カテゴリー: 未分類

  • 先日、眼精疲労は交感神経のパニックによっておこるという記事を読みました。

    本来は近くの物を見ている時に副交感神経が働いていて、遠くの物を見ている時に交感神経が働くようになっているのですが、現代では近くを見ている時に緊張を強いる為に脳がパニックをおこし眼の疲れにつながっているとのことです。

    子供の頃、視力改善センターというところに通っていたことがあります。
    もともとは両目とも1.5で視力はよかった方でしたが、眼を怪我した事が原因で一時期片目状態になり、その疲労からか怪我が治ってからも両眼の視力に差がある時期が続きました。

    そこで教わったことの一つに近くのものと遠くのものを交互に見るというものがありました。
    自律神経のことまで考慮されていたかどうかはわかりませんけども。

    現在の視力はというと、裸眼で怖くないのとかよくそれで歩けるねと言われる程度です。
    必要な時だけコンタクトを付けるようにはしています。
    普段からそれで生活しているので、慣れというか特に支障はないし、眼に頼らないことで他の感覚を鍛えるには都合のいいことかもしれません。

  • 今日はドビュッシーの生誕151週年です。
    印象派の代表的作曲家であり、その作品「海」には北斎の浮世絵である冨嶽三十六景がモチーフにされたことでも知られています。
    音楽の教科書で見た覚えのある方も多いのではないでしょうか。

    彼が遺した言葉に、「今日の不協和音が明日の協和音だ」というのがあります。
    もともと印象派という表現も、彼の音楽を揶揄した言葉として使われていたとのことですが、今では映像の浮かぶようなきれいなメロディから、肯定的な言葉にも思えます。

    周りの批判にも流されず、自らの信念を貫いたから現在にも高い評価の曲を残せたのでしょうね。

    月の光などが有名ですが、個人的なおすすめはこちらです。

  • ハマる

    何かを学んでうまくなるには、どっぷりとその中に浸かってみる事が必要です。
    上達には法則があり、一つの事に集中して得たものは一見関係のないようなジャンルの事でもその経験が生かされるようです。

    何かにハマる経験も後々役に立つ日がくるかもしれませんね。
    先日、趣味について聞かれた際にすぐに浮かんでこなかったのですが。
    読書とか音楽鑑賞とか無難なところになってしまいがちですが少ない中から挙げるとすればアサラトかなと思います。

    どっぷりとまでは中々いきませんが、少しずつ練習しています。
    身近にやってる人が少ないので資料を探すのも一苦労ではありますがいつかうまくなりたいです。

    ●上級者になる特訓法
    ・上達を極める10のステップ
    1反復練習をする、
    2評論を読む、
    3感情移入する、
    4大量の暗記暗唱をしてみる、
    6マラソン的な鍛錬をする、
    7少し高い買い物をする、
    8独自の訓練方法を考える、
    9特殊な訓練方法を着想するプロセス、独自の訓練から基本訓練に立ち返る、
    10何もしない時期を活かす

  • 型破りと型なし

    「型破りとは型のある人がやるから型破り。
    型のない人がやったら、それは形無し。」
    中村勘三郎

    確か赤めだかにも同じ様な内容の言葉があったかと思います。

    子供の頃から時代劇が好きで山本周五郎の長屋物を読んだり、落語を聴いてみたりしていました。今でも十代目金原亭馬生を中心にiPodに入れて時々聴いています。

    談志師匠といえば持ち時間のほとんどが枕であったり、最初にいきなり下げを言ってみたり、途中で鼻をかみにいったりと他の噺家のものとはちょっと違い好みが別れるようです。

    だからこそこの言葉は深いな、と思います。
    型を大事にしてきたからこそ言える言葉ですね。
    いつだったかの収録で、「うまくやるのなんかわけないんだから」と言っていたのが印象に残っています。

  • 型は大切

    物事を学ぶ上で型が重要であるということ何をやるにしても言われますね。

    初めて型を意識したのは中学生の頃でしたが、当時はよくわからず、これって意味があるんだろうか思いつつ、必要だから手順は覚えはするけども、という状態でした。
    今思えばなんともったいない事をしていたのでしょうか。

