カテゴリー: 畠山裕美(はたけやまひろみ)

  • 操体(動診)はたくさんありますが、どれをやったらいいのかいつも困ります

    今週、高校大学と7年間クラスが一緒だった友人がスコットランドから帰国する。イギリスの方(スコットランド?)と結婚して子供が二人いるのだが、三年前からあちらで指圧の勉強をしているのだ。勿論私が操体をやっていることは知っているので、いわば同じ業界のヒトである。スコットランドの彼女の指圧の先生も、操体のことを少しだけ知っているそうだが、第一分析、つまり『対なる二つの動きを比較対照して、楽な方、痛くない方に動かして、可動域極限で瞬間急速脱力』に導くものらしい。彼女も操体に興味があるそうなので、再会が楽しみだ。おそらく今日辺り東京に着いているのでは。

    そういえば、偶然にも、先週イギリスの鍼灸師からメールをいただいた。七月末に鍼灸の学会に出るため来日するので、その機会に実際に操体を受けてみたいとのことだった。聞いてみたところ、通称「Blue Book」(操体法写真解説集の訳)を読んだことがあるらしい(この本の英訳はわかりにくいとメールに書いてあった)、『(本に)操体は沢山のっていますが、どれをやったらいいのかいつも困ります』と書かれていた(日本語が少しできるそうです)

    そうなのだ。「どれをやったらいいのかわからない」というのは問題なのである。今年の操体法東京研究会の定例講習でもこのような質問が出たのだが、操体を勉強すると一番困るのは(悩むのは)

    『どの(動診)を選択すればいいのか』ということなのだ。

    例えば、手関節、足関節をみても動きはそれぞれ8つある。手関節を例に挙げると、まず右で8つ、左で8つ、両手を同時にという動診もあるので、8+8+8で24通りある。足関節だと、やはり右8、左8、両足同時が8つで24通り、首も8とおり、体幹も8とおりで思い切り単純に考えても64通り、更にポジションを考えると、仰臥下肢伸展位、仰臥膝二分の一屈曲位、伏臥下肢伸展位、伏臥膝二分の一屈曲位、右側臥、左側臥、椅座位、正座位、正座つま先立位、四つん這い、などなど、ポジションの数だけあることになる。これに皮膚へのアプローチを加えると、ものすごい数の動診が考えられる。

    私も正直言ってカウントするのは恐ろしい・・・

    これだけあるのだから(また、操体の書籍を見ても多くの動診・操法が載っている)確かに『どの動診を選択すればいいのかわからない』という悩みはよくわかる。

    注)如何なるポジションでも分析(動診)が可能なのは第二分析、すなわち一つ一つの動きに快適感覚をききわけさせる動診である。対なる二つの動きを比較対照する第一分析だと、側臥位の分析(動診)を行えないのは明白である。また、第一分析時代は側臥位の分析は行われていなかった。

    10年前、第一分析を講習で指導していた時、プログラムには一応順番があった。何故あったかというと、私もその順番で習ったからという非常に単純な理由である。勿論順番(プログラム)があるのは教える以上当然で、その順番をアレンジして応用するのは『本人の技量』だと思っていたところ、『実際の臨床は、講習で習った順番』だと理解していた受講生がいた。確かにパターン化して、最初に足関節の背屈をやって、次に膝の左右傾倒をやって、次に伏臥位で膝を脇のほうに引きつけさせて・・・と、教えるほうが教える方も覚える方もラクでいいかもしれない。しかし、臨床には必ず例外が存在する。その例外に対応するためにも、基本に基づいた操者の想像力と応用力が必要になってくるのである。

    ★これを【何をやってもいい】と解釈するか、【操体のセオリーに基づいて、なおかつ想像力と応用力を活用して】と捉えるかは【テメエの勝手】だが、私自身、橋本敬三先生という大師匠が苦労して大筋を耕し種を蒔き、その弟子が更にその芽を育てた。私達はその芽が育っている状態で操体に巡り会っているだから、【何をやってもいい】ではなく【操体という土俵の中でヤジウマをしよう】と思っている。

    『どの動診を選択すればいいのか分からない』
    いいポイントをついている。多くの受講生がこれで悩む(いや、私も悩んでいた)のは普遍的な事実なのだ。
    介助や補助、言葉かけはポイントを絞り込んで勉強すれば何とか身につく。しかしそれだけではダメで『どの動診を選択するか』という修行を積まなければ片手落ちだ。

    『どの動診を選ぶか』
    「症状疾患にとらわれない」というセオリーがあるので、操体には『肩こりに効く操法』とか『腰痛に効く操法』というのは本来存在しない。『肩こりに効く動診』があれば、クライアントの訴えに応じて、該当する動診・操法を行えばいいのだがそうは行かないのが操体なのである(笑)

    そして、その答えを学ぶために私達は時間をかけて精進し、学び続けているのだ。10000時間ではないがセオリーを踏まえて段階的に勉強すれば答えは得られる。これは私が保証する。しかし、『どの動診(分析法)を選ぶか、その方法をすぐに知りたい』というリクエストには簡単にはお応えできない。というか、そんな方法があったら私が知りたい(笑)

    その答えを得るために、私達は時間をかけて精進し、学んでいる。東京操体フォーラムの実行委員は、その答えを得てからも、操体の精進のために日々勉強しているのである。

  • 『操体』と『手放す』ということ。

    神田昌典氏の最新作『全脳思考』を読んだ。神田氏の著書は数多いが、何故か私は読んだことがなかった。それも不思議と言えば不思議なのだが、何かの巡り合わせなのかもしれない。これは7年ぶりのビジネス書とのこと。

    全脳思考

    全脳思考

    私には以前からずっと考えていることがある。

    操体臨床家の若手の育成
    操体臨床家の地位の確立
    ・海外への広報活動

    後継者の育成はどの業界でも深刻だと思う。
    臨床家の地位確立は私の悲願の一つでもある。操体法の創始者、橋本敬三先生は医師として、臨床として操体をやっておられた。途中から『健康体操としての操体』にばかりスポットがあたり、操体法というのは地方の『○○操体法の会』などで健康体操サークル的に行われているケースが多い(健康体操サークルなので、臨床の操体とはレベルが格段に違うのはまぎれもない事実である)。
    愛好家が多いことが悪いとは言わないが、これによって、操体の臨床家のポジションはあまり高いとは言えない状態である。             私はこれをどうにかしたい。

    『愛好家』の中には「操体でお金をとってはいけない」という人もいる。こういう方は元々橋本先生が医師であり、臨床として操体をされていたことを忘れているのだ。また、愛好家の方全てがそうだとは言わないが、操体の専門家の話を聞かない。少なからず愛好家よりは操体を深く学んでいるのだからもう少し耳を傾けてもいいのでは、と思うことがしばしばあり、専門家が何かの時に『これこれこうで、橋本先生はそのようには言われていませんよ』とアドバイスをしても『そんなに細かい事を言わなくても、みんな仲良くやればいいじゃないですか』とか『私は操体の専門家じゃないから』と逃げる方もおられるのは事実で、残念に思う。

    以前、仙台の大会の基調講演で『操体でお金をもらってはいけません』と言った大学の教授がおられたが(早稲田の石井先生ではないです。念のため)その時会場にいた臨床家が『ふざけるな』『大学のセンセイは大学から給料もらってるんだろうが、私達は臨床で生業を立てているんだぞ』という声が上がったことを覚えている。当たり前だ。臨床家をナメている。
    これは、橋本先生に向かって『患者から治療費をもらってはいけません』と言うのと同じだ。

    健康体操として操体を認識している方々にとって、治療費(あるいは施術料)をとって操体を行うというのは、まるでラジオ体操のやり方を教わって施術料を払うのと同じくらいの驚きかもしれないし、実際、実行委員の中にも『操体で臨床ができるんですか?』と聞かれたメンバーがいる(それも、自称『民間療法には詳しい』という方かただったらしい)。

