ることを基準に選んできました。
    性分で本も常に何冊か持ち歩かないと落ち着かなかったので、やたらかさってしまっていたものです。
    たまに、それって重くないのと聞かれたりしましたが、実際重いです。
    それでも腰痛や肩こりなどに悩まされたこともないのは操体をやっているおかげだと思います。
    一日の仕事が終わった後に一人で横になってからだと対話する時間をとることが日課でした。

    とはいえ、普段の歩き方にも影響がでてくる点が気になります。
    近頃では、情報のクラウド化もあり、荷物も減らすにはいい機会なのでもう少し歩くということを味わってみようと思います。

  • 先日、「脳波停止の後に残る意識」という気になる記事を見つけた。
    蘇生医療の専門家サム・パーニア氏の話である。

    現在、心肺停止または脳死の状態が死の定義とされているが、この時点では意識は無くなってはいないとのことだった。

    「現在はっきりとしているのは、人間の意識が消滅するわけではないということだ」
    「意識は”死”のあとも、数時間は存続する。外側からは見ることができない冬眠的状態であるとしても」

    心臓が鼓動を止め、脳が機能を停止している状態から蘇生した人達の話を聞くと何かを見たという報告をするという。
    そしてその人達は死の宣告をされた後の周囲の物事を正確に記憶している。

    「少なくとも、そうした話は人間が死を通過するときに出会う、独特の体験が存在することを物語っています。それは普遍的な現象で、3歳の幼い子どもでさえそうした体験を話します。そしてこの体験が教えるのは、われわれは死を恐れるべきではないということです。」

    橋本先生は、「みんなが行くところだから、いいところに決まっている」とおっしゃっていたそうだ。
    その時はどういう形になるかはわからないが、穏やかな気持ちで迎えたいなと思う。

  • 最近気に入っている本の一つに、高杉さん家のお弁当がある。
    これは電子書籍で持っている唯一のコミックだ。
    コミックに関してはまだまだ紙の方がいいかなと思いつつも、新刊をチェックしている際に目が止まり、ついつい衝動買いをした。

    高杉さん家のおべんとう 1

    高杉さん家のおべんとう 1

    高校時代に両親の死と叔母の失踪で家族を失っていた31歳のオーバードクターの主人公が、ある日従妹の未成年後見人となり、弁当作りを通して家族となっていく話である。

    数年前に自分でも弁当を作り始めた事もあって、興味のあるテーマだった。
    もともと晩酌の習慣があって、酒の肴にちょこちょこ作るのは好きなのだが、毎日弁当を作るとなると食材の用意も変わってきた。
    食について考えるきっかけになり良かったと思う。

  • Amazon電子書籍サービスkindleの日本版が開始して半年が経った。
    当時から周りでも話題になってはいたが、音楽や映画のネット配信の時に比べいささか抵抗があった。
    抵抗というよりは関心が薄かった。
    専用端末やタブレットなどの大きめの画面でなら見やすい部分はあるものの、持ち歩きを考えるとまだ紙の本の方が気軽に読めるかなと思っていた。
    なので、スマホパブリックドメインの文章が詠める青空文庫を利用しつつ様子を見ていた所であった。

    ここ数ヶ月の流れでスマホの大画面化が進んで5インチ前後が主流になり、機種変更をきっかけにKindleのアプリを入れてみた。
    いくつかの本を購入してみたがこれが使いやすい。
    本文中にハイライトやメモを残せるし、辞書もその場で引けて、クラウドで同期できる。
    今ではもっぱらKindle版ばかり買って、欲しいものがない時だけ紙の本を検討するようになった。
    出版社によって扱いに差があり、個人的に好きな岩波やちくまが対応していないのが残念ではあるが、今後に期待したい。

    操体の本も電子書籍で持ち歩けるといいのだが、これは自炊するしかなさそう。
    いずれにしても本を読む楽しみが増えたのは確かである。

  • 今週担当の辻です。よろしくお願いします。

    先週、富士山の世界遺産登録のニュースがありました。
    ユネスコの国際記念物遺跡会議で、条件付きではありますが、登録勧告を受け、6月にも正式に登録される見通しとのことです。
    これまで自然遺産としての登録を目指してきていましたが、ごみ問題などが指摘されていて、今回周辺を含めた文化的な価値としての側面を見なおされての文化遺産としての登録になるようです。