    型の大切さをわかりやすく?教えてくれるのがこの本です。

    気剣体一致の武術的身体を創る―ふたつとない姿態創造への道標

    気剣体一致の武術的身体を創る―ふたつとない姿態創造への道標

    私が得た武術的身体は、まさに型のおかげであり、型が私の身体であるとも言える。

    型そのものは実戦の雛形ではない。

    型が伝えようとしているものは、その動きの本質的な部分である。これは一般の眼では、いくら眼の前の型を見ていても見えてはこない。その見えぬものには「技」ばかりではなく、身体の在り方そのものも含まれる。

    操体で最初に学ぶのは身体運動の法則です。
    まずはからだが無意識に理にかなった動きができるまで繰り返します。
    これができないうちは介助はとても覚束ないことになります。

    一番最初に習うことは基本であり、極意でもある、と聞いたことがありますが確かにそうなんだと思います。
    じっくり時間をかけて、またそこに戻ってくるんでしょうね。

  • 「いのち」を養う食

    先日、我が家の炊飯器が寿命を迎えました。
    一人暮らしを始めた頃からのものなので、随分保った方だと思います。
    家電製品を見て回るのは半ば趣味のようになっているのですが、最近のは進化していますね。
    名前がおいしそうという理由で某メーカーの“極め炊き”を購入しました。
    ご飯がおいしいとうれしいですね。日本人でよかったと実感します。
    近頃の我が家の食事もシンプルになってきて、ご飯と味噌汁と他に一品あればいいかなと思うようになってきています。肴は別としてですが。
    操体で説いている歯の本数による食のバランスもそれで十分対応できます。

    森のイスキア、佐藤初女さんはいいます。

    昔、お米は神様のような存在で、一粒たりとも無駄にしてはいけないと教えられたものです。
    ところが、食が欧米化してご飯離れが進んで、ご飯が悪いという説まで出ましたね。「ご飯を食べると太る」といわれて、ダイエットをする人がおかずだけを食べるようになってしまったり。

    ご飯は私たち日本人の、食の基本になるものです。なぜなら、お米には「力」が宿っているからです。

    私はいつも、お米自身がおいしく炊きあがろうとする「力」を持っていると思っています。料理とは、その「力」を損なわないように手助けをすることです。
    そんなご飯を食べることによって、私たちはその「力」を体の中にいただいているわけです。

    大切なことですね。
    でも普段そこまで意識できていないことでもあります。

    興味があれば読んでみて下さい。

  • ヨーガと操体論(最終日)

     瞑想というのは常に受動的である。その本質そのものからして受動的なものだ。瞑想はその本性そのものが無為だから、能動的ではありえない。何かを行おうものなら、まさにその行動がことの全体をかき乱してしまう。我々の行動そのもの、活動という能動性そのものがことをかき乱すもとになるのである。

     この無為とは瞑想のことである。ただし、「無為は瞑想だ」と言っても、我々が何もしなくていいということではない。その無為を達成するためにすら、いろいろなことを行わなければならない。だがその行為は行動ではないが、瞑想には及ばない。その行為は瞑想ではないのである。それは単なる踏み石、単なる跳躍台、単なる方便だ。行為はすべて瞑想に向かうためのただの跳躍台であって、瞑想ではない。

     我々は行為から進んで、今ちょうど、扉のところ、階段口のところにいるとする。その扉とは無為のこと。だが、その無為の心境に達するには、たくさんやらなければならないことがある。ただし、その行為を瞑想と混同してはいけない、それはただの方便なのだから、それを体系化などしてはいけない。

     我々の生命エネルギーは相反して働き、生はひとつの弁証法として存在している。それは単一運動ではなく、一本の河のように流れているわけではない。それは弁証法的なものであって、ひとつひとつの動きにともない、生はそれぞれの逆もまたつくり出すことになる。そしてその逆との葛藤を通じて前に進んでゆく。それぞれの新しい動きにともなって、その動きの主題は対照とその逆をも生む。そしてこれがたゆまなく続けられる。

