カテゴリー: 岡村郁生(おかむらいくお)

  • ⑤”ひずみ”と”ゆがみ”

    いよいよ「操体マンダラ」まで三日となりました。

    なぜ、「操体」と「マンダラ曼荼羅」がくっついているのか。

     

    まず、参加することで感じること(しないでどうこう言わない)

    私たちの「からだ」を通して感じて理解できることもあります。

     

    さておき、今日のブログもよろしくお願いします。

     

    真っ直ぐに揃った背骨は、健康的な証?

    常にきちんとした姿勢であれば健康維持できる?

    この世の中にある常識は、時に私たちの自由を奪っている。

    「からだ」はもっとシンプルに語ってくれている。

    シンプルに「からだ」に「ききわけて」・・・・・・・・。

     

    倫理は道徳を生みますが、道徳は人を自由にしてくれますか?

    歪んでいるといわれても、ひずみがあってもゆがまないのは愛。

     体が成熟すること、心が成熟すること、どちらが先でしょうか。

    背骨が曲がっても、足の長さが違っても、顔が非対称的でも・・・

    睾丸が右上がりでも、陰茎が左に曲がっていてもいいじゃない!

     

    「コ・コロ」は常に意志が貫通しているわけですから、私たちの

    「からだ」を通じて「意識」できるのです。これが救いなのです。

     

    目的があってこそ、その現象・変化をうみだしているのですから。

    ・・・・・・「歪んで 助かってるんだ!」・・・・・・・と。

     

    それが腑に落ちるまで、意識を通じて「からだ」に「ききわける」

    このことを努々忘れずに、”朽ちることなく真理に繋がる”ような、

    操体」の学び”に”してほしいのです。

     

    何故なら、「操体」を学んでいると感じる「操体法」の“法”とは、

    まさに、“法=ダルマ”であると言っても過言ではないからですよ。

    (注:ダルマの意味はググって下さい・・・では不親切なので後述・・)

     

    この自然法則を大切に、「構造力学」も大切、操体を学びとるなら、

    「運動力学」も大切に、私自身が自由とはいったい何か、現象のみ

    に囚われず、見えない真理の探究こそ自由基準となるのですから、

    その”軸”を感じとるように、コツコツ学んでいけば愉しい。

     

     

    息相とワタシ~YouがMe~

     

    生命に人間の「からだ」があるかぎり、停滞すると反応は現れる。

    そこには流れやすい向きと停滞しやすい向きがある。

    向きに前後・左右・上下と「息」を通してみると、通る流れと別に

    通りにくい流れは、”反応”として見つかる。 

    そこに流れを取り戻した方向は現れてくる。

    そのまま通して流れの勢いが変わり、極まった際に反応は消える。

     

    「流れに身を逆らおうとしたところで無駄なことだ。

     流れに身をまかせれば、どんなに弱い人でも岸に辿り着く」

                 =セルバンテス=~スペインの小説家~

     

    ・いい加減にやっている常識

    ・本当かなと思っている非常識

     

    学びつつこの繰り返しを、幾度となく、限りなく、繰り返したのです。

    非常識なコトを真剣にやり続けること→本当のホンモノになるようです。

                                      岡村郁生

     

     

    ※注:「ダルマ」~「法」~「cosmos」の繋がりについて。

       仏教的用語では、全宇宙を支配するような”秩序=コスモス”のこと。

       すべての存在の背後にある真理のこと。

       この全宇宙を支配するようなものがあり、それは逆に「法」の

       真理においては、”お釈迦様”も、仏の生涯モデル”の一霊となる。

       故に、全宇宙の法則における一例になっているというのです。

       ですから、「操体」の「法」は侮れない一文字として捉えます。

       ちなみに、有名な「気持ちよければなにやってもいいんだ」的

       放言解釈において、師を生涯モデルとして師事しているならば、

      「操体」の「法」を学びとおす上では、これを、限りない大きな

       「快」に通じた宇宙の真理の探究としても捉えているわけです。

       学びはある程度まで修めなければダルマ=真理とはわからず!