    富士山といえば北斎富嶽三十六景や広重の東海道五十三次を思い出しますが、包装紙代わりに使われた浮世絵が海外の画家達に影響を与え、ゴッホなどは自画像に富士山を描いています。

    現在、スペインで操体フォーラムが開かれています。日本医学としての操体を海外の臨床家へ伝える為に理事長・理事が海を渡っています。
    橋本先生は日本は宝の山だとおっしゃいましたが、その宝を日本人自身が知らないのはもったいないことです。
    実際に操体を学んでいる私たちは次の世代へしっかりと伝えられるように臨床だけでなく伝道師としての役割も果たせるように深く理解する必要があるのですね。
    しっかりと学んでいきたいと思います。

    富士山の動画です。最近Timelapseがお気に入りです。

  • 病気と自己責任(最終日)

    昨日の続き

     我々人間は加熱調理したものを食べているが、健康のためには、食の工夫も必要である。火食すると、食物の持っているビタミン、ミネラル、酵素が死んでしまう。それらが死んで効果がなくなるだけならまだいいが、毒性に変化するものもある。特にほうれん草の場合は、生で食べてこそ、生きた蓚酸が働いて、からだのためになるが、一度煮てしまうと、死んだ蓚酸に変わって、からだにとっては毒になってしまう。神経痛、リウマチ、胆嚢結石、便秘、頭痛など、煮炊きされた蓚酸が原因で起こることがわかっている。

     しかし今さら全部を生で食べるわけにもいかないし、また人間の頭脳がこれほどまでに発達したのも、加熱調理したものを食べたからでもある。そこで加熱調理に関して最も優れている中華式料理法を学ぶべきである。どんな野菜であっても高温の油で炒めてさっとアンをかけ、短時間の加熱で調理することができる実にすばらしい中国の伝統文化である。植物性油で、短時間、そしてアンをかけるという三拍子が揃うと、消化率がうんとアップする。しかもビタミン、ミネラル、酵素が油とアンに包まれて破壊されることなく腸まで届いてくれる。これをするにはやはり中華鍋を使わないといけない。

     また生野菜や果物を食するのに、鳥類や四ツ足動物ならば何の問題もないが、直立二足歩行をする人間ではからだを冷やしてしまうことになる。それは免疫力を下げることにもつながる。そこで生野菜や果物を食べるときは、醤油を少しつけてから食べるようにしたい。生野菜や果物はからだを冷やす害があるので、からだを温める作用のある塩を少しつけることで緩和できるが、それでは血液の塩分濃度が濃くなって血圧の上昇が心配になる。ならば塩分の害を弱めてくれるアミノ酸共存している醤油が最もよいということになる。この醤油というのは日本人が生んだ食の最高傑作だといってもよい。

     ほかに動物性脂肪の料理については、その害を減らすために、植物性の酸である、ゆず、すだち、レモンなどを肉や魚を食べるときは、必ずこれらをかけるとよい。焦げた焼魚の発がん性をおさえる効果もあるそうだ。
    ここで肉食の誤解を説いておきたい。すでに指摘されていることであるが、脳卒中の発症率が高い理由の一つは、動物性食品の摂取が少ないためだと言われている。どういうことかと言うと、動物性蛋白質が不足すると、コレステロールが少なくなり、脳出血や脳深部の細い動脈に起こる脳梗塞を起こしやすくなるということが専門家にはよく知られている。肉に含まれる鉄分やセロトニンは、脳内で重要な働きをしており、肉食は高齢になっても重要な意味を持っている。

     民間素人医学でよく言われるように「肉と砂糖はカラダに悪い」と短絡的に切り捨てるのは、浅はかな考え方である。それよりも肉類の摂りすぎと脂肪分を減らす、いわば低カロリー、高蛋白になるように工夫することで、肉類はまことに良質な蛋白源になるのである。

     また食の健康について耳よりな話としては、野菜の最もよい摂り方であるが、生野菜でも、加熱調理した野菜でもなく、糠の漬け物である。ただし、かぼちゃだけはどういうわけか糠漬けには適さない。糠漬けは発酵食品であり、糠の中で乳酸菌が活動してビタミンCを作りだすので、その糠漬けを食べていると、ことさら添加物入りで割高な乳酸菌飲料を飲む必要はなくなる。