     ひとつのことがその逆の対照をもたらし、融合してひとつの統合を生み出す。そしてそれがまた新しくひとつの主題となる。と、またその逆の対照があらわれる。弁証法的な動きということで意味するのは、それは単純な直線的な動きではないということである。それは自分自身を分裂させ、逆のものを生み出し、ふたたびその逆に出会う、そしてまた分裂して逆を生み出してゆく動きのことだ。

     それとまったく同じことが瞑想にもあてはまる。なぜなら、瞑想は生の中で最も深遠なものだから。その心の動きはカラダにもあてはまる。たとえば病んでいるカラダに「ただくつろいでごらん」と言ってもそれは無理な話だ。というのも患者は何をやっていいかわからないでいる。くつろぐことを教える似非療法家たちはこう言いつづけている「ただくつろぎなさい。なにもやってはいけない。ただ緊張をほぐしなさい。ただ脱力しなさい」と。そうしたら一体何をすればいい? ただ横たわることはできるが、そんなことはくつろぎではない。依然として病はそっくり残っている。

     そして今度は新たな葛藤が生じる。そう、くつろぐのだという葛藤が・・・・・・。いわば「おまけ」が追加されたという次第だ。「くつろげ」というおまけが付け加えられたというだけで、カラダの病はそっくりそこにある。今度はこれまでの緊張すべてに加えて、新しい緊張が追加されている。それどころかあらゆる人のなかで最も緊張している人になってしまう。自分に対してただくつろげ、ただ脱力せよと、言い聞かせてみても、生は直線的な流れではない、そんなことは不可能だ。弁証法的な流れを理解していないと自然治癒能力は働かないのである。

     正統派の操体では、「ただくつろげ!」、「ただ脱力せよ!」とは決して誘導しない。まず動診において緊張させることから始まる。次にその緊張からフィードバックという行為に入ってゆくと、突然、患者はくつろぎ始めるのを感じる。なぜなら今度は生命エネルギーが逆のものを生み出すことになるからだ。緊張の頂点に全エネルギーが費やされると、この緊張は無限に続けることはできない。それは消え去らなければならない。そしてまもなくそれは消えはじめる。それを見守っている。すると生命エネルギーはおのずとくつろいでくる。

     さあ、醒めて、このくつろぎが始まるのを見るとしよう。両手、両足、カラダの各筋肉、カラダの各神経が患者自身、何をするでもなく、ただ素直にくつろいでゆく。患者自身がくつろがせようと何かやっているわけではない。カラダ自身がくつろいでゆくのだ。患者は身体じゅうのさまざまな箇所がくつろいでゆくのを感じはじめる。全身がくつろいでいる部分の集合になる。ただ醒めているだけでいい。このくつろぎこそ「最快適感」、あるいは「快の極み」といわれるものだ。そしてこの醒めているという覚醒は瞑想だ。それは無為! 患者は何をやっているわけでもない。なぜなら醒めるということは行為ではないのだから。それは人間の本性、存在に生来そなわっている本質そのものである。

  • ヨーガと操体論(六日目)

     ヨーガは合理的であって同時に非合理的なものである。そのヨーガの方法論は全く合理的だが、その方法論を通じて非合理の神秘のなかへと深く参入してゆく。そのプロセスはすべて非常に合理的で科学的、論理的であると言える。ただしヨーガが合理的に進むのは、非合理的なるものへと跳躍するためにのみそうなのである。最後には非合理的になる定めなのだ。

     理解不可能なもの、つまり合理的なものは源泉となることはできない。なぜならそれは有限だからである。その源泉は我々より広大なものでなければならない。我々が生まれ出た源泉、あらゆるものが生じた源泉、森羅万象が生じた源泉、そしてまた、落ちていってふたたび消え去るような源泉、それは合理的なものをしのいでいなければならない。顕現されたものは、当然にその源泉ほどは広大ではない。

     合理的精神には、顕現しているものを感じ、理解することはできる。けれども、その背後には顕現されざるものが存在しているのである。だからヨーガは合理的であれなどとは主張しない。ヨーガはこう言う、「非合理的なものを考えつくということは合理的だ」、「実際、非合理の限界を考えつくのは合理的というものだ」と。