       ・・・かもしれませんが、しかしそれさえも「法」の上では自由です。

     

  • ④ひずみ”と”ゆがみ”

    近年、経済の発展によって社会は合理化され、便利な暮らしになる一

    方で、暮らしに心の余裕がなくなりつつあることに、うすうすながら

    誰でも気付いていますよね。

     

    しかし、時の流れに逆らえず、いつの間にか大切な何かを失うことに

    少しづつ慣れて大人になっているのでしょう。

     

    昔は感じることができていた、“人への想い”、“自然の豊かさ、天然の厳しさ”

    このことを感じていた頃は、暮らしが不便でも満たされるものがありました。

    それはまさに、”清貧”の豊かさ、”足るを知る”、一体感というものでしょう。

     

    ワタシはその基本に「食」の相、つまり「環境」と「想念」の関わりは欠か

    せないと考えています。

     

    ティーンの頃に祖母がワタシに教えてくれたコト。

    お腹を空かせた日々の食卓、ちゃぶ台ににのぼる温かい食事は季節感があり、

    沢山の「想い」がそこに込められていました。

     

    「食」の相から授かった「想い」は代々受け継がれ、伝統として地域や社会

    に広まっているのです。

     

    今、本当に大切な判断ができないとしたら「食」の相を見直してみたいですね。

     

    「意志」はただそこに留まること無く循環し、滋養溢れる「想念」と共に!

     

     

    ≪youがme~食相とワタシ~

     

    一食一想へ、調和と人間の姿について教えてくれることがあった。

     

    「平食」をするには、習慣と惰性の働きに委ねること。

     

    「悪食」をするには、欲望と享楽の働きを満喫すること。

     

    「断食」をするには、想いと欲求の働きを維持すること。

     

    不食」をするには、意志と体感する働きを得ること。

     

    「聖食」をするには、一切のとらわれから自由を得ること。

     

     

    まぁ、我儘と自由の境は、迷惑をかける干渉か否か・・・かもネ。

     

                                      岡村郁生

     

     

    ※おまけ類語コーナー(大きな字の常用国語辞典~学研~)

     

    ・歪む(ひずむ):形がゆがむ

    ・歪む(ゆがむ):①形がねじれたり曲がったりする。

             ②心、行いが正しくなくなる

     

    ナルホド!・・・心がひずむとは言わないけれど、心はゆがむという

    ワケですねぇ。

    では「ボディーの歪み」の場合「〇〇〇」ともいえるのですね。

  • ③”ひずみ”と”ゆがみ”

    ヒトの中心軸はどこ?鏡に映した場合、自分の「からだ」の真ん中なの?

    本当にそれって理にかなっているのかなぁ・・・。

     

     ・・・「(わざわざ)歪んで(くれるから) (私たちは) 助かってるんだ!」・・・

     

     

     ≪~環境相とワタシ~≫ 

     

    「最高の処世術とは、妥協することなしに適応することである」                                                                 

                   ゲオルク・ジンメル (ドイツの社会学者)

     

    唐突ですが、夢は夢でも妙にリアルに語りかけてくるコトがあるんですよ。

    (こんなこと言ってると”変人”扱いされるから、”ココダケの話”で・・笑)

     

    その世界(?)は、三浦理事長やフォーラムのメンバーも出演するのですが、

    結構あっちの世界(?)でも、面白い学びを共有しているんですよねぇ~。

     

    夢の世界も妥協しないんだな・・・と(笑)、寝起きに日記へ書いておくのです。

     ハイ!テーマに沿って名付けるなら、ズバリ「YouがMe」(こんなオチ?)

