カテゴリー: 友松 誠(ともまつ まこと)

  • 修行・・・1

    おはようございます。

     

    実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります。
    どうぞ、宜しくお願いいたします。
    今回のテーマは「修行」ということでリレーしています。

     

    修行というと、つらく厳しいものをイメージする方も多いと思います。

    心身、特に精神性を高める為に、自分のからだがつらさを訴えていても、それを自分の甘えや弱さと受け止め、耐性を高めるような考え方で、何かしらの修練を積んでいく。

    そして、その先には何かしら尊い悟りがある。

    そんなイメージではないでしょうか。

     

    しかし、操体の創始者である橋本敬三先生は「痛む、ツライからは逃げていい」というようなことを仰っていたという。

    これは「ツライから、もう嫌だ」と中途半端に直ぐ投げ出すような精神性や、いい加減な態度を良しとしているのではない。

    痛む、ツライはからだのサインや警告であり、その修練の中での行い、特に身体の使い方、動かし方に問題があり、警告を無視すれば修練の継続はおろか、そのうち壊してしまうので、無理をとおさず、そちらの問題を改めていこうという捉え方。

    からだに無理を強いて、自分の目標を達成させようとするのではなく、からだと共に行いの質を高めながら、修練を積み重ねていく姿勢。

    修行には、そうした姿勢も必要だと思うのです。

     

    2022年春季東京操体フォーラム
    2022年4月29日(金)祝日 
    ハイブリッド開催(会場参加は、一般社団法人日本操体指導者協会会員優先)

  • テーマ「植物」より・・・7

    おはようございます。

     

    葉っぱを触ってみる。薄くて、やわらかくて、触れ方によってはポロリとこぼれてしまうような葉っぱを触ってみる。

    これは触診の練習になるだけではなく、第3分析である皮膚へのアプローチ、つまり渦状波®にもつうじる事だと思う。

    渦状波®は皮膚を刺激するのではなく接触であり、接触であるから効果的なのである。

     

    しかし、渦状波®を症状、疾患に対するアプローチと混同してしまうと、刺激になりやすい。

    被験者の不快症状を何とかしたい気持ちは解るが、バランスを崩している被験者のからだを無視してはいけない。

    からだを無視して、その症状、疾患を治そうと一方通行的にアプローチすれば、必然的に刺激になりやすい。

    刺激をしてしまうと効果が薄いばかりか、良からぬ反応を招く事もある。

    皮膚を侮ってはいけない。

     

    バランスを崩しているからだに対していたわりの気持ちを持ち、そのからだが今、どうしてほしいのかという観点が必要。

    そうでなければ、一方通行的となってしまう。

    バランスを崩しているからだが、高額な金品を要求するだろうか?
    内臓ストレスにつながるような高級な食べ物を要求するだろうか?

    そうではない。

    天地の空間から生命活動の素を「息」によって充分にとり入れ、空間と調和する「動」でバランス制御に向きたいのではないだろうか。

    それを踏まえ、からだが今、どこに、どう接触してほしいのかを感じられるようにしていく。

    その為の学びが操体にはあるが、私たちの師である三浦寛先生によって診断法が第3分析から第5分析まで進化した今、治癒に向くからだの要求という事に関しても、理解しやすくなっていると思う。

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。
    来週は畠山裕美先生の担当となります。
    どうぞ、おたのしみに。

    友松 誠。

  • テーマ「植物」より・・・6

    おはようございます。

     

    もう、20年近く経つだろうか、本格的に操体を学び始めて何か月か経った頃の事。

    触診についての講義を受けていて、師は「時間のある時、植物の葉っぱを触って触れ合ってみるといい」というような事を仰っていた。

    師の視診、触診は本当に見事であり、ヒカガミの圧痛硬結、脊柱配列の異常は勿論、米粒よりも小さな圧痛硬結も的確に捉え、被験者から瞬時に悲鳴があがるという具合だった。

    その見事さに少しでも肖りたくて、私も自室の観葉植物は勿論、外出先でも葉っぱを見ると触ってみる習慣がついたように思う。

     

    葉っぱを触ってみる。薄くて、やわらかくて、触れ方によってはポロリとこぼれてしまうような葉っぱを触ってみる。

    気を配り、やさしく接しなければ、触れる事さえままならぬものもある。

    接するとか、触れるという行為は、こちら側からだけの一方通行ではいけない。

    あちら様の都合もある。

    接触できて有難いという気持ちも必要。

     