     真実の真正な心は、常に理性の限界に気づいている。常に理性はどこかでジ・エンドになるということを知っている。真に合理的な人なら、非合理が感じられる地点にまでどうしたって辿りつく。もし理性的に究極に向かって進んだら、我々はその限界を感じとるようになる。

     アインシュタインヴィトゲンシュタインもそれを感じとった。ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は、かって書かれた書物のなかで最も合理的なもののひとつであり、彼自身は最も合理主義的な精神のひとりであった。ヴィトゲンシュタインは、非常に論理的な方法で、実に論理的なやり方で、存在について語っている。ヴィトゲンシュタインの表現、言葉、語法、そのすべてが合理的である。

     だが同時にヴィトゲンシュタインはこう言っている。「世の中には、何ひとつそれについて言えないようなものがある」。「そこを越えると何も言えなくなるような地点がある」。「そして私はそれに関しては沈黙を守らざるを得ない」と。それから、ヴィトゲンシュタインはこう書き記す。「語ることができないものは、語るべきではない」と。このメッセージとともにヴィトゲンシュタインの全体系は崩れ落ちた! ヴィトゲンシュタインは、生と存在のすべてについて合理的たらんとしていた。そのあげくに突然ある地点でヴィトゲンシュタインはこう言うのだ、「もはや、この地点を越えると、何ひとつ言えなくなる」。

     これは何かを、非常に重大な何かを言おうとしてのことだ。そこには何かがある。が、それについては何ひとつ語れない。もう定義づけができない地点に来たのである。そして、そこでは一切の定義づけがあっさりと崩れ落ちる。真に論理的な心は必ずこの地点に達する。このように証明されざるものこそが源泉なのである。全体というのは部分では証明されえない。源泉は決して証明されえないものだ。

     たとえば、あなたの右手はあなたが実在しているということの証明にはならない。それを試すのも愚かなことだ。が、あなたの右手が自らを完全にマスターしたなら、それでもう十二分だ。手が自らを知るや否や、それは自分以上のものに根ざし、たえず自分以上のものと一体なのだということを知る。その「自分より以上もの」があるからこそ、あなたの右手もそこにあるのだ。もしあなたが死ねば、あなたの右手も死ぬ。それはただあなたが在るために生きていただけだった。そして全体は依然として証明されないままである。知られているのはいつも部分だけなのだ。が、それを感じることならできる。

     右手があるからといって、あなたがいるという証明にはならない。が、右手があなたを感じることならできる。右手自身の内部へ深く入ってゆくことならできる。そしてあらゆる深みに達したなら、それがあなた自身なのだ。操体の動診はこれをやってのける可能性をもつ。この深みに達するための淵に立っている。単なるからだの感覚だけをききわけているだけではない。それではもったいなすぎる。

     そして操体においても快を証明できないゆえに、快を信ずる。信ずることができないからこそ、快の存在を信ずるのである。これが真の快の感じ方だ。「不可能なるがゆえにわれ信ず」とは、仮に可能だとしたら、その時には信ずる必要などない。それはただの概念、ありふれた概念になってしまう。それは知的なものではなく、概念などでもない。それは不可能なものへの飛躍だ。このように理性の淵に立ってはじめて、我々は快の神秘へと飛躍できる。理性をその論理上の極限にまで伸長させてはじめて、我々は快へと飛躍できるのだ。
    明日につづく

  • ヨーガと操体論(五日目)

     ヨーガとは、全体的な人間科学のことであって、単なる宗教とは違う。ヨーガは全体的な人間科学、すべての部分の全体的な超越である。そのすべての部分を超越したとき、我々は「全体」になる。全体というのは、単なる諸部分の総計ではない。そういった機械的なものではなく、それ以上のもの。それは芸術的なものである。

     たとえば一篇の詩を数々の単語に分解することはできても、その単語は意味をなさなくなる。詩という全体があって、はじめてそれは語群以上のものになる。それにはそれ自体の独自性がある。そこには言葉と同じように言葉の間の空間がある。ときには、その行間の方が単語よりも深い意味を持つ。実際には語られなかったことがその行間から語られることがある。そしてそれがあらゆる部分を超越したときにだけ、一篇の詩文が「詩」になる。それを分解し、分析したりしようものなら、部分だけしかつかめない。そして肝心の超越的な精華は失われてしまう。