     そしてその食を燃やすために必要な人間の呼吸については、特に注意しなければならないことが多い。呼吸は現代人の文化生活において、ストレスの影響を受けて常にイライラすることばかりである。これは精神不安定な状態にあり、肉体的な病気とは一線を引かなければならない。いわば精神疾患である。そしてその精神疾患は感情に直結しているが、感情は自律神経が支配しており、この自律神経に影響を与え続けているのが呼吸である。だからといって呼吸法なるもののみでストレスが解消されるということはまずない。呼吸は身心の状態に応じて自在な呼吸が自律的になされており、どの呼吸がいちばんよいというものではなくて、時と状況に応じた自然な呼吸ができることこそ理想の呼吸だと言える。

     私は呼吸の専門家であるが、あえて呼吸のハウツーについては述べないことにする、ただ言えることは、意識からアプローチすることで呼吸の問題は片付くものと思ってよい。それは想念やイメージといった内在の意識操作から導かれた自然な呼吸において、精神に重要な役割を果たしてくれることになる。

     一週間にわたって、自分のからだについて他人任せにすることができない自己責任というものを考えてきた。病気に直接影響を及ぼす自己責任として従来から言われている「息・食・動・想」と、それに加えて操体スーパー・バイザー三浦寛師の持論発案による「皮膚」への働きかけというものがある。しかし、あまり熱心にそればかりを実践していると行きづまってくることになる。そんなときは原点である日常の起居動作に心をこめて、自然なからだの動きに身を委ね、任せることで、からだの奥にあるイノチの営みを見つめることができるだろう。病気にも健康にもあまり過剰な意識は持たないようにしたいものである。

     明日からは瀧澤実行委員の担当です。

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • 病気と自己責任(6)

    昨日の続き

     動物は病気をしないのに、人間ばかりが病気に苦しんでいる。何故、こんなことが起こるのか。熊は爪を得て、キリンも頸を得、鳥は翼を得たように、人間は頭脳を得ることができた。その頭脳こそ我々が言う自称「文化」と称しているものだ。そして我々は立って歩く、衣類を着る、加熱調理したものを食する、まことに文化というものは、動物界から大きく我々を引き離したように見える。

     しかしそのような文化こそは、我々が病気に苦しむ素因であることを、改めて認識する必要がある。立って歩くことによって仙腸関節がずれて腰が歪んでくる。これは歪まざるを得ない運命にある。人類が起立して直立歩行するようになってから、60万年経ったと動物学者は言うが、人類の先祖が、魚であり、トカゲであり、哺乳動物であった期間は、その何千倍にも当たる。人類が起立しだしたのは、最近、ついこの間の事柄といってよい。だから人類のもつ病気の悲劇は、そこに始まったと断言できるのである。

     橋本敬三医師は『からだの設計にミスはない』と言われたが、それは生命を何とか持ちこたえている、いわゆる「間に合っている」という範囲での話であって、本当のことを云うと限定条件付での「からだの設計にミスはない」と云わざるを得ない。何故なら、人類の骨盤と脊柱を見ても、力学的に、直立歩行するようには作られていない。未だ人間も馬や牛と同じように、四足で歩いていたときに、最も安定できる脊柱であり、骨盤なのである。これは動物力学を専門とする学者の間では常識的な見解である。

     一軒の家にしても建築工学からみれば、そのまま横倒しにしたのでは、崩れてしまうことは明らかなことだ。設計上、梁が横に延び、柱が縦に支えられているので、家が安定するのであるが、これを仮に横倒しにしたのでは、梁が柱の形になり、支えようがなくなってしまう。人類の骨盤も、もとの梁の役目として設計されている。それゆえ、それが柱になったのでは、梁であった柱は、まことに困ってしまうのである。
     また背後から見て、人間の背骨は、利き手が関係しているため、たいていS字に曲っている。その85%は、骨盤の左が上がり、右が下がっている。このような歪みは、動物ではまず見かけることはない。魚の骨を見ても一目瞭然! 未だかって背骨の曲っている魚を見ることはない。脊柱が曲ると、脊髄神経が圧迫されてその活動が鈍る。それがたちまち、血液循環を阻害する。病気の一つの原因はこれである。

