カテゴリー: 瀧澤 一寛(たきさわ かずひろ)

  • やるべきことをおさめる

    からだの個々の細胞たちは(体内の常在菌も含めて)

    それぞれの役目を果たして一つのユニットになっています。

     

    それぞれがそれぞれの立場で主人公です。

    一位もビリッケツもありません。

    いらない存在など一つもない。

     

    よく脳はからだの司令塔とか言われますが

    それだって情報を処理して指令を出すという

    役割を担っているだけでいちばん偉いわけではありません。

     

    その指令に準じて働くものもいれば、

    独自に判断して働くもの、実は脳と同じように

    情報を処理して判断し、発信しているものもいます。

     

    この個性豊かなメンツがそれぞれの立場で

    (いい意味)で暴れることができるから

    「ONE HEART BEAT」=「一つ」になれるのです。

     

    からだの個々の細胞たちが

    日々それぞれやるべきことを「おさめる」から

    からだが全体一体となって「おさまる」。

     

    からだの個々の細胞たちの

    「やるべきことをやる」=「おさめる」というプロセスに

    支えられて、私たちの健康は成り立っている。

     

    いかに健康寿命を延ばすことができるかが課題の昨今。

     

    まずはこのプロセスに目を向けて、からだに感謝したら、

    次は一人一人がやるべきことをやる番です。

  • 「おさまっている」ってちょうどいい

    春のエネルギーが“皐月のそよ風”に乗って

    届いてまいりました。

     

    エネルギー補充し、今週は瀧澤が担当致します。

    よろしくお願い致します。

     

    先日、2015年春季東京操体フォーラムを開催致しました。

    ご参加頂いた皆様、本当にありがとうございました。

     

    引き続き、7月20日(月)には操体マンダラ

    12月6日(日)には秋季東京操体フォーラムの開催を予定

    しておりますので、皆様のお越しを心よりお待ちしております。

     

    さて、今回のブログテーマは「おさめる」ですが

    「ああ、これはおさまっているな」と感じたのが

    先日のフォーラムです。

     

    実行委員はフォーラムに向けてテーマを練り、準備期間を設け、

    当日はそれぞれの立場で参加された方々と空間を共有しました。

    個性的なメンバーが個性を活かしながら一つのユニットとして

    機能していたように感じました。

     

    橋本先生は「間に合っていればいいんだ」とおっしゃっていましたが

    「間に合う」と「おさまる」は似ているんじゃないかなと思います。

     

    間に合っている状態も、

    おさまっている状態も、

    なんだかとっても塩梅がいい。

    ちょうどいいんです。

     

    そして、

    「間に合う」ためには「間に合わせる」プロセスがあって

    「おさまる」ためには「おさめる」プロセスがある。

     

    このプロセスがからだにとっても自分自身にとっても

    大切な時間の使い方なんだと改めて感じています。

     

     

     

  • 〜操体と愛(7)〜

    先日、三浦先生の著書「快からのメッセージ」が
    再版されました。

    快からのメッセージ―哲学する操体

    快からのメッセージ―哲学する操体

    操体を志すきっかけとなった一冊です。

    それまで専門学校の卒前講習や、鍼灸接骨院時代に同僚が
    臨床で使っているのを見たことを除けば操体とはご縁がなく、
    操体法?動かして抵抗掛けて力抜かせるやつでしょ。
    一時的に特定の筋肉を緩ませて動きがよくなるんでしょ。」
    という理解しかしておりませんでした。

    いやはや無知って恐ろしいですね。
    過去の自分に「お前さんねえ…」と突っ込みたくなります。

    月日は流れて、新たに治療法を勉強したいなあと思いつつ
    神保町のたにぐち書店にふらっと立ち寄った時にこの本を
    手に取ったのです。

    パラパラとページをめくってみると
    「自然法則」、「快適感覚」といった見慣れない言葉があり
    さらには「経絡治療」についても書かれており、
    極めつけは「皮膚」…

    操体って一体何なんだ?」
    哲学的要素が含まれた内容に圧倒され、むくむくと
    興味が湧いてきたのを覚えています。

    その後のことは以前ブログに書いた通りです。

    当時は目新しい言葉を目にし「ワクワク」と言う感じで拝読しましたが
    今読み返すと「ああ、これは『からだ(イノチ)に対しての愛の指南書』
    なんだ」と思えるようになりました。(性愛ではありません)

    「からだ」への細やかな愛が一つひとつ記載され、
    どのように自分自身の「からだ」と向き合ったらよいのか、
    そのことが「からだ」の目線で書かれています。