      

    ・YouはMe曰く、「調和と人間の姿について学んで欲しい・・・」

    ・太陽光→(+)・陽エネルギー・浄化・破壊・

    宇宙線→(-)・陰エネルギー・散布・再生 

    注:何か、地球上のエネルギー形態では、識別が必要なのかもしれませんね。

     

    ・生命の仕組み:組織→細胞→水(液状体)

            →蛋白・脂肪・線維(ゲル状体)

            →ミネラル(鉱物体)骨

    注:「ん?」組織から細胞?という事は、一般的ではありませんけどネ。

     

    ・繊細なレベルにおいて→粒子で捉えると、生命の定理・公理は消える。

     原子・中性子・陽子・電子の素粒子は、愛・調和・意志を基に成立

     している故に、生命現象は干渉作用のあるエネルギー体でもある。

     

    注:この現象界に貫通している理念も、元始無限界の理念も、同格で

      同質のものである、という哲学思想を(操体で)学びましたネ。

     

    朝からこのような問いかけがあり、日々の学びに繋がるように感じます。

    「好き」の反対は「嫌い」ではなくて、「無関心」という意味ですから、

    「木を見て森を見ず」ではありませんが、細かいコトで無視するよりも、

    ヤジウマしてヒントになるようなことは、有難く頂こうと考えています。

     

    からだは歪んでいても、こころが拗(ねじ)けることのないようにネッ!

     

     

                                          岡村郁生

     

     

    ※おまけでゲッツ!のコーナー(チャレンジ国語辞典~福武書店~)

    ・ゆがむ:形が崩れて、ねじれたり曲がったりする。

         こころの考え方がひねくれて素直でない。

    ・ひずむ:力を加えられて形がゆがむ。

         いびつな形になる。

    ん?・・・ということは、力が加わることより(ある)重要なコトに気付けば、

    歪みは「歪んで 助かってるんだ!」ということになりますよね~。

     

  • ②”ひずみ”と”ゆがみ”

     

    ヒトの姿勢に正しさの基準があるのでしょうか。

     

     

     

    例えば、姿勢がいいですねぇと言われる方に聞けば・・・、

    「小学生の時、”健康優良児”と言われたんですよね」

     

    一方で、姿勢が悪いといわれることの多い方に聞くと・・、

    「小学生の頃、検診で側弯症って言われたので」

     

    フムフム。では、その姿勢の基準は誰が決めているのでしょうね?

     

    年齢や場所、その文明や流行の価値基準は様々なのに、時代と共に変

    化が続いていても、基準は「まっすぐ」。

     

     

    さぁ・・・・・一息ついて・・・・・3・2・1、ハイ!(ご一緒に)

     

    「歪んでるから(こそ、それで) 助かってるんだ!!」

     

     

    そもそも伸縮し、撓み、捻じれ、曲り、くねる。

    生命体の流れとは生物本来としての、逞しさを感じませんか?

     

    まっすぐな姿勢は正しいのか?その評価について、基準の「ウソか、

    ホントか」一つのヒントになりそうなのが、舞洲ゴミ焼却場のデザイ

    ンで有名な豪の芸術家、故フンデルトヴァッサー氏の言葉です。

     

    あまりにも大胆で”見た目の”左右上下対称を排した独創的なデザイン。

    ゴミの持つイメージ、ネガティブさをポジティブに変える試みには、

    畏怖しつつ感謝する、天然自然への哲学思想が宿っているようです。

     

     

    「自然の中に 唯一存在しないものが直線である。

     (もし)社会や文化が、存在しない直線に基づいているとすれば、

     やがて すべては 崩壊するだろう」

     

     

    にゃるほど~!猫が丸くって可愛い理由もそこかぁ~(そんなオチ?) 

     

     

    <歪み考~その②~>

     

    苦労の果て・・・努力の結果・・・健康になれた!(という思い込み)

     

    いとも簡単・・・誰でも出来る・・・健康になった!(という触れ込み)

     

    健康にまつわる常識と非常識は、いつでもPRが伴い、TVやインターネット

    を問わず、皆が人間の欲が生んだ新しい情報にばかり注目してきた・・・。

     

    外側からの刺激的な健康法を探し求める限り・・・人のこころは歪んでくる。

     

    そんなことを「からだ」が教えてくれたことで、「今」の、私自身は在る。

                        

                                  岡村郁生

     

    (おまけでゲッツ! 今日の豆知識 ~国語辞典(小学館)編~)

