カテゴリー: 岡村郁生(おかむらいくお)

  • 『源流』

    初期の操体法は、当時の高橋迪雄氏の行っていた正体術の影響を受けている。
    現在も、たにぐち書店から高橋迪雄氏『正体術矯正法』現代語訳版があり、そのサブタイトルには『操体法の源流「正体術矯正法」』とある。
    私の場合、操体法を学び始めた後、かなり経過してこの書に目を通したからなのかもしれないが、あまり似ているとは思えなかった。
    実際に詠んでみるとわかるのだが、高橋迪雄氏の「正体術」と橋本敬三師の「操体法」の違い・類似性に関しては表紙以外に記載はないのである。
    ではどうして、操体法の源流とサブタイトルがあるのだろうか。それは現在において「操体法」に知名度があるからなのだろう。

    さて、橋本敬三師はいったい「正体術」のどこに興味を引かれたのであろうか。

    患者に痛いことを我慢させて治療を行うよりも、痛いことをせず治療できるのであれば、それにこしたことはない。
    さらに、からだの構造をどう捉えるか。じつは、からだの構造を家屋の構造に例え骨格を柱に見立てるののは「正体術」に記載してある。
    また、患者自身にこちらから指示しつつ動かさせておき、ある程度のところまで来たら一気に脱力させることで臨床的変化を期待すること。
    実際に行うことも、背臥位にて片方の下肢を伸ばすこと、両肘と踵を支えにしたまま臀部を持ち上げて落とす等、その動きだけを見るなら共通項となる。
    つまり、道具や器具を使わず、実際に動きをとおしていることは共通しているのだ。

    では実際に「正体術」にはなく、「操体法」ならではの特徴はなにか。

    「正体術」は、患者の抱えている症状疾患に対して、身体のゆがみかたとの関連を臨床的にとらえて歪みに対処するのだが、
    操体法」では、はじめから患者の抱えている症状疾患には囚われない。
    つまり、例えどのような状態でどんな症状疾患であったとしても、ボディーの歪みに注目しているのである。

    「正体術」は、身体の歪みが発生することの理由には、各患者の重心の偏りかたに注目し、これによって歪みが発生しているとみているのだが、
    操体法」は、重心とのからだの変化に注目しつつ、一人の人間その本人の生き方の自然法則随順性を現時点での結果とすえる。
    その結果とは、”生き方の自然法則”において、あくまで最低限・最小限の自己責任分担における結果をボディーの歪みとなる発生理由としている。

    この”生き方の自然法則”とは、
    「息」「食」「動」「想」に「環境」の要因を加え、それぞれがそれぞれと関わりあい、補い合ってバランスをとっているのだ。
    バランス現象には”原始感覚”こそ大切なのであり、「快適感覚」がその鍵を握っているのだ。

    それにはそれぞれに自然法則の範囲もあり、それに随順してはみ出ることなく、自然法則のなか有り難いと感じていれば十分に間に合っていられる。
    それぞれの要因には専門家がいる、それぞれ自然の法則について大切なこと知っていて指導もしているプロがいる。
    ただ、一つのことを説明し完璧にしたとしても、「食」ひとつで人間の生活は成り立っていないように、それぞれ”同時相関相補性”なのである。
    故に橋本敬三師は、”生き方の自然法則”において「操体」では無知ではじまる自然なバランスの崩れをボディーの歪みとして、「動」に着目し臨床的に診ていった。
    ここでもう一つの法則性を挙げており、それこそが「操体」における指導において最重要となっている”身体運動の法則”なのである。

    からだのつかいかた。
    からだのうごかしかた。

    これは自然の法則に適う、そのためにルールがあり、そのための作法もある。
    これをみにつけて、”からだ”で知っているからこそ、”自力自療”が成り立つのである。

    先人の知恵をまとめ上げるだけでなく、ここまでわかりやすく、誰にでもできるように無理のないようにしたのが「操体法」といえる。
    やはり「操体」は、自然法則における応用貢献を率先して成していった橋本敬三師の哲学思想を抜きには語れない。
    そして今もその意志を継ぐ、直弟子の学びに触れてこそ「操体」を感じ取れるのである。

    そしてどうやらその機会は、本人が望めばいつでも開かれているようだ。有り難いことである。
    迷える子羊にも、飢えたオオカミにも適うようにここで早速ヒントを与えておこう。
    まず、手始めに来月に開催される”秋季東京操体フォーラム”に参加してみると良いだろう。

    [
    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  •  『恩恵』

    今日からブログを担当致します岡村です。一週間よろしくお願いします。
    ある母親は、自分の子供が行動しうるであろう先を読み、自らの子供の選択を命をかけて理解していく。
    ある母親は、万人に危害が及ぶ可能性を背負いつつ、自らの子供の選択を命をかけて理解していく。

    橋本敬三師は、人間の設計(NHKのラジオ)のなかで大自然のおっかさん(お母さん)と言っている。
    おっかさん・・・大自然・・・母なる存在・・・所与・・・自在にあるもの。

    さて、現代の医学は本当に素晴らしい。それはIPS細胞は勿論、一世紀前には信じられない夢の実現のようだ。
    ノーベル医学賞における臨床研究をはじめ、人類において価値ある素晴らしい研究を枚挙に暇が無く進歩し続けている。

    この点とも重なってくるもう一つの特徴。
    それは、多くの場合客観的であり、他覚的に症状や疾患を診断し、その検査結果を詳細なデータによって特定し、治療方針を決めている。
    これは逆を言えば、客観的なデータをそろえない限り・・・要するに、正常値を超えない限りは主観的な愁訴だけでは診断しにくい。

