カテゴリー: 畠山裕美(はたけやまひろみ)

  • 五日目。正しい、ただしくない

    私は易者もやっているもので(操体の臨床とはそれほど変わらないことをやっています)、いろんなご相談を受けるのですが「正しいほうを教えてください」というのが多いなあ、と思うことがよくあります。
     
    例えば、今の会社にいるのがいいのか、スカウトされている会社に行くのがいいのか、知りあいが新しく立ち上げる会社がいいのか、正しいのはどれですか?
     
    という感じです。
     
    今の会社(業績がよくない。肩たたきもされている)
    スカウトされている会社(結構期待されている。大変かもしれないが、頑張れば業績は上がりそう)
    知りあいが立ち上げる会社 収入は今より減るが、知りあいの会社なので、気持ち的にはラク
     
     
    こんな感じなんですが「正しいのはどれですか」と言う場合、「正しい」ってどういうことなんでしょう。
    例えば「お金」が正しくて損得ならば、スカウトされている会社で必死にがんばる。
    慣れ親しんだ知りあいと、会社を立ち上げるのを手伝うように、気持ち的なものを優先するなら。
     
    つまり、正しいっていうのは、算数とか公式でない限り、違ってくるんです。
     
    昨日の大嶋信頼さんのブログですが、
     
    「合っている or 間違っている」や「善 or 悪」なんかの判断も小腸の影響を受けるのかも?なんて面白いことを考えてみます。
     
    という箇所がありました。
     
    もともとというか、操体を勉強していると「正しい、間違ってる」「損得」ではなく「好きか嫌いか(快か不快か)」で物事を考えるようになります。
     
    「イクラはプリン体が高いから食べない」(正しい)。「イクラは高いから、納豆巻きにする」(損得)「イクラは好きだから食べる」(好き嫌い・快不快)
     
     
    花粉症がどっと増えたのは、もしかすると「正しい 正しくない」「善悪」の判断をする機会が増えたというのはあり得るような気がします。
     
    なぜなら「正しい、正しくない」「損か得か」という二極思考にはしると、人間、辛くなるからです。
     
    そして「正しい、正しくない」という二極に走ってしまうと、おなじみ?の「白か黒か」になってしまいます。
     
     
    以前、三浦先生がそれまでのやり方を「がらっと」変えたことがありました。
    その時、ある人は「今まで習ったことは無駄になるんですか」と先生に詰め寄ったのですが、私はその時「キモが冷えた」のを覚えています。
    その方は、普段の話を聞いていても「白か黒か」みたいなところがあったので、「無駄になる」というような発言になったのだと思いますが、勿論、無駄になるわけがありません。
     
    私自身も三浦先生に師事するまで用いていた『連動操体系の操体法』がありましたが、先生に師事すると同時に、封印というかやるのをやめて、教えるのも止めました。
     
    そこで15年くらい経って、そろそろ自分の理解も深まってきたので、大丈夫だろうと、封印を解いてみたのですが「昔習ったことが無駄になる」のではなく、その後の自分の成長に従って、封印していたものが「熟し」「発酵し」「醸されて」、さらにパワーアップして甦ってきたのです。
     
    また、今我々が勉強中の「第五分析」ですが、これも「今までの第四分析って間違っていたんですか」と言う人がいてもいいくらい、変化しています。
    しかし、それは「今までのものが間違っていた」のではなく、「いままでのこと」の上に「未来がある」。
     
     
    私達が第一分析から学んできたことが、大河ドラマのように、絵巻物のように流れ流れて、第五分析に至るということなのです・
     
    なので、当然ではありますが、第五分析から勉強する人よりも、第一分析から歴史的に操体を勉強してきた私のほうが(まあ、やってる時間も長いですが)体系的にとらえることができているのです。
     
    これから操体を勉強する方は、是非、操体の歴史を踏まえて「第一分析から第五分析まで、全部できます」くらいになって頂けるといいなと思います。
     

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  • 四日目「おなかの調子を整える」

    今年は暖冬ですが、たまに気温差が激しい時があります。ちょっと気温が上がると、やってくるのが「花粉症」です。
     
    私はそれほどひどくはないのですが、最盛期には、目薬と漢方薬はもらいに行きます。
    また、普段は二週間使い捨てのコンタクトレンズを使っているのですが、春先はワンデーを使うことが多いです。
    夜、コンタクトレンズをはずして、マジマジとみると
     
