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  • 僕が思う問題その1

    佐助が担当する三日目です。よろしくお願いします。

     僕は理学療法士という国家資格を持ち、整形外科の病院やクリニックで勤務し18年が過ぎました。今日は僕が思う医療の整形外科からみた問題点について書いてみたいと思います。(あくまで僕個人が感じることです)

     日本の医療は、保険診療により医療行為に対して、保険者(70%)と患者本人(30%)が分担して診療費を支払うことになっています。保険組合への支払方法は、医療従事者が治療や検査などを行った診療行為がすべて点数化され、請求用紙(レセプト)に記入し、診療報酬支払基金に提出されます。支払基金は医療費の審査機関であり、適切と認められれば保険組合に請求書が回されたのち、保険組合でもう1度チェックを受けた後に、診療報酬が支払基金を通じて医療機関に支払われます。

     医療行為をおこなった内容が審査されるために、検査をして診断名がついて、その診断名に対して適切な医療が行われているかという流れが大切になります。この流れ以外の行為や、保険で認められていない行為は保険外診療自由診療)となりますが、保険診療と保険外診療の併用(混合診療)することは原則として禁止されています。

     ここにひとつ問題もあるような気がします。それは診断名がつかない場合は、保険診療としての治療ができないということになるのではないでしょうか。

     例えば、橈骨遠位端骨折により治療が開始された場合には、ゴールはもちろん骨折部位が癒合し、前腕・手・手指の可動域や筋力が改善されれば治癒とされると思います。そこに痛みが残存したとすると、「気長にみてください」と言われることが多いかもしれませんが、痛み対して敏感、心療内科への紹介ということもあるかもしれません。
    これは治癒・完治の基準が、患者と治療従事者の考え方が違うということでしょうか。患者側は痛みを基準に考え、医療従事者は客観的にからだを考えているために起こることなのかもしれません。
     僕自身は、患部の治癒過程と痛みという感覚は必ずしも比例して改善するものではないと感じています。また、痛みの原因が主訴とされている患部以外にある場合もあり、からだ全体からのアプローチが必要な場合や、患部中心にアプローチが集中しすぎると、侵害受容器を興奮させ、炎症や痛みを増悪するケースなどもあります。

     痛みには3つの種類に分類されています。炎症などの痛みである侵害受容性疼痛、神経の痛みである神経障害性疼痛、心理・社会的な要因によって起こる心因性疼痛があります。
     痛みは大脳で認知されて痛みという感覚が生まれるために、様々な要因で痛みという感覚が生まれてきます。最近では、痛みという不快体験を脳内で記憶している場合や、情動を司る大脳辺縁系の一部でもある扁桃帯が関係し、脳内で痛みという知覚を作り出す(ニューロマトリックス理論)こともあることが報告されています。
     これらのように、大脳で認知されてはじめて痛みという感覚になることから、患部の治癒過程と痛みの感覚が一致しない理由のひとつになります。

     痛みが残存した状態で患部が治癒したと診断された患者や、診察で特に問題がなかったにも関わらず痛みがある場合は、痛みという感覚を和らげたいという気持ちで、民間療法など様々な所に結果を求めて行かれるというケースをよく耳にします。
     僕もクリニックに勤務するひとりとして西洋医学の素晴らしいところも沢山あります。西洋医学では画像や血液データなど客観的にからだを診ているために、整形外科では骨髄腫がみつかることや、骨髄炎、蜂窩織炎などが早期に治療が開始できるなど、客観的データだからこそ確定診断が付くのだと思います。ただし、確定診断が付けにくい症状もあるのではないでしょうか。

     現在の日本では医療費が高騰し、財政や保険診療を圧迫している現状では医療費を削減しようとする動きがあるのはしかたないのかもしれませんが、混合診療が基本的に認められていない以上、また、客観的に問題がないケース(痛みや違和感のみ)には積極的に治療がしにくい状況にある現状では、民間療法に患者が流れていくのはしかたないような気がします。
     
     良いか悪いかを別にして、患者自身の希望を聞くと、「痛みをとってもらいたい」というのが第一なようです。患者の声を聞くと、なぜその痛みのサインが出ているのかという大切なことを抜きにして、痛みが改善するならば治療場所は西洋医学でも、東洋医学でも、民間療法でも、どこでもかまわないという方が多いというのが現実のような気がします。だからこそこれだけの民間療法が日本に生まれて、世界の中でのこれだけ手技療法が存在する国はないのではないでしょうか。まさに橋本敬三先生が言われているように「日本は宝島」ですね。

     今日はこのあたりで・・・。ありがとうございました。

  • ニュースより

     佐助が担当する二日目です。よろしくお願いします。

     新聞を読んでいると、「医療類似行為でけが人が続々」という記事がありました。

    産経新聞より)

     医療類似行為について、昨年度国民生活センターに寄せられた相談が計1265件と過去最大だったそうです。また国民性格センターの資料によると、何らかの身体症状が発生したという危害相談は平成23年度186件でこれも増加傾向とのことです。

     医療類似行為の中で国家資格があるのは、あん摩マッサージ指圧師鍼灸師柔道整復師であり、その他は資格がなくても開業できますが、相談件数の4割以上が国家資格を持たない方の相談だそうです。また国家資格がなくても「マッサージ」という用語を使用している場合が多く、国家資格を持っているかどうかを患者自身で区別するのは難しいとされています。

