カテゴリー: 岡村郁生(おかむらいくお)

  • 表裏「いったい」について④

    ゆっくりでないと、トラブルを起こしやすい内臓の働き。

     

    電車を乗り継いで、通路や駅トイレを利用しているとき、

    なぜだろうか、掃除中と書いてある看板によく出くわす。

     

    ある時、物凄く出したかったので、多目的トイレに入った。

    トイレの表からはわからない、中のスペースの広さに驚いた。

    そそくさと用を済ませ外に出ると、やはり次の人が待っていた。

     

    その方も、掃除看板に我慢できなかったようで、間髪入れずに

    多目的トイレにダッシュで入り、ゆっくり快感を得ただろう。

     

     

    閑話休題。

     

    そういえば、三浦理事長はトイレでの重心と重力について語った。

    便意を催すとき、右手でトイレットペーパーを取り、拭き取る所作

    であっても、理に適った「からだ」の使い方は、効率よく美しい。

     

    その後、数人の方にトイレでどのように拭き取っているのか聞いた。

    当たり前の様に、後ろから手を回すと思ったが、前からの人もいた。

     

    最近では、割と良いトイレットペーパーには裏と表もある。

    「うら」か「おもて」かわからないが、エンボス加工になっていて、

    それでデリケートゾーンを触れると、「からだ」は識別できている。

     

    トイレの中で、様々な想いやヒラメキを感じとることが多いので、

    このような進化は(個人的に)大歓迎である。

     

     

  • 表裏「いったい」について③

    トランプに裏と表がある。

     

    「おもて」の絵柄が全て同じでないとトランプは困る。

    見た目が同じでわからないからこそ、動きを活かせる。

     

    「うら」の絵柄は全て違うし、働きや雰囲気も異なるからこそ、

    各々を生かして、繋げたり、意味づけた遊び方も想像できる。

     

     

    訳(ワケ)あって、そんなふうにできている。だから愉しい。

    「からだ」もそうなっているのだろう。

     

    日常習慣の速さでは、あまりに速すぎて味わえないことも多い。

    緩あって、ゆっくり、すーっと、ふわっとに馴染むのも「間」。

     

     

    ついつい時間に向け、忙しくしてしまうのは習慣の癖でもある。

    「はやく!はやく!」は、「からだ」に使わない方が良いのだ。

    この言葉は、十分過ぎるほど刺激的だと感じるのだから。

     

     

    閑話休題。

     

    ゆっくりしていると、つい見てしまうところがある。

    それは、「手のひら」と「手の甲」、爪も伸びていないか。

    足の裏とあしの甲も見てみる、爪が食い込んでいないか。

     

    そういえば、甲にはあり、平と裏にはないもの。

    その心はなんだろう。

     

    様々な答えもある。

    面白い答え方を考えてみる。

     

    はい、ととのいました。

    手を合わせ今日一日、無事平穏に感謝、と解きます。

     

    その心は。

    「欲」もホドホドに手離して怪我(毛が)無し。

     

     

  • 表裏「いったい」について②

    ゆっくりと、ゆっくりと時は過ぎる。

    ゆっくりとした夢のような居心地がここにある。

     

    朝起きると1番初めにやること。

    それは、まず水をいっぱいゴクリゴクリと飲み込むこと。

     

     

    現在は、日本に様々な水が輸入され、また様々な加工された水や、

    地方色豊かな天然を謳った自然水もある。

     

    水そのものは珍しくない。

    水道水、浄水器の水、日本各地や海外の場所で採取した水。

    それは、何かしら味わう感覚も、新鮮味も嬉しかったりする。

     

    その味わいを表現すると、その場の集約された「表」の味わいと、

    飲み込んだ後の「裏」、内臓でも味わっていないわけではない。

     

     

    ほんとうに喉が渇いたとき。

     

    そして、最も「からだ」が欲してしているとき。

     

    表の裏の面に「器」があって、それを実際に色付けていくのも、

    息と供に通していった水なのかもしれない。

     

    そして、「おもて」と「うら」に通していったモノは、

    「からだ」の中で、非常に大きな命をも育んでくれている。

     

    シンプルなことほど、恐ろしいほど奥が深いものだと気付く。

  • 表裏「いったい」について①

    石田実行委員から受け継いで一週間、岡村が担当です。

     