    ・歪み(ひずみ):元の形がなくなること。

    ・歪む(ゆがむ):形が曲がる。心がねじける。

    なるほど~!でも普通に、”ねじける”って言わないですよねぇ。

    ちなみに、”ねじける”の漢字は拗けると書きますが、その意味は、

    ”ひねくれる”とか、”素直でなくなる”という意味なのだそうです。

  • ”ひずみ”と”ゆがみ”

    「(人に)歪んでるって言われるから、何とかしてほしいんですよ」

     

    ・・・・沈黙・・・・(その刹那、大きなことで放言)

    「(からだは)歪んで 助かっているんだ!!」

     

    本人は骨盤の歪みや脊椎の歪みは勿論病気の原因だと思っていて、

    更に、鼻筋や顎のラインなど、顔の歪みが気になって仕方ない。

     

    それを”まっすぐ”に直してくれるところを探していて、いきなり

    こんなことを言われたら、鳩が豆鉄砲を食ったようにキョトンと

    するかもしれないですねぇ。(いや、そりゃそうだ)

     

    <歪み考~その①~>

     

    そもそも、歪みの無い健康的な姿勢で病気を近づけない。 

    その為にはどうしたらいいのでしょうか?

     

    いまや、星の数ほどある健康法のなかで、最大限で最小単位の

    健康維持方法はないものか?

     

    それを探しあぐねて放浪する人達は、この世界中に溢れている。

    まぁ、何を隠そう、この私自身がそうだったのですから・・・。

                             岡村郁生

     

     

    ※おまけ:ゲッツ!一口メモのコーナー!

    ~歪み“ひずみ”(三省堂物理小事典より)~

     物体に外力が加えられたときに生じる形の変化や、体積の変化を表す

    量として定義される。

    歪みには、伸び・ずれ・体積変化・曲げ・ねじれ等の種類があるが、

    弾性体で歪みが非常に小さいときは、伸びとずれを基本的な歪みとし

    て、他の変形はこれらの組みあわせによって表される。 

    ちなみに”ひずみ”を調べてから”ゆがみ”を調べようと思ったら、掲載さ

    れず、中間子論でノーベル賞を授与した湯川秀樹氏の紹介は掲載され

    ていた・・・さすがに物理学事典だな、と感心、感心。

                            

     

  • 沈黙の意志と臨生の意識

    ”絆”について三浦理事長は語っていた。
    「”意識”の絆とは、”イノチ”の絆である」
    「意識の絆の立ってこそ、イノチの絆という平等の絆に立てる」・・・と。

    孔子論語のなかでも、君子の最高の徳として「仁」を挙げているのだが、
    このことについてある中国文学者は、「仁」とはその時のごとく二人の人間であり、
    人間と人間とのあいだで最も大切なことをさしてしている、と説明していた。

    私自身も、天然の摂理を感じ、人間と人間のあいだに生じてくる関係性、
    ソレを自然の法則に則って繋げていくこと、理に適う感受性にこそ、
    「仁」となりうるのではないだろうかと思っている。

    脳を介して人の話を聞く。
    脳で聞き流していく、脳で聴いていく。
    これは当然のことながら、同じ内容でも全く異なってくる。
    これは証明されて、”脳の血流状態”からも明らかになった。
    (例:情報として流れるテレビを見ていても脳の活性化は起こりにくい)

    そういえば今年の正月。
    百人一首を覚えるという宿題を、二人の娘達と共に愉しんでいたとき、
    私自身の左耳にピンと聴いてくる感覚をうけたのは、権中納言敦忠の詠んだ一首だった。
    「逢いみての 後の心にくらぶれば 昔は物を おもわざりけり」

    このように感覚が増えていくなんて、そんなこともあるのだろうか?
    いやたしかにある。その一つには恋愛ごと、特に人に恋をする、あの感覚はわかりやすい。
    それならば感覚が増えたり減ったりするのではなく、”自在”から生じているとして観るとどうなのか?