    医師であった橋本敬三師も、医師行為以外となっている民間療法や養生法についてある時期研究されていた。
    そしてそれぞれの人間は”この方法で治す”と良いと考えているが、やっていることは、”ボデーの歪み”をみているのだ。
    つまり、歪みを起こしているボディーをそれぞれの方法で元に返しているのだと理解された。

    これは、医療である建前よりも、自然界に備わっている真理を捉えていく橋本敬三師ならではの非凡な捉え方といえるであろう。
    一定の臨床データに囚われない視点、それは客観的な症状であっても自覚的な症状であっても成立しうる、健全なる健康観、疾病観だと言える。

    改善しにくい患者の要求とは、他の療法に流れていくケースも多い。
    それは、健康であった時には存在しなかった、一抹の不安が改善されていないからであろう。

    では、ここまで進歩してきた医療においてさえ、人間を不安に陥れてしまうりゆうとはあるのだろうか?
    一つに、生死における哲学の欠如はどうだろう。要するに宗教における受け入れ理由を現代医学は無視してしまった傾向にあるのではないか。

    等しく人間は産まれることによって存在し、等しく人間は亡くなることによって存在に戻るのである。
    そこにはダイナミックに変化するサムシングがある。
    それこそ、生と死を分けずにすむサムシングなのである。
    生体とは死体ではなく、死体とは生体でもない。
    なのに、根底に共通しているサムシングはあり、根底より分割したサムシングもある。

    操体を学んでいるといくつもの問いかけに戸惑うときがある。そこには答えていく面白みもある。

    「ボディーの歪みっていうけれど、いったい・・・ボディーの何が歪んでいるの?」

    「辛い方から楽な方へ動かして治しているのと、きもちのよさを味わって治っていくのはどう違うの?」

    「最先端の再生医療において疾病の改善していく恩恵を受けることは、自然の法則に適っているの?」

    それに答えられる学び。それが温故知新によりしている操体法であり、操体つまりの橋本敬三哲学の恩恵なのである。
    [ ]アザミ花言葉は「権威・触れないで・独立・厳格・復讐・満足・安心」

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 指先に光を見て空に明星を眺め、それを虚空に感じる

    今週のブログ担当は、海開きした茅ヶ崎の海からお送りするブログ、
    担当は”神龍”にギャルのパンツをお願いしてしまいそうな岡村郁生です。一週間宜しくお付き合い下さい。

    さて、湘南の夏といえば皮膚の露出度上昇、そして健康的日焼けといえば佐助氏。
    人体にとって、目に見える光は可視光線です。これってエネルギーとしては弱いんですね。
    太陽から届く赤外線はいくら浴びて暑くても、皮膚上のメラニン細胞は刺激されません。
    目に見えて感じにくい可視光線も同様です。メラニンに反応するのは紫外線で、浴びれば日焼けします。
    基本的に弱いエネルギーは長い波長、強いエネルギーは短い波長、X線やγ線はもちろん短い波長です。
    そもそも当たり前に思い込むこと、見逃してしまいそうな驚きってこういう事なんですよ。
    驚きませんか?人体の皮膚には、このように”光=光子”を選別する仕組みが備わっているんです。
    意味があって、創られているんでしょうね〜。
    閑話休題
    それにしても「操体〜ケイゾーコード〜」として読み解きする秋穂氏、同志ながら素敵でしたネ。
    博多人の民族意識、その誇りも社会意識から、「操体」に意識で繋がっていると感じました。
    スイッチオンしても省エネ、生命に優しいクリーンエネルギー、そんな自分にワタシモナリタイ。
    それなら「操体」をまなぶことですね(エッ?強引じゃありませんよ)
    どうせ学ぶならファン”の一人でなく、橋本敬三先生の目指した先にご一緒しましょう。

    というわけで・・・さてお立ち会い!ハイ〜皆様、今日は何の日かご存じ?
    エッご存じでない?それはちょっと困っちゃうな〜(笑)
    明日ほど特別な日はありませんヨ。だっていよいよ“操体ライブ”イブ(=前日)じゃないですか!
    家庭の朝ご飯に夕べのおかず、ピーカンの晴れ間に洗濯もしないでも許されてしまう日。
    操体に関して興味を持つ方なら、なにを差し置いても優先されてしまう日。
    既婚者はハニーに笑顔で挨拶!これだけはしなければなりません(笑)

    お姑さんが引き留めても大丈夫!参加して下さい。なんと言っても、操体歴46年なんですから!
    そこのあなた、その大きな顔で考えてみて!誰をみてるの、あなたよ〜、そのナウイ顔で考えてみて!
    生まれてから大人になるまで約20年以上生きてきたじゃない。
    そうです、成人と認められるまで育ってくるだけで“十七万五千二百”時間もかかるのです。

    そ・れ・が、『操体マンダラ 三浦寛 Live ONLY-ONE 46th Anniversary』の神髄。
    成人×二倍ではありませんよ。“操体を知ってからファン歴46年”でもありません。
    (いくら橋本先生の近くで学んでいたとしても”ファン”と”弟子”では雲泥の差なんですよ、これホント)
    弟子である三浦寛先生は、哲学者であり医師橋本敬三の遺志を継いでいるのです(ここはしゃれじゃないッス)