    手厳しいことを書いているかも知れないが、誤解して欲しくないのは、愛好家が悪いと言っているわけではない。操体のプロフェッショナルがいるということを認識していただきたいのと、「健康体操としての操体」は操体の中のほんの一部であるということを認識していただきたいのである。

    海外への広報活動だが、海外では未だに『第一分析』時代のものが操体法として通っている(日本でも同じようなものだが)。翻訳されているのは『万病を治せる妙療法』と『操体法写真解説集』の二冊だが、『快適感覚をききわけ、味わう』という第二分析以降の書籍は英訳されていない。これもどうにかしたいと思っている。
    これらの課題は漠然と思っているだけではダメで、実際にアクションを起こさなければならないしそれには戦略が必要だ。

    まずこの本のデザインが気に入って手にとった。それから「目次読書」をして、気になるキーワードを見つけたので言葉が書かれていたからこの本を買ったのだが、その中の『U理論』に興味を持った。
    U理論というのはどうやら、『思考を体系化』したもので、『社会変革プロセスにおける思考のあり方を体系化』したものだ。もっと簡単に言えば、現実認識を掘り下げるほどに、その思考から導かれる行動は深くなるということ(内面の思考を深めるほどに、実際にとる行動は力強く、思考は実現しやすくなる)、ということらしい。

    ・U理論はMITスローン校経営学部上級講師のC.オットー・シャーマー氏が体系化したもの

    例えば、操体臨床歴41年で、起きている時間のうち、ほぼ8割(いや9割以上?)は操体のことを考えて続けている三浦理事長と、操体をほんの少しかじって(ビデオやDVDを見て)本を見ながら自分のクライアントにおそるおそる試しているA君とでは深みが違うのは当たり前だ。A君のように表層的な理解のみならば行動に移した場合でもおざなりになりがちになるので、結果にもあまりこだわならない。しかし、操体を深く考察し、目の前の患者様とその現実を深く掘り返し、思考していったらどうなるかというと、その現実における意味(事象)を深く理解すればするほど、解決策については単なるアイディアレベルではなく、本質的な変革をもたらすものになる。つまり、結果がでるということだ。

    ★勿論A君も深めることが可能なのは当然である

    操体を本を読んでちょっとかじったA君のところに、急性のぎっくり腰で動けない急患さんが来たとしよう。A君はまず、患者さんにベッドに仰向けになるように指示する。まずは仰向けにして、足関節を曲げさせるか、膝を左右に倒す分析をしようと思ったからだ。しかし患者さんは腰が痛いので、ベッドに横向き、エビのようにからだを丸める姿勢しかとれない。A君はお手上げで『操体は仰向けかうつ伏せじゃないとできない』と、諦めてしまうのである。

    しかし、操体を深く知っており、操体の盲点『動けない、動診がとおせない患者はどうするのか』を知っている実践者がいた。三浦理事長だ。
    橋本敬三先生が『運動系の定義』の中で筋骨格系と皮膚まで含めた軟部組織と書いておられることを思い出し、『関節の八方向に対して、皮膚も八方向で分析してみたらどうだろう?」という問いから生まれたのが『渦状波(カジョウハ):皮膚へのアプローチ、接触による感覚分析』である。

    運動系:硬組織なる骨格を基盤として、これに付着する筋肉を主体とし、これが緊張弛緩する時に同調する皮膚までを含めた軟部組織とか成り立ち、主作用はもちろん身体運動であるが、身体の支持作用と、運動系が形造る体腔内に、内臓および中枢神経体を支持保護する作用を営む。正確に言うならば横紋筋系運動系と称えられよう。そして、その内部に興奮伝達の末梢神経系と、栄養代謝の末梢循環系とを包含している。『生体の歪みを正す』176ページ

    思考レベルには四段階ある
    レベル1:自分という境界内に視点があり、過去の情報をダウンロードするだけの状態 典型的反応:「ああ、それならもう知ってるよ」
    レベル2:自分という協会の周辺に視点があり、事実にもとづく判断をしている状態  典型的反応:「なるほど、事実はこうなんだ」
    レベル3:自分という境界線の外側に視点があり、他者に感情レベルで共感できる状態 典型的反応:「あなたの気持ちがわかります」
    レベル4:境界線は開かれており、自由な視点でより大きなものと繋がっている感覚  典型的反応:「私が体験したことは、うまく言葉で説明できないのだけれども、何か大きなものと繋がった感じがします」

    この四つなのだそうだ。何かを成し遂げる場合、レベル2までは論理の積み上げと、事実の認識と自分の領域を強固に守っている段階だ。ここまでだったら誰でもやろうと思えばできるのだ。例えば同じ戦略(顧客取得計画?)を立てても競争できるのは価格だけなので、価格競争になる(私達の業界であれば、施術料を下げるとか)。私はクイックマッサージなどは経験がないが、一時期クイックマッサージが不当に安い価格で提供された時期があった。それ以降クイックマッサージの店は減ったようだが、ダンピング→新しいものが生まれない→利益減少→体力低下、となってくる。また安い価格で提供するために、アルバイトを安い賃金で雇い、スキルが低いままの技術でサービスを提供させるので、施術側も顧客側にも不満が生まれる、という悪循環が起きたのではないだろうか。

    そういえば、一時期リフレクソロジーのサロンが流行った。リフレクソロジストの養成校に勤めていた方に聞いたところによると(当時)、スクールに通ってくるのは主にOLで、『手に職をつけたい』とか『リラクゼーション系の仕事をしたい』という理由が多かったらしい。会社をやめて2〜3ヶ月の講習を受けてから、実際にサロンで研修を積むわけだが、サロンでの施術で結果が出ず、結局はやめてゆくケースが多かったという。中にはリフレクソロジーに向いていて独立開業というケースもあるそうだが、脱落するほうが多い。

    ちょっと一例を挙げてみたが、これって「レベル1」にも満たないような教育で現場に出してしまっている(現場で慣れろ方式)ので脱落するのだろう。ちなみに『現場で慣れろ』方式をOJT(On the job training)と言っている場合もあるようだ。

    いきなり業務を行わせ、いざという時のフォローだけ行うことをOJTと称することがある。指導する側の指導やチェックが確実に行われ、指導される側が報告義務を欠かさなければ成果を出せるが、指導する側・される側のどちらかに問題があれば、成果は期待できない。結局、OJTの要諦は、意図的・計画的・継続的の3つであり、これを欠くものは本来のOJTではない。(wikiより)

    これを操体で考えてみると、やはりレベル2までは皆行くのだ。しかし、それから先に躓くケースが多い。というかその後が面白いのに、そこで勉強をやめてしまうのである。

    レベル2で終わらず、レベル3、レベル4まで行くにはどうしたらいいのだろう。ちなみにレベル2と3の間には大きな断層があるという。レベル2までは何とか皆辿り着くものの、3まで行くのが大変なのだそうだ。

    そして、レベル3からレベル4にと行くまでの段階には「手放す」という段階があるらしい。既存の経験、知識を全ていったん手放すのだ。一流の人達は誰もが例外なく「手放す」という感覚を味わっているという。自分が一流というワケではないが(いや、操体専門家として一流でありたい)、『手放す』という感覚に共感するところは多い。

    三浦理事長は操体を学んで15年近く経ってから、橋本敬三師の『きもちのよさで良くなる』という言葉をきっかけに、それまでやっていた『対なる二つの動きの比較対照』分析を手放した。そのお陰で『楽ではなく快適感覚による分析法』を確立した。これは橋本敬三先生の悲願でもあったと思う。そのお陰で現在の操体があると言っても良い。三浦先生がそれまでの操体を手放していなければ操体はどうなっていたのだろう。

    身近なところで言えば、1999年に書いた私の最初の本「ふわ、くにゃ、すとん!操体法」。これは1997年頃から企画を始め作った本だ。監修は私の最初の操体の先生、小林先生である(小林先生は三浦先生の受講生の受講生だということを後で知った)。当時は身体運動の法則に関する理解が今とは違っていたし、商業出版であるが故に多少の妥協もしている。間違いや手直ししたいところもある。なので、自分のサイトで「自著を斬る」として改訂訂正事項を書いてある。私の中でこの本は『手放して』いるのである。なので今現在あの本を出されて(それも改訂訂正事項を読んでおられない方に)質問を受けても既に『手放して』いるので、『申し訳ありませんが、色々直したいところがあったのですが、第二版の予定もないので、ホームページで訂正修正箇所をご覧下さい』というしかないのである(断っておくが、装丁やイラストは素晴らしい本だ)。