     最近の僕の近所の田舎にも、開業される方が多くなっています。やはり開業件数に伴い、手技による問題で来院(当クリニックの整形外科)される方が増加しています。
     近所の開業している看板を見ても、何の協会に所属しているのか、どういう勉強をしてきているのか見ただけでは分かりません。実際に患者の問診でも、整体というだけで分かりませんし、国家資格を持って開業をされていると思っている方が多くいます。

     操体法は、感覚のききわけを行うことによって行う診断(分析)をして、ききわけた快適感覚を味わう操法(治療)というように自力自療で、からだ自身が治療者となりえる手技です。しかし操体を学ぶ者として、西洋医学(病院・クリニック)の問題点と開業されている方(開業をしたいと考えている方)の問題点のそれぞれについて今週は考えてみたいと思います。
     とても大切な問題でもあり、とても大きな問題なので、答えが出るとも思いませんが、これからの臨床家がいつかはぶつかり、抱える問題になるような気がするので、自分自身で考えるきっかけにしたいと思います。

     今日はこのあたりで・・・。ありがとうございました。

  • 長野より

     初日からパソコンのトラブルにより、ブログアップできませんでしたが、改めて一週間のブログを担当します長野県在住の佐助です。一週間お付き合いよろしくお願いします。
     
     今年もあと少しで11月を迎かえようとしています。僕は11月になるのを心待ちにしていたひとりです。
    11月をなぜこんなに愉しみにしているかというと、11月1日に軽井沢プリンスホテルスキー場が一部のコースでオープンする予定なのです。
    もちろん人工雪でのオープンですが、スノボが好きな僕にとって11月は季節の大きな変化を感じられる月でもあります。

     そして僕の住んでいる所には、1978年に国産初のスノーマシンを開発した会社があり、現在は国内シェアの約80%を誇り、1998年の長野冬期オリンピックのゲレンデ造りでも活躍したそうです。(患者でもあるこの会社の社長の話から)

     今年は数年ぶりに板も新しくしました。購入の際にスノーボードの板選びにはいつも悩んでしまいます。それは板の柔らかさ・硬さや形状、滑った感覚が板によってまったく違うからです。昔から僕はブランドで板の選択をするのでなく、3月に行われる試乗会でいろいろ試して、自分のからだの感覚とフィットする板を選んでいます。からだの感覚で選んだ板はからだの一部となり、重心移動によりフィットします。
     スノーボードは両足がビンディングで板に固定されていますので、足底の感覚や身体運動の法則を十分に活かすことが必要となるからです。

     是非スノーボードを体験してみてはいかがでしょうか。からだの重心や重心移動についての大切さがよく分かるスポーツだと思います。

     今回の僕の板は、この板です。

     今日はこのあたりで・・・。ありがとうございました。

  • もう無いだろう。

    もう無いだろうと、もう無いだろうなと・・思いつつ反復を繰り返しているとまだまだある。
    純粋に仕事の愉しさがわかってくるのは、20年、30年やっていてわかってくる。
    仕事の大局観がみえてこないとその愉しさはわからない。大局観がわかりはじめるとひとつひとつの事象がつながってくる。芋づる式に繋がって理解できてくる。すると、妥協できなくなる。わかった先にまだ未知がある。わからないことがあると思うのだ。わかっていないことがわかってくる。わからないことは知ったかぶりができない。少しでも理解したいと思う。知りたいと思う。そして私は心の中で、尽くしたいもののために尽くせることを願っている。そこに人が人である理由がある。それは心にある。そして人は人の心に触れることによって進むべき道を見つける。進むべき道とは、使命観である。自分を遠ざけてしまうほどの使命観である。
    進むべき道を与えて下さった師に、私は尽くしたい。尽くしきれないものを、作品にかえてお返ししたいと思う。
    私は師の心に触れて進むべき道を拾わせていただいたのである。
    晩年、師は「もうワシには残された時間がない」と口にされた。ならば弟子の私はその師の残された時間を引き継いで行けばいいのだと、師が成しとげられたことは見せて下さっただから、なぞりながら越えて行けばいいが、成さんとしてきたことへの継承を、引き継ぐ、引き継いでいくことも弟子の宿題であり使命である。だからこそ、自己満足しては妥協できないのである。そこに、また操体の愉しさがあり、興味のつきぬ愉しさがある。

    因縁の連環。師から私に生涯の学問をいただいた。師へ、亡き後も因縁は続き、師と私との連環から多くの弟子が育っていくことになる。人を育てるという大切な自分の連環があった

  • 一昔前、小室直樹という天才がいた。深く知っているわけではないが彼の言葉を拾う中でウーンとうなる箇所がある。
    「生涯で自分がいい本だと思ったらその名著を最低10冊まとめて買いなさい、そして最低100回は読みなさい、すると著者が何と言いたいのかがわかるし、またあるときは眼光紙背に徹すると、著者以外に物事が分かってくるものです」と語っているのです。確かにそうだなと思う。10冊買い込んで最低100冊は読んだことがない私だが、実行してみる価値はありそうだ。研究書籍は特にそうである。そこには名刀のように磨き上げられた学問があるからだ。そうして考えれば100回読む、99回読んでも分からなかったことが100回目にわかることだってある。そうした意味においても、人生の中に生涯のバイブル(名著)をもつべきである

  • コンフォートゾーン

    「いやぁ〜、もうすぐ10月ですねぇ〜、1年がアッという間です
    よねぇ〜」「今週も早かったねぇ〜」「今月も終わったねぇ〜」
    などなど、よく口にする会話ですよね、特に年をとるにつれて、
    1ヶ月、1年が早いこと早いこと、気が付くと月末、そして年末と
    年々感じています。
    この現象は年を重ねれば重ねるほど、その傾向にあるようです。

    子供の頃って時間が経つのが妙に長く感じたりしませんでしたか?
    夏休みまで指折り数えたり、お年玉がもらえる正月やクリスマス
    などの行事も含め、ホント待ち遠しかったのを覚えています。

    でも、これって冷静に考えると、あり得ない現象なのです。
    1日の時間の流れは若かろうが、年をとろうが変わらないはず
    ですし、変わるわけが無いのです。
    では、何故、時間の感じ方が人によって変わるのでしょうか?