    実に”弟子”としての責任を果たしつつ、操体に携わる。
    それが今や“四十万三千時間を超えているっていうんですから・・・これは途轍もないですよ。
    ”温古”である”比較対称”の分析「楽」をききわける操体を、臨床として”知新”していく。
    深める臨床とし、この意志でこそ“快”に繋がったのです。
    かつ、「操体」および「操体法」の”指導者”として、
    「からだの要求」をききわけている「快」を追究、今もその継承に研鑽し、
    操体」に関しては露ほども妥協しない、意志を姿勢としてを貫いた46年以上なのです。

    弟子についてちょっとだけ説明しましょう。
    そもそも三浦寛先生は、創始者橋本敬三先生の認めた”正式な弟子”なのであります。
    (今も続いている操体を学ぶ登竜門、操体法東京研究会の当時の顧問は橋本敬三先生です)
    あの橋本敬三先生の奥様も、
    「三浦さん、おじいちゃん(橋本先生)が認めたんだから大丈夫!安心して学びなさい」と、語ってくれたそうです。

    そして仙台「温古堂」で、五年間の弟子修行時代を経て、師である橋本敬三の命を受け、「ハイ」と一言(パパン!)
    親も親籍もいない東京に出て操体を修めつつ広げ、東京の日本から世界へと、そして宇宙へと・・・、
    操体」を師である「橋本敬三先生からお借りしている」と公言してはばからない謙虚で学ぶ姿勢を貫き46年(パパン!)
    いまだに師と繋がっているのですヨ。

    皆さんに、伝えたいことは師の意志なのです。
    ただ、ただ、操体を自分のイノチよりも大切にしてきた一人の人間が今操体を語る。
    操体のために自分の命をも捧げている三浦寛先生の想いで行われる「ONLY−ONE操体LIVE」なのです。

    これ以上はなく、これ以下もありえない・・・・それこそ“一期一会”の一日。明日も明後日も、師の意志を操体を語ること。
    その長い間にわたって創始者橋本敬三医師の意志を継ぎ、操体を受けたいだけではなく、
    更に”操体を学びたい”という人に、操体の種を蒔くたいせつな任務を“四十万三千時間”を超えて通しているのです。

    いいですか皆さん、泣いても笑っても準備は“今”しかありませんヨ。
    ワタシも一人の参加者です、ともに時空を超える学びの生き証人なのです。

    我が身の光を感じながら早起きして、東京の千駄ヶ谷津田ホールにてお会いしましょうネ!

             もっと近くにあるのに・・・ネ

  • 操体は無知(無明)を救う

    仮に『からだ』は困っているから、間に合っていないから痛みを生じて訴えている。

    と、考えてみては如何だろう。

    (〜『からだ』の本音〜)

    『からだ』は困っていればこそ、本人に気付いて何とかして欲しいのだろう。

    しかし、本人は知らぬ存ぜぬで『からだの要求』を「無視」している。

    仕方ない、とにかく反応しよう!と思ったのか『からだ』は「刺激」でも反応することにした。

    『からだ』からすれば、「無視」されるのは「刺激」より残酷なのだから。

    そのうち本人は、「刺激」を本人の『からだ』に与えていれば良いんだと決めつける。

    疲れてきた本人の『からだ』は、「刺激」に反応するのを少しづつ止めてみた。

    きっと本人もいつの日か気付いてくれるはず、と。

    そのうち「刺激」にはあまり反応しなくなり、本人の要求は通せなくなり、『からだの無意識』は訴えを大きくなる。

    途方に暮れる本人(の欲)と・・・『からだの無意識』。

    そこに『からだの無意識』へ救世主現れる! それは『からだ』の要求である『イノチ』へ問いかけた『快』。

    『イノチ』は刺激にとりあえず反応しても、本人(の欲)を意識的に変化させる『からだの無意識』までは関与しなかったのだ。

    そう・・いままでも、ここでも必要なのは、『抵抗』ではなく『介助』であり、『刺激』ではなく『接触』だったのである。

    (次回に続く・・・?)

    私も以前はD1専門でありD2を知らなかった。

    鍼灸接骨院で開業以来、一年間は第一分析しか知らなかった。

    二年目に初めて操体法治療室を読んで興味を持ち、操体療法東京研究会に参加して学び、第2分析を知った。

    受け手の『からだ』に感覚をききわけること、操者に一任された操法を行って違和感を生じているのは、

    『からだ』だったのであり『快』の意味を感じた。

    結局『楽』を通すのは、『からだ』にとっては、本当に『楽』にならない。

    『快』を通してこそ『からだ』には、『楽』というバランスもとれてくる。

    操体法』を治療法として見ているだけでは『操体』はわからない。

    今から『操体法』と『操体』(橋本敬三生の哲学思想・生命観・死生観を含む)を学ぶのであれば、

    操体』の応用範囲たるやとてつもなく、だからこそ、本気で、本腰入れて、本音で学んで欲しい。

    操体法』には歴史があり、それによってよりシンプルに洗練されている。

    まず、橋本敬三先生が体系化されて、同世代の先生が指導される『楽』を通していく『第一分析=D1』

    橋本敬三先生の直弟子三浦寛理事長が『操体』を継承し、『快』の具現化して体系化してきた『第二分析=D2』

    八方塞がりで全く動けない。こんな場合にはどうするのか?、『操体法』の盲点に気がついた三浦理事長が、

    横紋筋系骨格系にアプローチできない感覚を主として、皮膚を含む体壁系に『快』を具現化された『第3分析=D3』

    そこに至るには、どういう人間が携わって来たとか、どういう役者達が関与したのだろうか。

    ある以上『操体』の文化としての一部であり、実技としての関わりにも納得できる理由を感じる。

    少しづつ段階を経て学んでいく。歴史を外すと勿体ないだけでなく、歴史を踏み外すと恐ろしい。

    大切なことは、D1D2を飛び越えて『D3=第三分析』から教えて欲しい、などと欲張らないことでもある。

    焦らずコツコツと、間をはかることで充分間に合っていればいい。

    (つづき)