    また、1999年の全国操体バランス運動研究会で、三浦先生が『快からのメッセージ』を上梓され、それを読んだ時、私は今までやっていた『操体』を手放す事を決意した。それまでやっていたのは、最大圧痛点を押さえ、緩む位置に関節を誘導して脱力に導くというものだった。これでは「痛みが消える箇所」「快方向に動かして脱力」となっていたが、ここで言う『快方向』は『快』はなく、『楽な方、可動域がある方、圧痛硬結が消える方』であり、100%『快』に近づくものではない、ということに気がついたからだった。まあ、手放すに当たって色々あったが、結局は手放す事によって、操体の臨床家としての今の自分がある事を考えると、「手放
    す」ことの重要性がよくわかる。
    しかし、それまでの「操体」を手放したといっても後々には役に立つこと、一層役立つ形で戻ってくるので心配はいらない。

    私の昔の受講生に、非常に頑固なヒトがいた。最初は瞬間急速脱力で指導していたのだが、私は比較対照で楽をききわけさせて、瞬間脱力させる方法(第1分析)をやめて、一極一比(二方向の動きを比較対照するのではなく、ある一つの動きを試し、快適感覚のききわけをさせる)の分析法(第二)に移行していた。第二分析のほうが有効であったが、その方は『自分が習った時は、瞬間脱力だったから、自分はそれを貫く』と言った。『教えた私が変わってもですか?』と聞いたところ『そうだ』と答えていた。本人曰く、頑固なので一度覚えたらもう代えるのはイヤなのだ言う。これを聞いて私も少し複雑な気持ちになったが、教授した人間が手放して変化しているのに、ついてきてくれないのは少し寂しくもあった。

    『手放す』というのは今まで学んできたことが全てが無駄になることではないのだ。

    ちなみに私は色々手放してきたが(笑)結果オーライである。

  • 操体と触診。

    私達は触診に中指を使います。二本使う場合は中指と薬指を使います。
    硬結には『実』と『虚』があると言います。『実』は怒っているというか、主張をしている分かりやすい硬結です。これは比較的キャッチしやすいものです。逆に『虚』しているところ。元気がなくて、力がない。しかしその中心に小さい芯があるような硬結です。虚しているところは、強く押さえるとつるりと逃げてしまいます。また、中指を上手く使うと爪のきわとか、うんと小さいポイントも中指で押さえることができます。繊細で柔らかい、しかし的確な触診は中指なのです。

    先日、ある古武術家の先生にお目にかかった際伺ったことがあります。『最後の本当の武術家』と言われる先生です。
    先生曰く、触診するには第二指(人差指)を使うのだよ、という事でした。それは何でも古来から伝わる使い方なのだそうです。中指をメインにしている私達とは違いますが、どうやら第二指は目的地に向かうセンサーのようなものがあるのでは、と感じました。
    武術ではおそらく体表の急所を狙う、あるいは「骨」に触れるので第二指を使うのかもしれません。操体ではひかがみ(膝裏のくぼみ)を診ますが、ひかがみの深い硬結(特に足底筋など)に触れるには、第二指では届かないのです。ひかがみを診るときには中指を使いますが、人差指の独特の使い方があるのです。もう少し詳しく言うと、中指で触れているのですが、他の指も使っているのです。
    そうやって考えると『第二指で診る』という武術家の先生のお話も分かってきます。『あの先生は人差し指っておっしゃったけど、操体では中指って習ったから違う』というような短絡的な思考にはならずにすみます。というか、そんな短絡的な思考をしていてはいけません。何故違うのか。その違いを明らかにして納得すればいいのです。
    知っていてこだわらなければいいのです。

    からだの骨格をなす骨組か診るのと、外側を覆っている皮膚から診るのとではセオリーが違うのは当然だからなのです。

    何年か前、東京操体フォーラムでは、お昼休みに実行委員が参加者の相談にのるという時間を設けました。
    その時私がお相手したのは、何度か個人レッスンをしたことがある、30歳前後の若手の理学療法士の方でした。
    彼が言うには、渦状波をやっても全然反応がありません、とのこと。

    (渦状波:皮膚へのアプローチ。第三分析。皮膚の面にアプローチする面の渦状波と、点でアプローチする点の渦状波がある)

    「どうやっているの?」と聞いてみたところ彼は人差し指と中指の二本の指の腹を私の前腕に当てました。
    当たっている指には圧がかかっていました。

    「・・・・・」
    う〜んちがうよ。キミ。

    「本で読んでやってみたんですが」
    「○○さん、点の渦状波っていうのは、中指と薬指を使うんだよ」
    「この二本で『陰と陽』をあらわしていているんです」
    「それに、指のハラを当てるのではなく、指尖で触れるし、圧はかけないんです。こんな感じで」と、私がやってみせると
    「ええええ?こんなに軽くていいんですか?」と、彼は驚いていました。そうです。そんなに軽くていいのです。軽ければ軽いほどいいのです。
    「本を見ただけじゃダメですね」
    当たり前です(笑)

    『快からのメッセージ』を読んだだけで、渦状波による臨床が可能になるのだったらそんなに簡単なことはないし、わざわざ時間をかけて講習を受けることもないわけですよね。

    快からのメッセージ―哲学する操体

    快からのメッセージ―哲学する操体

    それはさておき、先程も出てきましたが膝の裏を「ひかがみ」と言います。
    膝の裏は、からだ中の歪みを写し出す鏡のようなものなので、「ひざかがみ」から「ひかがみ」になったという説もあります(他にも説あり)。

    操体を勉強すると、まずひかがみの触診を避けては通れません。
    ひかがみの触診そのものではなく、触診に至る『間』の取り方や、そのからだのハコビ方で、『その人がどのような動診、操法をやるのか』が分かるくらいです。というか、『操体における品格』のようなものがわかるのがこの『ひかがみの触診』なのです(私はそう思っています)。自分もまだまだだと思っているので、非常に気を遣うポイントです。

    ひかがみに圧痛、硬結がない患者もいる」という方もおられますが、それはその診方が足りないのではないかと思います。ボディに何らかの症状疾患があると、必ずひかがみに反応が出るからです。例えば薬物による急性中毒や、怪我でさえ出ると言います。

    そして、ひかがみの圧痛硬結を見るのはやはり中指なのです。この場合、中指を思い切り立てます。そして圧痛硬結をキャッチしたら皮膚のあそびを殺しながら弾くように当てます。ポイントは腹ではなく指尖です。

    ちなみに、講習の時師匠が「こうやってやるんだよ」と模範を見せて下さいますが、※注1)中指を立てて掌側を自分のほうに向ける姿勢はアメリカに行ってやったらどういうふうに受け取られるんだろう・・・・・と思ったりします。

    師匠が中指を立てた手を顔の前辺りに持ってきて『こうやるんだよ』と軽くしかし力強く堂々と中指を空に向かって突き上げる動作を見る度に、私は少しドキドキします(笑)勿論この場合は「相手に手の甲を見せて中指を立てて見せる』ではなく『中指でひかがみを触診する』なのですけどね(笑)

    ※注1)ご存じだと思いますが、米のジェスチャーで手の甲を相手に向けて中指を立てるのは相手を強烈に侮辱する意味があります。。というか、たまにミュージシャンなどが映像でこのポーズを取る場合、モザイクがかかる位、つまり放送コードにひっかかるようなジェスチャーです。。。