    これは、どうやら『脳』の働きが大きく影響を及ぼしているようです。
    脳が一番嫌がるのは自分自身に負荷をかけられることです。
    脳への負担が増えると、脳温が上がり、コントロールが困難な状態
    になりやすくなります。
    これはパソコンのCPUと同じで、CPU負荷がかかり過ぎると、熱暴走
    を起こして、フリーズしたりエラーが頻発したり、とんでもない状況
    になってしまいます。

    この、時間を長く感じたり短く感じたりする現象も、『行動のパターン化』
    の様です。パソコンも同じですが、よく使う単語や文字はメモリ領域で
    記憶をすることで、次に同じタイピングをした時にはスンナリと出て来ます。

    人間の行動も同じで、過去に経験をしたことがあるものに対しては、
    脳はメモリ領域に記憶をしているので、スンナリと引き出すことが出来ます。
    ですから、子供と違って新しい経験や新鮮な感覚が少なくなり、既に
    経験したことを日常的に多く行う大人にとっては、脳への新しい記憶
    の書き込み量が圧倒的に少なくなり、日常生活に子供の頃の様な新鮮
    さが無くなってしまっているのです。

    そして、脳の特異な作用として、『住めば都』症候群的作用があるのです。
    それが、タイトルにもなっている『コンフォートゾーン』と言われるモノです。
    ”コンフォートゾーン”って直訳すれば、「安心感・快適さ」になります。
    別の言い方で「ぬるま湯」などと呼ばれることもあります。
    先程も言いましたが、脳は冒険を怖がるところがあります、出来得る限り、
    現状維持で脳温を上げない変化の無い一生を送ろうとします。

    転職をしても、いつも同じ事で、つまずいてしまう・・人の好き嫌いが激しいなど、
    職種や環境が変わってもその人が抱える問題は変わらないのです。
    それこそが、『自己対話と自己イメージ』の問題です。自己対話とは左脳で行われ、
    自己イメージは右脳で行われます。因みに、右脳は左脳の100万倍のスピードで働く
    と言われています。
    この自己対話と自己イメージはプラスでもマイナスでもリンクしていますので、
    何をやっても上手く行く人と、何をやっても上手く行かない人が出来るのは、
    当たり前なのです。

    例えば、『私人付き合いが苦手なんですぅ〜』などと普段から公言している人は、
    その言葉の裏側には苦手だということを証明しようと期待しつつ日々生活を送ります。
    そして、そうイメージをすることで、無意識の中で人付き合いが苦手な行動を証明
    しようと動きます。人付き合いが苦手だと『期待』をして動きますので、当然結果は
    期待通りやっぱり人付き合いが苦手なんだわ!という結果が導き出されるのです。

    何もプラスイメージだけがその人を作るわけでは無く、マイナス
    イメージも強ければ強いほど、大きな期待値として結果をかえしてしまうのです。

    この現象って、私達臨床家には馴染みがある光景で、クライアントで症状疾患
    を抱えてきているのにも関わらず、「何処に行っても、どんな先生に診てもら
    っても良くならないの!」
    とか「腰痛治療の名医って言われている先生に診て
    もらっても駄目なの!」
    って、治らない私を妙に自慢をする方がいるのです。
    どう見ても来たときよりは痛みも楽になり、スッキリ立てているの
    にも関わらず、楽になったのがおかしいぞ!と言わんばかりに、
    「でも、今度は首が痛いの!」「膝が痛いの!」と次々に痛みを
    生産するのです。

    痛みを抱えていると、色々な方から気の毒がられたり、気をつか
    ってもらえることが、”快”になってしまい、痛いところが無く
    なると、誰にも構って貰えないんじゃ無いかという不安から来る
    自己防衛反応でもあるのです。

    これもまさしくマイナス期待値の自己イメージですから、何処へ行っても同じ
    結果しか出て来ません。マイナスも期待値が大きければ大きいほど、痛みも大
    きくかえってきます。

    人が良くも悪くも次の段階にステップアップするには、この『自己対話と自己
    イメージ』
    の次(高)次元へのレベルUPでしかないのです。
    ですが、習慣の動物である人間は、一度手に入れた心地よい習慣や環境を変え
    るのには、相当の抵抗があります。抜け出したつもりでも気が付くと又、元の
    ぬるま湯に戻るといったことを繰り返します。

    これら認知心理学の観点から、私自身も最近はクライアントをみるように
    もしています。その人にとってのコンフォートゾーンは何なのか?など、
    情報や社会が多様化している現代だからこそ、より多角的な目を私達も要求さ
    れているのだと考えています。
    この辺りの話しはし始めると長くなるので、又、機会が有ればと思います。
    一週間有難う御座いました、来週はお待ちかね三浦寛理事長です!