    「うわ~」
     
    っていうほど花粉というか、汚れがついているのです。
     
    さて、昨年受講生のTさんから「ヤク○トが花粉症にいい」という話を聞いて、昨年は「シンバイオティクス」を毎日飲んでいました。
    そのせいか、朝晩クシャミが出るくらいでした。
     
    先月、Tさんから「ヤ○ルト400(お店では売っていない)」の更に凄いバージョンで「○クルト1000が出た」という話を聞きました。
    シロタ菌が1000という凄いヤツです。これもお店では買えず「ヤクル○レディ」からの宅配でしか買えません。
     
    なお、私は去年色々なヨーグルトを試しましたが、一番「こりゃ調うね」と思ったのは、グ○コの「ビフィックス」でした。
    まあ、ヨーグルトはお腹の中の状態によって、合うモノが違ったりするそうですから、私にベストなものがアナタにベストではない可能性は十分あります(実はみんなそうなんですけどね)。
     
     
    そういえば、毎月「フォーラム実行委員勉強会」というのがあるのですが、丁度岡村さんが「腸内フローラ」とか「免疫」とか「リーキーガット」「パイエル版」(の腸管壁に局在する独特でかつ重要な免疫器官)話をして下さったので、
    「そういえば、大嶋信頼さんのブログに腸内の免疫の話があったなぁ」と、検索してみました。
     
    これはちょっと古い記事ではありますが「インターネットで不愉快な記事を検索するのがやめられない」という人の話です。
     
    それと腸と免疫ってどう関係あるのか?と思うかもしれませんが、なるほど、なんです。
     
     
     

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  • 我々はなぜ「○○操体」と言わないか

    三日目です。
     
    私のところはHPを立ち上げたのが1998年です。当時は「操体やってます」なんていうところは殆どなかったのですが、最近は「操体っていろんなのがあるんですね」と言われるようになりました。
     
    しかし、私自身は「情報断ち」をしていることもあり「操体に関する不愉快な情報」は断っているので、あまり知りません。
     
    例えば、東京操体フォーラムを破門になった輩が、破門になった同士でつるんでいるとか、私が大昔教えた人が、なんだか操体を使って妙なことをしているとか、誰かさんが「○○操体」っていうのをやってるとか、他の誰かさんが「△△操体」っていうのをやっているとか、そういうのを聞くと「なんだかなぁ」とか、エネルギーを使うことがあるからです。
     
    同様の理由で、Youtubeも、エネルギーを使うので、操体関係のは殆ど見ません(笑)。
     
    別にyoutubeを見なくても、毎週「最新の操体」を見ているからということもあるのですが。
     
    たまに「ハタケヤマさんもオリジナルを作って『○○操体』って作れば」と言われることがありますが、「とんでもない」です。
     
    操体は操体なのです。
     
    以前も別ブログに書いたのですが、「○○操体」というのは、創作ラーメンのようなものです。
     
    つまり、余程技量があり、跡継ぎを育てることができなければ、一代限りです。
     
    「操体」というのは、操体法(臨床)と、創始者橋本敬三先生の哲学や生命観、死生観をも含み、自然法則の応用貢献に則したものです。
    「ラーメンも色々あるけど、ラーメンの基本と真髄はこれだよね」ということで、「操体」で行っているのです。
    当然ながら、三浦先生は後継者(ご自身も、橋本敬三先生から操体を受け継いだ後継者ですが)の育成をしっかり行っていらっしゃいます。
    「オレが作った『○○操体』」ではなく、「操体の後継者をじっくり育てている」のです。
     