  • 三茶の有名人。。。

    今日は東京操体フォーラムの理事長であり、私の師匠でもある三浦寛先生について書いてみましょう。

    私の周囲には「ヒロ」あるいは「ヒ」がつく人が妙に多いのです。そもそも自分からして「ヒロミ」な上、父は「博」で、母は「ヒサコ」です。その他親類縁者には「ヒロアキ」「ヒデコ」「ヒトミ」等々、何だか知りませんがやたら多い。
    そもそも、父親と師匠の名前が同じで、どちらも宮城に深い縁があるというのは何だか不思議なご縁だと思うのです。また、平相談役が仙台出身というのも、すごいご縁を感じます。いや、これはこじつけじゃないと思います。
    そもそも、うちの屋号「TEI-ZAN」というのも仙台藩開祖、独眼竜こと伊達政宗公の諡号(貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名)の「貞山公」から頂いている位です。勿論、来仙時には橋本家のお墓同様時間の許す限り瑞鳳殿(政宗公の墓所)にもお参りします。

    私は東京生まれですが、両親は宮城県出身で、仙台や塩竃近辺にには親類縁者が30人位います。小さい頃から仙台は慣れたところだったのでいつ行っても特別の場所ではなく「普通」の場所なのです。

    もっと考えてみると、私の父方の祖父、畠山三左ェ衛門は1900年生まれで橋本敬三先生とは4歳違いです。祖父は私が高校生の頃亡くなりましたが、その後、橋本敬三先生の映像を見て音声を聞いて、最初に思ったのは『おじいさんとかおじさんと話し方がそっくりだ・・・・』ということでした(ご子息の承平さんとお話した時もそう思いました・・)。

    この辺りは私が操体を学ぶにあたって、あらかじめセッティングされていた事柄なのかと思ったりもします。

    話を師匠に戻しましょう。

    操体の臨床家として最前線を走っているのはご承知の通りです。また橋本敬三先生の『操体は体系づけられてはいるが完成されていない』という後輩に託した意思を受け継ぎ、橋本敬三医師が糸口を作った『楽』と『快』の違い、『感覚分析』という診断分析指標の確立、操体の動診(診断・分析法)に皮膚へのアプローチ法の確立、連動理論の確立など、操体臨床に大きな変化と進歩を導入しました。このような橋本敬三の直弟子、そして愛弟子で操体の臨床家という姿は皆さんご存じだと思います。

    ちなみに、10年位前に私が知り合いの某上場企業の役員秘書に聞いた話です。偶然にも彼女はムチ打ちで三浦先生のところに治療に通っていたそうです。ふとしたことからそれがわかり『世間って狭いよねぇ』とお互いに笑いましたが。彼女(A子さんとします)がムチ打ちをやった後、なかなか良くならずに困っていたところ、上司である役員の方に三浦先生を紹介されたそうです。そこで、三茶の治療所に行ったのですが、A子さんが予約時間に行った時、救急車がサイレンを鳴らさずに治療所のあるマンションの前に止まり、担架に乗せられた人が、三浦先生の治療院に運ばれてきたのだそうです。救急車を見て彼女も相当驚いたそうですが、もっと驚いたのは、暫くしてから、先程担架で運ばれてきたヒトが、スタスタ歩いて帰ったのを見た時のことだったそうです・・・・・。

    師匠はよくコーヒーショップで原稿を書いています。愛用の黒いノートが何冊目になったのかは知りませんが、相当の量になっているのではないでしょうか。

    一昨年前までは、東急田園都市線三軒茶屋南口側にドトールコーヒーがありました。三浦先生の数々の著書はここで執筆されたと言ってもいいでしょう。
    私もよくここで打合せをしたり、原稿の相談をしたり、色々お世話になりました。この周囲にはプランターの植え込みがあり、小さいながらも木が茂っていました。当然ながら夏になると蚊や虫が出てくるわけですね。

    ある時、用事があって私が寄ると、三浦先生は指定席で原稿を書いていました。そして何故かその横に『キンカン』の箱が3つ位並んでいるのです。
    どうしたんですか、と私が聞くと、いつもこの道を通る人が下さったのだそうで。キンカン、というのはご存じの通り虫さされの薬です。そして実は、キンカンの本社は三軒茶屋にあり、キンカンに勤めている方は丁度ドトールの横を通って通勤するのです。おそらく、毎日植え込みの横で何か書き物をしている謎の人物をみて『蚊にさされそうだから、キンカンをプレゼントしよう』と思ったに違いありません。

    キンカン社の重役さんだったりしたら、キンカン5年分とか・・・

    ちなみに、師匠は姿を見た限りでは、何をしているヒトかよく分かりません。よく、画家とか小説家とか芸術家の類の職業ではと思われるようです。いつもお気に入りの帽子(同じのを二つ持っているようです)を目深に被り、口髭を生やし、銀のブレスやピンキーリングなどのアクセサリーが妙にしっくりくる様は勿論会社勤めのビジネスマンには見えません(笑)。最近は髪の毛も長くなり、たまに後ろで結んでいたりするのでますます何をしているヒトか不明です。いや、ご本人もそれを楽しんでいるのかもしれません。

    また、師匠は49歳で車の免許を取ったそうですが(奇しくも私の父ヒロシも49歳で車の免許を取得しています)、『何で急に免許を取ったのですか』と聞いてみたら
    『ポルシェが手に入ったから』
    という答えでした・・・。
    今はポルシェではなく、でっかいBMWに乗っておられますが、後にも先にもポルシェが手に入ったから車の免許を取ったというヒトには未だかつてお目にかかったことがありません・・・。

    そんなある日、東京操体フォーラム理事の草階女史からある情報を得ました。三浦先生らしき人物がマンガに載っていると。私も早速そのマンガを買ってみました。

    うちのごきげん本 (ダ・ヴィンチブックス) これは「ダヴィンチ」に連載された書評です。

    『本の最後でうっかりドトールで読んでしまい、知らないオッサンと斜め向かい合わせの席で涙』
    『ハンパな長髪の知らんオッサン(ちょい怪しめ)』
    『しまった!と思う反面、三軒茶屋駅前ドトールのちょっとした秘境度がしっくり来ていた気もした』

    そう、この「ハンパな長髪の知らんオッサン」というのがどうやら師匠なのでは!というのです。見た瞬間、私は確信しました。これはうちの師匠だ!!!★皆さんも是非読んでみて下さい。

    ★★ご本人も『これはオレだな』と納得しておりました。はい。

    なお、理由は不明ですが、師匠はイートインでコーヒーを頼むのにテイクアウト用のカップで頼みます。そして砂糖は入れずにミルクだけをいれるのですが、店員さんが覚えていて何も言わなくてもテイクアウト用のカップで、ミルクを入れてくれます(原稿用紙にこぼすといけないからでしょうか?)。

    そして一昨年の年末、三茶駅前のドトールは繁盛していたにも関わらず、オーナーが代わったためクローズしてしまいました(先のばばかよさんの話ではないですが、確かに秘境っぽい感じのところで面白かったんですけどね。秘境というかサファリパークというか)。

    時は流れて5ヶ月。ドトールの後に上島珈琲店がオープンしました。ドトールのコーヒーが180円に比べて、こちらはブレンドで340円とお値段が少し高いのがナンですが、テラスがあり、ちょっとしたオープンカフェ風のお洒落なお店です。ここはすぐに師匠の新しい執筆場所となりました。例えば講習が終わった後、何人かでお茶をしたりする場合も大抵上島珈琲のテラスに行きます。そして、やはりここでも店員さんが覚えているので、テイクアウト用のカップで出てきます。

    ここは人通りも多いのですが、やはりいつもテラスで帽子を目深に被って何か書き物をしている謎の人物が気になる人が多いようです。

    たまにお母さんと子供が通り過ぎたりしますが、子供は興味を惹かれるのでしょうか、師匠のほうをじ〜っと見ながら通り過ぎるのです。子供を連れて歩いているお母さんは少し恥ずかしそうですが、師匠は『こんにちは〜』などど、子供に手を振ったりしています。たまに打合せなどで伺うと、誰かが師匠のテーブル席について話し込んでいたりします。ところが後で聞くと、師匠も知らない人だったりします。