    然り、意識のありようである。つまり、感覚そのもののあり方、受け取る仕組みの変化そのものだろう。
    その変化を生じた理由の一つに、“皮膚の働き”を挙げてみたい。
    この皮膚に決定的な特徴として、酸素不足によって感覚障害を受けやすいことがある。
    要するに皮膚に意識を通せることは、循環不全と栄養不良を素早く改善しうる働きを持ち、さらに感じ取る能力があるということだ。

    生物の発生学的にとらえれば、皮膚は脳や五感と同じ外胚葉性であり、
    中胚葉とは、循環器系・泌尿生殖器系であり、
    筋系・骨格系、内胚葉とは、呼吸器系・消化器系・尿路系で成り立っている。

    これを踏まえ外胚葉由来の組織は、内胚葉系・中胚葉系と常に連絡し合い、
    統括し、管理して、調整しているバランスセンサーの働きも多いにある。
    外にある臓器(=外臓)として全身くまなく包んでいる皮膚組織は、
    第三の脳と言われており、現在非常に研究が進んでいても、未知な部分が多いのである。
    そう観ていると、ノーベル医学賞を受賞した山中教授のIPS細胞も皮膚を介し、興味深い。

    閑話休題
    ここで、私自身感銘を受けたオヒイェサ(ネイティブアメリカンの作家)の言葉をあげてみよう。

     沈黙によって、体と精神と魂と、完全なる均衡が保たれる。
     自分の存在を、一つの統一として保っていられる人間は、
     生活にどんな波風がたとうとも、いつまでも平静で動揺しないでいられる。

     木の葉が揺れても、湖のきらめく水面に波紋が起ころうとも、平静でいられる。
     文字を持たなかった私たちの賢者にとっては、これこそが理想の態度であり、
     最上のふるまいだったのである。

    「沈黙とは何ですか」と問われたら、賢者はこう答えるだろう。

    「それは大いなる神秘だ」「聖なる沈黙、それは大いなる神秘の声なのだ」

    「沈黙すれば、なにが得られるのですか」と問われたら、賢者はこう答えるだろう。

    「それは、自分を自分自身を支配すること、
     真実の勇気であり、持続力であり、忍耐力であり、品位であり、敬意なのである。
     沈黙は、人格の礎石である」・・・・と。      
                      
    私自身語るなら、これに関与しているのも皮膚であり、
    意識の感受性であり、生命の意志に関わってくる。
    だからこそ、橋本敬三先生も「これからは、動きより感覚の勉強をしなさい」といわれたのではないか。
    これからも、いや・・・ここから操体を学ぶのなら、
    快適感覚と原始感覚、そして人間の意識感覚を磨いて頂きたい。

    その為にどうしたらいいのか。
    ヒントはしつこいほどに今週のブログに書かせて頂いたつもりだが、ハイいってみよう!

    来たる4月28日、東京の千駄ヶ谷駅の目の前。
    津田ホールにて『春期東京操体フォーラム』は開催します。
    なんといっても今回は、実行委員の手ほどきによる実技指導があるという噂・・・ではなく、
    実行委員長みずから書いているんだから間違いありません・・・というか決定(笑)です。
    是非、自分という感覚そのものの捉え方を変えるチャンスを、皮膚で掴んで頂ければ幸いです。

    ・・・ということで、一週間のおつきあいありがとうございます。
    明日からは日下実行委員の登場です、お愉しみに!

               

             

  • 第六感と不可視な感覚

    (昨日のブログ続きとなるヒント)

    古今東西。過去から全く変化のない状態で保存されるものなど、そうはない。
    操体においても、昔は「平均集約運動」と呼ばれていた「からだのつかいかた・うごかしかたのルール」を、
    現在の操体では、「般若身経」ということはご存じだろう。
    そしてこの「般若身経」とは、”三法則と一相関性”から成立していることもご存じだと思う。

    東京操体フォーラム三浦寛理事長は、誰よりも「般若身経」について詳しいといっても過言ではない。
    なぜなら温故知新のもと、つまり基本はしっかり踏まえた上に、さらにかみ砕いて消化されているがゆえに、
    現在は三法則はさらに倍以上、相関性に至っては三倍以上のわかりやすさとなって深められているのである。