     このように意識というのも全体性に属している。だからある部分をひとつ否定することで、我々は何かを失ってしまう。ほんとうに大切だった何かを。そして何も得られない。得るものがあるとすれば、極端なものだけだ。極端なものというのはみな一種の病気だ。極端なものはすべて内側の病気になる。そして我々は混乱しつづける。内なるアナーキ状態が生じるのである。ヨーガは内なるアナーキを超越する科学。我々の意識を超越する科学。我々の意識を統合する科学だ。部分を超越してはじめて我々は全体になれる。

     それゆえヨーガは宗教でも科学でもない。あるいはそれは両方でもある。さらにそれら両方を超越していると言ってもいい。いうならば、ヨーガは科学的宗教、あるいは宗教的科学とも呼称できる。だからこそヨーガはどんな宗教に属している人にも用いられるのだ。それはどんなタイプの心の人にでも用いられる。それどころか完全に無神論志向の人でもヨーガは否定できない。

     「意識」によってヨーガが意味するのは、完全なる生気、活気、活力へと向かうひとつの動きである。我々は決して完全には生気にあふれて生きていない。生気にあふれているときもあれば、生気のないときもある。幸福に感じるのは生気溌刺としているときだけであって、我々のみなぎる生気に対するひとつの解釈にほかならない。が、より生気があふれだすときには、我々は必ず幸せに感じるものである。

     我々は、悲しみを引き起こすものがあるとき、悲しくなりはじめ、幸せをもたらすようなものがあるとき、幸せを感じはじめる。しかしそこに何もなければ、自分自身を感じることは決してない。このように何もない、我々の完全なる意識の中で、自己だけが存在しているというその感覚、その状態こそ肉体ではなくソウル、「霊魂」なのである。それは母親の子宮のなかにいるときの至福に満ちた瞬間、どんな心配もなく、どんな緊張もなく、完全にくつろいだ心の状態にある至福に満ちた存在なのかもしれない。それは我々が意識的には知らなかった、深い、無意識の感情かもしれない。そしてその感情が我々を自分の奥深くにある何かへと向かわすために駆りたてているのだ。

     数年前に操体の講習で、渦状波という皮膚に感覚をききわける操法を、三浦寛師より私は受けたことがある。このとき、はじめて、ただ感じるという感覚を経験したのであるが、それと同時にからだは今、何を要求しているのか、というトータルな至福感覚に気づくことができた。この経験から言えることは、感じることができる心だけが、本当の欲求が何であるかの感覚と方向を与えることができるということだった。
    明日につづく

  • ヨーガと操体論(四日目)

     仏陀はよくこういっていたと言う、「瞑想中は自己など存在しない」と。なぜなら自己に対する覚醒、いわゆる自覚そのものが、自己を他の一切のものから引き離してしまうからだと。自己がまだいる限り、客体も依然として存在する。ジャンポール・サルトル実存主義において「われ在り」という、だが、「われ」は完全な孤独の内では存在できない。「われ」は外界との関係で存在する。つまり、「われ」というのは「関係性」なのである。そうなったら、「われ在り」という自己とはただ外部のものとつながって存在している自己の内部であるにすぎないことになる。が、その外部がなければ内部も消える。そのときには、単純な、自然発生的な意識だけが残る。これがヨーガの目的、ヨーガの意味である。そして快の正体でもある。

     ヨーガとは自分を主体と客体の境界から解放する科学なのだ。その境界から解放されない限り、今までの東洋人のように現状のままで満足して退屈してしまい、社会が寝ぼけて死んだようになってしまう。あるいは今までの西洋人のようにたえず新しい対象に頼って、目新しいものを追い求め、社会が不眠症気味になってしまうかのどちらかである。このように東洋の不均衡か、西洋の不均衡のいずれかに陥ってしまうのだ。

     もし我々が心の平和とか、静寂、眠りといった、そういった充足感が欲しいのなら、たえず同じ対象にかかずらっていればいいのである。変化など求めない方がいい。そうしたら、我々は安心してよく眠れる。が、精神的なものなど何もない。我々は多くのものを失う。まず成長しようとする衝動そのものが失われる。冒険の衝動そのものが失われてしまう。実際、我々は植物人間のようになりかけて、沈滞してしまうだろう。