     我々が人間である以上、脊柱の矯正に努めない限り、遅かれ早かれ必ず病気を作るものと考えざるを得ない。もしも、それが面倒だというのなら、動物のように四つん這いになって歩くことである。我々は衣類を着る、これも実に気の毒な生活様式である。動物たちが作った辞典に、「人間とは、身体を変なもので隠している妙な動物である」と書いてあるそうだ。
     衣類を着ることで、それだけ、皮膚が弱くなってしまう。皮膚が弱くなるということは、それだけ皮膚呼吸が悪くなることだ。皮膚には筋骨の保護や体温の調節のほかに、腎臓と似たような、大切な役目があり、それは体内の毒を排泄する働きがある。この機能が落ちると、血液が濁りだしてくる。すると、腎臓が弱くなって、風邪を引きやすくなったりする。ひと夏、海で遊んで皮膚を鍛えた子供は風邪を引かないといわれるのはこれである。

     我々は文明を得た動物として、衣類を着るのは仕方ないとしても、血液循環のことを考えれば、衣類の着方にもひと工夫が必要である。健康の絶対的必須条件である頭寒足熱になるよう下半身は温かく、上半身は涼しくなるように、意識的な配慮が求められる。これは基礎物理学で言う熱の移動原理である。からだの中の血液循環というのは物理学でいう対流であり、いわば血液が移動することである。そのためには足方から温めることで、温められた血液が移動することになって、その温熱を伝える現象を対流と言う。足方部の血液が温められると膨張し、密度が小さくなるため軽くなって上昇することになる。そこへ頭部の冷たい血液が流れ込んで対流が起こる。火事場付近に風が起こるのは、空気の対流のためであるが、これと同じことがからだの血液の流れにも起こっているのである。

     明日に続く

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • 病気と自己責任(5)

    昨日の続き

     病気は血液循環をよくすれば治る、と昨日も述べた。そしてそれには筋骨と皮膚に働きかけるとも言った。まず筋骨格系については、これを力説しないものはない。歩け歩け運動から始まり、ジョギング、エアロビクス、ストレッチ、そして筋トレに至るまで、みな血液の循環を目的とするものである。科学文明の発達とともに、ますます運動の大切なことがわかってきたのは必然的なことだ。
     運動筋肉の血液循環がよくなることで、その血液循環の勢いが、内臓筋肉にも及んで、内蔵の血液循環もよくなってくる。すると、腐った細胞も運び出されることとなり、新しい栄養も配られるので、病患部は元の健康に戻るという論理である。運動を抜きにして健康は論じられないことは、もはや常識である。

     しかし骨格の重要さについて気づいている人は少ないようだ。私の施術院にやってくるクライエントには腎臓を悪くしていると、訴える人がいるが、「あなたはゴルフをやっていないか」と私は尋ねることが多い。なぜならゴルフを熱心に練習すると、どうしても胸椎10番に無理がかかって、そこが歪んでくる。胸椎10番が歪むと、必ず腎臓が悪くなるからである。ゴルフは運動としては結構なことであるが、そのゴルフによって、骨格が歪むことに気を使っている人はあまりいない。
     骨の歪みが原因で重患になるケースとしては、ムチウチ症が多いが、追突されて10年、病院に通いつめてもなかなか治るものではない。骨格の歪みの恐ろしさは、これでよくわかるはずである。それを矯正する方法としてオステオパシーカイロプラクティック、それに東洋の鍼とかがあるが、どれも思うほどではないのが現実だ。これについても操体法は、実にすばらしい効果を出すことが期待できる。骨格の異常をピタリと整復する実力を持っているからである。

     次に皮膚については、外部から容易に触れることができるので、その刺激が内部に伝達されて血液循環をよくすることは、誰でも知っている。日光浴、風浴、水浴、摩擦、湿布、膏薬、果ては吸玉、鍼、灸、電気なども皮膚による血液循環法である。ひと風呂浴びると、さっぱりするのも、皮膚の刺激が、内部の血液循環をよくしたことで清涼感を覚えるからだ。
     それほどに皮膚というのは、血液の循環をよくする方法なのであるが、事実は、あまり注目されてはいない。筋肉の運動は、血液循環のために大切だということは誰でも知っているようであるが、皮膚の刺激が血液循環のためにどんなに大事なことか、知っている人は少ない。その証拠に、健康法と称する本が無数に出版されているが、運動の大事なことに言及していても、皮膚の大切なことには触れていない、説いていない本が多い。

