カテゴリー: 岡村郁生(おかむらいくお)

  • アイム、カミングその⑥

    六日目です、よろしくお願いします。

     

    (続き)

    交感神経も副交感神経も、どちらかが完全に休んでいる状態は、あり

    ませんから、シーソのが如きバランス現象なのです。

     

    その状態を「ととのう」という状態で感じているのは、本人です。

     

    「調える」環境において「整える」ことは、待ち受ける感覚に近いの

    ですから、主体的でありながら、客観的にもなっているんです。

     

    その状態を俯瞰し、段階的に観察している様子は、ワタシ的になぜか

    美しく想えるのです。

     

    それは静かに観察しながら、生じる変化や反応

    を、ゆったりと「からだ」と共に在り、味わっているようなものです。

     

    同じことの繰り返しの最中、自分自身の姿をあるがままに保つ。

     (※ちなみに皮膚の発汗に関してためには、温度によって交感神経と

     副交感神経の働きかけでブレンドされ、低温サウナの方がより効果

     的であるという一説によれば、様々なストレッサーによって身体に

     蓄積しがちな重金属を、毛根部に絡む毛細血管の働きを借り、皮脂

     腺の分泌を通して清浄化していると言われています)

     

    滞り、詰まったを外し、それをを排してこそ「ととのう」状態に導く。

    その結果として、美しく、和を保ち、清浄になっているのです。

     

    これは「ととのう」→「整う」こと。

    整理されてくることにより本来の機能へ戻って適材適所。

    シンプルなききわけの結果です。

     

    皮膚に現れる発汗現象、その浮き出る部位には偏差があります。

    その偏差は必然的であり、寒風に晒すことで毛細血管も連動する。

     

    無理をすることなく、できるだけ、それをただ感じるままにする。

    皮膚も、暑い中にあっては呼気が優位になり、涼しい寒風に晒さ

    れては吸気の優位性に気付いたりします。

     

    このような空間において、心は落ち着き、気持ちは安らかになり、

    高ぶる心拍を穏やかになる様子を、じっくりと感じ取っていると、

    全てをさらけ出した裸の皮膚に、穏やかに訪れる至福の瞬間。

     

    それにただ、ただ共鳴しているとわかってくることもあります。

                         (続く)

     

     

     

  • アイム、カミングその⑤

    五日目です、よろしくお願いします。

     

    (続き)

    特に手段や方法はいくらでもあるので、サウナに限りません。

    皮膚に晒す環境を変えることで、交感神経優位から、副交感神経優位

    に切り替える方法、内部環境のききわけの一つが温冷交代浴なのです。

     

    ただ一回の交代浴では、β波をゆっくりしたα波にすることはできても

    速いα波には到達しないのです。

    (注:速いα波とは、瞑想の達人、高僧の脳波で観察される脳波)

     

    生理学的に言えば、セロトニン神経の活性化は起こるものの、それは

    比較的速やかに鎮静状態になってしまい、持続継続性に欠けます。

     

    なので、皮膚を寒風に晒しておいて頃合いを伺いながら、また高温に

    皮膚を晒していくという訳です。

     

    勿論、皮膚の状態によって変わるので一概には言えませんが、比較的

    五分の高温浴のあと、寒風に晒し、皮膚の湿り気を取り、水分を補給、

    更に高温浴というように繰り返していくと、ある瞬間が訪れます。

     

    それは温冷交代浴の場合における「ととのう」状態なのです。

     

    この状態は、セロトニン神経は活性化しており、速いα波に脳波は至り

    幸せホルモンと言われているオキシトシンが分泌された状態なのです。

     

     この状態は、ランニングハイとはかなり異なっているんですよね。

    (注:私的な感想を多く含んでいるので、行うなら自己責任で……。)

    βエンドルフィン系のハイになる感じは、多幸感や興奮感に近い訳で、

    疲れとか痛みなどを消していく感覚とは異なっているようです。

     

    いったい、どう違うのか。

     

    静かなんですよ。

    静寂というものを皮膚の感覚を通して、満たされている悦びを味わう。

    せわしく流れていたものは、例外なくゆったりと感じるんですよね。

     

                            (続く)

     

     

     

     

     

     

                              (続く)

     

     

     

     

     

     

  • アイム、カミングその④

    四日目、よろしくお願いします。

    (続き)

    ストレッサーとは、いわば妄想による苦しみでもあります。

    そして、交感神経優位での不完全燃焼状態は、疲弊しますよね。

     