    ところで、上島珈琲の向かいには靴屋さんがあります。先日一週間迷った挙げ句(迷う程のこともないのですが)、夏物のグラディエータサンダル(ヒール8センチ)を買いました。レジで会計をしていると、店員さんに
    『よく、上島珈琲にいらっしゃる方とご一緒ですか』と聞かれました(笑)
    『はい(あははは)』
    『あの方の周り、いつも人が集まっていますけど、有名人なんですか?』
    『・・・・・・』

    そしてつい最近、師匠と福田副実行委員長と、山本実行委員と三茶の横断歩道を渡っていた時のことです。師匠は歩くのが速いので、先に行ってしまいましたが、私の後ろにいた二人組の若い男性が『あ、あの人いつも上島珈琲にいる人だ!』と叫んでいました・・・・。

    橋本先生の墓前にて。2008年秋

  • 鉱脈クラブ。

    鉱脈クラブ。
    ここ二週間の間に「一万時間説」の話を何度か聞いた。5月末の新聞に、三菱UFJリサーチ&コンサルティング(株)理事長で経済学者の中谷巌氏のインタビューが掲載されたかららしい。何だかピンとくるものがあったので、早速調べてみた。

    「鉱脈クラブ」に入り人生をより豊かに
    さらに、私は20代の若者が大きく成長するには、何か一つのことに一万時間を費やすべきだという「一万時間説」を唱えています。一つのことにそれだけの時間没頭すれば、必ずひとかどの人物になれる。その理由は、どんな分野でも一万時間費やすとプロ級のスキルが身につき、同じような経験を持つ人たちの集まりである「鉱脈クラブ」に入会できるからです。
    比喩的に申し上げているのですが、地下の鉱脈はつながっているので、一つの鉱脈を掘り当てれば、ほかの分野との交流ができるということです。そういう人的なネットワークから多くのことを学べるようになるのです。それが自分の生き方にとって大きな財産になるのです。

    三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社のホームページから引用」

    上の言葉は20代の若者に向けての言葉だが、ひとつの事に一万時間費やすと、他の分野で一万時間勉強(時間投資)した方と交流ができる、ということ。これを「鉱脈クラブ」と言う。
    単純に考えて、一日8時間として土日を含め三年半。土日を抜いたら約五年。何かのスペシャリストになるにはこれだけの時間が必要だということ。
    それも、あちこちに手をつけるのではなく、コアスキルに一万時間かけよとということだ。

    ★ちなみに「鉱脈クラブ」というのは実在のクラブでありませんのでご注意下さい★

    ○以下は中谷巌の『プロになるならこれをやれ!」よりの引用

    また、一流のプロに共通していることがある
    1.自分の仕事に命をかけている。時間やお金をプロとしての技量を磨くためなら出し惜しみしない。逆に素人は『出し惜しみ』する。ろくに投資もしないで、リターンばかりを過大に期待する。期待が裏切られるとがっかりして努力をやめてしまう。
    2.少しでも高いところに到達したいと常に高い目標を自らに課している
    3.プロは必ず結果を出す。言い訳の材料はいくらでもあるが、言い訳をする人で一流のプロになった人はいない
    4.「自分はまわりの人達に支えられてここまで来ることができた」という感謝の気持ちを持っており、その人達に報いることこそ自分の務めだと自覚している。社会への恩返しの気持ちを持つことが更にプロとしての風格を磨く
    5.「地道な努力は必ず報われる」という信念を持っている

    「一流のプロになるためには、まず自分の専門領域を確立しなければなりません。もし、自分が人生をかけて取り組みたい分野が見つかったら、まずはそこに禁欲的に「一万時間を投資する」ことが大切です。そうすれば、分野にかかわらず、必ずひとかどのスペシャリストになることができるでしょう。さらに、一万時間を経験した人は、「鉱脈クラブ」に入会する資格が与えられます。そこには人生に成功するためのたくさんの栄養素があふれています。

    中谷巌の「プロになるならこれをやれ!」 (日経ビジネス人文庫)

    中谷巌の「プロになるならこれをやれ!」 (日経ビジネス人文庫)

    先日、三浦理事長のところに、この秋のフォーラムで講義をして頂く予定の、田中稲翠(たなかとうすい)先生が治療に見えていた。私は稲翠先生とご家族とは操体を通じてかれこれ10年近くのお付き合いがある。
    稲翠先生はご自宅が近いということもあり、師匠(三浦理事長)の治療も受けている。普段のメンテナンスやご家族は私が担当し、スペシャルケア?の時は師匠が診る、という感じである。

    稲翠先生の名刺には「Contemporary Artist」と書かれている。書を学び、南画(詩、書、哲学、篆刻)を学び、活躍の場は日本というよりも世界。今年の夏は講演や芸術系のイベントで渡米される。一言で「芸術」といっても奥が深く、彼女の作品や活動を一言で述べるのはなかなか難しいところがある。それだったら作品を実際に間近で見て、その筆遣いとか呼吸を感じるほうが早いだろうといつも思う。

    実は操体も同様で、一言ではなかなか伝えにくい。私達はいつも『プロの意地』か『芸術も操体もなかなか一言で言い表すのは大変だ』というテーマで長話になる。ここに師匠が加わって談義が弾むこともあるし、稲翠先生が文字学(もじがく)から『楽』と『快』の違いを説明して下さったり、最近のアート界や操体界について語り合ったりする。そういう楽しい時はあっと言う間に過ぎてしまうのだ。

    芸術と操体という別々の事柄を学んでいるのだが、話が繋がるし、相手の言わんとしていることが『あ、そうそう!』とすんなり入ってくる。また「気づき」の共有もできる。これは素晴らしいことではないか?

    私が先の「鉱脈クラブ」の話を聞いてまず思い出したのは稲翠先生のことだった。なるほど。これが鉱脈クラブのお仲間なのか。私も鉱脈クラブのメンバーかな(笑)。

    写真は稲翠先生のお嬢さん(現在女子美在学中)のMioさんのコラージュ。彼女もアーティストの道を歩んでいる。

  • 改めて、東京操体フォーラム実行委員です

    こんにちは。東京操体フォーラムの畠山裕美です。
    最近このブログを読んでおられる方も増えているようで何よりです。
    このブログは、東京操体フォーラム実行委員が一週間交替のリレー形式で書いています。現在約20名の大所帯となりましたが、それぞれ個性的なメンバーばかりです。ところで、書いている自分達(実行委員)は自分達のことを知っているのでさらっと書いていますが、中には「このヒトって誰?」と思う方もいらっしゃるかと思います。
    紹介(顔写真付き)は、こちらからどうぞ http://www.tokyo-sotai.com/jikkoiinshokai.html

    という私も実は先日、ブログを読んでいるという方から『畠山さんって、開業してらっしゃるんですか』と聞かれてしまいまして(笑)
    自分では「開業して14年目の操体の専門家」のつもりでも(笑)、知らないヒトから見たら『東京操体フォーラムのブログを書いている女子の一人』でしょうから、誰だか分からないですよね。
    また、その時佐伯理事も一緒だったのですが、佐伯さんと私が並んだらそりゃ佐伯さんのほうが一回り年上ですから(笑)年上の男性のほうがキャリアがあるように見える(というか推定する)のは、そんなものなのでしょうか。

    そういえば三浦理事長が操体の講習を始めたのは30歳の時だそうです。当時操体の講習をやっているところは他にはなかったそうですが、受講生の殆どが年上だったとか。たまに全国大会などで、年上の元受講生の方々にお会いしたりすると『○○さんととオレが並ぶと、絶対○○さんがお師匠でオレが弟子に見えるよな』と、笑っていますが、おそらく実体験だと思われます。

    ★そういえば、東京操体フォーラム実行委員ってどんな事をしているの?

