
カテゴリー: 畠山裕美(はたけやまひろみ)
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ヒビキ(初日)
こんにちは。畠山裕美です。一週間よろしくお願い致します。易の勉強を始めてから、漢字の成り立ちに結構興味が湧いてきたりします。「響」という漢字は、上の「郷」と下の「音」から成り立ちます。「郷」は、象形で「ごちそうを真ん中にして二人が向き合う」姿をあらわしているそうです。「音」は、楽器や金、石、草、木から発する音を表しています(そのまんまです)向き合う音。そこから生まれたのが「響」という漢字なのだそうです。二人の向かい合った人の間で音がぶつかる。それがヒビキの原点。または、ごちそうを真ん中にして向かい合った二人が、「打てば響く」ような、丁々発止のやり取りをしているような絵柄も浮かんできます。いずれにせよ、響くという現象は「ひとりっきり」では起こりえません。「やっほー」のコダマ(最近やる人いるんでしょうか)も、音が山に跳ね返って聞こえてくるんです。 -
食う食わないはテメエの勝手だよ(7日目)
操体っていうのは、基本的に「自己責任」なんです。それが「食う食わないはテメエの勝手」by 橋本敬三先生なのです。からだを使う場合は、手は小指、足は拇趾(母趾球)を運動力点作用点にするといいよ、とかモノを右手で拾う時は、左足に体重をかけて拾うとからだが歪みにくいよ、とか色々な情報を提供しているわけですが、それをやる、やらない、つまり「食う食わない」はテメエの勝手、自己責任ということになります。そして、その自己責任のもっと深いところにあるのが「好きか嫌いか」「快か不快か」をききわける力、原始感覚です。そもそもそれが鈍っているから「どっちかわからない」「自分で選べない」ということになります。それを蘇らせるにはどうしたらいいのか。それが「快」です。原始感覚を蘇らせるには、質の高い快を味わうことが一番です。これが「ウソかホントかやってみろ」by 橋本敬三先生一週間ありがとうございました。畠山裕美
※目黒雅叙園の「猫都(にゃんと)」で遭った「猫観音」。
明日からは三浦寛先生です。 -
どうせ食うなら(六日目)
以前「操体を勉強していても、いいところまで行かずにやめちゃう人って、あんパン食ってあんこまで食べないのと同じだ」と言っていた人がいました。その人は、あんこまで食べずに、いや、食べさせてもらえずに(平たく言えば破門)去っていきました。不思議な事に、破門されたとか、何らかの不満を持ってやめた輩はつるむ、というのはナゾといえばナゾですが、「食いつく」という目線で考えると「一番美味いところを食い損ねた同士」というところでは共通します。最近では「肉まんを食っていて、ツユの染みたところを食べて『肉まんを制した』と、勘違いし、勉強をやめてしまう(オリジナルメソッドを名乗ったりする)場合もありますが、実は一番美味いところはかじっていないのです。どうせ食うなら、一番美味しいところを食べないとね。そのためには皮もしっかり味わいながら食べるのです。
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食いついた理由を深く考える(五日目)
何のために操体を勉強しているのか?と考える人もいると思います。また「テクニックが欲しい」「人を治したい」「セルフケアしたい」とか、色々な理由で操体を勉強する人もいるでしょう。私の場合ですが、「なんかしらんけど、好きだし」みたいな感じがしていましたが、分かったことがあります。昨年の4月から一年間、「東京国際仏教塾」(超宗派の仏教塾)で、前半は共通課程、後半は宗旨専門課程で曹洞宗を勉強しました。三茶の隣は駒沢だし、私の両親の実家は両方とも曹洞宗だし、赤坂の豊川稲荷も曹洞宗だし、東北福祉大は駒沢大同様曹洞宗系だというご縁や、三浦先生がよく道元禅師の言葉を引用しているのもあるのですが、私は迷わず曹洞宗を選びました(真言密教も面白そうですが)。
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食いついた理由(四日目)
操体に食いついた理由です。本格的に食らいついたのは「操体法治療室」でした。何故食らいついたかと言えば、後半の三浦先生の「からだとこころの関係」について触れたところに食らいついたのだなと思います。その後、三浦先生と共著で本を出すことができ、また「操体法治療室」の三浦先生のパートの英訳本を出すことができたのも、食いついて食らいついた結果かなと思います。今後とも食らいついて離れない予定です。 -
ねこまっしぐら。(二日目)
「ねこまっしぐら」とは、すごいコピーです。「カル○ン」のCMのコピーです。この言葉の先には、猫がご飯に食いついている様子が自然と想起されます。ちなみに、猫は原始感覚が鋭いというか、結構好き嫌いが激しかったりします。「食いつきがいい」「食いつきがよくない」という言い方は、結構使います。ちなみに、小十郎君(愛称 ちびちゃん。先代のシモン兄ちゃんが大猫だったので、そう呼ばれていたが十分大きい)は、ねこまんま以外はあまり食べません。たべるとしたら、アイスクリームかバターくらいです。おさしみも食べません。しかし、真魚君(愛称 まーちゃん。5月3日で推定一歳。巨大化中)は、何でも食べます。いずれにせよ、ご飯が入ったお皿に、猫ちゃんたちがわらわらと集まるのをみるのは楽しいものです。と思っていたら、大好きなコミックをアニメ化した「鬼灯の冷徹」(ほおずきのれいてつ)の最新版(第弐期)で、地獄の「お迎え課」の主任、荼吉尼(ダキニ)と、火車(大猫)の話がありました。どちらも元々は死肉を喰らう悪鬼でしたが、今は地獄でキャリアの道を歩んでいます。火車さんが死体に向かって走るシーンで、鬼灯様が「ねこまっしぐら」と呟くシーンは秀逸です。ちなみに、私は赤坂の荼枳尼天さんを拝んでいますので、セクシーな荼吉尼さんは結構好きです。 -
食いつく(初日)
