カテゴリー: 寺本 雅一(てらもと まさかず)

  • できることは、あるかもしれない

    (昨日の続き)

    からだを診ることと、楽器や音楽に向かう事は

    「ヒビキ」というキーワードを持ってつながりをもつことができる。

     

    このようなことを考え始めたのは、

    のらりくらりと続けてきた音楽活動を昨年「冬眠」してからのことだった。

     

    音楽での活動で知り合った仲間と

    10年以上毎年年末に「ミソカイヴ」というささやかなイベントを開催してきた。

    1年の締めくくりに自分も音楽での表現を通して参加していたのだが、

    昨年末はこの通り冬眠中だったので、毎年続けてきた事だけれども

    参加するのをどうしようかと、ちょうど昨年の今頃の時期からぼんやりと考えていた。

     

    そんな最中、操体の講習のなかで語られた

    「ヒビキ」という言葉・捉え方が妙にヒビいた。

     

    「あ、楽器にふれていなくても、自分は未だにからだを介してヒビキに触れているんだ」とヒントをもらえたようだった。

    そこで、腹をくくって、昨年末のイベントには「臨床家」として参加することにした。

     

    開演前、または演奏者の許可がおりれば、演奏公演中に

    観客がからだを介してのヒビキをききわけてみる、という試みだった。

     

    イベントとして整理できていない何が起こるかわからないような状況にもかかわらず

    兄弟子の寛幸さんも助っ人に駆けつけてくださり、また年末にも関わらず師匠や畠山先生も応援に来てくださってありがたかった。

     

    整理、反省、検討する点は多々あったが、収穫と思えるものも多かった。

    体験者の方のなかには、真面目に面白がってくださる方もいてありがたかった。

    簡単なことではないけれども、空間を介して異種の活動とも

    折り合いを見つけることの可能性を感じることはできた。

     

    今年も早いものですでに折り返し地点を過ぎている。

    今年の締めくくりに向けて、

    今できることを、ただただ地道に続けようと思う。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日から友松実行委員の登場です。おたのしみに。

  • 読譜

    (昨日の続き)

    「からだ」という動態を、ある種の「楽器」に喩えてみるとき、

    からだへの「触れ方」は、

    楽器の「扱い方・弾き方」に通じるように思う。

     

    一方、触れるというその前に常に問われていることもあり、

    それはからだの「どこに触れるか」ということだろう。

    これがまた自分の中でうやむやになりがちなことでもあり、

    でもそういうことから逃げたくないが為に、今も学び続けている。

    こういうことに正面から食いつくと面白いのです。

     

    さて、このことを先の喩えに当てはめると何に該当するだろうか。

     

    どの「楽譜」を選ぶか、というのとは少し違う。

     

    色々な意見や捉え方ができるだろう。

    最近感じているのは、

    もしかしたら何も選ぶ必要はない、のではないか

    といったことだ。

     

    選ぶまでもなく、既に目の前に

    今日この瞬間に演奏する為の楽譜のページが開かれている。

    そういうイメージなのではないか・・・。

     

    では、もしそうだとしたら、ここで問題になるのは、

    残念なことに多くの場合、

    目の前のそれが「楽譜」だと、ちっとも思えていないことだ。

     

    もしくは「楽譜」だとなんとなくはわかっていても

    読み解き方がしっかりとわかっていないという事実だ。

     

    既に多くの情報を目の前にしているはずなのに、

    その真価に気が付いていない。

    少しは気が付いていても、十分に生かしきれていない。

     

    からだの要求をキャッチして、

    それを操法のなかで開花させている操者を目の当たりにすると 

    こういう実感から目をそらすことはできないと思う。

  • おこぼれ

    (昨日の続き)

    臨床中に被験者本人がききわけているヒビキ(感覚)は

    本人にしかききわけられないもの。

    これが基本です。

     

    一方で、例えば臨床に立ち会ったり

    講習の実技に参加していると

    こんなこともあります。

     

    急にあくびがでる。

    実技を見ていてこちらもきもちよさを感じる。

    気が付くとほんの数秒、意識飛びしている。

     

    被験者本人がからだからききわけている感覚がどんなものか、

    それは被験者本人にしかわからないものでありながら、

    共有している空間を介して

    見えない、聴こえないそのヒビキのおこぼれのようなものを

    頂戴しているのかもしれません。

  • 楽器と観客

    (昨日の続き)

    からだに触れ、触れられた方は

    からだからヒビキを感じる。

     

    ここでいうヒビキは「感覚」という言葉にも

    置き換えることができる。

     

    そして、ききわけられるヒビキ(感覚)は

    基本的には、その人自身にしかききわけられないものである。

     

    からだを「楽器」のように考えてみるとき

    被験者は楽器そのものでありながら、唯一人の観客でもある。

     

    その人自身にしかききわけられない

    ヒビキに触れる操者の役割というのは

    本当に興味深いと思う。

     