    『イノチ』を通した生命観は、『操体』を学ぶなかで決して外すことのできない『原始感覚』に繋がっている。

    『原始感覚』とは『救い』と『報い』に関わり、『操体』ひいては『操体法』を学ぶ上で欠かせない操体用語ともいえるだろう。

     (※紹介:これは”根っこ”であり面白い!橋本敬三先生も顧問だった三浦理事長主催の操体法東京研究会で学ぶのをオススメする)

    ワタシ自身の言葉も入れての説明をするなら、『イノチ』は勿論『からだ』の元になっており、(漢方医学的解釈で『元気』に相当)

    『からだ』は『からだの無意識』を通して、『本人の意識』と『接触』しているが、本人の欲を含め『心』を入れた『五感』では、

    偽りの満足つまり、『刺激』の『快』に妄想を含んでしまうこともあり、

    『原始感覚』と繋がっていながらも『五感』は鈍り、曇ってくる。

    それは、自在しているのにわからない。太陽が雲に隠れているのと似ている。

    その曇ってしまいがちな本人の意識を、

    『からだ』の要求に適う『操体法』の『接触』や『操体法』の『介助』によって識別された『快』は、

    『原始感覚』を磨き上げ、かつ『からだの要求』を満たすことで本人の要求を満足させてくれるのだ。

    よって、今回しつこく書いてきた『からだ』の
    要求とは、『操体』を学び『操体法』をとおすこと『快』の学びとなる。

    操体における己を育てる四訓)

    一、『楽』をしっかり学び 『楽』の運動分析の意味を放すな

    一、『楽』な運動分析を一旦放せ 感覚分析である『快』は放すな

    一、『快』を識別して妄想は放せ 『からだ』の要求する『快』は放すな

    一、『意識』を通して『楽』を放せ 意識を通して『快』を放すな

    するとどうだろう?自分の歴史を認めている、今の自分自身に出会えるのだ。

    突き詰めていくのが哲学、それなら『操体』は自分自身哲学そのもの。

    私自身の生命観、死生観を言えば(死ねた瞬間に回想できると仮定)

    言い訳もなく、反省を生かし、間にあったのかな〜と微笑みながら、

    からだに残った息をあつめきって「ホッ」と一息、最期に『快』を味わいたい・・・そんなことを考えている。

    自分で書くのも何ですが・・正直読みにくい(笑)ワタシのブログにお付き合い頂きありがとうございます。

    明日からは、『操体』の『操体法』の”編集”実践者、畠山常任理事の登場です。お愉しみに!

    それでは皆様、春季東京操体フォーラムでお会いしましょう!
                                          岡村郁生

    2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。

  • イノチに言い訳しない

    操体を学んでいると、色々な気付きを頂く。

    人間は約60兆という細胞で維持できている。

    一日に入れ替わる体細胞数は、なんと3000億個にもなるらしい。

    自分を映しているように見えている鏡は、他者を映しだしている鏡でもあった。

    この世に生まれ落ち、この世を去るまで他者との関わりによって生かされている。

    もっと身近な例を挙げてみよう。

    植物で言えば水分を吸い上げている根っこに相当する、人間の小腸や大腸に棲む腸内細菌は、

    100種類以上100兆個と言われ、成人では1kgを超えている。

    さらに表面の皮膚には、湿度によって異なる微生物が共生しており、

    乾燥していれば1平方㎝あたり1000個以上、湿潤した部位ではなんと100万個を超えている。

    他の部位を含めた場合には、自分の細胞数60兆のその百倍になってしまうのである。

    操体』との関連で言えば、要するに生き方の自然法則であり、環境のことに繋がる。

    つまり細胞レベルでミクロの視点であれば、自己と他者の境界とは、限りなく曖昧になってしまう。

    これは、成せる者が成すように、真理を分け合ってできているのであり、

    与えられたモノゴトを、噛み砕こうとする努力を忘れなければ、

    見えなくてで説明できないことも、説明できるようになり、

    みる人しかみえないことを、こちらでも”観える”ようになっていく。

    操体法創始者橋本敬三先生は、さまざまな機会において、

    「気持ちがいいか悪いかってのは、患者本人に訊いてみなきゃわからない」と語る。

    つまり、患者の動きひとつにもオクタント(極限安定律)で分類すれば八方向に動かせる。

    その『楽』な動きを分析して(=運動分析)一番『楽』な方向へ動かして、

    一番感じの良いところで『撓め』をつくったのち、瞬間的にかつ急速的に力を抜かせる。

    これが初めに動きありきの『D1=第一分析』の動診と操法

    その一番感じの良いところとは、簡単に言えば、生命にとって最も負荷のかかった部位でもあり、

    それを作ったのは、誰でもない本人であり、ルールの積み重ねであり、その通信簿の指導記録となる。

    ではなぜ、負荷はかかったのだろうか。

    それは、本人の行う最小限・最低限の責任生活必須条件を満たしていないから。

    『息』『食』『動』『想』+『環境』にある法則性、これだけは知っておいたほうがいいルール。

    これを患者本人に伝えていく理由もここに生じてくる。

    だから橋本敬三先生は面白いことを放言する。

    時に内弟子にはこんなことも・・・。

    「相手の気持ちがいいってところがわかる、これがプロ(フェッショナル)だ」

    つまり、感覚を磨きなさい、経験を積む中でしかつかめない感覚なんだから、というのである。

    そして三浦理事長は『操体』および『操体法』を継承していくなか、

    真理から成り立つ法則を、操体法として具現化して指導している(詳しくは操体法東京研究会で検索)

