カテゴリー: 瀧澤 一寛(たきさわ かずひろ)

  • ゆがみ~その5~

    「こうしなければいけない」

    という「きめつけ」を取っ払って「歪み」と向き合ってみる。

    「きめつける」かわりに「ききわける」ことを通して

    「からだ」と向き合ってみる。

     

    そうすると

    「からだの設計にミスはない」ということが見えてくる。

    設計にミスがないんだから「歪む」ことは想定内だ。

    設計にミスがないんだから、あとは設計通りに生きていける

    ように自然の法則に乗っかればいい。

    例え「カタチ」が歪んだとしても。

     

    ボディが歪むプロセスと症状・疾患が発症するプロセス、

    症状・疾患が治まるプロセスとボディが元に戻るプロセス。

     

    プロセスに気づくことができたから、

    「きめつめる」から「ききわける」に変化した。

     

     

    まあ、こういう想いで日々臨床と向かい合っているのです

    が学べば学ぶほど、やることがシンプルになるかわりに奥

    が深まっていきます。

     

    今34歳なんですが、男性の平均寿命まで生きたとして

    ざっと40年はこの仕事を続けていくわけです。

     

    そうすると、なるべく早いうちからきちんと修めていきた

    いじゃないですか。一生ものですから。

     

    「大変なことに足を突っ込んじゃったけど、一生愉しめる

    んだから。」

     

    お盆が近いせいか、そんな声も聞こえてきそうです。

  • ゆがみ~その4~

    「歪み」は一つの結果でもあるし、一つのプロセスでも

    あるように思えます。

     

    硬組織だけでなく、軟部組織もあるおかげでポキッと折れずに

    歪んで対応することができる。

     

    感覚することができるから、今の状態が快か、不快か判断すること

    ができる。

     

    健康と不健康の間を行ったり来たり出来るのがからだの凄いところ。

    行ったきりで終わらない。絶えず変化している。

     

    その変化の途中を切り取ったのが「歪み」なんじゃないかなあ

    と思っています。

     

    もちろん、間に合わなくなってしまうほどの「歪み」があれば第三者

    の力を借りる必要が出てきます。やっぱりきっかけがあれば色々と

    気づくことができますからね。

     

    だから臨床で操体を通すなら自分のからだを通してこういったことを

    理解していなければと思うんですよ。

     

    「息」、「食」、「動」、「想」、「環境」とか「健康傾斜の歪体化」とか

    「構造運動力学」とか「ボディの歪み」とか、他にも多くの操体観が

    ありますが「こうしなければいけない」って縛ってしまうよりも、

    絶えず変化の中でからだが要求することに応えるスタンスを持ち続けたいと

    思うんですよ。

     

    そういった中で、改めて「歪み」と向き合って

    「診断」⇒「治療」という行為を操体を通して

    磨いていきたいなと思うんですよね。

     

     

  • ゆがみ~その3~

    操体の臨床は「構造運動力学」に基づいています。

    ですから、「構造力学」という「カタチ」だけを見て終わるのでは

    ありません。その「構造」が動くという、「運動力学」の観点も

    入っています。

     

    「構造」と「運動」を分けて考えるのではなく、一つのものと

    考えます。「構造」は「運動」に影響を与えますし、「運動」は「構造」

    影響を与えます。

     

    さらにからだが動くという点において

    からだの使い方、動かし方のルール=身体運動の法則があります。

    この法則に順応することで「運動」から「構造」に変化を与えることが

    できます。感覚することをすっぽかさなければ!

     

    ※因みにここでいう「運動」ってエクササイズや体操、トレーニング等

    ではないですヨ。

     

    とかく、外見にこだわりがちになってしまいますが

    「運動」をすっ飛ばして「構造」を何とかしようとしていたのは

    過去の私。何とかしようとすればするほど「何かこれって違うかも」って

    感じていた過去の私。

     

    さらに、さらに師について現在進行形で操体を学んでいると、

    この動きも単純に目に見える動きから、目には見えない動きも加わって、

    より「感覚」の大切さが身に染みてきます。

     

    目には見えない動きを感覚として捉えることができたなら

    からだの外枠の「構造」に対する見方も変わってきます。

     

    「歪んでる」、「歪んでない」とからだを構造的にしか

    見ていなければ、なんとなく無機質な感じがしますが、

    そこに動き(目には見えない動きも)と感覚がおさまっていれば

    からだに血が通いだすような感じがしてくるのです。

     

    操体は「構造」を矯正するとか、「運動」=トレーニングで鍛えるとか、

    「構造」と「運動」を分離する発想ではないんですネ

  • ゆがみ~その2~

    いやあ、変わりました。

     

    何が変わりましたかというと臨床の捉え方です。

    つまり、「歪み」の捉え方。ひいてはからだとの向き合い方。

     

    数週間前のブログで先輩のO実行委員が

    「歪んでるから(こそ、それで)助かってるんだ!!」

    と書かれていましたが、現在進行形で操体を学んでいると

    その言葉が、こじつけでも、逆説的でもなくスーッと

    素直に自分に入ってくるのです。

     

    痛みなんかと同様に歪みは無い方がいい、

    治した方がいいというのが世間一般の常識ではないでしょうか。

     

    ご多分に漏れず、私自身もそんな考えのもとで

    臨床に携わってきました。ですから、躍起になって

    肩の高さを揃えようとしたり、骨盤の高さを揃えようとしたり。

     

    その頃はまさか

    「歪んでるから(こそ、それで)助かってるんだ!!」

    何て思いもよらず。只々、犯人捜しの如く「歪み」とにらめっこ。

     

    けれども

    「歪むこと」もバランス現象と捉えることができたなら?