    愛でたくなるような、愛着が湧くような「からだ」との
    向き合い方。
    なぜそういった向き合い方ができるようになるのかというと
    そこには「自己責任」があるからです。

    操体でいう「自己責任」とは決して人を突き放すような冷たい言葉では
    ないと思っています。

    「自己責任」だからこそ自分の「からだ」を愛することができる。
    「からだ」が愛でたい存在に、愛着が湧く存在になっていく。
    自らの行為であるがゆえにここまでの愛が発生するのです。

    そして
    「自らの手によって『からだ』を愛することができるイノチのシステム」は
    さらに大きな愛(太極の意志)によって包まれている。

    改めて、愛なくして操体は語れないと思った一週間でした。
    お付き合いありがとうございます。

    明日からは寺本実行委員です。
    感性をくすぐるブログですのでお愉しみに。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 〜操体と愛(6)

    誰でも訪れる反抗期。
    中には「そういえば私、反抗期なかったかも」と
    おっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが
    私は通過儀礼のような反抗期をしっかり(?)経験
    してまいりました。

    私の場合は非行や手を挙げる方にはいかなかったのですが
    とにかく親とコミュニケーションを取らなかったのです。
    (しかも波があってコロッと態度が変わるんです)
    要はあまり干渉されたくなかったんだと思います。
    何をするにも親の助けが必要な時期に、その親とろくに
    コミュニケーションを取らないのですから、
    親からすると「何考えてるのか」といったところだったでしょう。
    いくら親子でも全て以心伝心というわけにはいかないですから。

    干渉と言えばアドラー心理学にもそのことについて
    触れています。
    それは「自分の課題」と「他者の課題」を区別すること。
    自分が発したこと(自分の課題)に対して
    相手が思う(他者の課題)ことは別々の課題であるから
    相手に求めすぎるのは課題をごっちゃにしていることに
    つながります。
    「人は人、自分は自分」というとなんだかクールな感じも
    致しますが、相手を突き放すといった意味ではありません。

    必要以上に相手に(ああだこうだ)干渉はしないけれど
    助けを求められれば、その時、「自分の課題」として応じることが
    出来れば決して個人プレーと言うわけではないと思います。
    むしろこれだって一つの愛だと感じます。

    三浦先生にもよく
    「からだは干渉されたくないんだから、あまりオレがオレがで
    臨床通すなよ」とおっしゃっていただいておりますが、
    「からだ」が何を要求しているのかちゃんと分かって、
    謙虚にしていれば、必要以上にお世話しなくても「からだ」のほうで
    「自分の課題」をクリアしてくれるのです。

    「でも、治療って第三者(医師や治療家)がやるもんでしょ?」

    そんな声が聞こえてきそうですが、
    そこが操体臨床の特徴でもあるのです。

    「きもちよさを味わいたい」というのが「からだの要求」で、
    その要求を満たせば「からだ」は癒えるのですから、この過程を
    治療と捉えることができます。
    そうすると、きもちよさを味わっているのは果たして誰?ということ
    になり、答えは「からだ」ということになります。
    つまり「からだ」が「自分の課題」として自らを癒しているのです。

    「じゃあ、操体では治療者は何をやっているの?」

    そんな声も聞こえてきそうですが
    そのとっておきの内容が今回の春季操体フォーラム(4月29日)で
    明かされます。操体の臨床的効果を検証してまいります。
    是非、お愉しみに。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 〜操体と愛(5)〜

    相手が何を欲しているのか、
    確認しなくても察することが出来たら
    言うことありません。

    以心伝心とか阿吽の呼吸とか。

    大概は言葉を用いてお互いにコミュニケーションを図ります。
    言葉にすればお互いに何を考え、何を望んでいるかが分かります。
    反対に察しているとばかりに、良かれと思ってしたことが
    実は見当違いで後々困るケースがあります。

    言葉の力というと「言霊」とか「波動」といった
    スピリチュアルな方向性もありますが、
    重要なコミュニケーションツールであることに違いはありません。

    確認作業は問いかけです。
    察していると思い込んで、確認作業を怠ることは
    無視していることとなんら変わりはありません。

    それは「からだ」にとっても同じこと。

    「『からだの声』を聴かずに良かれと思ってやっていることは
    本当にからだが望んでいることですか?」

    「……」

    以前であれば即答は出来ません。
    そもそもそこまで考えて臨床を通していませんでした。
    治療者の技量があれば症状、疾患が改善すると思っていました。
    「『からだの声』なんて…ましてや自分が良かれと思って
    やっていることが回復とは逆の方向に向っている…?」