    「般若身経」の意味とは、日々の生き方を通じて操体を学び、臨床や自力自療の操体法を身につけ、
    からだの使い方と動かしかたについて指導できる。
    操体の指導者として”からだの要求”を通すならば、決して切っても切り離せない。
    まさに自然法則の応用貢献の賜であり、人間からすれば救いを説いている”道”でもあるのだ。

    閑話休題
    マコーレ・カルキン氏主演、ブルース・ウィルス助演の映画「シックスセンス」では、
    普通の人では見えない・聞こえない・触れられないような感覚を持つ少年の苦しみを、
    少年自身の葛藤を昇華していく過程で、いわゆる霊的な存在と交流し、お互いの霊的成長を映し出していた。
    目の視覚・耳の聴覚・鼻の嗅覚・舌の味覚・触感覚の他、五感では感じることのない世界を感じることを“第六感”という。

    「楽」とはあくまで対象あっての存在であり、五感の中で完結している。
    痛いことをやめて、痛みのない方向、または辛くはない方向の可動極限まで動かし、動きをたわめた後に瞬間急速脱力。
    この操体法操体を「第一分析」という。これを学びはじめの頃、自分はそのような「第六感」的感覚とは一切無縁であった。
    とはいっても、幽霊とかそのような抽象的な話ではないのである。
    ”普段は意識に上ってこない感覚”または、”日常では感覚することのない感覚”のことである。

    これを、”深部感覚”とか、”内臓感覚”と置き換えてもかまわないのだが、
    それも適当ではなく、明らかに自分の意識で感覚出来る次元を超えた感覚・・・というのはあるのだ。
    刺激による単純な「快感」ではない。何ともいえない妙味を感じさせてくれる有り難き感覚なのである。
    これを三浦寛理事長は、「快の予備感覚」と名付けている。
    この「快の予備感覚」というものは、「快適感覚」を学習していく上で非常に重要な意味を持っている。
    そして、その個体の意識を超えていき、その人間の”からだの無意識”を通じて「生き方の自然法則」にまで共鳴波動しているようだ。

    つまり、可視ではなく不可視と交流するものに関与していることを、”感覚できる”ということである。
    それは普段意識されない感覚であり、精神(コ・コロ)の味わっている感覚ともいえる。
    生活に追われ感じにくくなる感覚、あまりにも便利な世の中になり、不便を感じないでいると、
    有り難みを感じることさえ困難になってしまうような感覚なのではないか?

    実際には、どんな人も幼子の頃は間違っていない。幼子の頃はみな持ち得ている自然な感覚でもある。
    その自覚があろうとなかろうと、原始感覚とは、味わってみることで磨かれていくものであり、
    「快の予備感覚」、「からだの無意識」、「接触による快」などで磨き抜かれ、
    意識という精神によって洗練しうるのだろう。
    ただ、注意してほしい!「楽」にはなんの反応すらしないのが”原始感覚”なのである。

    この意味は臨床(臨生)において大きく差を分かち合ってしまう。
    勿論、「快」を学び取れば「楽」の存在価値もよくよく理解できる。
    しかし、「楽」の学び?からは「快」の学びにはなり得ないのだ。
    それは、可視から不可視をみようとしているのと似ている。

    要するに、「快」を通すのは、イノチの要求を満たしていることに外ならない。
    例えば、操体の「渦状波(第三分析)」の臨生において、
    「第一分析」の操法とはかけ離れた感覚を患者自身でききわけられることになる。
    先ほど述べた感覚とは、患者自身の言葉では伝えにくい“予備感覚”をききわける経験となる。

    この非日常的感覚は、患者の要求のみに頼っていては学習できない。
    なぜなら、相手に委ねた思考による意識を優先しているからであり、それは本来の「からだの要求」ではない。
    この際だからハッキリ言おう!
    操体」を真っ正面から学び取る上で「般若身経」と「生き方の自然法則」が欠かせないように、
    「楽」を通じて「操体法」を通して感じている限り、「快」を通じた「操体」臨床を通すことは出来ないのだ。
    まあ、要するに”分極からは太極は生まれない”ということなのだ。