     血液循環のことをいうならば、皮膚への働きがけと、筋骨の運動とは、まったく対等の価値をもっている。ゆえに一方を言うならば、必ず他の一方を言わなければ、健康道としての作法に、大いに欠けるところがあるのだ。この一辺倒の傾向は、血液の質について、呼吸を疎かにし、食の栄養一辺倒に流れやすいのと、不思議なほどに似通っている。健康を学問とする専門家たちが、大いに筆をふるっていながら、血液の質において呼吸を忘れ、血液の流れにおいて皮膚を見落としているのは、一体どうしたことであろうか。操体法ではこの皮膚に働きかけることで生体の歪みを正すことに開眼したのである。ただ操体法においては、皮膚への刺激ではなく、軽い接触をもって対応しているのが何よりの違いである。

     明日に続く

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • 病気と自己責任(4)

    昨日の続き

     血液は酸素と栄養とを、およそ60兆を数える人間の細胞に配る働きを日夜休むことなくこなしており、その血液が滞れば、細胞はたちまちにして窒息し、餓死してしまう。そして累々と重なった死んだ細胞を運び出すこともできなくなってしまうが、それが病気というものである。
    動物でも植物でも、生きているうちは腐らないが、死んだとたんに腐りはじめる。うじ虫にしても、生きている猫にはつかないが、轢死でもしたとたんに、湧きだしてくる。病気はバイ菌が原因だ! というのは、そこのところを見たものであるが、生きている猫には決して、うじ虫はつかないように、生きている細胞には、決してバイ菌はつき得ないものである。ということは、病気の原因はバイ菌ではなく、死んだ細胞であるということを知らなければならない。どんなに、うじ虫をつくるハエが集まっていようとも、猫が元気で生きていれば、決して、猫のカラダにうじ虫は湧かないものである。バイ菌がどんなに入ってこようとも、死骸になった細胞さえなければ、バイ菌は殖えることはできないものだ。

     いちばん恐ろしいのは、バイ菌ではなくて、我々自身のからだの中の「死んだ細胞」なのである。コレラ菌やチブス菌や赤痢菌などから発症するいかなる伝染病にしても同じである。腹に内出血のない健康なからだであるならば、どんなにバイ菌を飲んでも、からだの中を素通りするだけで、いかなる病気も起こることがない。結核菌はいたるところに飛んでいる、と医学は言っている。もし肺結核が、結核菌のためだというのなら、すべての人が例外なく、肺病になっているはずである。ところが、事実は極めてわずかの人が感染するにとどまっているということは、やはり結核菌が原因ではないということだ。

     このことからもわかるように伝染病は、菌によって起こるものではない。我々の腹の内出血の有無によって決まってくるのである。この分別は、未だに、一般にはよくわかってないらしく、自分のからだの弱さが原因であるのに、病気といっては、すぐにバイ菌を殺すことを考えるのである。バイ菌も我々と同じ生き物であるから、殺されるのは嫌であり、当然に抵抗する。そのうちに抵抗が上手になって、普通の薬では効かなくなる。すると人間は効き目がなくなったから、もっと強い薬を作ることに精を出す。そして、やれやれやっとバイ菌を殺し終えたと思ったら、我々人間の方も死んでいた、ということになりかねない。

     バイ菌にも人間や他の生き物たちと同じように生きる権利はあり、無益な殺生はしないほうがよい。それよりも、バイ菌と共生する道を考えるべきである。お互いが敵同士のように見えた間柄が、共生してみると、案外味方どうしであることに気づくかもしれない。我々人間にとってバイ菌は有害だという、しかしバイ菌にとっても、薬という兵器を使う人間は有害なのである。それで当然にして人間の方に生きる優先権があると言うであろうが、そう云う人間とは、いったい何様のつもりなのか。宇宙はすべての生物に甲乙つけることなく、平等に生きる権利を与えているが、これは大宇宙の法則である。こういった大事な認識が乏しいかぎり、戦争という人間同士の殺し合いも、いつ果てることもなく続くであろう。

     このように病気というのは、闘ってやっつけるものではなく、血液の流れさえつければ簡単に治るものである。そのためには、からだのいちばん外側の表面にある皮膚と内側の筋骨とを揃えていかなければならないが、こういったからだの外と内を同時に働きかけることができる、そんな妙法があるのをご存知だろうか。操体法には皮膚に軽く接触することで筋骨格系を同時に調える秘訣がある。興味のある方は是非、操体法東京研究会を訪ねてみられたい。

    明日に続く

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • 病気と自己責任(3)

    昨日の続き

     どんな病気にしても、その原因を追求していくと、必ず「血液の濁り」の一点にたどり着くのは確実なことである。ゆえに病気を治したいと思うなら、まず、血液を浄化することから始めなければならない。血液を清めたのにもかかわらず、治らなかった病気というのは未だかって聞いたことがない。血液が汚れる、濁る、とは一体何を意味するのだろうか。一つは血液の質が下がることと、もう一つは血液の循環が悪くなる、すなわち血のめぐりが落ちることである。