    また、古くさいままではなく、一番新しいことをやっているのに「操体」を名乗っているのです。
     
    ここでもまた「家元ほどアバンギャルドである」という言葉を思い出しました。
     
    多分(というか本当に)、操体法東京研究会や、東京操体フォーラム実行委員勉強会でやっていることは、アバンギャルドでエキセントリックなのです。
     
    「操体」と名乗る我々が「アバンギャルドでエキセントリック」(前衛的で常識を逸脱している)のです。
     

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  • 整体師が「整体」という名称を捨てる時。

    「おおよそ,「調」は「何かをするため,始めるための必要なもの(状態,条件)をそろえる。」「物事がまとまる。成立する。」という意味で使われ,「整」は「乱れたもの,まがったもの,くずれたものを正しくする。なおす。きちんとする。」という意味のときに使われている」
     
    なるほど、。
    また「調」は、和合、「整」は、きちんと整列させる、という意味があるようです。
     
    ちなみに、いわゆる「整体師」が、操体を勉強するうちに「整体」という言葉を使いたくなくなってくることがあります。
    私は何人もそんな人を見ているのですが、「○○整体院」という屋号を変えたくなってくるのです。
     
    それは、「操体」が分かってきたから。分かってくると「自分がやりたいのは操体だ!」という意識がどんどん大きくなり、屋号から「整体」という字を外したくなってくるのです。私のところは大昔は「療術院」でしたが、今は「研究所」になっています。これも「やっぱ療術ってのもちょっとフィットしないかもなぁ」というところで、三浦先生にならって「研究所」にしたのです。
     
    そんな意味で操体を考えてみると、整体の「整」は、やはり、歪んでいる筋骨格系をきちんと整列させる、つまり他力的な感じがします。
     
    はい、肩の高さ、揃った!骨盤の傾き、揃った!足の長さ、揃った!
     
    という感じです。
     
    やっぱり、操体っぽくないですよね。
     
    ★「操体っぽくない」というだけで「整体」に文句をつけているわけではないので、ご容赦下さいね。
    整体と操体は、この辺りも違う、という話で、操体の「本質」がわかってくると「自分がやっているのは整体じゃない」という気持ちが沸いてくるということです。
     
     
    これを操体で言うならば、例えば、肩の高さが左右違う場合。
    我々ならば「右肩が下がっているから悪い。だから左右整える」のではなく「右肩が下がるには、理由がある。それはからだの事情であるし、からだは左右対照とは限らない。今、右肩が下がっているのは、バランス(調和)をとっているあらわれである。しかし、それで辛いならば、遠方(例えば足から)からもバランスをとるようにアプローチしよう。
     
    というように非対称であるからといって、それを「対称的にきちんと整列させる」ように他力的に矯正したりはしません。
    非対称でも「それはそれなりに理由がある」とみて「あっていい歪み」「あったらよくない歪み」を見極め、あったらよくない歪みでも、敵視はせずに、周囲と上手くバランスがとれるようにします。
     
     
    なんだ。私が「操体」を知ってから「整体」という言葉を使うことに対して違和感があったのは、「言葉の意味」もあったんですね。
     
    まあ、世の中には「操体っていってもわからないから、整体って言ったほうが人の受けがいいんじゃない」という人もいますが、受けがいいとかという問題ではなく、やっぱり「整体」ではないのです。
     

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  • ととのう(初日)

    こんにちは。畠山裕美です。一週間よろしくお願い致します。
     
    「整いました~」で、ねづっちを思い出した方、すみません。
    (私はダーリン寄席で何度かねづっちのステージを見たことがあります)
     
    今回のテーマは「ととのう」です。
    実は、今回このテーマ案を出したのは、瀧澤さんと私でやりとりをしていて「整う」「調う」「斉う」などの意味があるよね、ということで、決めたモノです。
     
    ここから色々な想像を広げて膨らませて書いてみようと思います。
     
    さて、自分自身で「どうして『ととのう』という単語が出てきたんだろう」と考えてみました。
    アタマの中に「ぽっ」と浮かんできた言葉なので、多分何かあるんだろうなと。
     
    そうしたら、ありました。
     
    「ミステリと言う勿れ」(みすてりというなかれ)というマンガです。

     

    ミステリと言う勿れ コミック 1-5巻セット

    ミステリと言う勿れ コミック 1-5巻セット

    • 作者: 
    • 発売日: 2019/09/10
    • メディア:
     