    勿論、簡単ではない・・・がかといって、

    ・自分にはできるはずがない。「言い訳しているけど、何が問題なの?」

    ・できる人は特別なんだから。「言い訳はいいから、何が問題なの?」

    三浦理事長の『操体』には”迷い”がない。ここを理解していく過程こそ学びとなる。

    操体』は次世代に入ってしまったのである。そんな言い訳を吹き飛ばしてしまうのだ。

    積み重ねて突き詰めていく価値はある。このように橋本敬三先生も書いている。

    「私くらいの経験があれば患者に聞かなくても、 気持のよいところも緊張がとれているかどうかも、

     指の感覚でわかります。これは経験を積むなかでしかつかめない感覚です」

    とあり、ワタシの言葉で言うなら・・・、

    知っていればなおさら、知らない人はそれなりに『第一分析=D1』で『操体法』を通せる。

    知れば知るほど、唸るほどの納得を繰り返し通してみて『楽』と『快』の違いを理解し『第二分析=D2』を通せる。

    玉手箱かびっくり箱か。ワタシも開けておいてよかった、ウソか本当か試してみて救われた『第三分析=D3』

    学んでいれば、飽きることなんてありえない(これ本当)

    例えるなら、入り口もはじめはパンダに似て友好的なので、誰でも「ニーハオ!」というイメージ。

    しかし、パンダの行動は今もってなお不可解なことが多い、例えば一緒に寝泊まりまで出来ない(理解できていないから)

    ともあれ・・・今月22日、千駄ヶ谷駅すぐ目の前、朝九時に開く津田ホールにて・・・皆様をお待ちしております。

    今日もあなたに学ぶ。『からだ』にありがとうございます。

                                             岡村郁生

    2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。

  • 記憶と味覚と嗅覚と・・・

    操体』は『天然自然の法則』として成り、『操体法』は応用貢献を成す・・・。

    橋本敬三生の哲学に触れるコトは、生命の波動感覚に触れていることでもある。

    青春とは肉体の”成長”における一時期ではなく、

    自己探求があればこそ味わえる生涯の糧であって”生長”なのだろう。

    学んだことはその瞬間から生かす工夫をする。自然法則に適うように今の『環境』に向かい合う。

    (『食』の同時相関相補性)

    食べ物の好き嫌いはあるかどうか聞いてみて・・・納得すること。

    記憶されたトラウマにより、今でも「鶏」は食べないと、数人から聞いたことがある。

    共通しているのは、卵を産まなくなってきた雌鶏を食肉化する最中の、首を落とした時に、

    首の無い状態で走り回ったらしいのだが、その体験をして二度と食べないらしい。

    これは一例だが、確かに『からだ』を通していても『食』に『想念』は関係している。

    以前三浦理事長との個人レッスンでも同じようなことを聞いた。

    人は肉食をするよ。それはいいんだけれども、肉食をしている限り、

    この世から○○は、無くならないんじゃないか、という話だった。(あなたなら、何を当てるのだろう)

    『食』は、『息』『動』と『想』の二番目に並んでいる。

    『息』と『食』は生命エネルギーの入力、『動』と『想』は出力であり、生命エネルギーの循環。

    それは私達という存在、つまり個体を維持するうえで欠かせない。

    欠かせないから『操体』では、最小限度の責任生活において、必要不可欠な条件としている。

    例えば肉を食べるとき、歯の位置関係からいえば、門歯8本・犬歯4本・臼歯16本のバランスを知る。

    つまり人間の場合、肉類1に対して野菜類は2、穀物類は4のバランスで調和する。

    以前のフォーラムで発表した時に、年齢に応じてのバランスを考えて欲しいと提案した。

    つまり、母乳の終わる時期、乳歯の生えるのは門歯である(野菜類)

    幼児〜小児期は乳歯のバランスが、犬歯4:門歯8:臼歯12であり、肉類1:野菜類2:穀物3である。

    そして、壮年期以降は人それぞれで面白い。

    乳児期の親との関わり遺伝関係とも関わってくる要因『環境』だが、早々に入れ歯を必要とする人も”いれば”、

    全く虫歯のない自前で過ごせる人もいて、親知らずに至っては早々に萌出する人も、亡くなるまで萌出しない人もいる。

    鏡があれば自分の歯を診て欲しい。自分の歯茎を愛おしく思えるのか観て欲しい。

    ここにも自然法則は『からだ』を通して因果応報(=『報い』)を現象として表していないだろうか?