    「おもて」と「うら」。

    その言葉を「息」で、ゆっくりと、ゆっくりと味わっている。

    味わいのなか、ワタシ自身に「からだ」がつぶやいた言葉。

     

    おまえさんに、五十年以上も付着していたモノ。

    日々の睡眠で落としているか、目覚めているのか、と。

     

    さてさて、どちらが「うら」でどちらが「おもて」なのだろう。

    日々「間」に合うのは、起きている時間か、眠っている時間か。

     

    「からだ」の大好物、睡眠の落ちる目前の「間」も至高の快。

    ワタシ自身に50年以上も付着していた、様々なモノゴトの整理。

     

     

    睡眠中に描きたくなる景色もある。

    それを「からだ」が、求めてくる感覚に馴染む恍惚の人となる。

     

    睡眠はどんな人間も絶やさず、それはとても「からだ」優しい。

     

    何かを眺めるでもなく、会話もせず、目的もなく、ただ感じる。

     

     

    何もしないことが退屈であるとすれば、それは普通になる。

    そして、そこには人工的な美しさが存在していない。

     

    睡眠の間を「うら」とすれば、美しい「おもて」があるのだ。

    ならばそれは、両極に位置するもので、しかも紙一重。

     

    天国と地獄は、美しい睡眠を通して感じている。

    人生の実は、表か裏か両極に位置しうる「間」にある。

     

  • 山で野宿⑦

    空を見上げると海を感じ、地面を見つめていると山を感じる。

     

    空の先、宇宙はいつも、円環を成して働いている。

    円環に従ってあらゆるものは、丸くなっていくのだろう。

    そのような傾向はきっとある。

     

    循環から生まれ、その力が絶たれない限り、生命は栄えていられる。

    空は丸い、地球という星は玉のように丸いから循環の証となる。

     

    風が全力で吹けば旋回を起こし、つむじを作り海の熱で台風も生じる。

     

    山に入って観察していると、鳥は巣を丸く作る。

    太陽は円を描いて昇り、また月も円を描いて沈むし、その形も丸い。

    季節も循環して丸さを帯びている。

     

    山に入り、自然界という、宇宙の力を感じとり、おおきな車座になる。

    力が働いているところには、そのような円環を受けるウツワも出来る。

     

    ウツワとは何か。

    息を紡ぎ、車座で軸を感じたら、方向性を操舵可能となって生まれた。

    それがワタシ自身は、人間であって欲しい。

    現代を生きている私達は、未来の私達から生命を借りているのだから。

     

     

    さて、一週間のお付き合い有難うございました。

    明日からは、瀧澤副実行委員長の「山」になります、お愉しみに!

     

  • 山で野宿⑥

    アスファルトではなく、絨毯でもなく、土の上を歩いている。

     

    地面は、命でできている。

    海も山も、凹凸のある形状で同じ。

    そこに水や海水が流れているかどうかの違い。

     

    凹凸のある地面、土の上に素足、ただ裸足でいれば感じられること。

    寂しい気持ちになっている時も、決して1人ではなくなってくる。

     

    無数の命の流れは、そこにひしめき合っているのだから。

    そこには圧力も感触も異なり、また混じり合える力がある。

    本当の事は難しくないのだと、悟ったふうにさえになってくる。

     

    私などと言うものは、ホントは存在しないのだろう。

    なぜなら、生命は循環し続けているのだから。

     

    死あっての生命という世界に繋がる。

    シンプルに少しだけ、「位相」を変えるだけなのかもしれない。

     

    ふと、山に入り裸足になっている。

    吸収しては漏れていく、「息」を繋げているだけの存在として、

    その瞬間は永遠に繋がってきたのだろう。

     

  • 山で野宿⑤

    人間にとって、生命にとって、空気は貴重だ。

    それは、万物が同じ空気の息吹を分かち合うからだろう。

     

    動物も、植物も、人間も皆が同じ空気を共有していられる。

    山の中に包まれると、それを大きく味わえるし、感じ取れる。

     

    山にある湖水面には、吹き抜けていく風の優しい響きの味わいが

    あり、お天気雨に濡れた、木々の放つ香りや、葉や果実の匂いの

    混じった芳香、これこそ大好きなのである。

     