     電子書籍で買っていたのですが、お正月に改めてまとめ読みしたのでした。

     
    これは、昨年の「マンガ大賞」の第二位に輝いた名作(連載中)です。
     
    作者は田村由美。SF対策「7SEED」の著者でもあります。

     

    『7SEEDS』1~4巻 アニメ放送記念 SPECIALプライスパック (フラワーコミックススペシャル)

    『7SEEDS』1~4巻 アニメ放送記念 SPECIALプライスパック (フラワーコミックススペシャル)

    • 作者:田村 由美
    • 出版社/メーカー: 小学館
    • 発売日: 2019/12/26
    • メディア: コミック
     

     

    田村氏のマンガは、絵柄が可愛いと言えば可愛いのですが、登場人物が結構ハードボイルドで、サバイバルもの、戦闘もの、はたまた異世界妖精譚など、幅広いのですが、私は「BASARA」(1993年小学館漫画賞受賞)の頃から「すんごいストーリーテラーだな」と注目していたのでした。
     

     

    BASARA バサラ文庫版 全16巻完結セット (小学館文庫)

    BASARA バサラ文庫版 全16巻完結セット (小学館文庫)

    • 作者:田村 由美
    • 出版社/メーカー: 小学館
    • 発売日: 2011/03/01
    • メディア: 文庫
     

     このあたりは、漫喫に籠もって読んで頂きたいところです(笑)

     
    「7SEED」も、あれは読むのが止められなくなりましたからねぇ(笑)。
     
    というわけで、ねづっちではなかったのでした。
     
     
    さて、話が長くなりました。
    「ミステリと言う勿れ」の主人公が「久能整(くのうととのう)」君という大学生です。
    多分「ととのう」というのはここから来たのです(自分で決めておきながらすんません)。
    整君は、もじゃもじゃアタマでカレーが大好きな大学生ですが、自分にかけられた殺人事件の犯人の容疑を、取調室での刑事の話から読み解く、いわゆる「安楽椅子探偵」もののようになっています。
     
    安楽椅子探偵モノで有名なのは、「成吉思汗の秘密」(高木彬光)や、「時の娘」(ジョゼフィン・テイ)が有名です。私はこの二冊、推理小説モノの中では、結構好きな部類に入るのですが、整(ととのう)君の思考の飛び方や、発想が非常に興味深いのです。というのも、整君がひたすら推理をしゃべりまくるという内容です。
     
    それも結構複雑怪奇な事件ばかりなのです。
     
    そういえば、「くのうととのう」って、苦悩がととのう(うまい状態にまとまる、つまり解決する?)っていう意味もあるのかなと気がつきました。
     
    調和するという意味もありますね。
     

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  • 何故、仏性があるのに、修行するのか?七日目

    さて、がんばらなくてもいい、と言われても、この世、娑婆ではイヤなことをしなければ生きて行けないこともあります。

    私達が生きている横の世界は、因果応報ので相対的な世界(自分のやったことは、いいこともわるいこともすべて跳ね返ってくる)だから。

     

    なんて救われているのに(がんばらなくてもいいのに)、この世では頑張ったり我慢したりしなきゃいけないの?という問題です。

     

    畠山は2017年に東京国際仏教塾に参加し、後半の専門課程では、両親の実家の宗旨であり、なんとなく操体にご縁があり、またなんとなく惹かれる曹洞宗を選びました。

     

    仙台でよくご縁がある、東北福祉大学は曹洞宗系の大学ですし、三軒茶屋(操体の聖地?!)のお隣は「駒澤大学」。

     

    www.tibs.jp

    東京国際仏教塾 第33期(令和2年)塾生、12月から絶賛募集中です。令和2年は4月開講予定です。

    2017年の冬は、一ヶ月に一回、五ヶ月、計10日という短い期間でしたが、大佐倉の勝胤寺という曹洞宗のお寺で「修行」(8割は勉強、2割が坐禅とかです)し、その後在家得度しました(戒名を頂く、私の先生、中野東禅先生曰く「プチ出家」)。アタマを丸めたりしているわけではありませんし、得度しただけなので、出家したわけではありません。