    方向を変えよう。ある登山家の話だが、出来るかぎり手持ちの食料を持たず、サバイバルで登山をするようになり、

    始めは手に入れやすい川魚を釣って食べていても、そのうち獣を狩る(野生の鹿やウサギ)ようになり、

    今までは平気で口にしていた肉に感じる意識と、想いの意識がガラッと変わってしまったというのだ。

    それは、殺生を人に押しつけていたのでは、一生わからない感覚を『からだ』を通して感じたのだろう。

    『食』は人間の根っこに通じている・・・『食』は深い。

    その方向性は、自然法則のなか、生かされている『イノチ』に辿りつく。

    ここに至ってなお、『食』の問いかけはスタート地点に過ぎないのだろう。

    三浦理事長曰く「美食三昧とは、舌に極楽、腹地獄」

    これでは本人の欲まみれであり、『原始感覚』はますます薄れていくのだろう。

    ポイントは、ちょっと今の『食』では恐いなって感じてしまう、自分自身を観ること。

    「いただきます」という意味は”食べ物に感謝すること”はたしてそれで終わりだろうか。

    これは『からだ』にとって自然なのか問いかけてみる。

    自然法則に適い、常に実践しがたいのも『食』なのであり、それだけ自我の欲求を通してしまう。

    私自身は「ありがとうございます」の意識に、「いただきます」を『息』で通して、『食』を通していた。

    これで十分だと思っていたのだが・・・最近ほぼ同時期に、三人の尊敬している方達から同じことを聞いた。

    「一日一食で十分」・・・と。

    調べてみると理解できると思うが、確かに狩猟をしていた頃の日本人は一日一食であり、

    日本人も農耕を始めて一日二食となり、貧困層との量の違いはあっても富裕層も同じ二食だった。

    そこに道元禅師が中国から三食を取り入れ、江戸時代中期〜明治時代にかけて三食にかわった。
     
    要するに、三食キッチリ食べるようになったのは、ここ百年そこそこなのだ。

    十年前に五日ほど断食を経験し(風呂場で意識を失って終了した)

    一年間ほど玄米菜食主義を実践し(『想念』とのバランスに疑問を感じて終了)

    面白い!この問いかけは変化して、脳にフィードバックする感覚意識もハッキリとある。

    久しぶりに『からだ』と自分自身のききわけを『食』に相関しながら”遊んで”愉しめる。

    実感して味わって感謝する。たったこんなことで『からだ』への感謝祭となる。

    橋本敬三先生も「自分から有り難いナ〜って思わなければダメだ」と話されている。

    そんなことに”今”も気付かせてくれる『からだ』。ありがとうございます。

                                            岡村郁生

    2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。
    見えないけれど観ていれば根に魅入ってしまうのかな