    そこから帰ってきて、街に来る。

    すると私は、耳が傷ついているような気がする。

    実際は傷ついてなどいないのだが、そのうち慣れてしまう。

    ただ、そんな生活がなんとなくわずらわしくなる時がある。

     

    感受性を変える場所は大切だ。

    そこは、広がりがある音を聞ける場所がある。

    光を波動として感じ取れる空間も、観察できる意識もある。

  • 山で野宿④

    私の住んでいる神奈川県の山奥にはダムがある。

    そのダムを見に行くのが好きだ。

     

    そのダムの底は、数十年前まで普通の人達が暮らしていた村だ。

    村一帯は、ダムを作るために水の中に埋まってしまっている。

     

    道路は途中でダムの一部になり、水しぶきをあげている。

    ガードレールは白さを失い、茶色く錆びて、蔓さえ絡んでいる。

     

    不思議なほど、ダムの水の中が静かであまり流れがない。

    そのせいか、ただ周囲の山に囲まれた緑の反射と、深くたまる

    水の色合いで、美しいグリーンとブルーが混ざり合うだけだ。

     

    ワタシの傍にも、たまに猿が近づいてくる。

    猿に目線を合わせてはいけないので、さりげなく距離を取る。

    ここのダム近辺は、猪もいるし鹿もたくさん出没する。

     

    先日は、親鹿と小鹿の姿を、数メートル先の林で見つけた。

    私は動かず、親鹿の眼光を見続けた。

    30秒ぐらいお互いに向かい合っていた鹿は、林の中に入った。

     

    山に行けば、人は動物になれる。

    動物は動物界のルールがある。

    それを忘れないために、その場所に向かう。

  • 山で野宿③

    ふいに思いつき行動できる有り難み。街を出て数時間走る場所。

    遠くから近くなる山の麓につき、身支度を整え、登り始める。

     

    山の山頂をめざし、地を踏み締め、カッパをきて、雨に打たれ、

    その勢いとその激しさと、皮膚の感触を味わう。

     

    何も考えられなくなり、ただ感じるだけになり、ただ前に進み、

    身を沈め、どこかで休めるところを探す。

     

     

    始まりの時をイメージしてみると、人間と動物の間には違いが

    なかったのだろう、と理解できる。

     

    その頃は、あらゆる生き物が地上に生活していた。

    人間は、動物に変身したいと思えばできただろう。

    また、動物が人間になることも難しくなかったのかもしれない。

    どちらにしても、大した違いはなかったんだろう。

     

    生きているものは、時に動物だったし、ときには人間だった。

    みんな同じ言葉を話して、その頃の言葉はきっと、魔術のようで

    言霊は神秘的な力を持っていたことだろう。

     

    出まかせに発せられた言葉も、非常に強い効果を生むことだって

    きっと、あっただろう。

     

    勢いのある言葉は、たちまちにして生命を得てしまう。

    その生命の力で、様々な繋がりや、願いを実現してきたのだろう。

     

    「山」に入ると言葉は力だと感じる。

    ただし、そんなことを説明したらすぐにダメになってしまう。

     

    昔は、そう、はじまりの時は、万事が全てそんな風だっただろう。

  • 山で野宿②

    オートバイで山に出かけ、テントを張り、できるだけ人がいないような

    場所を見つけ、ただ静かに座っていると「皮膚」の感受性は高まります。

     

    今は頻繁に行けませんが、以前はそれ自体が自分の生き方のようにさえ

    感じる瞬間も多く、「ゆるキャン」ブームの前に野宿をしていました。

     

     

    皮膚の高まりといえば、特に冬はすばらしい!

    つい、自分の命の本質はなんだろう、と考えてしまうほどです。

    命とは何か。

    それは、太陽や月がこの世界を照らすことではないか、とか。

     

    空気のプリズム、蒸気のきらめきを写しだす瞬間。

    凍てつく冬の空気に薄白い吐息を眺めているとき。

     

    そこにLIFE=命の影は映るのです。

    草の上、私の落ち着かない姿を映しながら、雲の流れと供に消えて

    また映し出されている、ちっぽけな影は伝えてくれるのです。

     

    意識していなければ、すぐに過ぎ去るせつない尊さは、何故かわか

    らなくても、命がそこにあるとわかった瞬間は覚えています。