    操体を学んでから気づいたのです。
    臨床には「からだ」とのコミュニケーション、
    つまり「からだにききわけて」が必要であると。
    「察する前に確認が必要なんだ」ということを。

    確認作業を繰り返し、「察する」ということが皮膚を通して
    「からだ」で感じることが出来てくれば、あるいは確認作業は
    行わなくても良いかもしれません。
    しかし、怖いのは「察しているつもり」です。
    せっかく「想い」があっても、向こうに通じていなければ
    相手は返答しようがないばかりか逆効果になってしまいます。

    それはもはや愛とは呼べない…

    「自己満足の愛」に陥らないように気をつけねば。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 〜操体と愛(4)〜

    「対象をどうにかしたい」という思いは愛の原動力かも
    しれませんが「相手がしてほしいことを施す」というのも
    愛の一つの側面です。

    ということは相手が何を要求しているのかを
    把握する必要があります。

    臨床を通すうえで欠かすことが出来ないものの
    一つが「クライアントの要求」です。
    腰の痛みを訴えてきたのに肩を揉んでもしょうがありません。
    (肩を揉んで腰の痛みがとれれば、また別ですが…)
    腰の痛みがとれるように診断し、治療を施します。
    まずは腰が痛ければ腰を診ますし、腰以外のところを診る場合も
    腰痛と関連付けて追っていきます。
    治療法のほとんどは症状、疾患別に対処しています。

    そのように対処して「クライアントの要求」が満たされれば
    万々歳ですが上手くいかない場合はどうしましょう?
    マニュアル通りにはなかなかいかないものです。

    では、「クライアントの要求」を満たすためにもう少し視野を広げて
    みましょう。
    「腰の痛み」を発しているのは果たして誰なのか?まずはそこから。
    声を辿っていけば分かることですが、それはクライアントではなく
    クライアントの「からだ」です。
    クライアントの「からだ」が発信している「痛み」を
    クライアントが受信して治療者に訴えているのです。

    これが分かると「クライアントの要求」とともに
    「からだ」にも要求があることが分かります。

    操体を学んでいる、耳にしたことがある方々にとっては
    既知の事実ですが、「からだ」は「きもちよさ(快)」を求めています。
    クライアントは「痛みをとってくれ〜」と要求しますが
    「からだ」は「きもちよさを味わいたい〜」と要求します。
    きもちよさで「からだの要求」を満たすことが出来れば
    「からだ」が発する「痛み」は治まり、結果的に
    「クライアントの要求」は満たされます。

    逆に「からだ」が要求していないもの、拒否しているものもあります。
    それは「不快」という感覚です。

    いくら「クライアントの要求」のためと言え、
    それが「からだ」にとって「不快」なことあれば、
    「なんで一生懸命やっているのに結果が出ないんだよ!」ということ
    にもなりかねません。

    もし、愛を定義するうえで「相手がしてほしいことを施すこと」という
    項目があるのならば操体臨床は「からだ」にとっての愛なのです。

    「自分がされて嬉しいことを相手にする」
    「自分がされて嫌なことは相手にもしない」

    「からだ」にとって、前者が「きもちよさ(快)」となり、
    後者が「不快」となるのです。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 〜操体と愛(3)〜

    対象をどうにかしたいという思いは自然に発生します。
    「どうにかしてやろう」というほど強くなくても
    「なんとかしてあげたいな」と思う気持ちは皆持っている
    と思います。

    臨床においてもクライアントに対して
    「痛みを取って楽にしてあげたい」
    「不自由なく生活が出来るようにしてあげたい」
    ほとんどの臨床家はそんな思いを抱いて治療します。

    クライアントはクライアントで
    「病気を治してほしい」
    「症状を取ってほしい」
    「痛みのない状態に戻してほしい」
    そんな思いを抱えて来院されます。

    だから結果を求めて一生懸命になります。
    時には悪戦苦闘したり、結果に対して一喜一憂もしたり。
    当然と言えば当然。それが臨床家の業だからです。
    結果が伴わなければ次はない。
    「終わりよければすべてよし」という言葉がありますが
    臨床においても一つの側面を表していると思います。

    結果的にお互いの利害が一致。その時点で相思相愛。
    そのために研鑽し続ける。

    操体以外にも素晴らしい臨床テクニックはあります。
    操体臨床家でなくても達人、名人はいます。
    結果に胡坐をかかず、自分の業と真摯に向き合う臨床家もいます。

    ではなぜ操体を選択し、学び続けているのでしょうか?