     血液の質の要因としては、「呼吸」と「食事」が関係している。呼吸が浅くなれば、血液中の酸素が少なくなって、せっかく口から取り入れた栄養が不完全燃焼となり、燃えきれずに残ってしまう。これは酸素不足の状態で火を焚くのと同じことで、可燃物は火になって燃えずに、煙になるばかりで燻ぶってしまうことになる。口から栄養を取ることにより、カロリーが出る、と思っている人が多いようであるが、食物が栄養になるためには、まず十分な酸素が必要なのである。ということは、呼吸の浅い人が栄養を摂れば摂るほど、ますます栄養不燃焼を起こして、血液が燻製になって濁ってしまうことになる。これは自動車のエンジンやボイラーなどの内燃機関における不完全燃焼と何ら変わることがないのである。

     酸素をとり入れる呼吸の座は、鼻であり、栄養をとり入れる食物の座は、口であるが、この二つは顔の中央正面に、同等の資格をもって縦に並んでいる。いずれがより大切ということはなく、二者協力によってのみ、良質の血液をつくることができる。にもかかわらず、TVのCMに見るような栄養摂取のみを説いて、それで良質の血液がつくられると思い込ませるのは、いったいどうしたことであろうか。呼吸の大事なことをあまりにも認識していないように思える。人間は自然に呼吸しているから、あえて説く必要はないと考える人もいるが、それならば、人間は自然に食べているから、栄養など説く必要はなくなるのである。人間は人間だから、やはり「栄養学」が必要であるというなら、それとまったく同じように、人間は必ず「呼吸学」を必要とするのである。

     人間の腹部には、肉食中心の西洋人などで全長4〜7m、穀物や野菜中心の我々日本人は9〜11mという身長の何倍もの長さの腸管が詰まっており、この腸の周囲を多くの血管がとりまいている。したがって腸には大量の血液が集まっているが、構造的に血液循環が悪く鬱血状態になりやすい。血液の循環が悪くなれば、血液中の酸素や栄養も全身に運ばれなくなってしまう。
     そこで呼吸によって肺底まで空気が満たされることで、肺は大きく膨らみ、ポンプの圧力のように自然に、無理なく横隔膜を下げることができる。すると腹圧が高まって、滞っていた血液が勢いよく押し出されることになる。このように血液の流れがよくなれば、酸素をはじめ、腸から吸収された蛋白質、炭水化物、ビタミンといった多くの栄養素の運搬もよくなって、全身の細胞に新鮮な酸素と栄養が行き渡るようになり、体細胞を活性化させる。また血液が体内から回収してきた二酸化炭素も十分に放出することができるのである。

     良質の血液のためには、呼吸とともに栄養の大事なことは言うまでもない。澱粉質、蛋白質、脂肪質の三大栄養素をはじめとして、ビタミン、ミネラル、酵素などの栄養学の発達は実にすばらしいと思う。しかし栄養学がすでに完成しているわけではない。厳密な意味では、永遠の未完成であり、無限の追究を要する課題である。

     動物はまったく栄養学をもっていないが、立派に栄養を摂り、人間以上に、健康と天寿を楽しんでいる。その「栄養摂取本能」は、人間にも与えられているはずである。この本能を動物のように発現させることができれば、どれほど健康に役立つことだろうか。だからといって、今さら動物と同じような自然の食事法をするわけにもいかない。そこで人類の先人たちが「腹八分目」と教えるように、少食にして、菜食中心の食生活を心がけることにより、本来の自然な食事法に近づけることができるのである。

     このように呼吸と栄養とは、血液の質に関する大切な要素であるが、この血液の質に対照して、血液の循環が問題である。良質の血液であっても、その血液の流れが停滞すれば、不良血質に変わり、そのまま放置しておくと、生命維持の根源である正常な体細胞分裂ができなくなってしまう。その結果、がん細胞のように細胞分裂が不規則になった無秩序な細胞は、正常細胞より活発に分裂し、周囲の組織をおかすだけでなく、血管やリンパ管などに入って転移するようになるのである。いずれの病気にしても、このように血液の流れが淀んでいるという現象が起こっているのは確かなことだ。

    明日に続く

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。