    だからこそ副交感神経優位に切り替え、循環させることができる

    なら、完全燃焼に近い状態を目指していくこともできるワケです。

     

    脱線しますが、TCAサイクルと呼ばれているアデノシン三リン酸

    を産生するシステム、これこそ循環させるポイントの一つなのです。

    コレを、約95%位までしか使えない哺乳類に対して、鳥類は100%、

    ミトコンドリアを活性化しているため、完全燃焼状態と言えます。

     

    故に、効率よく体温上昇状態において交感神経優位の条件を用意し、

    からだの声を聴きながら、頃合いを見て脱出し冷気に皮膚を晒す。

     

    これによって一気に副交感神経を活性化、優位な状態に切り替えて、

    リラックスした状態を導いていくわけですよ。

    (注:最近のサウナ―は、冷水浴は必須ではなく皮膚を外気に晒す)

     

    その際に、セロトニン神経は活性化し、セロトニンの働きは鼓舞され

    るために、β波はゆっくりとしたα波になるわけです。

     

    しかし、多くの場合これだけでは「ととのう」状態にはなりにくく、

    ゆっくりしたα波による脱力感を感じるくらいだけですね。

     

    ここからなんですよ、コツのコツは。

     

                          (続く)

     

     

     

     

     

     

     

  • アイム、カミングその③

    三日目です、よろしくお願いします。

     

    初日に書いたように、「ととのう」という言葉でサウナ愛好家たちは

    ある瞬間を示し使っているんです、その感覚を理解できるかどうか、

    そのあたりはなかなか面白いんですよ。

     

    漢字で書くと「調う」と「調う」これについて、前回書きましたよね。

     

    サウナ愛好家であるサウナ―であれば、「ととのう」という瞬間とは、

    まさに、心と体の調和がとれるという意味で用いているのです。

     

    まず、高温の状態下に裸で皮膚を晒し、乾燥している空間に身を置くこ

    とで、皮膚の自由神経終末は興奮し、毛細血管は拡張し、真皮から表皮

    に至る汗腺を介して毛根部にある皮脂腺の緊張は緩んできます。

     

    この真皮にある皮脂腺、汗腺の毛根部にはっ自由神経終末が絡んでいて

    交感神経の活動電位は優位になってくるわけです。

     

    この状態は、交感神経が優位になっている状態を、より生かしている状

    態と言えるわけですよ。

     

    なぜならば、血圧がやや上昇し、グリコーゲンを分解して血糖値が上昇

    し、体温は上昇するのを抑えるために、表皮上の毛細血管は拡張する。

    この状態を、サウナのなかで(日本古来の窯風呂も)循環するのです。

     

    しかし、日常生活で緊張状態に晒される現代人はそうはいきません。

     

    このような状態は、仕事などで交感神経が優位になっていても、実際に

    その状態を生かすような変化を、からだの置かれている状況にはできて

    いない、つまり、皮膚を通し変化を循環にしてはいないからですよね。

     

    これは、ストレッサーを受けて意識しても、開放できていないためであ

    って、故に交感神経優位による負荷を、”空回り”して消耗するわけです。

     

                               (続く)

     

     

     

     

     

  • アイム、カミングその②

    2日目です、よろしくお願いします。

     

    昨日は「ととのう」という言葉が、サウナ愛好家の内で流行中という

    こと、そして日本にも、1,300年の歴史がある「かまぶろ(釜風呂)」

    というものがあるんですよ、という話でした。

     

    ところで、「ととのう」を辞書で調べると、2つの漢字になります。

     

    一つは「調う」ということ。

    もう一つは「整う」こと。

    これは思いのほか使い分けで面白いので、それを書いておきますね。

     

    「調う」:「何かをするため、始めるための必要なもの。

          状態・条件をそろえる」

         「物事がまとまる。成立する」

     

    「整う」:「乱れたもの、曲がったもの、くずれたものを正しくする

          なおす。きちんとする」

     

    確かに漢字の意味を意識してみると、その味わいも異なります。     「 

    例えば「準備がととのう」ということを、漢字にした場合。

     

    「準備が調う」:作業をするために必要な道具を買い、揃える。

    「準備が整う」:散らかった道具を使いやすいように片付け、揃える。

     

    これの違いなんですけれど、どうですか、わかりますかね。

     

    もう少しわかりやすくすると、「調う」を使うときは、何かをするとき

    に外から買ってきたり、何かのために準備することなんですよね。

     

    それが「整う」を使うときには、何かをするためには元々あるものを、

    使い易いように整理整頓することとなります。

     

     

     

     

     

     

  • アイム、カミングその①

    皆さま、お早うございます。

    これからの一週間東京操体フォーラムブログを担当する、寒さには

    弱いけれど、極寒で雪は大好きな岡村郁生です。宜しくどうぞ。

     

    さて今回のテーマは、「ととのう」です。

     

    そこで、まずは「ととのう」で検索してみてください、サウナです!