  • スタイルを繋ぐ

    操体』を、そして『操体法』を学んでみようとするなら、ポイントはいくつかある。

    そもそも、本来競争して一番を決めるようなものじゃないってこと。

    操体』は「何でも受け入れることのできる、大きな器である」と知り、

    三浦理事長はそれを捉えて、

    操体』は「なんでも入れて、生かすことのできる大きな器である」という。

    ワタシの目的もここに繋がっていることを追究している。

    人間以外の生き物は、遊ぶこともほとんどない。

    遊んでいるように思えても、それは生き抜くための手段の一部で純粋に遊んでいるわけじゃない。

    ただ、カラスは特殊で遊びの意味を知っている希有な動物という説もある。

    そう考えてみれば、『烏合の衆』という意味は不自然で、カラスのように規律も規制もなく、

    ただ、集まっているだけのうるさい様子を表現している比喩は不自然であろう。

    この比喩自体も、カラスの研究によると不自然であると証明された。

    実は烏(カラス)とは、仲間の声と姿を判別して学習し、同じ仲間でこそ呼応する。

    その実験では普段から一緒にいるカラスを捕まえてきて籠に入れ、網越しに対面させた後カーテンで仕切り、

    そのうちの一羽を取り去った後、録音してあった数種類のカラスの鳴き声を聞かせると・・・、

    全く反応しない鳴声と、カーテン越しに何とか姿を見届けようととする鳴声があり、後者は勿論仲間のカラスなのだ。

    橋本敬三先生は生前、”ずるいカラスの野次馬になれ”と言っていた。

    ずるいカラスの野次馬。その意識とは別の意味となり、自分自身を捉えなおすことに繋がってくるだろう。

    間にあっていればいい。その意味も絡め、改めて深い意味を感じて欲しい。

    なぜなら、怪訝さを感じ取る原始感覚とは自分の内にあるのだから・・・。

    花は、なぜ美しいのか? それは、やっぱり理屈じゃない。

    美しいと感じる何かであって、花にも個性はあり、咲いて花にも理由はある。

    今は『操体法』の代名詞となった、「快をとおす」「気持ちのよさがあればいい」

    『快』にも理由はあって、それこそ”何でも乗せる”ってわけじゃない。

    『快』にもちゃんとルールはあって、「きもちがいい」ってことをわかるようになってる。

    かといって、決して窮屈じゃない、そこまで知ること。

    感じ取りながらバランス取っていけるように、ホントに上手にできているってこと。

    学び続けるコツの一つ、”遊び”と言う意識のエネルギー。

    遊びの意識、このエネルギーこそ、橋本敬三先生の話していた”カラスの野次馬”だろう。

    「続けていく」だけでなく、操体をワタシの命に繋げてくれる。

    命につながるってコトは、それだけで絶対的安心感となる。

    これを感じて更に愉快になってくると、自分の本質につながって『操体』はより自分自身に繋がってくる。

    だ・か・ら、有り難いんだナ〜と、実感するのだ。

    しかも先には先があり、極まらない・・・やっぱり、ワケがあるんだナ操体には。

                                   岡村郁生

    2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。

    根っこをみれば繋がってくるよ、と植物は教えてくれる。

  • 「スタイルは青春」

    山本五十六氏の言葉。

    「やる気を起こさせ やってみせ

     やらせてみせて 合点させ

     はだかにならねば 人は動かじ」

    ある意味その通りである。

    他者にいくら素晴らしいものだからやりなさい、と言っても、

    まず、やる気がなければやらない。

    動いてやってみせなければ見えない。

    それを観る段階になったなら

    体験させてみて それを言葉で納得させ

    自らと他者は無くなり そのまま感じたままに

    ああそうかという前に 動いていくのだろう。

    自然法則を観ること、その言葉を受け入れること

    臨床に生かすこと

    操体』を学んでいれば『報い=因果応報』も少しづつわかってくる。

    しかし、その醍醐味は『救い』と『報い』のことを学ぶことにある。

    ワタシも『救い』は全くといって良いほど知らなかった。

    なので、初めて東京操体法研究会(当時操体療法研究会)で学んだ時、

    橋本敬三生の哲学思想『操体』の教えている『救い』の内容は凄いことだな・・と、

    感じて鳥肌が立ったのを十数年経過した今もハッキリ覚えている。

    『報い』を知っても『救い』を知らなかったらワタシはそれで満足しただろうか?

    『生き方の自然法則』このことを知らずに『操体』を語るのはワタシは悲しく感じ、

    操体法』を治療法だと思っていること、コレも同じように悲しく感じる。

    例えば、「力強く運動のように行う操体法」「スッパリ区分けできる簡単な操体法

    そんな考えでは『操体法』の指導者であっても、『からだ』の要求は掴めないだろう。

    ワタシもそうだが『想念』に惹かれて『操体』を学び始め、ゆえに学びを『操体法』に繋げて思考する。

    そもそも『生き方の自然法則』こそ、操体創始者橋本敬三先生、直弟子三浦寛理事長の真骨頂とも思える。

    では、いったいあなたの『想念』は、いま、何に向き合っているのだろう?

    臨床としての『操体法』を改めて考えると、橋本敬三先生の臨床と生命時間の関係は興味深い。

    温古堂にて、三浦寛理事長が学んでいた時でさえ七十歳なのである。

    これはうっかりすると、見逃してしまいがちな驚異的な臨床だと思っている。

    日本の社会、一般的社会人であれば、ほとんど60歳を過ぎて定年を迎えて経過をつなぎ、

    七十歳ともなれば、ほとんどの人は家にいる時間が多くなるのが普通だろう。

    七十歳の橋本敬三先生を弟子時代、まさに目の当たりにしている三浦寛理事長はこう言っている。

    「あの頃の橋本敬三先生は現役バリバリで、オレなんか全く手伝うことは無かったからネ」

    「八十五歳頃の橋本敬三とは違って、患者全てを橋本先生が診られていた」

    「だからとにかく、毎日毎日観ているしかなかった」

    「今考えると、よくあの年齢であれだけの臨床をされていたと思うヨ」

    (※聞いた話では、ある動診の際勘違いしている患者の足で肋骨の不全骨折をしたこともあったらしい)

    失礼を承知の上で書いてみよう。

    ワタシはこの話を聞いてから、高齢になる意味、その生き方の方向性にはとても興味を持っている。

    確かに年齢は関係していない・・・いくつであろうと何かしら青春を感じる方もいて面白い。

    その方達は子供と同じである。無我夢中になる意味、なにかやり続けることの面白さを知っている。

    遊びが始めにあって、後から色々なモノゴトも、自然につながってくる面白さを知っている。

    憧れを諦めない、大き過ぎずチョッピリの夢を紡ぐ面白さは、生き方の法則上とても大事なコト。

    三浦理事長は言う、「夢中になれることには、若い頃から巡り会ったほうがいいヨ」と。

    巡り会ったことに意識を向けていた橋本先生然り、三浦理事長然り、

    若い頃からその分の葛藤もあり(快のことで総スカン等)、何度も考え直し、何回も立ち上がって、

    それでも結論を出さず、充分に”間にあっている”のだから。

    先人からの智慧に感じる面白さを味わい、

    『イノチ』を通して純粋な”意識”にヒントをいただきながら『操体』を学んでいく。

    一生を通じて感動できるなんて、ありがとうございます!という意識しか、感じなくなってしまうまで・・・。

    2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。

    花の名前なんてどうだっていいんだ!大切なのは真理だ。

  • 「スタイルを掴む」

    昨日は三軒茶屋に朝八時集合、そして月に一度の実行委員勉強会。

    三浦理事長と実行委員、学ぶ空気、気付きの確認、緊張ある学びはいつでも有り難いものです。

    感謝できる意識は気付くこと。真理を知ることでもあります。

    学び取ろうとする意識、それは何かを感じ取るためにあり、その結果として感覚器官はあります。

    では、「見る」と「観る」の違いは何でしょうか。

    人間の目というのは外界を見るとき便利のために外に向かい(=見る)、

    目が内側に向いている(観る)人は、あまりいないものです。

    大概において、外ばかり見てしまうものなのでしょうね。

    確かに集中しているようでそうでもないとき、周りのことが気になって仕方ないときには、

    視線が定まらずキョロキョロするか、一箇所を食い入るように見つめてしまうものです。

    視覚を用いて目的と成す言葉には色々あっても、そう一般的でないのが『目線』です。

    『目線』という言葉は『操体用語』です。

    操体用語』とは『操体』および『操体法』を理解し、学ぶうえで欠かすことのできない言葉なのです。

    『目線との相関性』とは、『般若身経』に欠かせない相関性の一つとしてあります。

    操体』の『般若身経』には、『目線との相関性』があります。

    (あとの二つは『呼吸との相関性』、『意識との相関性』)