    対象をどうにかしたいという想いは
    大きかろうと小さかろうと「欲求」でもあります。
    対象をどうにかしたいという「欲求」は
    その後自分に返ってくる結果(金銭や賞賛といった報酬)によって
    満たされます。

    もしもそれのみを求め続けるのなら、操体でなくてもよかったかも
    しれません。そもそも臨床家でなくてもよかったかもしれません。

    臨床家という道を選択し、ご縁があって操体と出会い、
    その中身を体感すればするほどパラダイムシフトは起きました。

    ずっと、結果を出すには「欲求」が必要だと思っていました。
    「欲求」こそ、結果を出すうえでの原動力だと思っていました。

    けれども「結果」を出すうえで「欲求」が邪魔になることがある。
    人のからだが良くなるうえで施術者の思いが邪魔になることがある。
    「欲求」に善悪は無いが何か大事なものが見えなくなることがある。

    操体はそんなことを教えてくれます。
    テクニックではないモノを教えてくれます。

    イレギュラーを包み込む「愛」は
    「終わりよければすべてよし」では見えてこないのです。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 〜操体と愛(2)〜

    商取引の観点からすると、
    努力に対する報酬が支払われるのは当然です。

    そこからすると、修業程先の見えないものはない。

    「ここまでできるようになる」の「ここまで」が
    どういう地点なのか修業中にはわからないからです。
    ゴールを設定して猛ダッシュという世界ではないからです。
    ですから「努力に見合う報酬」といった概念もありません。

    「ここまで」の地点に来た時に初めて「ここまで」がわかる。

    実際に一つのことを学んでいるとそういうことがよくあります。
    「ここまで」が分かるようになると、それ以前に「ここまで」だと
    思っていたことが、実は「分かったつもり」だったなんてことも。
    そして、人それぞれ「ここまで」に到達するスピードは違います。

    「同時期に始めたあの人は三か月で到達したけれど、私は一年経って
    ようやくわかる(できる)ようになった」等々。

    上記に関して記載された本がこちらです。

    修業論 (光文社新書)

    修業論 (光文社新書)

    皆同じじゃないからこそ、期間が決まっていないからこそ
    続けられるということもあるのです。

    臨床で思うような結果が出なかったとき、藁をもすがる思いで
    様々なテクニックに飛びつきました。結果が欲しかったのです。

    その結果、期待通りになることもあればならないこともあります。
    「なんでこんなに一生懸命やってるのに結果が出ないんだよ!」
    矛先はテクニックそのものや、テクニックを教わった人に向く。
    とんでもない勘違いですよね。今思うと恐ろしい。
    でも当時はそんなこともわかりませんでした。

    「こんなに愛しているのに、なんで愛してくれないの」
    愛もgive and takeで語るとこんなことになりかねません。

    等価交換の価値観のみになってしまうと方程式に当てはまらないものは
    ともすると自分の理解を超えて憎しみの対象になってしまいます。

    橋本先生がおっしゃっている「愛と調和」(太極の意志)の「愛」とは
    方程式には当てはまらないイレギュラーをも認める懐の深い「愛」だと
    思っています。

    臨床において人のからだはイレギュラーのオンパレードです。
    方程式通りにいかないことの方がはるかに多い。
    それぞれにgive and takeしていたら間に合いません。

    イレギュラーに対してどのように間に合わせていくか?

    操体を学ぶってそういうことだと思っています。
    全てのイノチの営みに当てはまると思っています。

    すぐに結果は出ないかもしれませんが、
    時間をかけてゆっくりと取り組んでいくことのできる
    学びだと思っています。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 〜操体と愛(1)〜

    優しさの香りに包まれていた一週間でしたね。
    香さんからバトンタッチ。今週担当の瀧澤です。
    東北は岩手県から「愛」についてお送り致します。
    一週間よろしくお願い致します。

    今年は例年に比べ降雪量が少なく
    「暖冬だね〜」と思っていたのですが昨日ドカッと
    降ってまいりまして(雪やコンコン♪じゃちょっと可愛すぎる?)
    東北の冬を改めてしみじみと味わっております。

    東北に居て操体を学ぶというのもご縁というより言いようが
    ありません。
    三浦先生も仙台の定禅寺通りを汗水垂らしながら雪掻きしていたと
    思うと「東北」、「操体」、「雪掻き」を通してつながっている感じが
    致します。

    さて、今から二十年以上前でしょうか。
    小学生の頃、家に聖書があったので読んでいた記憶があります。

    「読んでいた記憶」があるだけで
    肝心の内容に関しては多少記憶している程度。
    ノアの箱船やモーゼの十戒、キリストの復活等々、メジャーどこくらいです。