    操体に関係ある?とか思われてしまいそうですが、まずは一言。

     

    流行に鈍感なワタシ、実は40年来の熟成「サウナ―」なのです。

    言葉が流行ろうと廃れようと、当然「ととのう」に反応しますヨ。

    (※補足:ここ数年、”サウナ”好きの若人の間で用いられる言葉、

     それが「ととのう」おみくじ的に説明すれば待ち人来たりて、笑)

     

    40年前小学生の頃、静岡の山間部某所に祖父と両親に連れていか

    れた場所、それは知る人ぞ知る日本古来の「かまぶろ」でした。

     

    十畳ほどのドーム型漆喰の壁に囲まれた熱い部屋に入ると、ぎっし

    り塩が撒かれたその上に”ござ”が敷いてあり、その上に寝るのです。

     

    裸でその上に多くの人が寝ている姿はちょっとした異空間です。

    当時、サウナは小学生禁止ではなく、自己責任でしたからドキドキ

    しながらも連れて行ってもらうのが愉しみでした。

     

    思い出してみるとあの頃から、辛くとも我慢をしてやり遂げた後の

    カイ・カンに満たされていたのですね。

     

     

     

     

     

     

  • 想いの重さを知る⑦

    今日が最終日となります、よろしくお願いいたします。

     

    実は今回のブログ、先に書いた四日間分を後で書き、後の三日分は

    先に書いているので(ややこしい)始め重く、後は軽くしました。

     

    実はテーマを持ち、学び続けることに快感を感じるようになった事、

    紛れもなく三浦理事長の下で「操体」を学び始めてからなんですね。

     

    ワタシは、変な人間を自覚しており、頑張ってはなぜいけないのか、

    だからこそ、変な人間が救われる道はないのか。そう考え続けます。

     

    大人として一人前になるには、何をもってそう言えるのか、とかね。

     

    ただ、人に後ろ指をさされないように、己の良心を裏切らないよう、

    頑張っていてもなお、何か違う気がしていた事も事実なのです。

     

    世の中には多くの家庭でも、みんな演じていたりする事もある。

    いい大人なんだから。長男(女)だから。良い妻であろうとか、貴方も

    もう親なんだから、とか。

     

    勿論、理想を追求して努力する事は素晴らしいことです。

     

    しかし、それに縛られ過ぎて自分自身を見失っては、上手にいくもの

    も上手くいかなくなったりしますよね。

     

    ワタシ自身も身に覚えがあることで、精神的に追い詰めてしまう方は、
    そのようにして苦しんでメンタル的に苦しみを味わう場合もあります。

     

    そもそも演じているばかりでは、疲れてしまう事もよくあるのです。

     

    なので、そのままで居ても良いんだ。

    だから、頑張りすぎないで、自分自身を縛り過ぎないで欲しい。

    だって、そのまんまでいいんだから。

     

    そのまんまの自身自身を、自分の感覚を、騙して生きることなんて、
    どうしたって出来ないのですからネ!

     

    そのようなことを踏まえて、秋季東京操体フォーラムでは「想」を、

    紐解いていけたらいいなぁ、と今からワタシ自身愉しみにしています。

     

    それでは、一週間有難うございました。

    明日からは、日下相談役の登場です!