     

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    ★勝胤寺(大佐倉)。曹洞宗のお寺です。

     

    曹洞宗の開祖は、道元さんです。
    まあ、曹洞宗は道元、代表作は「正法眼蔵」、永平寺、坐禅 あたりを思い出すかもしれません。

     

    ちなみに同じ禅でも、臨済宗と曹洞宗は結構違います。

     

    臨済宗では、坐禅は禅問答同様、悟りを得るためのものですが、曹洞宗では、ただ坐るのです。

    また、臨済宗では坐禅時に壁に背中を向けて坐りますが、曹洞宗では、達磨大師が壁に向かって坐禅を組んでいたという故事から、壁に向かって坐ります。

    座る時も臨済宗では座布団を二つ折りにして坐りますが、曹洞宗では、「坐蒲」という丸い座布団を使います。

    実は歩く時の手の組み方(叉手:しゃしゅ)も、臨済宗と曹洞宗では違うんです。
    あ、坐禅の時、お坊さんに「ぴしゃり」とやられるヘラみたいなやつがありますよね。
    これは「警策」と言いますが、曹洞宗では「きょうさく」、臨済宗では「けいさく」といいます。

    あ!もう一つ。作務衣です。臨済宗は紺色ですが、曹洞宗は黒です。

     

    道元さんに話を戻しましょう。

    道元禅師は、貴族の生まれです。
    それも大臣筋です。
    しかし、8歳の時に母を亡くし、世の無常を知るとともに、このまま成人すると、政治の世界に入らざるを得ません。そのせいもあったのか、14歳にして比叡山にて入り出家します。

    そして、

     

    仏教では「人間はもともと仏性を持ち、そのままで仏である」と言っているのに、なぜわざわざ修行して悟りを求めなければならないのか?

     

    という疑問を抱くのです。

     

    これは、仏教の根本をも揺るがすことで、誰も少年道元の問いに答えられなかったのです。
    そこで道元さんは山を下り、最後には中国(宋)に渡り、最後に如浄禅師のもとで悟りを得るのです。

     

    それは「仏性をもっているのになぜ修行せねばならないのか」という問い自体があべこべであり

     

    「われわれは仏だからこそ修行ができる」

     

    ということが真実であるということだったのです。

     

    これは、駒居先生からも「我々は救われているのに、何故免罪符を買わなきゃならんのだ?と言って免罪符を買うのをやめるとか、教会に行かなくてもあなた自身が教会である」のようなこと(間違っていたらご指摘ください)と言って、宗教革命を起こしたのが、ルターさんでした。

    ルターさんというのは、奇しくも、毎回東京操体フォーラムを開催している、「ルーテル市ヶ谷センター」の「ルーテル」さんのことなんだそうです。

     

    というわけで、一週間、2019周期東京操体フォーラムでお話したことを振り返ってみました。

    一週間ありがとうございました。

     

    明日からは三浦寛先生の担当です。

     

    え?

     

    先生は原稿執筆で手が離せないので、猫チームでブログを書くそうです。

     

  • 六日目 ありのままに~

    「ありのままの私を愛して」的なものではないことがお分かりいただけたでしょうか。
     
    話が逆になりますが、この話は、アンデルセンの「雪の女王」がベースになっていますが、全く違う話になっています。
     

     

    雪の女王 アンデルセン童話集 (角川文庫)

    雪の女王 アンデルセン童話集 (角川文庫)

     

     

     
    ある国の王様夫妻には娘が二人。姉がエルサ、妹がアナ。
    エルサには、物を凍らせるという魔法の力があります。
    エルサはアナにせがまれて遊んでいる時に、アナに大怪我を負わせてしまい、その結果王様は姉と妹を離し、お城の窓を閉めきって過ごします。
    エルサは魔法を隠すため、手袋をしています。
    そして、王様夫妻が船旅に出て、不幸な遭難事故で亡くなってしまい、エルサが女王として即位することになります。
     