    東京操体フォーラム実行委員は、三浦寛理事長主宰の、操体法東京研究会(今年で31年目)の出身者を中心に構成されています。今昭宏顧問、超歌唱家の巻上公一相談役、総合格闘家で武術家の平直行相談役をはじめ、様々な形で操体臨床に関わっているメンバーが集まっています。
    ざっと挙げてみますと、柔道整復師鍼灸指圧按摩マッサージ師、理学療法士、運動療法士、公認スポーツプログラマー、ケアマネ、青少年運動指導者等色々です。

    何度か組織改正がありましたが、現在の岡村郁生実行委員長、福田勇治副実行委員長という組み合わせになってから、実行委員同士の結束もますます固まり活動の場を広げています。

    実行委員には月一度「実行委員勉強会」というのがあり、操体の最新情報を学びながら切磋琢磨しています。勉強会は朝早いので、男子組は前夜から合宿状態です。いいオトナの男達がわいわい楽しく合宿しているわけです(笑)
    何よりも三浦寛理事長が『妥協せず』の姿勢で操体を探求し、学び続けているため、気を抜くと『浦島太郎』になってしまいます。それくらい操体の進化(深化)は、早く、そのため実行委員同士はメーリングリストを使ったり、実際に顔を合わせたりしながら情報の交換に励んでいるわけです。

    そして、なかなか東京まで飛んでこれない福岡の秋穂理事は、Skypeを使ったビデオチャットで、オンタイムで打合せや勉強会へ参加しています。こういう時、インターネットの恩恵に感謝するわけですね。

    考えてみると操体法東京研究会の講習を2タームあるいは3タームあるいはそれ以上、または足りずに個人レッスンを受けているメンバーもおり、もう、怒涛のように勉強しながら操体に臨んでいるのです。

    三人寄れば文殊の知恵、ではないですが、これだけの頭脳(ブレイン)が集結するともの凄く心強いのは確かです。これからお知らせできると思いますが、新しいプロジェクトも進行中で、操体臨床の未来を考えるべく、橋本敬三先生の遺伝子(意伝子:文化的遺伝子、ミーム)を受け継いでいるわけです。

    また、私達には橋本敬三先生の直系の孫弟子という誇りがあります。

    ★もしも、橋本敬三先生の直系筋で、操体を真剣に学びたいのであれば、フォーラム実行委員にご相談下さい。先輩諸氏が優しくしかも情熱的に(笑)相談に乗ってくれるでしょう。 先輩諸氏の声
    自分自身が「操体の『そ』の字も知らなかった頃」から、操体の勉強の面白さに目覚め、臨床家として成長していく体験談を聞けると思います。東京操体フォーラムは、そのような場でもあるのです。

    ★今年の春、新たに始まった操体法東京研究会の定例講習の話です。昨年までは再受講と新規受講の方が混在している場合が多かったのですが、今年は新規受講の方だけ集まるクラスとなりました。本を読んだりどこかで操体を受けたり、あるいはDVDを見たり、中には私の「操体法ベーシック講習」を受けてから受講されている方もおられます。
    その中で色々な質問が出るのですが、自分も同じような疑問を抱いたりしたので『何故そういう質問が出るのか』というのが身にしみてわかるのです。自分が通った道ですから。

    再度アドバイス(笑)
    もしも、操体を勉強したいと思ったら、各実行委員のところで操体を受けるのも手ですし、フォーラムで実際話を聞いてみるのも参考になります。皆、決して『操体なんて簡単だよ』とは言わないでしょう(笑)しかし誇りを持って『一生楽しめますよ』と貴方に向かって伝えるに違いありません。

  • 「楽」になくて「快」にあるもの。

    『楽』と『快』の違いについてを説明するのはなかなか難しい。それを知っている友人が先日教えてくれた。

    彼女は南画家だ。南画家というのは、『書、詩、画、篆刻(てんこく)』の四つをマスターしなければならないのだが、そのうちの『篆刻(てんこく)』には漢字学の勉強をする。その膨大な知識の中から、彼女がそっと教えてくれたのはこういうことだ。

    『楽』と『快』の意味には勿論重複するところもある。例えば”cofortable”という意味などである。
    この、重複する意味があるのでこの二つの区別は難しいのだそうだ。全くその通りだ。

    楽、というのはもともと巫女が病気の平癒のために、両手に鈴を持って踊っている様子から出来ている漢字だ。音楽、も音と鈴を振って舞う巫女の姿を考えると何となくわかる。一方、「快」という文字だが、「りっしんべん」、すなわち「心」という「へん」がついている。『快』には「はやい」という意味もあるのだそうだ。そういえば「快速電車」と言うではないか。といっても単にスピードが速いという意味だけではない。(笑)この「はやい」とは、例えば二人で話しをしていて、相手の言うことがすこん、ときもちよく入ってくるような「はやさ」を指すのだそうだ。

    「この『早さ』って何だろう、と思って三浦先生の本とひろみさん(私)の本を復習してみたんだけど・・・・」

    「これは『原始感覚』のことを指すんでしょうね」

    『楽』になくて『快』にあるもの、それは『原始感覚』なのだ。

    これって、すっきりしませんか??

    一週間ありがとうございました。

    フォーラムでお会いしましょう

    島根は松江の福田画伯にバトンを渡します。

    畠山裕美拝

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  • 何故操体は「自分で動く」「きもちよく動く」(だけ)ではいけないのか?「きもちよさが出てくる」ではないのか?

    たまに雑誌の取材などを受けますが、記者やライターの方が結構勘違いをしていることがあります。
    それは操体を「きもちよく動く」という認識をおられるということです。

    以前、『秘伝』のライターの方と話をしましたが、普段『気持ちよく動く』と言われている、河野智聖氏の「快気法」になじんでいるせいか(河野氏は三浦先生の教え子でもあり、操体野口整体を混ぜて「快気法」を作られました)、また、河野氏が『気持ちよさを探す』とよく書かれているせいか、操体法と混同している傾向がありました。(ちなみに私は河野氏と交流があります。違いが分かっているからです)

    快気法:きもちよく動く、気持ちよさを探す、気持ちよさの比較対照をする
    操体法:ゆっくり動く、きもちのよさをききわける、きもちのよさは比較対照せず、一極微で分析する

    このような違いがあります。

    ここではた、と思い出しました。数年前教えていたある受講生に『操体を簡単に説明してごらん』と聞いたところ
    『自分で動く』と答えました。その後私はその人にみっちり操体の「いろは」を教えたのですが、なまじっか運動神経に自信があり、武術系の方だったのであまり私の話を聞いてはいないようでした。逆に『操体はきもちよさを色々探してもいい、そんな操体があってもいいじゃないですか』と反論されたりしました。その時の言葉が『いろんな操体があってもいいじゃないですか』という言葉です。

    この言葉は都合がいいように使われることがあります。「感覚をききわけ、味わう」過程は人それぞれであり、一人ひとり違います。それが個人というものです。百人いれば百通りの感受性があるからです。しかし、それを 『自分の勝手な解釈で、どうアレンジしてもいい』と、受け止め、「いろんな操体があってもいいじゃないですか」、というのはちょっと違うのではないでしょうか。

    私が動診と操法の違いを説いて、『きもちよさを探して色々動いてみる』というのは動診と操法の行程を混同しているということで、「快適感覚をききわけ(診断:動診)、味わう(治療:操法)」という、操体の行程から外れると言ってもダメでした。

    残念ながら今現在お付き合いはありません。仕方のないことです。

    ★元々、動ける方は『きもちよく動けてしまう』のです。しかし、どこかに症状疾患を抱えていらっしゃる方々はそれができないから操体の専門家のところに来るのです。自分が出来るからと言って、「きもちいい動き」を患者様に強要するのは不親切この上ありません。

    ★★私はいつも、東京操体フォーラム実行委員の面々にも言います。
    『自分がきもちよく動けるからと言って、症状疾患を抱えたクライアントがそうだとは思ってはならぬ』

    東京操体フォーラム実行委員の中にも、カルチャーや地方自治体の教室、道場などで指導しているメンバーがいますが、それはちゃんとわきまえて指導にあたっているのです。

    臨床として、クライアントなり患者様と相(あい)対して向きあう場合カルチャーや健康教室、道場やセミナーなどで、不特定多数と向き合う場合、

    これらは皆違うのです。シチュエーション、相手に応じ臨機応変に挑むのです。

    ★武術の練習に来るような方々だったら、そこそこ「きもちよく動け」と言われて動くかもしれませんし、そういう方々は『身体能力が高い』という自負心があるので、まず『きもちよく動けません』とは言わないのです。
    なので、元気な身体能力が高い(自称含む)方を相手にしていればこれでも済むのです。