  • 自然の中に身を置く

    『感覚と感性を磨く』この二つは我々が臨床家として常に意識し、
    心掛けなければならないキーワードだと思っています。
    何故なら、私たちが向き合うべきはクライアントの”疾患症状”
    ”疾患部位”ではなく、クライアントの、『もの言わぬ身体』
    向き合うべき相手だからです。

    私は臨床家という職業選択を2002年(平成14年)に行いました。
    ですから、37歳という遅咲きの臨床家なのです。東京操体フォーラム
    の岡村実行委員長を始めとする各実行委員の皆様方は、若い頃から
    臨床家への道を歩き出し、今や素晴らしい臨床家として活躍されて
    いるわけですが、私なんぞは人生の大半をサラリーマンで過ごし、
    今では信じ難いですが、スーツを着て街を闊歩しておりました。

    経理以外は多分、殆どの業種は携わってきた位に、転職を繰り返し、
    最後のサラリーマン生活は営業マンで終えました。
    正直、最後の会社を辞めたときでも、臨床家になろうという気持ちは
    1ミリも選択肢には無く、37歳という社会の現実に曝されながら、
    再就職も困難、ピンと来る仕事も無いまま、オヤジさんの農業手伝い
    をしたり、フラフラとしながら半年間を無為に過ごしました。

    そんな時に、以前のブログにも書いたのですが、三日日間続けて同じ
    夢をみるという、あんびりーばぼーな経験をすることで、臨床家にな
    ろうかと、核心では無く半信半疑でスタート致しました。
    当然のことながら、何のツテも無く、何をして良いのかも分からない
    中でのスタートでしたが、嫁の「ま、腐って仕事しているあなたを見
    るより、その方がいいか・・」「ま、あんた一人位なら私が食べさせて
    あげるわ!」という男前発言の後押しも受け、開業し、ヘロヘロにな
    りつつも今に至っているわけです。

    師匠は遠方、情報量は都市圏に比べ、ネット環境や地域差が無くなった
    と言われますが、それはまぁ、キレイ事で実際は田舎の情報量や環境は
    悲しい限りであるのです。

    ただ、最近つとに思うのが、臨床家にとっての田舎の良さって何だろう?
    都会に無くて田舎にあるものは?そして、それが臨床家にとってメリット
    になるものって・・・ということを考えることが多くなり、その効果がボツ
    ボツ最近になって実感できるようになって来ました。

    行うことは単純なのですが、さすがにこれは中々、都会では出来ないだろ
    うと思っています。それは、『山に登る(入る)』ことです。
    『は?!』って大ブーイングが聞こえてきそうですが、別に新たに登山って
    ジャンルを開拓しているわけでは無く、山に出掛けて行き、山の木々の
    中に身を置きます。

    そして、その場で彼等(山川草木)の声をききわけます。ひたすら、じ〜っと、
    呼吸を整え通しながら、ユッタリと、時には豪快に。正直、何も喋っては
    くれませんし、喋り出したら別の仕事が回ってきそうです。

     

    ただ、身体が変化していくのはハッキリと実感出来ます。額のあたりや丹田
    のあたりが熱感を感じたり、メンソール系の涼しさを感じたりと、様々な静的
    動的変化を及ぼします。
    その内、体内の血管など各臓器の形がハッキリと分かる位に、表現し難いですが、
    妙な感覚が起こってきます。
    これを浄化と呼ぶのかどうかは、私はそっち系の専門家では無いので、定かで
    はないのですが、明らかに目の感じや身体の深層部に変化が生じます。

    先日、フォーラムの相談役でもある株式会社ギアの太田社長が出雲にいらっしゃった
    際に、古代日本の山岳信仰や岩、石についての興味深い話しをされていたのですが、
    昔から山伏が霊験を磨くのに入山し、山から山へ渉り、霊力を磨くのも納得出来ます。

    それ位、『山』には大きな力を感じます。
    先日、富士山の山開きの様子をテレビでやっていたのですが、その中で若者が、
    薄手のシャツとサンダル履きで登山していく様子を写していましたが、案の定
    途中で気分が悪くなって下山して行きました。アホすぎます。
    神様のお宅へお邪魔するのに、TPOを考えずに行くなど、正気の沙汰ではありません。

    そもそも山は日本人にとっては信仰の原点であり、山には神が住んでいる、
    元々山そのものをご神体として崇め奉っていたものが、『社(やしろ)』
    という仮住まいに移し、現在の信仰の形に変化しているのです。
    私も十数年前に西日本最高峰、四国の石鎚山に登山参拝したことがあるのですが、
    その時神主さんが、「お山では毎年何人かお亡くなりになっていますが、
    神の怒りに触れたとご理解下さい」と登山の際の注意喚起として、念を押していました。
    白装束の修験者の方や、信者の方々に混じって、とんでもない崖の斜面を”お鎖さん”
    と称する鎖に掴まりながら登ったりと、途中、ホント命落とすなぁ〜などと感じながら
    登ったのを思い出します。

    島根は私の住む近所にも『仏教山(神名火山)』と呼ばれる、神が降りたと言われる
    お山も有りますし、国引き伝説が残る山など、ネタには困らない位に、たくさんの山
    があります。自分の感覚や感性を磨いてくれる”場”がたくさん存在するのです。

    私達がクライアントをみさせて戴くということは、クライアントの内部感覚を
    より引き出せる様な触媒に自分自身が成り得る必要があるということです。
    触媒が機能しなければ、クライアントと我々との間で化学変化は起きないということです。
    マッチの軸だけがあっても、こする方の触媒が無ければ、何の変化も起きず火は付きません。