    やさしく接するから、みせてもらえるものがある。

    やさしく接するから、鎧を脱いでもらえる。

    やさしく接するから、弱いところも含め、ありのままをみせてもらえる。

    これは、触診はじめ臨床に限ったことではないだろう。

    師は、そこまで口で仰らなかったが、その気配り、所作、作法がそう語っていたように思えた。

     

  • テーマ「植物」より・・・5

    おはようございます。

     

    「食」は、他の生物の生命をいただくものである。

    博愛精神と優しい心を持つ人ならば、どんな生物の生命も奪う事なく、自分自身も元気で長生きする事を理想とするだろう。

    個としての生命を奪うのではなく、共に生きながら、その一部を有難くいただく。

    そう考えれば、植物食は倫理的観点からも最適なのではと思える。

    葉っぱを分けてもらい、果樹からは実をいただき、穀類からは種をいただく。

    他の生命を奪う事なく、共存、共栄をはかる。

     

    しかし、言うは易く行うは難し。

    こうあるべきだ、という理想を持っていても、生身を持ち、その動物的本能からの欲求が頭を持ち上げてくれば、それに抗う事はなかなかできない。

    それを精神的な面だけに焦点を当て、精神的に弱いとか、罪悪に感じたりとか、自分を責めても仕方のない事。

    精神だけで生きているわけではないのだから、からだの都合も考えてみる。

    環境に適応しながら生存を保とうとするからだにききわけてみて、動物食を求めているのならば、それも現時点で生存を保つバランスだと思う。

     

    「食」の営みのバランスも、他の「息」「動」「想」の営みとのバランスによって変化する。

    その中でも「動」の営みは「食」と密接なつながりがある。

    例えば、重労働でエネルギーを消費し、肉体も消耗している時は、肉食主体の「食」を求めたくなるのは、誰しも経験があると思う。

    しかし、同じ重労働でも「動」を、肉体を消耗させない身体の動かし方に変えていければどうだろうか?

    「息」もそれに合わせた、天地からエネルギーの素を充分にいただけるものにしていけばどうだろうか?

    お腹の内部環境は当然変わってくる。

    そうしたバランスの上で「想」の優しい心持を活かせば、「食」の営みもその優しい心持を映し出すようなものへと、ストレスなく変わっていくと思う。

    優しい心の持ち主が、その優しさゆえにストレスを抱えるというのでは忍びない。

    バランスが大切。これは、メタボや生活習慣病対策にも当てはまる事。

  • テーマ「植物」より・・・4

    おはようございます。

     

    操体の創始者、橋本敬三先生の一般向けの文献には、人間の「食」について植物食が適当なのではないかと書かれている。

    その理由として、よく知られているのが歯の種類と数に注目した捉え方。

    前歯8本は野菜を、犬歯4本は肉類を、臼歯16本は雑穀堅果類を噛む歯なので、その割合で食物を摂れば肉食は七分の一で良く、動物食過剰は不自然であり、植物食を主体とした方が自然だという捉え方。

     

    しかし、植物食しか、してはいけないというのではない。

    また、単にこの割合で食物を摂れば良いとしているわけでもない。

    「食」の営みは自分自身で責任をもって営んでいくしかないのだから。

    その為に、よく噛んで自分自身の唾液をはじめとする分泌液とよく混ぜ合わせながら、お腹の後味も含め、からだにききわける事が大切。

    体調によっては、上記の歯の種類と数に合わせた割合が良いという訳でもなく、場合によっては食べないという選択肢もあって然るべき。

    橋本先生の主張が間違っているというのではない。

    結果とプロセスの問題であり、からだにききわけるというプロセスをとおし「食」の営みだけでなく、他の「息」「動」「想」の営みと「環境」とのバランスが良くなっていけば、分泌液はじめ内臓バランスも変わり、結果的に植物食主体の食生活の方が、色々な意味で満たされるようになるのではないかという事。特に日本人は。

    また、環境問題や他の生物との共存、共栄を考えれば、人間の生命バランスは植物食主体の粗食でも生命エネルギーの素を充分に活かし、満足感と幸福が味わえるものにしていく必要があるのだと思う。

  • テーマ「植物」より・・・3

    おはようございます。

     

    昨日は最後に動画を紹介しましたが、10年近く前の国連持続可能な開発会議での、当時のウルグアイ国の大統領ホセ・ムヒカ氏のスピーチでした。

    ホセ・ムヒカ氏は、字幕スーパーにあったように「世界一貧しい大統領」としてメディアから紹介されている。

    しかし、スピーチを聞く限り、貧しいという意味がまるで当てはまらないように感じる。

    貧しいとは、財産や金銭が乏しく生活が苦しいという意味の他に、量・質ともに劣っている、満たされていないなどの意味があるという。

    ムヒカ氏は大統領の時、給料の9割を寄付していたというから、個人の財産の金銭額としては他の国の長よりも少ないだろうが、そんな比較の仕方が馬鹿らしくなるほどの豊かさを持ち、満ち足りた上で質素な生活を送っているように思える。