    「歪むこと」で現状のバランスを保っていると捉えることができたなら?

     

    目に見えている「カタチ」という現象にとともに

    目には見えない「ハタラキ」にも波長を合わせることができたなら?

     

    操体と出会って、師と出会って、同志と出会って、

    私の犯人捜しは終わりました…

     

    痛みも歪みもひっくるめて「からだ」なんであって、

    その「からだ」に罪はないとわかったのですから。

  • ゆがみ~その1~

    文字だけでなく、行間や写真からも

    香さんの思いが伝わってくる一週間でしたね。

     

    今日から一週間は東北の空気を纏った瀧澤がお送りします。

     

    早いもので故あって現居住地の岩手に引っ越してきてから

    丸一年。

     

    今夏は岩手も連日30℃を越え、

    「去年の夏はもう少し涼しかったよなー」と少々面喰っていますが、

    これもその年、その年の変化。

    熱中症に気をつけながら、暑いなりの過ごし方を愉しんでいます。

    皆さまもくれぐれも気を付けてお過ごしくださいませ。

     

    さて、このブログは東京操体フォーラム実行委員が一週間毎にバトンタッチする

    リレー形式になりますが、私がひそかに愉しみにしているのはバトンタッチ

    の際のフレーズです。

     

    「明日からは○○な瀧澤実行委員です」とバトンを受け取るのですが

    今回香さんが書いてくださったのは「清らかな呼吸を感じさせる」といった

    フレーズ…

     

    「清らかな呼吸」ってなんか凄そうですが(笑)

    もし、そう感じていただけたのであれば、それはズバリ空間と作法の

    お陰でしょう!

     

    操体の「息」と「環境」、この二つは目には見えません。

    自分を取り巻く空間も、そこからいただく呼吸も目には見えませんが

    作法を通すことで、からだは目には見えないものに触れることができます。

     

    目には見えないから傍目には何をやっているか分かりづらい訳ですが、

    ここが大切なんじゃないかと。

     

    同じことをやっているようで「なんか違う」というのは

    こういった目には見えないことが支えになっているかどうか

    ということなのかもしれません。

     

    「歪み」にも同じことが言えると思うんですよ。

    目に見える「カタチ」だけじゃ説明できない…

     

    目には見えない大切なこと。

    師のもとで操体を学ぶって

    そういうことなんだなあと思っています。

     

    それこそ「清らかな呼吸」を通してネ!

  • 「おさまる」ために「おさめる」

    先日の春季東京操体フォーラム

    「般若身経」を講義する時間をいただきました。

     

    今回はポイントを絞り

    1.からだの使い方、動かし方にはルールがある

    2.からだの動きは分類すると八つ(自力可能な動きは六つ)

    3.般若身経は体操やストレッチとは違い、からだの使い方、

    動かし方を学習するために行う

     

    といったことを参加された方々にお伝えしました。

     

    まずはスタンダードルールがあるということを認識して

    いただきたかったのです。

     

    途中、講義の中であまり触れずにいた「感覚」の部分に対し

    三浦理事長から「ゆっくり感覚をききわけながらやる」

    という最重要ポイントをお話ししていただきました。

     

    いちばん大事な部分を省いてしまいましたが

    この最重要ポイントこそ、操体の神髄です。

     

    いくらスタンダードルールにのっとっていても

    その時点でからだにとって不快であればそれが健康維持に

    つながるのでしょうか?

     

    特にからだの事情によりアンバランスな状態でバランスをとっている

    ケースでの決めつけは危険です。

     

    不快というからだからのサインに気づかない、または無視して

    しまっては元も子もありません。

     

    「感覚をききわける」ということをおさめてこそ、初めてその営みが

    からだが要求することなのかどうかということが分かります。

     

    ルールをおさめ、「感覚をききわける」ことをおさめる。

    このプロセスを辿るとからだが要求していることは何なのか

    ということが分かってきます。

     

    そのプロセスを経て、からだが要求してくる「きもちよさ」を味わう。

     

    やるべきプロセスを「おさめる」ことで

    身心ともに健康な状態に「おさまる」のです。

     

     

    一週間ありがとうございました。

     

    明日からは異国の音をおさめる男、寺本実行委員です。

    お愉しみに。

  • 決めつけずに「おさめる」

    操体において自己最小限責任生活必須条件である

    息、食、動、想の営みとそれぞれに関わる環境が

    健康維持において大切なことは既に知られているところです。

     

    「生活の歪み」はこれらの営みのバランスが崩れることに

    よって現れてくる。だから、この四つの営みに気を付けて

    いれば、きっと健康は維持できる。

     

    ではどうやって気を付けるのか?