    常に臨床家として、我々はどんな触媒に対しても反応出来る状態を作っておく
    必要があるということです。

    自然に身を置くとは有る意味、人間生活での余分な垢や観念を捨て、
    常にニュートラルな状態にシフト出来る状態を作るということなの
    かもしれません。
    そうすることで、当たり前に見えていた世界や身体に違和感を覚えたり、
    変化に目が行ったりする様になると思います。

    登山者の皆様、山でじ〜っと立っている変なオジさんを見つけても、
    通報したり、熊と間違えて猟友会を呼んだりしないでねと願う今日この頃です・・・

  • 易経

    四書五経ってご存じでしょうか?うっすらとは分かると思いますが、
    今のように学校が一般的で無かった時代に主に、武家の子息達の
    スタンダードな教科書として用いられていたものが、四書五経です。
    基本、儒教の教えを説いているもので、テレビの時代劇とかで、
    長机に子供たちがズラッと座って「師曰わく〜」で素読をしている
    論語などが、その代表でしょうか。

    『四書』「大学」「中庸」「論語」「孟子の四書、『五経』
    易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」になります。
    ここで四書五経の説明をすると、私のボキャブラリーでは解説不能
    なので、詳細を知りたい方は個々に自習をどうぞ・・

    四書五経は江戸期においての武家の嗜みであり、当たり前の様に当時、
    武家のご子息であれば、四書五経は頭の中に入っており、諳んじて言
    えたようです。
    四書五経では無いですが、私の敬愛する高杉晋作大先生所属の長州藩が、
    幕府の攘夷号令の元に下関を通過する外国船に大砲を撃ちかけ、
    イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四カ国と戦争をしました。

    結果は砲台が占領され、実質上負けた形になったのですが、講話条約
    調印の際に、下関海峡の外国船通行の自由、石炭・食物・水など外国
    船の必要品の売り渡しなど、出された5カ条は何の反対もせずにすべて
    受け入れたのですが、ただ一つ、長州藩領土にある彦島の租借に
    関しては、何を言われても首を縦に振りませんでした。

    諸外国の代表は負けたくせして何を言うか!とかなり強引に交渉して
    きたのですが、当時イギリスの上海における植民地政策を渡航した際
    に目の当たりにした、高杉は領土は1ミリたりとも、租借しない覚悟でした。
    高杉らしいのは、租借しない理由の説明として、『我が国は高天原〜』
    に始まり、古事記』『日本書紀を延々と暗誦し出し、長烏帽子に
    陣羽織姿で狂気の相にて語る高杉を、四カ国艦隊代表等は、『魔王の如き』
    と高杉にビビリ、長州藩彦島の租借を有耶無耶にしてしまいました。

    ま、それ位に当時の日本人は四書五経は言うに及ばず、他のジャンルに
    おいても知的レベルの高い民族であったと言えます。

    私も齢50を前にして、先日より五経の中の易経を学び始めました。
    理由は氣學の延長線上に易経があったということもあるのですが、
    未だ駆け出しも駆け出しの私ですら、易経の中には大いなる宇宙が存在し、
    世の中の全ての事象が凝縮されていることが、うっすらと分かり始めて来
    ているからです。

    易経などと聞くと、何千年も前の古臭い学問の様に考えがちですが、
    有名な話しだと、今の私たちの生活に欠かすことの出来ない、コンピューター
    の基礎理論である『二進法』易経からヒント、確信を得ているのです。
    ドイツの哲学者で数学者、IQ200以上あったと言われる、稀代の知的巨人と
    言われた、ライプニッツは1703年、イエズス会宣教師ブーヴェから、易経
    64卦を配列した先天図を送られ、そこに自らが編み出していた2進法の計算術
    があることを発見しました。

    そして、更に言えば生命の根源であるアデニン(A)、チミン(T)、
    グアニン(G)、シトニン(C)といった4種類のDNA塩基配列にも64卦が
    キーワードになります。
    ご存じの通り、これらの塩基配列が二重らせん構造の梯子になっていて、
    組み合わせは各々決まっており、DNAの二本鎖が解けて、RNAに転写されると、
    また別の仕組みがあり、最終的な組み合わせが4×4×4=64通りになるという、
    易経で言うところの64卦は宇宙の縮図である所以です。

    易を端的に表す言葉として言われているのが、『易とは大宇宙と小宇宙を一貫
    する”道”を明らかにする哲学』
    と言われています。
    儒教の創始者である孔子も晩年、易を研究し、自身のレーベンステーマ
    として、片時も易経の本を離さなかったようです。
    又、心理学者として高名なユングシンクロニシティ(偶然の一致)』
    ベースになっているのは易経だったのです。
    易は儒教経典の中でも珍しい、宇宙論的哲学』であり、その後におきる朱子学
    に大きな影響を及ぼしています。

    易経は全部で64の卦で構成されています。
    「卦(か)」というのはある時の様相をあらわし、人生で遭遇するであろう、
    あらゆる場面をその64の卦で示しています。
    太極から陰陽2つにわかれ、次に4つ象(老陽・少陽・老陰・少陰)にわかれ、
    更に分裂して3本の爻(こう)からなる8種類の象(8卦)になります。
    「当たるも八卦、当たらぬも八卦」というのはここから来ています。

    この八卦『乾(けん)・兌(だ)・離(り)・震(しん)・巽(そん)・
    坎(かん)・艮(ごん)・坤(こん)』
    という名前が付いており、
    これら各々の性質を地球上の自然現象に当てはめ『天(てん)・沢(たく)
    ・火(か)・雷(らい)・風(ふう)・水(すい)・山(さん)・地(ち)』