    ってな話です。
     
    面白いのは、アナが一目ぼれして、会ったその日に結婚を決めるハンス王子が実はヴィランズ(悪役)なこと。
    実はこいつ、悪い男だったんだ~。というのも面白い。
     
    最近のディズニー映画は、王子様がなんだかショボいのが特徴です。
     
    「アラジン」は、主役がジャズミン姫とジーニーだし(アラジン、全然目立たない)
    「美女と野獣」は、王子様に戻った時よりも、野獣のままの方が何故か格好いい(すごく不思議)
    「マレフィセント」も、王子はアホ王になってマレフィセントに殺されるし、マレフィセント2の王子も何だか印象薄い。。
     
    これは、ハリウッドの Me, too 事件もあるのかもしれませんが、王子様を待ってるだけの弱いお姫様から、自ら国を治めるプリンセスや、行動するプリンセスが主役を張る時代になったということですね。今度、「ムーラン」の実写版もやるそうだし(ムーランは戦うアジア系ヒロインです)。
     
     
    なお、この曲はラスト近辺のクライマックスでかかるのではなく、比較的はじめのほうで登場します。
     
    つまり、問題提起しているのですね。
     
    即位したその時、ちょっとしたアクシデントで、エルサは魔法を暴発させてしまい、発作的に山に逃げ、氷の宮殿を作ってそこに閉じこもるのです。
     
    その、氷の宮殿を作る前、雪の積もった山道を歩きながらエルサが歌うのが” Let it go” です。
     
    昨日のヤツを再掲します。
     
    開き直って自由になった!
    ティアラ(王冠)もぶん投げて
    自分はありのままでいいじゃない!

     

     
    という歌なのでした。
    単に「ありのままの私を愛して~」なんていう歌ではないのです
     
    ありのまま、というのは「親の言うことを聞いて、魔法を封印して閉じこもっているGood Girlはもういない」ということ。
    もうそれでもいい!ということなのです。
     
    自己責任で自分の人生を決めた、ということです。
     
    アナ雪、観るなら字幕版をどうぞ。
     

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  • ありのままに? 五日目

    最初に書いておきます。ディズニー映画なんて、お子様向けじゃん、とバカにしている方がいたら、そういう先入観を捨ててください。
     
     
    先入観や思いこみを捨てるのも ”Let it go”です。
     
    また、こういう時って、私の経験によると「必要な人ほど、自分の価値観が変わるのが怖いので観ない」んです。
     
    もしも「イヤだ」とか「観たくない」「女子供が観るものだ」という感情が湧いてきたら、チャンスです。
     
    私はたまに、周囲の人に本を勧めることがあるのですが「この人にすごく必要だよな」と思う人に限って、変わるのが怖いのか(人間には恒常性がありますからね)、読まないんですよ。これは毎回「面白いな~」と思ってみています。
    逆に「読みました~!」と、変化を受け入れる人は、どんどん変わっていきます。
     
     
     
    こういう時、小さい娘さんとかいれば観るチャンスもあるかと思いますが、観ても多分吹き替えですよね。
    この映画は、是非字幕での鑑賞をお勧めします。
     
    アナと雪の女王 (字幕版)

    アナと雪の女王 (字幕版)

     

     

     
    「アナ雪」こと「アナと雪の女王」の劇中歌、Let it go”が日本でも流行りました。
     
    ワタシ的には、”Let it go” というと、DEF LEPPARDの曲を思い出すのですが、日本ではビートルズの”Let it be”が、「あるがままに」と訳されているので、そんなニュアンスで捉えていた方も多いかもしれません。
     
     
    私も最初は「ありのままの私を愛して」的なものを想像していたのですが、ところがどっこい、だったのでした。
     
    Let it go を、詳しくみてみましょう。
     
     Letは、使役動詞なので、「それを行かせる」という意味があるが、意味的には
    「思いこみや執着を手放す(して、自由になる)というのがニュアンス的には近い
     
    「レリゴー」のところです。
     
    Let it go, let it go
    Can’t hold it back anymore
    もういいの、ありのまま
    これ以上我慢できない
     