  • 芸風

    月に一回兄弟子である畠山先生の主催する

    視診・触診講座に通い続けている。

    この講座、現在は触診にすこぶる影響を与える外気功基礎のカリクラムを含む

    豪華版に進化している。

     

    blog.teizan.com

     

    この講習に長年参加し続けていると、

    からだに触れる、その「触れ方」にも千差万別あるということが感じられてくる。

    同じことを習っているようでも、不思議とそういう事が起こる。

     

    参加してまだ間もない方が、被験者として触れられているときに、

    その違いを次第にキャッチできるようになるプロセスも見ていて興味深い。

    この操者の触診力というか、触れられる感じの違いのことを

    仲間内では「芸風の違い」と呼んでいる。

     

    触診では、からだを介してある種のヒビキに触れている。

    響きを得ているからだは「楽器」のようだなと思う。

     

    見方を変えれば、操者はからだという「楽器」を響かせる奏者であり、

    そのスタイルにその人らしい芸風がある、というようにも感じられてくる。

  • 予期せぬ音がきこえる

    私事で恐縮だが、

    ニホンヤモリと生活し始めて7年ほど経つ。

    彼らは生きているものしか食べない習性があるので

    この時期は夜毎、クモやガなどの昆虫をハントしに出かける。

    この最中の話である。

     

    主食のクモは橋の欄干のところにいけば大体捕えることができる。

    その狩りにはいつも某乳酸菌飲料のミニボトルを愛用している。

    これが程よいサイズ感なのだ。

     

    最近、都心では夜風が吹き荒れていることが多く、

    そんな夜にクモを捕まえようとすると

    不思議な現象に遭遇する。

     

    クモを捕まえようと構えたボトルの口に

    吹き荒れる夜風が絶妙な角度で当たると

    「ボー」っという低音が鳴り響く。

    夜風が「笛」を吹いているような状態である。

     

    この予期せぬ響きに出会うと、

    あまりに意図してないところでのことなので

    ちょっと怖くなったりもするのだが、

    同時にこれがなんとも魅力的なものでもある。

     

    人間が吹く笛の音とはまるで異質な響きと遭遇する。

    些細な事だけれど、こんなことからも、

    不意に立ち現れる「自然」の存在感のようなものを

    目の当たりにしているようである。

  • 言葉変われば・・・

    おはようございます。

    一週間の日々の讃歌、瀧澤さんありがとうございました。

    本日から寺本が担当します。

    宜しくお願いします。

     

    引き続きテーマは「ヒビキ」でお届けしています。

     

    「あえてこういう言い方をする」

    操体にはこの「あえて」という姿勢・態度が頻繁に出てきます。

    そこがまた面白く、操体を紐解くヒントがつまっているように思うのですが、

     

    例えば、「痛み」という現象の捉え方についても、

    あえて「ヒビキ」という言葉を与えています。

     

    言葉が変われば、意識も変わります。

     

    「~が痛くって・・・」というとき、

    その現象が早く自分から離れていって欲しい

    というニュアンスが含まれているものですが、

     

    その痛みはからだが奏でている「ヒビキ」なんだと、

    あえて捉えてみると

    「ん、味わってみてもいいかも」

    と思える現象に変わってしまうこともあるから不思議です。

  • 異次元食堂

    これは隠れ家の話である。

     

    平日の昼休み。

    少しはねをのばして、ここのところ通ってしまっている食堂がある。

    言ってしまえば平成の世にひっそりと息づいている「昭和の食堂」なのだが。

     

    不朽の名作「幸せの黄色いハンカチ」のなかで

    健さんが醤油ラーメンとかつ丼を注文したあの空間、

    といえば少し伝わるだろうか。 

     

    ここの暖簾をくぐると、大抵お客さんが一人か二人はいる。

    外から見た感じは「この店って、まだやってるの?」と一瞬疑ってしまうが、

    中に入ると「あ、ここはまだ現役なんだ」と感じさせる何かがある。

     

    正直なことを言って、「美食」とは程遠い。

    例を挙げれば、「カレーチャーハン」だって、

    カレー味のついた焼飯がメインで、荒く切った玉ねぎと

    辛うじて存在が認められる肉がすべて。

    そして毎回年季の入った碗でスープがついてくる。

     

    現代の外食のスタンダードとはかけ離れている価値観を毎回突き付けられるが

    でも、それが本当にこまったことに、やけにうまく感じる。

    「ごめんなさいね、うちそんなにいい材料は使えないんだけど・・・」

    でもその分だけ、何かが宿っているのだ。

     

    料理とはなんなのかと、真剣に考えさせられる。

    いい材料をふんだんに使って拵える料理は美味しい。

    でも「食べる」ってそれだけではないんだ、ということをびしっと感じさせてくれる。

     