    となり、自然現象で言えば、天(てん)で始まり、地(ち)で終わる構成と
    なっており、八卦で言えば天は乾(けん)にあたり、地は坤(こん)にあたります。

    2つを併せて『乾坤(けんこん)』でそのまま天地の意味になります。
    運を天に任せ一世一代の大勝負に出ることを『乾坤一擲(こんこんいってき)』
    と言いますが、一擲はサイコロを投げるの意味ですので、この様に故事成語
    には易経や氣學から来たものが多く見られます。

    基本、『略筮法(りゃくぜいほう)』と言われる方法で卦をたてるのですが、
    これが本当に不思議です〜。
    卦は道具を選ばない様なので、ふざけた私の筮竹はバーベキュー串ですし。
    不思議なのは、卦は64通り有る筈なのですが、内容の違うことで卦をたてても、
    同じ卦が出続けることがあり、先日、先生に伺うと、宇宙の意志としてクリア
    しなければならないテーマがあるときはそれが卦にも反映されるとのこと。

    卦の内容は微妙なのでご公表は致しませんが、そこかぁ〜と妙に納得しつつ、
    それをクリアするためには何をすれば良いのかが私のこれからのテーマだな
    と感じております。
    易経帝王学の書』とか、『智慧の書』と呼ばれてもおり、「君子占わず」
    という言葉があります。
    これは、荀子「よく易を修める者は占わず」といったことに由来しています。
    よく易を学んだならば、占わなくても先々を知り、行動の出処進退を判断する
    ことが出来るという意味だそうです。

    易経は、時について説き、兆しについて言及している書物です。物事が動く
    微かな兆しを示すだけではなく、如何にすれば禍(わざわい)を避け得るかが、
    そこには書いてあります。
    学ぶことによって、時の変化を知り、禍の兆しを察し、未然にそれを避ける、
    世界中の多くの経営者達によって指示されているのがよく分かります。

    混迷の時代だからこそ、今を読み先を読んで行くことが、重要な要素と感じます。
    ”転ばぬ先の杖”と言うよりは、『進んでいくための翼』と私自身は易経を捉えています。

  • 野球とBase Ball

    お・も・て・な・しって妙なフレーズの後に、チーンって手を
    あわせてご焼香されてもなぁ〜などと思いつつも、2020年の東京オ
    リンピック開催が決定致しました。
    私自身、身体を動かすことは大好きで、未だ将来の夢や仕事の選択
    にモヤモヤしていた際も漠然と、スポーツに何らかの関わりを持て
    る仕事に就ければ良いなぁ〜等と妄想していた時期もありました。

    ま、自分自身の現実的スペックからその可能性がゼロだと分かり、
    普通に就職してサラリーマン生活が始まったわけです。
    その思いからはや30年が経過して気付けばスポーツを側から支える
    ことの出来る仕事に就けていることに妙なご縁を感じています。

    そんな私が仕事以上に愛してやまないのが、長年続けている『野球』です。
    気が付けば小学生の頃から続けていますので、野球歴は40年以上に
    なるわけです。基本的に飽きっぽい性格の私ですが、こと野球に関し
    てだけは嫁曰く、まぁ〜飽きもせず重傷ですねぇ〜って言われる位、
    続いているわけです。

    私自身、シーズン中は生活の中心が野球になりますので、土日は言う
    に及ばず、平日ナイターも含め、ノンプロか!って突っ込みたくなる
    位の試合数をこなしているわけです。
    これはほぼ病のレベルなので、どうしようもありません。野球に関し
    てはプレイヤーとしてが一番ですが、観戦も嫌いではないので、テレ
    ビは録画をしてみたり、観戦にも行きます。

    特に好きなのは高校野球で、時間さえあれば島根の地区予選も殆
    ど観戦に行きます。
    なので例年、7月の中旬から予選終了の7月下旬までは仕事ですら夜を
    中心に組んでいるほどです。研究所でみている子が出場したりするので、
    応援という名目ではありますが、単純に観たいから!って個人的な動機です・・・

    島根県も徐々にレベルは上がってきて、プロで活躍している選手も出て
    来るほどになっては来ましたが、未だ未だ他の地区に比べると見劣りし
    てしまいます。
    特に最近は甲子園をみても二年生や一年生が活躍している事も多く、
    今年夏の大会で優勝した前橋育英の高橋君も未だ二年生の選手です。
    関西圏や関東圏などボーイズリーグやリトルリーグなどが充実している
    地域と、そうでない地域の格差が益々出て来る様になってきました。

    発達が未熟な小中学生の頃から公式ボールを使用することには賛否両論
    ありますが、リトルのワールドシリーズにおいても、日本は昨年、今年
    も優勝し、何度も世界一になっています。ま、その様な優秀な選手達が
    名門校へと進み、甲子園を目指すわけです。

    ところで、タイトルにもなっていますが、近年、野球とベースボールの
    違いがマスコミにも盛んに取りあげられる様になり、時には白熱した議
    論を生んでいます。
    同じでしょ?って言われる方もいますが、Made in Japanが”野球”であ
    ると理解戴ければ良いかと。
    この両者は同じ様でいて、大きな違いがあります。Baseballというアメ
    リカ生まれのスポーツに日本独特の精神文化を取り込み昇華させたのが
    『野球』だと思います。