     

    もの事の観点が変われば、感じ方、考え方、心の持ちようが変わってくる。

    心の持ちようが変われば、言葉が変わる。

    言葉が変われば、まわりの現象が変わってくる。

    これは言葉の波動にも依り、変化の仕方、大きさは違うだろうが、現象は確かに変わる。

    欲張りの魂胆が強いと、それが感じられなくなる。

     

    言葉の波動に素直なのが、植物のように思える。

    植物は天地の運行に素直であり、人間の言葉の意味は解らないかもしれないが、素直な心からの言葉の波動に反応し、生長もする。

    素直な心とは、天地を創造した創造主の理念につうじる心であり、そこには絶対的肯定がある。

    絶対的肯定とは、此の世に存在している限り全て良しであり、良しだから存在できているといった肯定観。

    「芽が出てくれて有難う」「育ってくれてありがとう」そこから花が咲いたなら、どんな花でも綺麗だし、思わず「綺麗だよ」と言葉が出てしまうだろう。

    たった5文字の言葉でも、その波動は生長の素でもある。
    それは質の高い快適感覚として受け止められ、その快適感覚で美しいものはより美しく変化していく。

    そして、快適感覚は伝搬するので自分自身も、それを感じて癒され、満たされる。

    質素な時空ではあるが、リッチな時空。

  • テーマ「植物」より・・・2

    おはようございます。

     

    今年は、木々の紅葉から落葉がいつもの年より遅かったように感じます。

    これも、地球の温暖化が進んでいる為なのでしょうか。

     

    温暖化対策の為に植物を植えていこうという主張は何年も前からある。

    確かに身近に植物があれば、空気が変わると感じられるし、癒しにもつながる。

    しかし、たくさん植樹をして植物を増やせば、温暖化がくい止められるものでもないと思う。

    人間の都合で数を増やしても、それがそのまま元気に育つとは限らないように思える。

    そして、枯れてしまえば、枯れ木からはまた炭素が出てくるようになる。

    なにより、自然界は人間の都合に合わせて運行しているわけではない。

     

    現代の物質主義からの消費欲求優先の考え方、社会システムが招いた弊害を、植物をはじめとする他の生物に押し付ける。
    そういうやり方は、いつか地球はじめ自然の恕限度を超えてしまう事が予測できる。

    しかし、予測はできても、今の社会システムを直ぐに放棄することはできないだろう。

    今を生きる人の大半は、子供の頃より現代の社会システムに適合できるようにと教育されている。

    しかし、人間は社会の子である前に自然界の子として生まれている。

    天地、自然の恩恵に感謝しながら、どう生きるのが幸福につながるのか改めて考えてみる必要があるのだと思う。

    今日は動画を紹介しておきます。


    www.youtube.com

  • テーマ「植物」より・・・1

    おはようございます。

     

    実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります。

    どうぞ、よろしくお願い致します。

    今回のテーマは「植物」ということでリレーしています。

     

    12月も半ばとなり、まわりの山々を見渡すと、木々は紅葉を終えて落葉している際中であります。

    普通は「植物」をテーマにするのであれば、花の咲く時季や新緑の季節だと思いますが、あえてこの時期にテーマとするのには何か意義深いものを感じます。

     

    煌びやかなものの裏には、質素なものがある。

    木々の花も実も瑞々しい葉も、今の時期冷え込んだ空気のなか、飾り気なくむき出しになっている幹や枝、地中に根を張る根っこがあったればこそ。

    むき出しになった幹や枝は、落葉前に葉の養分やエネルギーを回収し、最小エネルギーで厳しい冬を乗り越える。

    そして、春の訪れとともに素敵な花を咲かせ、陽射しが強くなれば光合成という素晴らしい能力を擁する葉を数多つける。

    質素、質の素こそ重要。

     

    植物も人も、性質は違えど素を天と地からいただいて自己を生成し、質を高めていく能力を元々有している。

    しかし、人間はいつからか素のいただき方を軽んじるようになってしまった。

    呼吸にしても動きにしても、意識しなくともからだが素を有難くいただこうとしてくれているから、何とかなっている。

    その、何とかなっている状態というのは本来の状態ではない。

    本来の人間は、健康はじめもっと人間の質を高める状態たるべきと思う。

     