    Let it go, let it go
    Turn away and slam the door
    I don’t care
    what they’re going to say
    Let the storm rage on.
    The cold never bothered me anyway
     
    もういいの、ありのまま
    背を向けてドアを思いっきり閉めて
    気にしないの
    彼らが何を言おうと
    嵐よ吹き荒れなさい
    とにかくもう気にしない
     
    「いい子」(Good Girl)にして
    隠していた自分の力を
    発現させてしまい、
    一人雪の野原に逃げた時の歌。
    つまり、人前で偽っていた自分を
    出してしまった。
    それなりのダメージはあったけれども
    自分を偽る必要は無くなった
     
     
    という、実は
    開き直って自由になった!
    ティアラ(王冠)もぶん投げて、自分はありのままでいいじゃない!
    という歌なのでした。
    単に「ありのままの私を愛して~」なんていう歌ではないのです。
     
    二度と戻らない
    過去はもう過ぎたこと
    理想の娘はもういない
    私の道を行く
    嵐よ、吹き荒れるがいい
     
     
    ありのままの自分を、他者の目からではなく、自分を受け入れ、なおかつ、それによってこれから起こる自分への災難やプレッシャーに対し勝利宣言をしているのです
     
    最近のディズニーは
     
    自立するプリンセス
     ・「アラジン」
    アラジンが全然目立たず、自立するジャズミン姫
     
     LGBTへの理解
      ・「美女と野獣」(ゲイの登場人物など)
     
    ヴィランズ(悪役)の新解釈
        ・「マレフィセント」
     
     
     
  • 救いと報い(2)四日目

    「がんばらなくてもいいんだ」と、「がんばるな」は、若干ニュアンスが違いますが、操体における「バルの戒め」は、「すでに最初から救われているから、がんばらなくていいんだ」という意味に解釈できます。

     

    つまり「がんばる」という行為を禁止しているのではなく、最初から救われている(絶対)のだから、そんなに無理してがんばらなくてもいいんだよ(相対)ということです

     

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    生まれながらにして救われていると安心し、娑婆(この世)では、因果応報(自分の行いが、良いこともわるいことも全てはねかえってくる)によって生かされている

    「操体」におけるがんばるな、とは?

    橋本敬三先生の若き日の「救いと報いの違いを知る」という経験がベースになっている

    橋本敬三先生が「がんばるな」と言ったのは患者さんに向けてではなかったか?
    「からだ」に向けてでは?

    橋本敬三先生は医師という立場から「がんばるな」という言葉を使ったのではないか?
    病気の時はからだが辛いわけであり、それは当然のこと。それを受け入れて、心まで折れてしまわずに、からだにお任せしなさいという意味ではなかろうか

     

    ★オリンピック、スポーツ選手
    試合に向けて十分な練習を積み、国の威信をかけて戦うのであるから「がんばる」のはおかしいことではない。「ベストを尽くせ」「能力を出し切って」と言い換え可能では?

     

    ★患者への「がんばるな」

    病気なのだから、からだが辛いのは当然のこと。 当然のことで思い悩むことはなく、気持ちを落ち着けて、生かされている命に感謝し、からだにお任せしなさい(治療を受けなさい)。

    「がんばるな、間に合っていればいい」
    これも、医師として、患者に伝えた言葉として捉えると納得がいく

     

    ★自己肯定感が低い人への「がんばるな」。
    人の評価を自分の評価にしなくていいんですよ。やりたくないことを我慢してやることが「がんばる」ことです。自分の評価は自分でしていいんですよ。

     

    ★一般の人への「がんばるな」
    自分のこころやからだの意思に反して、やりたくないことを我慢してやるということには、限度があります。限度を越すと、からだやこころを壊してしまったり、人間関係や環境をこわすことがありますので、注意すること。それが「からだにききわける」「こころにききわける」ことです。

     

  • 救いと報い(1)三日目

    ちょっと長くなりますが「生体の歪みを正す」から引用します。

     

    生体の歪みを正す オンデマンド版:橋本敬三論想集

    生体の歪みを正す オンデマンド版:橋本敬三論想集

     

     