    これは日本スポーツの特徴でもあり、野球に限らず、他のスポーツにおい
    ても『○○道』などと言って、精神的支柱としてスポーツを教育の場に置
    きたい思惑が見え隠れはしますが、その話しをし出すと長くなるので、野
    球に話を戻します。

    今年の夏にアメリカのスポーツ総合誌「ESPN」上と、同スポーツ専門
    局ESPNの「OUTSIDE THE LINES」の中で、愛媛県済美高校の『安樂智大
    (あんらくともひろ)』
    君のことを大々的に取りあげていました。
    この安樂君はタイプ的に言えばマー君こと楽天イーグルス田中将大に性格
    的にも、ピッチング的にも、よく似た力投型のピッチャーです。高校進学時
    には全国の強豪23校から声がかかったという逸材でもあります。最終的には
    地元、松山への恩返しと済美高校の上甲(じょうこう)監督への思いから済美に決めたようです。
    私的にも非常に好きなタイプのピッチャーなので、今年の愛媛県の地区予選
    決勝戦をわざわざ、安樂君を観に行ったほどです。

    そんな、来年のドラフト注目の日本人に対して『安樂の772球』と題して、
    海の向こうアメリカで論議をしていたのです。今年春の選手権で、安樂君は
    決勝戦までの3日連投を含む5試合を投げ、計772球という球数を投げたという
    ことがアメリカ人にとっては”アンビリーバブル!”なことなのです。

    番組や記事では一様に『無茶だ!酷使している!』とかなり辛辣な言葉で指
    導者を含めた日本球界に異論を投げかけていました。
    特に米国では肩は消耗品と考えられています。投げれば投げるほど、肩は傷
    つくと考えます。
    ですから、日本では肩を作る、或いはフォーム固めをする時期と考えるキャ
    ンプでさえ、投手に自由に投げさせることはありません。
    日本からメジャーに挑戦する投手も、まずそこに戸惑います。
    そもそも米国では、リトルリーグの段階から、大きな大会ともなれば球数制
    限があり、更に連投も禁止します。彼らの野球文化を軸に考えれば、772球は
    常軌を逸している以外の何ものでもないのです。

    これは今となっては過去の人となってしまいましたが、ハンカチ王子
    と現日ハム斎藤佑樹投手も2006年の夏の大会決勝戦まで948球を投げています。
    確かに現在プロで活躍している選手はその殆どが、『子供の頃からエースで四番』
    という絵に描いた様な、野球エリートであり、その上、ローテーションで投げて
    いる様なピッチャーともなれば、生涯投球数たるや、とんでもない球数になると思います。

    この球数制限の真意は確かに選手の健康面を考えての意図もありますので、
    職業柄否定はしません。しかしながら、米国側の球数制限の裏側には投資対象
    としての素材を損なわないといったビジネス的側面がとても大きく影響しています。

    メジャーの様に複数年契約で一人の選手に数十億円といった巨額投資を行う場合は、
    その選手の関連グッズを含め、賭けた投資分の回収が必須となります。
    ですからアマチュアの頃から、本人や球団側の意識の延長線上には常にビッグビジネス
    が存在する、これがある意味でのBaseballの側面です。

    野球にも当然その様な思惑も意識もあります。最近の高校生でもメジャーを意識した
    選手達がたくさん出て来ており、将来はメジャーでと公言している選手達も多々います。

    ですが、野球の根幹に深く根付いているのは、アマチュア精神に則った、どことなく
    刹那的精神性でしょうか。日本のプロ野球で現在活躍している選手でも、甲子園は
    特別だと皆が語ります。
    以前雑誌のインタビューで、あの人は今的な特集で、甲子園の優勝投手のその後を追って
    いたのですが、投球過多によって肩や肘を痛めてしまい、優勝後、野球が出来なってしまった
    様な人達にインタビューしていましたが、全ての方々が『全く後悔はしていません!』
    キッパリ言い切っています。それ位、甲子園とは球児にとっては特別な場所なのです。

    私が普段見ているクライアントにも、「明日は投げるの止めて、
    肩休ましぃ」って言っても、ニッコリと笑って「はぁい」と言いますが、多分投げるこ
    とは織り込み済みです。
    休めば試合に出られない、アマチュア野球の寿命は中高併せて約6年ですが、この6年に
    本人だけならまだしも、親も一緒になって立ち向かっていくのが、凄いです・・

    子供さんの将来を考えて、「今無理すると肘が伸びなくなったり、肩の水平ラインより
    上方に腕が上がらなくなりますよ」って言っても、涙ながらに「明日一試合だけでも投
    げられる様になりませんか!」って訴えられると、元高校球児としては両方の気持ちが
    分かるので、何とも言えなくなります。少なくとも、高校卒業までの6年間は一族郎党
    揃っての集団センチメンタル状態になってしまうのです。

    この辺りがBase Ball Bearの観点から見ると理解出来ない部分であるのかもしれません。
    米国にとってスポーツそのものを精神論で語る日本は、ある意味理解し難い宇宙人的要
    素での脅威でもあり、日本人そのものの、精神性の原点ではとみているようです。

    野球に関して語ると、それだけで一週間分のブログが終了してしまうので、ここらにしと
    きますが、かつての高校球児の成れの果てが、齢50を前にしても未だ、生活の中心を野球
    に置き、自分自身の限界に挑戦し続ける元球児が出来上がるのです。
    私にとって野球とは、それだけ奥深く、ワクワクさせるだけの魅力あるものだと、未だに
    感じているのです。