    引き続いて東京操体フォーラムブログを、お愉しみ下さいませ。

     

     

     

  • 想いの重さを知る⑥

    「頑張ってみます!」

     

    この言いかたは、ワタシ自身よく身に覚えがあることです。

    以前、ある資格を習得する勉強をしている頃の話。
    まぁなんとなく受けてみよう、なんとなく受かるんじゃないか、と考えました。

    元がそんな考えですから、集中力は途切れ途切れとなり、試験は不合格でした。

    次の年には、これは少し本腰を入れて勉強していこうと考え方を改めて、毎日
    一時間以上は絶対にその勉強時間に費やすことに決めて、三か月集中しました。

    期待していた結果に手が届かなかった場合、その理由を検証して次に生かす。
    努力していたことを理由にして、自分自身成長していない事実を放棄しない為に。
     

    その試験当日、周りがよく見えていたのを思い出します(カンニングじゃないヨ)

    なんとなくというか、不思議ときもちの余裕はうまれていたので、見直しも完璧。

     

    答案用紙から目を離し、ふと目を閉じて、瞼を揉んでいるときのコトでした。

     

    いっぺんに登ろうとしないで、一歩一歩、足元をみて、コツコツやりなさいヨ。

    そのようなエピソードを、操体の講習中耳に入れていたことを想い出したのです。

     

    言葉を紡ぐ自然な想いは、時と空間を超えて伝えられていくものなんですね。

  • 想いの重さを知る⑤

     「気合い!そういうことじゃないの(笑)」

     

    ブログも四日目ですので、気分を変えて書きたくなりました。

    力を抜きすぎな感じの人は「頑張る」に、どの様なイメージがあるか。

     

    身近で(ワタシからすると)人生を綱渡り的に繋げている達人を探し、

    そばにいた長女に訊ねると、「う~ん」といってしばらく黙ったまま、
    ようやく口を開いたと思いきや、笑って「気合いかなぁ」と言われた。

    世の中を気合いで乗り切ることを「頑張る」イメージにしてるなんて、

    長女に怒ってばかりいたワタシの立場からすれば、なんて素直な娘なん

    だろうと、一瞬で想ってしまい、馬鹿な父親だなと心にしまいました。

     

    閑話休題、元に戻します。

    さて、操体で「頑張る」という言葉は、言うまでもなく戒めの一つです。

    何故戒めになっているのか、ワタシ自身考えてきた理由のひとつには、
    明確な目標もなく、無駄な力を込めている事をイメージしてしまいます。

    そもそも、当たり前のようにできる事なら、頑張るとか、頑張りますとは、
    普通に言わないでしょうし、頑張ってますとは、使いませんからね。

    それでは頑張らないためにも、自然とは何なのでしょうか。

    ワタシ自身の言葉で表現するなら、日々の積み重ねではないかと考えます。

    少しづつ、少しづつ、継続している事こそ自然にできてしまうように。

    自分に出来るかどうかわからない事、自分のできる範囲を超えている場合。
    これは、頑張らなくても自然にできてしまった、という成長の証ですよね。

     

    このことは、操体を学問にしていると、頑張らずとも自然になるようです。

  • 想いの重さを知る④

    「すごいね~がんばったね!」

     

    このように親に言われて喜ばない子供はいないと思う。

    自分自身を産んでくれた親は、どの子供でも考えるきっかけを産む。

     

    「頑張ったね」

    細かいことを一切伝えなくても、なんとなく褒めている気分になる。

     

    受け取るのは、内にある感覚の芽。

    種から芽吹いて、必死に上を目指して縦に伸びて、横へ拡がる。

    元々無邪気であっても、邪念はなくとも、知ることの放棄は重い。

     

    どこでも、いつでも、自由気ままに振る舞っていいんだよ。

    明るく元気であれば、子供なんだから大目にみてくれるからね。

     

    いや、自分勝手は不自然。ひとことで言えば、「残念!」

     

    昔、私の接骨院で、あまりに傍若無人な振る舞いの子供を注意した。

    「私は子供を怒らないことにしているの!褒めて育てるんです」と、

    母親に言われて、まだ若かりしワタシもキレそうになって堪えた。

     

    子供の歪みとは、外からの侵害刺激(=ストレッサー)から生じる。

    それだけでなくそれを受ける(感じとる)中からの侵害刺激もある。

     

    少なくとも、接骨院の中は運動の為の公園ではないのだから、他の

    患者さんに何かあってからでは困る、イヤならお金は要らないから、

    他のところへ連れて行って、思う存分遊ばせてきて下さいと言った。

     

    子供を縛っている可能性は、どの親も身に覚えはあるだろう。

    俯瞰してみつめること。

    言葉を発することで視野の狭さもわかる。

     

    操体は何を元に指導していいか認識できる。座標と軸は必要だから。

     

    どんなに狭くとも地域の健康指導は、自然な想いの指導を兼ねる。

    ワタシはこれからも、どのように操体として組めているか、考える。

     

    それ故に、子供という表記で書き、子どもと書かぬ理由も今はある。