    これを読んで何を言っているのかさっぱりわからない?という御仁、ご婦人のために巳年のプレゼント!
    4月28日開催される『春期東京操体フォーラム』では、三浦寛理事長による操体臨床を間近に感じ取れるというもっぱらの噂だ。
    あれ、あなたの手元にあるのはスマホですねェ(携帯でも手帳でも可)
    それでは早速、その日は東京千駄ヶ谷九時!と予定を埋めておいたほうがいいですな・・・。
    ・・・・ということで、今日も有り難うございました。

                           

  • 『名月堪能』

    人は誰しも「自分とは何者であるか」という問いかけを、一回くらいはするのではないか。

    その定義付けとなる「アイデンティティー」を確立しようと、色々工夫してみることだろう。

    ただそれは一部であり、全てではなく全てであって、その一部でもある・・・。

    ある日のレッスン。三浦寛理事長は語った。

    「あのネ、別に眼でみなくてもサ、耳でみてもいいと思わないか?」

    「え・・??(禅問答みたいだ)」

    「講習会でネ、操体(のデモンストレーション)をベッドのそばでみてなヨっていったら」

    「その中に『私は目が見えないので見ていられません』って方が居たんだけどネ」

    「『それはみてなくてもいいから、感じてなさいってことですヨ』って伝えたんだヨ」

    「(納得!)そうですね・・・なるほど、感じている間(マ)ってのは、深いですねェ」

    橋本敬三師の「間にあっていればいいんだ」と言う言葉は有名だが、捉え方はそれぞれ異なっている。

    こんなモンで良いじゃない・・・もう十分でしょ・・・。それではあまりに不自然な解釈ではないか?

    因果応報の世界に組み込まれてしまうような「間に合っていればいい」ではもったいない解釈ではないか。

    ただし、本人の自由でもある、常に感じないでいることも出来るのだ。本人の言葉によって制御されているのだから。

    自然の一部である私もあなたも、繰り返し同じサイクルはない。

    ゆえに、食べて、出して、寝るだけを繰り返すような存在ではない。

    「面倒くさいという言葉は、できるだけ使わないようにしなさい」とは、三浦理事長の言葉である

    口癖のようにしていると、何でも面倒になり仕舞いに生きていることさえ面倒くさいと思ってくる。

    学ぶことも同じである。簡単に済めば得をする、”楽”をして学ぶことではないだろう。

    時間をかけずにマスターできるような学びとは、それだけの深みない学びでもある。

    「名月や クルミのなかに 殻ともに」
                    〜敬郁、詠む〜

    クルミも丸ごと味わっていられる感性あればこそ、見上げる今宵の月こそ名月になりうるのだろう。

    硬い殻があって面倒、手間がかかる時間を割く、簡単に食べにくい、噛み応えもある。

    手間をかける価値がある。美味しく頂くからには、簡単じゃないから有り難いのだ。

    道はある。磨き上げていれば観得てくる。

    成すべき事を積み重ねによって意識できるなら、何かに成ることを優先するのではなく、

    何かを為す存在であろうと意識できるはずだ。

    ゆえに、”手段”と”目的”を取り違えては困ることになる。

    自分自身が為すことは、自分の中にしかない。だから感覚はききわけているのである。

    それは、目に見ようとしている限り、観得ないものなのだ。

    (焦らなくてものんびり掴んでいこう!)
    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 『人間原理』

    重力が面白い。

    重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る (幻冬舎新書)

    重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る (幻冬舎新書)

    地球は、太陽から150億メートル離れているので安定している。
    電磁気力は、正の電荷を持つ陽子の反発力を安定させている。
    陽子は、電子の約2000倍の重さを持って安定している。
    重力は、弱いので安定している。