    それは視線と異なります。視線では認識目標となる対象は点であり、

    目線のとは、流れを識別することを目的にしているからです。

    こんな感じでフォーラムに初めて参加する皆さんは驚くことも多いでしょうね。

    そのまんまで、『操体』そして『操体法』を、直に感じてもらいます。

    特に今回は参加型ですから、実行委員の『操体法』をを見てから観る、受けて体感してみる、

    今まで十年以上行わなかった参加者体験、いや〜本で読んだだけの『操体法』の実際に遭遇できるのでお得です(笑)

    さて、「『第一分析』を習う前のポイントをおしえてヨ〜」と、天の声も聞こえてきました(笑)

    それでは操体法『第一分析』を行う上で忘れてはいけないこと。

    まず操者(操法を行う者)となる場合に大切なのは、

    動診や操法の介助に必要な程度の『重心安定の法則』に、適っていること。

    重心の安定があってこそ『第一分析』の比較対称の動診「楽」の問いかけも可能となります。

    そして、実際に「楽」を問いかけて操法を通す場合において、

    操者側の責任として、操法中の動きに適う程度の『重心移動の法則』は必要ですね。

    その上で『連動の法則』も学んでおいたほうが自然法則に適うのです。

    要するにポイントは、『からだ』の使い方・動かし方の自然法則を実感して学び通すコト、ここがスタート地点です。

    今回の春季フォーラムでは、華麗なる第一分析?を行う実行委員の手ほどきを、

    なんと言っても、直接指導してもらえるチャンスなんですから。

    (いや、正直(ここだけの話)実技指導もレベル高いッ!なんと言っても実行委員ですからね)

    そうそう、臨床上では書籍『万病を治す妙療法』(橋本敬三農文協)に記載してある、

    「動かすコツ、動くコツ」ってのも理解できたら理想ですね〜。

    エッそれはなにかと訊いているんだって?

    だ・か・ら、それは『般若身経』なんですよ。

    お金を払ってタダ来るのでは勿体ナイ・・少し予習して、準備する意識も大切に。

    そうか!と気付いて、今日も『からだ』に、あなたに、ありがとうございます。

                                    岡村郁生

    2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。
    []上もいいけれど下も観てね〜。

  • 「スタイルある学び」

    皆様、おはようございます。

    花の彩り、宴たけなわという風情、まさに天然色の春爛漫。

    そして春と言えば・・・なんと言っても『春季東京操体フォーラム

    今回のテーマもズバリ、

    『温故知新 古きを知って新しきを知る 操体法実技指導』

    実際に参加者に体験して頂けるフォーラム始まって以来、初めての”実技指導中心”のプログラム。

    フォーラム理事長三浦寛、畠山常任理事を筆頭に、私達フォーラム実行委員は自他共に認め合うマニアックな集団ですから(笑)

    勿論、今回のフォーラム実技指導は、マニア向けではありませんが、そのスタイルは、メジャー級に充分通用する内容と自負しております。

    そうです。最先端の学び(第二分析以降)を生かし、型とは何か考えて頂く為のクラシックスタイル(第一分析)なのです。

    分析法の分類を考えるうえで外せない、自然とは何が自然なのか?

    そこに意識を通し、必然性をもって振る舞う。そこにスタイルは生まれるのです。

    操体』を通じて人生観を考え、いかなるときにも美しさを忘れず、受け継いだ型を生かしている第一分析と言えるでしょう。

    そして、『東京操体フォーラム』の支援団体である『(社)日本操体指導者協会』も絶賛間違いなし。

    「一般的に操体法といえばコレでしょう?」という意見に添った学びをも生かすプログラム。

    「最先端の操体法をお見せします、と言われても(敷居高過ぎて)」という意見に添った、とっかかりにも最適です。

    そんなあなたにこの文章をお譲りします。

    (註)『万病を治す妙療法』(橋本敬三著、農文協)まえがきより抜粋。

    「(前略)もう五十年もたってしまいましたが、何とかやっとわけがわかり、

      また、治し方も見当がつきました。そのことをこれから皆さんに説明し、皆さんのご協力を得て、

      自分の体を自分で治し、また悪くしない方法を展開したいと思います」

    「『操体法』は知っているよ、以前読んだから」それはただ読んだだけ。

    読んだことがある。それでは”今”生きていないのです。

    この文章の真意とは、読んだだけでは『わけ』がわかりにくいのです。

    内容をどこまで理解しているのか。”今”も『操体』に意識を繋げていくスタイルこそ大切なんです。

    敢えて言うなら『操体法』および『操体』を現代人に伝えていくには、

    ”今”も学びを繋げる橋本敬三先生の意志を汲み、繋がっている『操体法』を受け取って欲しいのです。

    ”治せるようになって”から、”治すこと”よりその先にあったこと。

    そこまで到達できると、メジャー級を超えてメガトン級に愉快なのが自分自身の学んでいた『操体』なんだってコト。

    私達はもうやっていませんが、運動分析『D1=第一分析』ここから始まる学びは忘れてはいけないのです。

    それでは今日から一週間、お付き合い宜しくお願いします。

                                          岡村郁生 

    2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。

    タツノオトシゴが掘ってある水晶とイスタンブールの蝋燭立て