    ああすいません、テンションが上がってきました(笑)

    その方は、三浦先生の講習も受講されていたのですが、三浦先生が『きもちよさを探して動くのではないのだよ』と説いてもやはりダメでした。

    私のみならず、三浦先生の話を聞いてもダメだったのです(汗)
    もうこうなったら操体ではなく『○○式何とか法』にすればいいのに、と思うのですが、今現在、『操体』の看板を掲げてやってらっしゃいます。操体、という名前は美味しいのです。
    「三浦先生の講習を修了した」という修了書を、ホームページに掲げておられます。先生の教えを無視している割には修了書だけ飾るというのは
    なんとも不思議でなりませんが、その方にとって、「修了証」というのは、単なる宣伝ツールで領収書でしかないのかもしれません。

    あああああああ。またテンションが上がりそうですが、押さえておきます(笑)

    知らない方はHPを見て『ああ、三浦先生のところで講習を受けたんですね』と思って行かれるわけですが、

    ああああああああああああ。やめておきます(笑)

    で、私や東京操体フォーラムの実行委員に迷惑がかからなければいいのですが、

    クライアントの中には『きもちよさをさがしてうごく派』のところに行かれて、『きもちよさを探して色々動いて〜』とか『ここを揺らすからきもちよさを探して〜』と言われて、

    ・なんだかわかりませんでした
    ・きもちよくありませんでした

    と、我々のところにいらっしゃることもあるのです。結局は筋を勝手に曲げて結果が出ず、クライアントや患者様は『操体ってこんなものなの?』と不信感を抱くか『なんだ、たいしたことないじゃん』ということになるのです。

    はあはあ。ぜいぜい。
    血圧が上がりそうです。。。

    気を取り直して、

    「なぜ、きもちよく動く」(だけ)ではいけないか。

    「動診と操法の区別をつけよう」でも書きました。

    最初にも書きましたが、操体は『快適感覚をききわけ(診断:動診)、味わう(治療:操法)』なのです。

    本人にしかわからない感覚をききわけるために、ある動きを試してみるわけです。これが診断にあたる動診です。
    ある動きというのは、例えば手関節を外旋させて、それに伴って全身が連動するような目的がある動きです。
    これで快適感覚が「ききわけられたら」それが診断になるのです。

    ここで、快適感覚がききわけられていないのに、「きもちよく動く」と言っても無理なのです。
    そこで多くの方はよくわからないまま、色々からだを動かしてみたりします。
    この場合、感覚をききわけるのであるから『ゆっくり動く』なのです。

    快適感覚がききわけられたら、からだがそのきもちよさを味わってみたいという要求を満たしていたら
    そこからが「操法」すなわち治療です。

    快適感覚(きもちよさ)がききわけられており、そのきもちよさを味わってみたいというからだの要求を満たしているのだから、今度は『きもちよさにゆだねて』とか『一番きもちのいいようにからだのツクリを操って』という指導をしてもいいし、クライアント(患者様)は、きもちよさにゆだねてタコ踊りをしようがバク転しようが、泣こうが笑おうが無意識の動きを表現しようが、それはそれでいいのです。

    ★ご参考までに、「無意識の動き」はきもちいいものです。快適感覚を味わっているとからだが勝手に無意識の動きをつけてくる場合があります。これが「きもちよさに委ねる」ということなのです。

    なので、操者は動診時には『きもちよく動いて』のではなく『ゆっくり動いて』という指示を与えるのです。

    「きもちよさがでてくる」

    以前、操体法東京研究会の講習で、何気にこの言葉を使っている受講生がいました。
    私は即、厳重注意しました。

    放っておくのも一つの手で、その後その人が実際の臨床に立つ際、
    恥をかくのもその後上達しないのをそのままにしておく。
    しかし、そういう事はしたくありません(笑)折角学びにきておられるのだから、やはりきちんと学んで欲しいのです。

    私から注意され、何でこんな些細なことをいちいち、と思ったと思います。小うるさいヤツだ、と(笑)しかし、操体指導者の未来のため、その方の為、将来を思って指導しているのですから、その気持ちは分かって下さいね(笑)

    何故、「きもちのよさをききわける」は良くて、「きもちよさがでてくる」ダメなのでしょう?

    考えてみてください。この二つの文章に主語をつけるとしたらどうします?

    「きもちのよさをききわける」に主語をつけるとしたら『からだ』なのです。『からだが、きもちのよさをききわける』のです。一方「きもちよさがでてくる」はどうでしょう。主語を想定しにくいですね。更に深掘りしてみると『きもちよさがでてくる』のを確認して感じているのは『私』なのです。

    つまり、「ききわける」のは『からだ』で、「でてくる」のを感じるのは『私』。

    操体で大切にしているのは
    Don’t Think, Feel!(アタマで考えるな、からだで感じろ!)という言葉です。
    (これは、「燃えよドラゴン」のブルース・リーの有名な台詞です。「皮膚で感じろ!」という訳もあり、それもいいなと)

    本人はそこまで考えていないのでしょうが、その言葉の指向性によってアタマで考えてしまっているのです。

    またアタマで考えているので
    「出てこない、出てこない・・・じゃあ色々動いて探してみよう」と、なってしまうのです。色々動いて探す・・・・先程出てきた言葉ですね。

    私が『操体NGワード』として決めた言葉です(今決めました!)

    ほんの僅かな違いですが、言葉の指向性というのはすごいものなのです。

    私達が操体臨床における言葉の誘導は、言葉を大切に選んでいるのです。

    言葉には魂がこもります。言霊(コトダマ)です。
    (外国語ではどうする、というご意見もありますが、外国語でも同じです)

    『きもちのよさをききわけ、味わう』この言葉に奥義が含まれているのです。

    Hiromi Hatakeyama 畠山裕美

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  • 足関節の背屈操法の回数について

    膝の裏に手を差し入れて触診すると、患者さんは『いててててて〜っ』と痛がってジタバタする。
    『ここが悪くなってんだな』
    『首さ痛でぇのに何でここが痛でぇんだろなぁ』
    『痛いですぅ』
    『それじゃ、つま先をすぅ〜っとスネの方さ挙げてみて』
    『はい、ポタッ』
    『ほれ、痛でくねぇ』(膝裏の裏ぐりぐり)
    (以上東北弁は1900年生まれ、橋本敬三先生とほぼ同年代で宮城県人の畠山の祖父、畠山三左ェ門を思い出しつつ。。ビデオやラジオで聞く橋本敬三先生の声って、何だか祖父を思い出したりします。)

    おなじみの『足関節の背屈』(私は大昔、膝窩の圧痛硬結を取る操法なので、『ひかがみ操法』と習ったことがあります。。。。今ではそんな言い方はしてません)。

    膝の裏の痛い圧痛硬結が、つま先を挙げてポタンと落とすとあら不思議!痛くないし膝の裏側がつきたてのお餅のようにやわらかくなって、あら?腰が痛いのも良くなった!