    地球が、太陽から今の距離より近くても遠くても海や生命体は生まれなかった。
    電磁気力が、今より弱くても強くても星や生命体は生まれなかった。
    陽子が、今の電子より重くても軽くても星やDNAはつくれなかった。
    重力が、今より弱ければ恒星や惑星は塊となれず、強ければブラックホールに崩壊する。

    例に挙げた如く、あまりにも人間にとって都合のいい調整を「人間原理」といい、
    絶妙なるこのバランスを、
    ”知的生命体”が生まれないような宇宙には、それを観測するものもいない。
    そのように、絶妙に調節されている宇宙しか観測されないからだ。
    この調整具合は、不思議ではなく、当たり前だ・・・と前提する仮説らしいのである。

    「身体運動の法則」
    橋本敬三師は、「からだの使い方」「からだの動かし方」をまとめて三法則と一相関性とした。
    そこからも繋がっている。
    途轍もない、途方もないバランス現象のなかで、私達は生かされて生きている。

    更に三浦寛理事長は、「からだのつかいかた」「からだのうごかしかた」を深化させている。
    だから「操体」を学び続けている。自然法則を感じるように、今もここにいる。

    急ぐことはない。ただ知らないと滞ってしまう。自然の法則はバランス現象だから。
    自然法則に適うために、三法則ではなく+αは生まれ、一法則ではなく+αは生まれる。

    人間原理という仮説も、「操体」ならば説明できそうだ・・・ウソかホントか学んでみては如何?

    (バランス良ければ重くても自然と寝るもんだネ)

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 『陰陽の前後』

    僕らは星のかけら 原子をつくった魔法の炉を探して (ソフトバンク文庫)

    僕らは星のかけら 原子をつくった魔法の炉を探して (ソフトバンク文庫)

    〜波動の性質とはなにか〜アルファ粒子の振る舞い〜
    一つに、粒子には出来ない様々な事が出来る。
    粒子では出来ないが、波動は角を曲がることも出来る。
    だから、目には見えない相手の発する音波をも聴くことができるのだ。
    光が飛び越えることを許されていない、隙間を飛び越える能力もあらゆる種類の波動に共通する性質である〜

    三浦理事長の語る”波動”とは、”意識”とは、そもそも”波動”とは・・・。
    これを学ぶうちに、星について、宇宙について興味を持ってしまった。

    「私達は、宇宙の片隅で形をなし、意識を持つまでになった。
     私達は、自分たちの起源について考え始めた。
     星屑が、星について考えている」
                    =カール・セーガンの著書「コスモス」より=

    人は何かと現象を2つに分けたがったり、原因を1つに特定したがる。
    だが実際は、はっきり2つに分かれるものなんてほとんどないし、
    原因を1つに特定するなんてナンセンスともいえる。

    例を挙げれば、それを超えているもにの父がいる、超えていくものに母がいる。
    そして超えてきたものがここにいる私達なのだ。

    空を観る、星を観る、宇宙を観る。

    陰と陽がある。
    男と女がある。
    凹と凸がある。
    そして、
    陰陽にいまだ分かれていない状態を知る。
    三浦理事長の若かりし頃に橋本敬三師の語られた、陰陽未分の一なる存在。
    そう。間に合ってればいいバランス現象を学ぶことになる。

    正しいことは振りかざすように考えている人にはわからない。
    負けてはいけないかのように考えている人にはわからない。
    病気になってはいけないかのように考えている人にはわからない。
    死んではいけないかのように考えているひとにはわからない。

    そんなことはお構いなしにすらりすらりと生きている。
    奇妙にみえるほどの自然な振る舞いはとどまることを知らない赤子脳。

    大人は間違うこともあるけれど、乳児は間違えることはないのが面白い。
    損することなどどうだって良い、ミルクが残っていても飲んでくれない。
    そんな所作にみとれてしまう、ただの一人、欲のない、いとしい一人。

    とどまっていたくてとどまっているのは勝手な自分の癖。
    とどまっていられないのは本当のイノチをしっている、からだそのもの。

    なにを満たしているのか?少しは考えて活きてみせい!!

    そう叱咤されている今日この頃である。

    [夏よまた来年あおう!
    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催