     

    色々な操体の本に書いてあるように

    腹式呼吸で…」、「歯の種類と本数は…」といったことを

    忠実に守っていれば良いのかというとそうではないと思っています。

     

    操体が感覚重視に移行したときから「気を付ける」は「決めつける」

    ではなくなりました。

     

    動における般若身経も身体運動の法則に従って行っていれば

    良いのかといえばそれは違うと思います。

     

    あくまでも法則という型があり、スタンダードルールに

    のっとって営んでいくというのは根底に必要ですが

    そこに「感覚する」ということをおさめていなければ

    盲目的に遂行するのみになってしまうように感じます。

     

    自己責任における営みも

    「感覚する」ということをおさめているからこそ

    自己責任たり得ると思うのです。

     

    「決めつけ」で営むことは「楽」であり

    自己責任の放棄でもあります。

     

    自己責任だからこそ、からだが要求する

    きもちよさを味わうことができるのです。

     

  • 自己責任で「おさめる」

    自己責任という言葉は重いでしょうか?

    自己責任という言葉は冷たいでしょうか?

     

    自己責任という言葉には可能性があると感じています。

     

    健康維持において私たちがやるべきこと、

    それはからだの要求に適うことをすること。

     

    からだが「おさまっていてちょうどいい」と

    感じている状態が「間に合っている」状態です。

     

    ではからだにとって「間に合っている」状態かどうかを

    判断するにはどうしたらいいのでしょうか。

     

    それは「感覚する」ことです。

     

    私たちは「感覚する」ことができるから、それがからだにとって

    どの様な影響をもたらすかがわかるのです。

     

    からだはきもちよさを要求しています。

    からだはきもちよさが健康を維持するうえで最も大切なことだという

    ことを知っています。

     

    私たちは「感覚する」という行為を通して、実はからだからイノチの

    仕組みを教わっているのです。

     

    「感覚する」という自己責任における行為が、健康を維持し、

    日々の暮らしの中に豊かさをもたらしてくれます。

    自己責任だからこそ自分自身でそのことに気がつけるのです。

     

    知識を「おさめる」のではなく、「感覚する」ことを「おさめる」。

    誰かの声ではなく、からだの声に耳を傾ける。

     

    「おさめる」とは誰のためでもなく自分自身と向き合う

    作業だと感じています。

  • 「感覚する」ことを「おさめる」

    「感覚する」ということを怠ることは

    自己責任を放棄していることになります。

     

    自分の行為が果たしてからだの要求に適っていることなのか…

     

    橋本先生は

    「治すことまで関与するな」とおっしゃっていましたが、

    「きもちよさをききわけさせればいいんだ。きもちよさで

    治るんだからな」ともおっしゃっていました。

     

    きもちよさをききわけるプロセス。

    本当にその行為がからだにとってきもちいいものなのか、

    からだが要求しているきもちよさなのか。

     

    「感覚する」ということは自分自身のからだへの

    礼節でもあります。

     

    からだの個々の細胞が健康を維持するために

    それぞれの役目を日々おさめているように、

    私たちも「感覚する」ということを「おさめる」責任が

    あります。

     

    橋本先生が

    「これからは動きよりも感覚だ」とおっしゃってから

    操体も随分変化(進化)しました。

     

    操体にはもともと自己最小限責任生活必須条件(息、食、動、想)

    の営みが崩れると「生活の歪み」から「ボディの歪み」につながり、

    不健康に傾くという自己責任におけるプロセスがあります。

     

    「動きから感覚」に変化(進化)したことで

    「感覚する」というプロセスを自己責任において

    「おさめる」必要性が一層増してきたように思います。

  • からだへのおさめ方

    からだの個々の細胞たちが日々おさめてくれていても

    私たちが「おさめる」ことを怠ってしまうとからだは不健康に

    傾斜していきます。

     

    「おさめる」ことを怠るとはやるべきことをやらないこと。

     

    やるべきことをやるとはストイックに

    「こうしなければいけない」と思い込んで行動することでは

    ありません。

     

    健康のために「ああしよう、こうしよう」とあの手、この手で

    からだをこねくりまわすことでもありません。

     

    なぜ、医師である橋本敬三先生は

    「治すことまで関与するな」とおっしゃったのでしょうか。

     

    その言葉の意味を「おさめる」と

    自分たちが何をやるべきかがわかってきます。

     

    健康維持においてやるべきことをやるとは

    「からだが要求していることに耳を傾ける」ことです。

     

    干渉するのではなく無視しないこと。

     

    自分が主でからだが従ではないということ。

     

    からだが健康な状態に「おさまる」ために

    私たちがからだの個々の細胞たちと協力してできること。

     

    それは「感覚する」というプロセスを「おさめる」ことです。