畠山裕美です。一週間よろしくお願い致します。食いつく、というのを英語でBites と言います。私自身 Bites は、噛みつく、噛む、なんていう風に覚えていました。これを「面白そうなので食いついた」という意味の「食いつきがいい」というのはtake a strong interest in ( 強い興味を示す)なんだそうで、何となく納得です。そして、私が中学時代から好きなバンド DEF LEPPARD の曲に、Love Bitesと言う曲があります。※そんなバンド知らん、といっても曲は絶対聴いたことがあるハズです。ヘヴィメタルの老舗、Judas Priestの曲にも Love Bites というのがあります。通常、Love Bites というのは「キスマーク」という意味があるのですが上記二曲はどう考えても「キスマーク」ではなさそうです。LEPPS(DEF LEPPARDのファンはそう呼ぶ)の”Love Bites”は最後に“Watch out, love bites.”で終わるのですが、「気をつけろ。痛い目にあうぞ」みたいな感じのようです。名曲です。 -
勝ち負けと正義と光と影(7日目)
最終日になりました。「正義」というとどうしても「正義ではないこと」の存在が必要になってきます。ちなみに「正義」の反対語は「不義」だそうです。これは「勝ち負け」「光と影」などにも通じるものがあります。個人的な話になりますが、私はスポーツにそれほど興味がありません。興味がないというのは言い過ぎですが、勝ち負けがあるスポーツにそれほど興味がないのです。格闘技とか相撲は好きな方ですが、勝負の結果よりも、プロセスに興味があります。また、フィギュアスケートとか、体操も好きですが、これも勝負よりはプロセスに興味があります。(極めて個人種目ばかりですね)そして、昔からゲームとかは余りやりません。「勝っても喜ばないし負けても悔しがらない」のでつまらないと言われます。実際、勝ち負けで一喜一憂しません。勝った方がいれば、負けたほうがいるからです。教会の厳しい規律戒律の下では、他者に対する歪んだ厳しさが、異様なまで残虐な魔女・魔法使いとされた人達への拷問となったというのです。さて、ここまで書いて「自分が『許しがたい』」ということはあるだろうかと考えてみました。大きく言えば「匿名で暴言を吐く輩」はイヤです。また、例をあげると、師匠が破門したとか、裏切る形で去って行った人間とずるずる付き合っている輩。上司にセクハラされたことを訴えたら「オマエが誘ったんじゃないか」と言ったオトコ(実話@笑)これはイヤですね。勿論別れたけど(笑)。また、師匠のご縁で知り合った著名人と、師匠に破門された後でもこそこそ付き合っているとか、(こういうことはバレる)というのは、もう情けない限りです。まあ、世の中には「友達だもん」という人や「まあいいじゃん」という人もいますが、それがその人の「正義」なんでしょう。それがその方のスケールなのです。結局、正義というのは自分の中にあり、他者を正義不義で裁くのではなく、「自分の中の『正義』に反していないか?」を問いかけることであって、他者につきつけたり、裁いたりするものではないのです。一週間ありがとうございました。明日からは世界一周経験者、松浦さんの登場です畠山裕美
※日本民藝館。
4月30日(月)昭和の日に開催致します。
テーマは「スポーツ障害と操体」です。
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修証義(六日目)
「修証義」というものがあります。
「そのままのあなた」からはじめる『修証義』入門 生死の問いを31節に学ぶ
- 作者: 大童法慧
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これは、道元禅師の「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)九十五巻の言葉を再構成したものです。明治維新後、仏教は様々な混乱にあいました。
そもそも、江戸時代(徳川幕府)は、仏教(寺院)によって成り立っており、
徳川=仏教というわけで、色々あったわけです(廃仏毀釈とか)。明治時代の曹洞宗はじめ仏教各派の苦難は、あまり知られていませんが、勉強すると
どんなに迫害されたかよく分かります。それはさておき、曹洞宗も明治半ばになって、宗教団体として近代的な宗制を作る必要がでてきました。
そこで、もと宗門僧侶で在家居士になった大内青巒(おおうちせいらん)が「曹洞扶宗会」(そうとうふしゅうかい)を作りました。そこで、僧侶になるための試験対策、教えの体系化などをする中で「洞上在家修証義」を編纂して発表しました。
これは曹洞宗の教えをよくまとめているということで、永平寺、總持寺の禅師が校訂再編集し、曹洞宗の基準として「修証義」として公布されたものです(明治二十三年)これは、元々江戸時代に面山瑞方(めんざんずいほう)という人が、徒弟のために「正法眼蔵」の要文を集めてテキストを作ったのが始まりです。次に本秀幽蘭(ほんしゅうゆうらん)という人が、「永平正宗訓」「正宗訣」を編集しています。
大内青巒はこの「永平正宗訓」「正宗訣」から多くの言葉を「修証義」に引用しています。
さて、説明が長くなりましたが、
新政府は「仏教=徳川」なので、憎いわけです。
そこで、僧侶に肉食妻帯させ、世俗に戻そうとしました。
この辺りでも「何が正義なのか?」ということを考えたりします。そうなってくると、明治維新はフリーメーソンが絡んでいるとか、また話が壮大になってくるのでここでやめておきます。
そして、私は何故か昔から「明治維新」というのが覚えられず、幕末の云々とかもさっぱり興味がないのですが、色々考えると、前世は会津生まれだったのではとか(ありえる)、戊辰戦争で戦死しているとか(なんだかありそうな気もする)迫害?された僧侶だったとか、そんな可能性もありそうだという気もします。

4月30日(月)昭和の日に開催致します。
テーマは「スポーツ障害と操体」です。