    な〜んていう、風景です。

    この操法には動診というものはありません。膝の裏を触診して、圧痛硬結をキャッチします。動かさないで触診して即操法にすすめるわけですからね。そして足首を背屈させて、その足背に抵抗をかけ、脱力させます。

    本などを読むと、まるで一回でウソみたいに膝の裏の圧痛硬結が失せるように書いてあります。勿論、そういうこともあるのですが、それにはそうなる道理があるのです。その道理を知っているのが名人達人というわけです。該当者は少ないのです。なので、誰がやっても同じ、というわけにはいきません。

    さて、ここで、万病を治せる妙療法・操体法 (健康双書)
    など、主に農文協の『健康叢書』から出版されている操体法シリーズを見てみると「操法の回数は2回から3回」とか「2回から5回」と書かれています。
    実は私が10年前に出した『ふわ、くにゃ、すとん 操体法』にもそう書いてあります。
    何故かというと、そう習ったからです(笑)
    勿論今は、からだの要求感覚に委ねた脱力を導いているのでそういうことはしていません。
    (本の訂正箇所は、サイトに掲載してあるので、そちらをご覧下さい)

    なお、快適感覚をききわけ、味わうとういう『第二分析』で行くと、操法の回数の要求(からだの要求ですよ)は、多くありません。

    操法の回数と「きもちよさ」は反比例するのです。
    つまり、うんと快適感覚を味わうような操法を十分味わえば、一度で十分なのです。しかし、例えば上のつま先をすねの方に持ち上げて、ストンと落とす場合、不快な感じはしないと思いますが、「からだが味わってみたいきもちよさなのか」と、といかけてみても「?」「わかんない。。。」というケースが多いのです。そのような場合や、単に『楽で何ともない』という場合には回数でこなすことになってしまいます。

    それはさておき、世の中には橋本敬三伝説』というようなものがあります。例えば『橋本先生は操法を一度しかやらなかった』というものとか『一発で治った』というものです。

    ★この『足関節の背屈』に関して、橋本敬三先生は操法を一回しかやらなかった、という話を聞きました。(昨年の仙台での全国操体バランス運動研究会です)

    しかし、そんなことはありません。昨年春のフォーラムで公開した、『よみがえる映像』でも紹介させていただきました。これは、70年代に虎ノ門ホテルオークラの「平安の間」で橋本先生がセミナーをされた時の映像です。

    会場に集まった方々に声をかけて、確か『腕が上がらない人』だったと思います。勿論、腕が上がらない方だといって腕に触ったりはしません(さすが『症状疾患にとらわれない』ということを実践しているのです)。『何で腕が上がらないのに足をひねったりするんだ??』というオーディエンスの表情が面白くもあります。そこからいくつか動診操法をとおしてゆきますが、いわゆる『第一分析』。楽か辛いかの比較対照の分析をしてから、辛いほうから楽な方に動きをとらせます。この時『静かに、静かに』と誘導されていたのが印象的でした。
    おそらく、長年の経験から『ゆっくり動いて』というよりも『静かに、静かに』と誘導した方が、初めての方や慣れない患者さんにとって分かりやすいということをご存じだったのではないかと思います(実際は『すんずかに、すんづかに』と聞こえます。懐かしい東北のおじいちゃんのしゃべり方なのです)。

    肝心の『足関節背屈』、モデルは初老の男性ですが、なかなか脱力が上手く出来ません。橋本先生(熟練しておられる橋本先生がですよ)も何度かやり直しをさせて、4回目かそれくらいでやっと先生が納得できるような『瞬間急速脱力』に導けたのです。

    ★仙台の操体バランス運動研究会で『橋本先生は足関節の背屈の操法は一度しかやらなかった』という意見に対しては、三浦先生が挙手し、その映像のお話をされました。

    橋本先生も一度しかされていなかったわけではない、ということをです。患者さんに操者が思ったとおりの急速瞬間脱力を導くのは大変なことなのです。

    この映像はDVDに落としてもらい、完成品とノートパソコンを抱えて、三浦先生と一緒に見たのです。丁度このシーンは最後の方に入っているのですが、見終わってから三浦先生が少し考え込み、
    『おい、見たか?橋本先生が何度も何度も患者に脱力させてたな』
    と、つぶやきました。
    『そうですね。橋本先生でも慣れない患者への瞬間脱力は苦労されてたんですね』と答えました。

    操体というのは、見た目は非常に簡単に見えます。動かして瞬間脱力させればいいから(笑)
    しかし、実は他人に自分がしてもらいたい、希望通りの動きをしていただくというのは非常に難しいことなのです。
    操体を勉強しはじめた方々がまず直面するのは『患者さんが思い通りに動いてくれない』という問題なのです。

    ここで改めて考えてみると、何故昔(第一分析時代)は、操法の回数を2回から3回、あるいは2回から5回としていたのか、分かってきます。

    ・瞬間脱力に導くのは操者にとって口で言うのは簡単だが、患者にとっては難しい
    ・なので一度でちゃんとできることはあまりない(だから2回から3回やっておけば何とかなるだろう?)

    ということなのでしょう。

    あと、もう一つの秘密ですが、きもちよさがあれば回数は一度(多くても二回)で十分なのです。なので、当時は「楽」をききわけさせる動診・操法をやっていたことが理解できます。

    Hiromi Hatakeyama 畠山裕美

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  • なぜ、『一人操体』『二人操体』とは言わないのか

    我々東京操体フォーラム実行委員のメンバーには、ちょっとしたこだわりがあります。
    こだわりと言っても、橋本敬三生の哲学にならっているだけなんですけどね。

    一般的には「一人操体」「二人操体」という言葉を聞くことがあります。
    話を聞いてみると、「一人でやるから『一人操体』で二人でやれば『二人操体』じゃないですか」と言われます。それももっともと言えばもっともなのですが、どうやらこの言葉のルーツは、神戸の中川重雄氏の本『すぐできる 一人操体』と『ふれあいの 二人操体』から来ているのかなと思います。

    ★書籍のタイトルっていうのは、やはり売り物ですから売れるようにつけるわけです。私の最初の本はサブタイトルが『辛い、痛いを自分で治す!』でした。橋本先生の『万病を治せる妙療法』も

    確かに一人でやれば一人操体で、二人でやれば二人操体じゃん!というのも分かりますがまあ、私の話も聞いて下さい(笑)

    操体は基本的に『自力自療』(自らの力で自らを療す)です。しかしこの自力自療という言葉がちょっと取り違えられているケースが多いのです。

    自力自療、というのは『自分で自分を治す』そっか、それじゃ一人操体じゃん、と思うのは早計です。

    自力自療≠一人操体

    (自力自療は一人操体ではない)

    一人でやるから≠一人操体
    二人でやるから≠二人操体
    三人でやるから≠三人操体

    なのです。

    操体で言う自力自療とは『本人にしかわからない感覚をききわけ(自力で診断・分析)、味わう(自力で治療)』という
    ことなのです。操体は『目的がある動き』(例えば仰向け膝二分の一屈曲位で膝を右に倒すとか)を試し、それに快適感覚がききわけられるのか感覚の分析を行い、快適感覚があったらそれをからだが納得するまで味わうというものです。

    感覚のききわけを行うのは『本人』しかいませんから、基本的には一人でやろうが介助者あるいは操者がいて、二人でやろうが、体育館などで指導者が言葉の誘導だけで動きを指導しようが、全部自力自療なのです。

    なので一人でやるから「一人操体」、二人でやるから「二人操体」ではないのです。

    ★三人でやったら(三人でもできますよ)、十人でやったら。。

    例えば、家で自分でからだのメンテナンスをする場合には『自力自動の動診と操法』という言い方をします。

    操体法治療室―からだの感覚にゆだねる

    操体法の治療と予防

    上記二冊の本は、「自力自動」の操体法が載っています。「操体法治療室」は巻末にポジション別に、「操体法の治療と予防」はやはり全編ポジション別に載っています。これも面白いのですが、初診の方が本を持ってこられて、『自分でやってみたんですが、よく分かりません』という方が多いのです。なので『どんな風にやってらっしゃいますか』とチェックさせていただくと、動きが早く、感覚をききわけていないとか、単にその関節しか動かしておらず、末端が動いてからだの中心腰が動いて、首が動いて全身が動く、という連動が表現されていないのです。
    こういう場合、何度か学習を積んでいただきます。最初からうまく行く場合もありますが、感覚をききわけながらゆっくりとからだを操る、ということに慣れていない方が多いのです。

    学習を積んでいくと、「快適感覚をききわけ、味わう」という意味を、からだをとおして納得していただけるようになります。そうすれば、指一本、腕一本動かしてもきもちよさをききわけることができ(診断)味わう(治療)ことができるようになります。そうなったら大したもんだ!!

    Hiromi Hatakeyama 畠山裕美

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