     もし我々がこれを変えようとしたら、自己は動的にはなるが、同時に落ち着きを失う。動的にはなっても、同時に緊張する。動的にはなるが、気違いじみてくる。新しいものを見つけはじめ、新しいものを尋ねはじめる。が、我々は竜巻に巻き込まれたようなものだ。新しいことが起こりはじめはしても、自己は失われる。客観性を失うと、あまりにも主観的に、夢想的になる。逆にあまり客体である対象にとらわれると、主観性を失う。この状況は両方とも不均衡だ。東洋は前者を試み、西洋は後者を試みてきた。

     そして現在では東洋は西洋的に、西洋は東洋的になりつつある。東洋では、西洋流の技術や科学、それに合理主義が魅力になっている。アインシュタインアリストテレスやらラッセルといった人たちが、東洋人の心をつかんでいる。一方、西洋では仏陀や禅や太極拳、それにヨーガが重要な意味を帯びてきている。このように東洋は共産主義マルクス主義、そして唯物論を志向する。そして西洋人はといえば、瞑想、霊性、法悦といった意識の拡大という観点から物事を考え出している。これは自分たちの荷物を取り代えているにすぎない。少しの間、それは光り輝き、照らすことはあっても、またすぐに同じナンセンスが始まるのは確実なことだ。

     東洋も西洋もひとつの道で失敗した。両方とも心の一方の部分を否定しようとしたからである。その部分は両方とも超越されなければならない。心とはひとつの全体性であり、我々はそれを全面的に超越できるか、できないかのどちらかだ。一方の部分を否定し続けたら、その否定された部分は必ず復讐に転ずる。

     こうなったら「快感覚」というのは、とてもほど遠い存在になる。その否定された部分は、ずっとそこにあって、ますます力をたくわえ続ける、そうなったら、そう、ただ報復するためだけにそこに在る。だから言えることは我々が一方だけを受け入れてきた部分が成功を収めたときこそ、実は失敗のときなのだ。成功ほどの失敗はない。どんな部分的な成功も、さらにひどい失敗に陥ることになる。そして得たものは意識されなくなり、失ったものが必ず自覚されるようになる。

     失ったもの、「不在」というのはより強く感じられるものだ。たとえば歯が一本抜けたとき、舌は歯がないことに気づき、その歯のところへ行こうとする。舌はこれまでは絶対にそこへ行ったためしがない。が、もうどうにも止まらない。舌はその歯を感じとろうと、たえずその空っぽのところをまさぐる。それと同じように、心の一部が成功をおさめた時には、我々はもう一方の部分の失敗に気づくようになる。在りえたかもしれないが実際にはないその部分に。

     主体にも客体にも否定することがなければ、自分は意識に上っている心ではないと気づく。そうなったら意識に上っている心というのは単に一部分にすぎないということに気づくことができる。心はその両方であり、心のより大きな部分である「無意識」のなかへ跳びこんでゆくことが可能になる。

     無意識へは計算づくの心で跳びこむことなどできない。計算は意識に上っている方の心がすることであって、その部分の心は無意識の中へ跳びこむことなど決して許しはしない。きっと、こう警告するだろう、「気違いになってしまうぞ。そんなことは今すぐやめろ!」。 このように意識はいつも無意識を恐れている。というのも、無意識のエネルギーが浮かび上がってきたら、意識の中の明晰なものはみんな吹きとばされてしまからだ。しかし、この無意識の中にこそ「快」が隠れている。だから快を呼び込もうとする操体では、心の無意識とつながっているカラダの無意識に問いかけることを重視するのである。

     そしてカラダの無意識に問いかけるとは、感覚がとても敏感になっているということだ。そのときには、言葉を使う必要はない、いや言葉を使ってはならない。ただ感じるだけでいい。ただ見守るだけでいい。そうすれば、すぐにもある認識に至ることができるだろう。それは生そのものだという、大いなる
    認識だ。この認識と言うのは、生のエネルギーが何かということについて、敏感になるということを意味している。本当の意味において自分自身の存在に気づいてゆくということだ。
    明日につづく