    同時期に母から「アガペー」を教わったこともあります。
    アガペー」はキリスト教において「無償の愛」とか「神の愛」と
    呼ばれているものです。

    いわば見返りのない愛。
    give and give

    小学生の頃にこんなことを教わったからなのか
    昔から「愛」と聞くと男女間のそれよりも「アガペー」を思い出します。
    男女間だと「愛」というよりはもう少し直接的な香りがしなくもないです。
    太陽のようにカラッとしているのか、しっとり湿り気を帯びているのか
    といったニュアンスの違い。

    見返りといえば
    give and take

    やるかやらないかの判断は
    努力に見合った報酬を受け取ることが出来るかどうか。
    または、これだけ時間をかけたから、これだけお金を費やしたから
    努力したからそれに見合うだけの結果が欲しい。

    至極真っ当で常識的な感覚ですし、
    割とマッチョ的思考で生きてきました。

    操体に出会ってからは見返りとは違う世界があることに気づきました。
    手に入れる愛(モノ)、降ってくる愛(モノ)、両方とも必要だと。

    小学生の頃は「アガペー」と聞いてもピンときませんでした。
    思春期の頃は記憶の片隅に追いやられていました。
    (消去はされていませんでした)。
    今は少しずつ、感覚を通して「アガペー」を分かり始めています。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 〜からだにききわける〜

    「よくわかりません」

    いいんです。初めのうちは。

    ですから、無理に探そうとしないでくださいね。
    見つかるものでもないですから。

    気を使って、あいまいな言葉を発するよりも正直に教えてください。
    「きもちよくなければいけない」というものではありませんから。
    今、その瞬間に感じていることを教えてください。

    私は青色が好きです。
    早朝の仄暗い青色も、抜けるような晴天の青色も、
    曇りの日の灰色がかった青色も、日が落ちかかった夕闇の青色も。
    一言で青色と言っても様々な表情を見せてくれます。

    感覚も一緒です。
    一言で感覚と言っても様々です。

    操体では「からだにきもちよさがききわけられますか」と動診を通します。
    それは「快(きもちよさ)」がからだを治しつけてくれるから。

    操体では「からだにきもちよさがききわけられますか」と動診を通します。
    「不快ですか、快ですか」と二極対比で聞いたりはしません。
    「不快じゃない=快」ではないからです。

    操体では「からだにきもちよさがききわけられますか」と動診を通します。
    けっして「探してみてください」とは通しません。
    いくら探しても、過去の検索履歴の中ではヒットしませんから。

    操体では「からだにきもちよさがききわけられますか」と動診を通します。
    「からだにきもちよさがみわけられますか」とは通しません。
    感覚は目に見えないからです。感覚は声です。響いてくるものです。

    「ききわけのいい子」は無垢です。大人の顔色を窺っているわけでは
    ありません。素直に耳を傾けます。私たちも昔は子供でした。
    大人になった今でもからだは「素直さ」を有しています。
    さらに大人の愉しみも享受できるようになりましたが(笑)

    ですから素直に「からだにききわけて」みてください。
    慌てずに、力まずに、ゆっくりと。

    それでも「きもちよさ」がよくわからないときは、今その瞬間に感じている
    からだの変化、反応を教えてください。

    操体にはバルの戒めという教えがあります。
    「頑張るな」、「欲張るな」、「威張るな」、「縛るな」。

    「きもちよさ」という言葉が一人歩きして
    操体=きもちよくなければいけない」と縛ってしまっては本末転倒です。
    「きもちよさ」は縛りではありません。

    治療の前には必ず診断が入ります。
    「感覚のききわけ」は診断です。
    そこでその動きを通すのか、通さないのかを診断しています。

    「きもちよさ」がよくわからなければ、まずはからだの変化、反応と
    向き合ってみてください。

    探す必要はありませんから。きもちよさの回路は徐々に出来てきますから。

    橋本敬三師が「きもちよさをからだにききわけさせればいいんだ。
    きもちよさでからだは治るんだから」とおっしゃっているんですから。

    まるごと受け取るための検証のプロセス。
    「楽」から「快」への変化のプロセス。分析法の変化のプロセス。

    この進化のプロセスを是非、東京操体フォーラムで味わってみてください。

    一週間ありがとうございます。
    明日からは感性に響く唸りが持ち味の寺本実行委員です。お愉しみに!

    「2014年秋季東京操体フォーラム」 開催決定
    今回は11月22日(土)23日(日)の二日間開催いたします。
    メインテーマは「操体進化論」です。
    特に、22日は場所の都合上、人数が限られておりますので
    ご参加希望の場合はお早めにお申し込み下さい。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?p=813