  • バブル

    日曜日、恐らくは、今年の民放ドラマ最高視聴率をとったであろう
    と思われる半沢直樹が終了した。『やられたらやり返す!倍返しだ!』
    って思いっきり昭和テイストがプンプンするセリフも何だか小気味よく、
    脇を固める役者も独特の味を出していて、久々に愉しくドラマを観させてもらった。

    元々の原作は池井戸潤氏のいわゆる半沢直樹シリーズ「オレたちバブル入行組」
    「オレたち花のバブル組」が土台になっています。
    ヒットの要因は幾つかあると思いますが、他局のテレビドラマの様に、
    アイドルや一部の事務所のタレントゴリ押しドラマで無く、当たり前の様に内容で
    勝負したこと。

    妙にリアリティがあり、本来は誰しも半沢の様に上司にもの申したいが、現実は
    半沢同期入行の、今回のドラマでも独特の雰囲気を出している近藤役の滝藤賢一
    に感情移入し易すく、上司からネチネチといびられ、精神的に崩壊しそうな状況
    の中で、家庭があると耐えるしか無いよなぁ〜そうだよなぁ〜などと、私自身も
    サラリーマン時代を思い出し、妙に切なくなります。ま、この様な対極にある立場
    がよりドラマを面白くしているのだろうなと思いました。

    このドラマ一応、原作はバブル期が題材となっています。そもそもバブル期って?と、
    私の記憶の中にバブルで良い思いをしたという記憶が一切無いので、改めて調べてみると、
    1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)5月までの4年3か月間を指す空前の好景気
    のことを俗にバブル景気と呼ぶようです。
    バブルはいざなぎ景気に次ぐ戦後3番目の好況期間と言われ、過剰な投機(株・土地)
    など実態が伴わない景気要因に支えられ、景気終息後の反動の大きさから「泡が弾けた
    ようである」ことから「バブル景気」と名付けられました。

    昭和61年と言えば、私は21歳でしたので、サラリーマンを辞めて独立しようかどうかと
    考えていた頃だったので、会社が好景気に沸いていたなどという記憶が一切無いのです。
    島根という地域は中央の景気が反映されるのが大体、2〜3年後になるので、バブルが
    四年で弾けたとすれば、波及する前に何も恩恵無く終了したことになります。
    地元の知人に聞いても、一部のゼネコン系の人々は良かったようですが、バブルのイメージ
    はそんなものでした。
    寧ろバブルより、その後に訪れる失われた10年と呼ばれる平成不況の方が印象深い
    かもしれません。

    ただ、経済とは生き物で景気とは”雰囲気”である。との言葉通り、何となくテレビが
    バブルと浮かれて(当然、当時はバブル景気などとは呼んでいませんが)、如何にも景
    気が良く世の中が良く成りつつあるその雰囲気に国民が酔いしれた時期でもあったと言えます。
    ジュリアナのお立ち台で踊りまくる何かに取り憑かれたような女性達も浮かれた時代を表していて、
    今でもたまにテレビなどで当時の状況が映し出されると、ある意味社会全体が熱病にうかされた状態
    だったのがよく分かります。

    これって今のアベノミクスとよく似ていて、私の回りでアベノミクス最高!って言っている
    人は見当たらず、何だか実感の無いまま設備投資も増加しているという雰囲気的観測とかで、
    消費税率が上がるようですが、何だか日銀と政府がタッグを組んで、好景気を誘導している様で
    何だかなぁ〜って感じです。
    ま、いつの時代でも持っている人は持っているし、儲かる人は儲かるってことで、妙な納得をしております。

    ただ、この『雰囲気』『気分』って凄く人間にとっては大事な要素でもあって、何となく
    景気が良くなりそうな雰囲気があるから、購買意欲が増し、今日は気分が良いから飲みに行
    こうか!等と人間とは理性のみでは語れない部分でその多くの行動が支配されていることが分かります。

    これって人のからだが良くなっていく過程にも言えることかもしれません。
    不定愁訴や具体的愁訴を抱えたクライアントが、訪れた施術院や治療院で、最初は確信は無いけど、
    チョット楽になって何となく良くなりそうな感じがする。通い続けることで、チョットした日常に
    変化が現れ、からだがラクになって来るのが実感出来てくる。

    変化が実感出来るから何となくが徐々に確信へと変わっていく。
    この確信が重要で、確信することでからだは大きく変化し、改善方向へと大きく舵を切っていきます。

    昔から『病は気から』と言う言葉が有りますが、この言葉、まさしく名言だと思います。
    ウイルス性や物理的破壊による疾病以外は、このメンタル的要素で殆どが改善方向へ向かうと言っても
    過言ではありません。
    逆に言えば、この先生大丈夫か?と不信感を持たれるような先生では治るものも治りにくくなるという
    ことも言えます。

    考えてもみて下さい、自分が調子悪いときに訪れた施術院やクリニックで、何を聞いても歯切れが悪い、
    目が泳いでる、キョドっている、そんな先生に信頼がおけるでしょうか?
    不信感一杯では治癒力も充分に働かず、体内の化学反応も起こり難いのは容易に想像出来ます。
    どんなに科学技術や疾病プロセスの研究が進んでも、所詮、治すのは当事者の身体であり、先生では
    無いのです。
    からだとは快や不快をききわける受容体であり、この受容器は微細なセンサーなので、チョットした
    変化にも過敏に反応します。

    ヘタなことをしていると身体から思わぬ『倍返しだ!』を喰らうこともあるので、精進精進・・