    「がんばるな」「がんばらなくてもいい」という言葉を理解するには、その単語だけ追いかけてもダメです。

    悪人正機説は「歎異抄」や、親鸞上人の思想を知らなければわからないように、です。

     

    二十三歳の或る日、自分はこの時すでに医学生時代の後半に達していたのであったが、盛岡の牧師・平野栄太郎先生によって、創世以前の久遠の生命なる観念を提示され、開眼されたのである(新約聖書エベソ書の第一章)。自分は生まれぬ先から、聖別され祝福された神と同格の永遠の生命そのものであるとの自覚を得た。

    そして先生から「救い」と「報い」の区別を、はっきりと教えられた。この自覚はいかに自分を解放してくれたことか。それまで神経質で潔癖であった自分は俄然呑気になり、ルーズにさえなったが、全く性格は一変して気楽になり、それ以後今日まで、取越し苦労、持越し苦労で長く悩んだことはない。人間苦の最たるものは妄想苦であって、現実にぶつかって知る苦痛というものは、それに比べれば大したものではない。この妄想苦から解放されたのである。

    この救いの信念に安住できた「救い」と「報い」の区別というのは、わかりやすい言葉で言い表わすなら、「救い」は絶対、「報い」は相対だ、ということである。「救い」とは絶対の無罪宣言であり、神性相続権であり、何ものも覆すことができない久遠の事実である。

    「報い」とは現世における歩み方の努力に対する相対的評価である。「救い」は自己単独における観の転換により悟ったものであり、「報い」は周囲に対する感恩報謝の行動によって加減変化する価値観である。

    この「救い」と「報い」との区別を理解できなかったことが霊肉の板挟みにあって苦悩することになったのであって、霊は生まれぬ先から救いが完成されているのであり、肉は自然法則に順応して統制訓練することによって浄化され調和されるものであることが判った。

    機悔して悔いあらためても悔いあらためでもすぐ罪を犯す。
    この生身の体をもち、五官の食欲な本能がそれぞれ頭をもたげてくると、どうしてもこれを制し切れないで、ついつい悪いとは知りながら負けてしまう
    こうなってくると、せっかくのキリストの贖罪も利益も屁にもならない。
    死ぬ時うまく信仰状態にあれば天国行も可能かもしれないが、ちょうど罪を犯しつつクタバッてしまったらそれこそ最後だ、天国行はオジャンである。
    何んとか罪を犯さぬような救いをうけることは出来ないものか。
    こうなりゃ誠に申し訳ない限りだが、神を呪って死んでも救われる道はないものか、などとヤケッパチな気分にもなったものでした。

    私が盛岡の牧師、平野栄太郎先生にめぐりあったのは、もう医学生時代も後半に近い二十三才の時でした。
    全く無名の人でしたが、大きな皮表紙の聖書を二冊もボロポロになるまで読みつぶしたという平野牧師から、私はエペソ書の第一章を示されて、「ここにこう書いてあるじゃないか」と次の型句を教えられたのです。

     

     

    駒居先生の資料から拝借

    ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。
    神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。

     

     

    エペソ人への手紙1:3~5

    我々は生まれる前から神の子であることが決まっているんですよ!(畠山超意訳)

    キリスト教では「救いはない」と、説いている。

     

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    橋本敬三先生の考え

     

    救いがわかってから聖書を見ると、イエスはもちろん自分は神の子であると自覚しておったが、他の人もまた、みな神の子だと断言している。

    幼い子ども達を見ては、神の国におるものはみなこのような人間だとも言っている。

    しかし、罪悪感にとらわれていくらお前達は神の子なのだと教えても解脱しきれない人類の宿業のあわれさをみては、やはり身代りに自分を犠牲にしてこれを信じさせるより仕方がないと覚悟したもののようである。

    私はこの時、「ああ、そうか、そうだったのか」と素直にうなずけた。なあんだ、今までがんばれ、がんばれと言われてがんばってきたけれども、別にがんばることもなかったんだな、俺はもう初めから救われていたんじゃないか。

     

     

    と、ここで出てくる。そしてその後に「俺はもう初めからすくわれていたんじゃないか」という文言が続くのです。