    料理以外にも、揺さぶられるポイントは多い。

    食堂は外観も内観もかなり古い。でも、恐らくであるが

    毎日きちんと掃除はされている。だから、居心地はいい。

     

    そして、本当に些細なことではあるが「サービス」が行き届いている。

     

    それは、必ずコップに水を足しに来てくれたり、

    食べ終わるころにボックスティッシュをサッと出してくれたり、

    カレーチャーハンを食べていて額に汗をかいていたら、

    メンズボディーシートを奥から出してくれたりする、優しい気配り・心配りである。

    それが「正解」かどうかは別として、気持ちは嬉しいなといつも思う。 

     

    そして、とてつもなく謙虚で、程よい距離感を常に保つ姿勢がある。

     

    こういったことは、「立ち止まって」いては発想しえないことで

    そんなに贅沢なサービスは提供できないけれど、

    それでも何かできることはないだろうか

    と常日頃から考えていないと思いつかないし、行動もできない。

    これは絶対に「これでいいや」という気持ちからは生まれえない動きである。

     

    おいおい、随分褒めるね、と自分でも思ったが、

    実際、この空間には大事なことが充満しているように思うのだ。

    そして、それを証明するように、

    この空間を味わいたい人、必要としている人が

    決して多くはないけれど毎日のようにこの異空間に引き寄せられている。

     

    この空間の在り方は、臨床そのものだと自分は思いたい。

    自分がこれほどくいついているのは 、

     それほど遠くないいつか、

    自分が提供したいとあたためている隠れ家のような空間へのヒントが

    この異次元に詰まっているからなのだろうと思う。 

     

    「異次元・異空間」といえば、まもなく春のフォーラムがやってきますね。

    今回も何が起こるかわからない、たのしみな場になりそうです。

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。

    お、そろそろ明日からの友松実行委員がスタンバイしておりますので、、、

    はい、バトンを渡しました・・・よ!

     

    2018年春季東京操体フォーラム
    4月30日(月)昭和の日(振替休日)に開催致します。
    テーマは「スポーツ障害と操体」です

  • 遊び心とこころのアソビ

     

    自分のなかに今どれだけ「遊び心」が働いているか

    について、最近考えるようにしている。

     

    というのも、どうも自分は根詰めて何かをやってしまいがちな傾向があるからだ。

    根が詰まっているときに、足りてないものはなんだろうと考えてみて

    「遊び心」もそのひとつだ、と思い至った。

     ↑

    これが働いている時というのは、擦り切れるような我が身の使い方は

    していないように思う。

     

    遊び心が発動しているときというのは、どんなときだろう。

    これも言葉遊びかもしれないが、

    こころに「アソビ」のある時ではないかと感じた。

    ここでいう「アソビ」は、

    「余白」とか「間」とか「動き」とか「流れの起こりうる方向性」とか

    そんな意味合いだ。

     

    こういったことは、操体でもだいぶ大事にしていることで

    「〇〇のアソビを診て」という診方を学習している。

     

    なんだ、学習しているのに、全然使っていないじゃないの、

    と思い、余白の少なくなっている自分に気が付いたときは

    こころのアソビを診てみること、を試しているところである。

     

    2018年春季東京操体フォーラム
    4月30日(月)昭和の日(振替休日)に開催致します。
    テーマは「スポーツ障害と操体」です

  • くいついて 散歩

    基本的に夜型人間なので、早起きは小さい頃からあまり得意ではなかったが、

    それでもたまに朝が来る前に、目が覚めるタイミングがある。

     

    外はまだ暗い、新聞屋さんもまだ準備をしているような時間。

    何の気なしに外へ出てみると、

    やけに空気が澄んでいるなぁと感じることがある。

    空気がうまいと感じる。

     

    都心から電車に乗ってちょっと地方へ出向き、

    電車からホームに降り立った瞬間に感じる空気の変化。

    あの感じに似ていなくもない。

    東京にいても、「自然」なんだなぁと思う。

     

    あまりにも空気が美味しかったので、

    そのまま外を散歩した。

     

    やはりまだみんな寝ている。

    蜘蛛も網の中央で小さくからだを縮めている。

    小鳥たちもまだ30分は起きてこないだろう。

    草木も眠っているのかもしれない。

    その静けさのなか、蝙蝠は飛び回っている。

     

    なんでこんなにも空気がうまいのか不思議でしょうがない。

    私たちがそうであるように、

    大気も呼吸をしている、ということなのだろう。

    吸って、ためて、呼いて。

     

    昼間の空気は、もはや彼方にあって、

    いまここにあるのは十分に蓄えられた新鮮な吸気。

    まだ誰の足跡もついていない砂浜を歩いているようで、

    なんだかとても贅沢をしているような気持ちがする。

     

    2018年春季東京操体フォーラム
    4月30日(月)昭和の日(振替休日)に開催致します。
    テーマは「スポーツ障害と操体」です