    素をそのまま有難くいただく素質は誰にでもある。

    煌びやかなものは誤魔化しが利くが、質素は誤魔化しようがない。

    誤魔化しようの無いものほど真であろう。

    誤魔化しの心の鎧を脱ぎ去り、からだや自然に対して素直になって、感じてみれば良い。

    その素質を開花させた時、素敵で素晴らしい生き方が待っていると思う。

     

  • アートについて・・・7

    おはようございます。

     

    アートの歴史を辿れば、旧石器時代の洞窟壁画が描かれた頃まで遡ると思われる。

    洞窟壁画で興味深いところは、洞窟の住人は入ってすぐの日当たりが良く広々とした空間で普段は生活しており、壁画を描く場所はそれよりも奥まった日の当たらない空間で、絵を描いているという点。

    これが、他人に見せようとしている訳ではないから芸術ではなく、単なる生活の営みの中での一部とする解釈の仕方にもつながってしまった。

    しかし、それは近代の理屈であり、この時代の人たちは横でつながる他人に見せるのではなく、縦でつながっている大いなるモノに見てもらおうとしていたのではないだろうか。

     

    洞窟壁画は、呪術の要素があったりシャーマニズムとも関連があるという。

    描かれた動物たちも写実主義的に描かれたのではなく、呪術的な想念を交えた想像による意識から描かれており、概念からの意識から描かれたわけではないと思う。

    概念からの意識により描かれたものは、人間どうしでは伝わっても、生命として他の動物ともつながっている、あるいはそれを超えた大いなるモノとつながる潜在意識を振動させるには弱いのではと感じる。

    だから、日常の生活空間とは区別した特別な空間で描かれていたのではないだろうか。

     

    呪術的というと、おどろおどろしい印象を受けるが、自らの手で他の生き物の生命を奪い生きる糧とするしかなかった当時の人達にとって、それは弔いの心も含む神聖なものだったのだと思う。

    沢山の動物を捕りたい、この動物を捕って食べたいという欲望からの呪術ではないと思える。

    まずはじめに、自然界の一員として生かされて生きている事への感謝があり、必要な分だけ、必要な時に、必要なものをいただけるよう願う、そんな想念を元とした呪術だったのではないだろうか。

     

     一週間のお付き合い、ありがとうございました。

    来週は畠山裕美先生の担当となります。

    どうぞ、おたのしみに。

    友松 誠。

     

    2021年秋季フォーラム

    2021年11月23日(火)勤労感謝の日 ハイブリッド開催

    テーマ「アートと操体」

  • アートについて・・・6

    おはようございます。

     

    アートに関してのテレビ番組をたまに見るが、何でこれがアートなのだろうかと思う事がある。

    実際に現物に目で触れてみると、何かまた違ったものになるのだろうが…。

    現代アートと呼ばれるものには、そうしたものが多い。

     

    現代アートの先駆けとして、よく名前があがるのがマルセル・デュシャン。

    デュシャンは、元々は油絵を描く画家だったが30代半ばくらいで絵を描くのを放棄してしまったという。

    それからは、小便器を横にして署名しただけの作品に代表されるような、既製品に少し手を加えたような作品をつくるようになった。

    その狙いは、それまでのアートの常識を覆す事。

    デュシャンは、それまでの絵画に代表されるアートを網膜的絵画、つまり鑑賞者は目から入る刺激をたのしんでいるだけと評し、そうではなく鑑賞者が作品に触れることによって鑑賞者自身が作品をつくりあげる、そんなアートを提供しようと考えていたのではないかと思われる。

    だから、わだわざ作者のセンス、技量の巧みさといったものを消し去るようにして、鑑賞者が作品に触れた時、どう感じ、それをどう想像し、そこからどう創造するか、それぞれの鑑賞者が、それぞれに作品を作りあげられるよう図っていたのではないだろうか。

     

    このようなやり方は、アートを捉えどころの無いものとしてしまい、当然、批判も多かろうと思う。

    しかし、一方的に受取るだけでなく、それをどう感じ、想像して創造していくという事は大切な事だと思う。

    特に今は、高度にコンピューター化が進み、AIがデータ分析してつくったものをそのまま受取るだけという風潮も多くみられる。

    しかし、生身の個人個人が感じ、想像し、創造したものは絶対に必要だと思う。

    そうでなければ、人間が人間でなくなっていくような気がするし、せっかく様々な能力と可能性を与えて下さっている此の世の創造主にも申し訳が立たないような気がする。

     

     

    2021年秋季フォーラム

    2021年11月23日(火)勤労感謝の日 ハイブリッド開催

    テーマ「アートと操体」