カテゴリー: 三浦 寛幸(みうら ひろゆき)

  • 「愛と神隠し5 〜書くこと〜」

    最近の私はメモを三つ持つようにしている。その内訳は
    ①どこでも閃いたことが書ける小さなメモ帳
    ②それを清書するもの
    ③日記帳

    これも②と③は100円で買えるようなものではなく、伊藤屋に行き1000円位のノートに書くようにしている。

    それを日課として行うようになり変わったことは、
    ①自分の頭の中で考えていることが整理され、自分のやることが明確になった。
    ②次から次へと疑問・課題が見つかるようになった
    ③疑問に思っていたこと、分からなかったことが天から降ってくるように分かるようになった
    こういったことを明確に書いている本があるので紹介したい。

    この本ではノートは「第二の能」と記している。頭で思考して覚えていくことよりも、「書く」という体を使って覚えることの方が情報が整理され、その後の記憶も定着しやすいとしている。

    この本で書かれていることを踏まえ、自分が日々書くことで気が付いたことがある。

    それは書くこととは「感覚を磨くこと」にも繋がるということである。書くという動きの中で聞き分けられる、感じられる感覚があり、そこからしか得られない情報や閃きもある。それは思考するだけでは気が付けないものである。

    こういったことは何か臨床にも通ずるものがある。

    「思考して覚えること」とは動かさないで診ること。
    「書いて覚えていくこと」とは動かして診ること。

    命あるものには必ず動きがあり、感覚というものが生じていくる。その感覚は著しく変化するが絶対的なものであり、無視してはならないもの。

    こういった書くことの重要性が分かってくると、本当に大切にしていることや知りたい事があるならば、読むだけでは駄目だということが理解よく理解出来る。

    もしかすると神様が人間に与えた謎(神隠し)は「書く」という行為の中で明かされていくのかもしれない。
    このように捉えると、「書くこと」とはSEXと類似する行為ではないだろうか。
    SEXが神と繋がる神聖なるものであるならば、書くことも神や宇宙と繋がる神聖なるもののように思える。

  • 「愛と神隠し4 〜意識〜」

    いつか見たマザーテレサの言葉を思い出した。

    「愛の真逆は無関心」

    確かに家族、恋人、友達、子供、そして自分自身にしても意識が向けられなければ、愛は存在しない。
    現代の子供達を見ていると、親の子供に対する関心が薄れているように思える。

    「もっと自分を見て欲しい」と心の奥で叫んでいるように見える。

    恐らく、最近TVで見る未成年の犯罪もこういった心の声を聞き取れなかった親に責任があるのではないだろうか。

    もっと言うならば、親は子供を愛する以前に、自分を愛せていないのだろう。

    どこか子供に対して他人事のように見てしまい、自分事として捉えていない。または心のどこかで自分を嫌ってしまっているのではないだろうか?

    自分を愛せない人が果たして他人を、子供を愛せるのだろうか?

    無垢な子供はそういった親の波動を敏感に察知する。それは命あるもの全てに言えることであり、特に植物等を見ていると、それはよく分かる。

    常に意識を向けなければ呼吸がしづらそうだし、生命力は無くなるばかりなのが感じ取れる。

    それは自分の体にも同様の事が言える。

    常に自分の体(体調)に意識が向けられているか?

    自分の事を他人事にしていないか?

    自分に意識を向けられなければ、人や物に愛は向けられない。

    自分をもっと愛すること。

    それが愛を知ることの第一歩なのではないだろか?

  • 「愛と神隠し3 〜体〜」

    人体にも神隠しが多く潜んでいる。

    なぜ病気になると体が歪むのか?

    なぜ多くの症状・疾患は体の奥深くに隠れるのか?

    なぜ本人の意識が行き届かない箇所に歪みが生じるのか?

    こういった多くの謎は神が人間に体を与えた意味、つまり神隠しにも繋がってくる。

    私達の体は神様からの借り物であるならば、体を使うことにおいて粗末に使ってはならないということ。

    病気が本人の意識の行き届かない所で進行するのは、神が「自分の体を愛しなさい」、「もっと意識を向けなさい」というメッセージを発信しているように思える。

    それは操体でいう「自己責任」でもあり、それを「やるか、やらないか」は本人次第なのである。

    こういった操体の哲学には愛が問われているなと思う。

    愛が無ければ、操体を学ぶことは出来ないし、自分を愛することも出来ない。ましてや人の体を診ることも出来ない。

    臨床家にとって人の体を診るということは、こういった神からのメッセージを忠実に受け取り、人体に隠された謎である神隠しを紐解いていくことなのだろう。

    先週の三浦先生がブログで書かれていた「火鏡」と「水鏡」は正に人体の愛の結晶である。

    患者の生き方、愛に触れることが出来る体の部位であり、そこには「救いと報い」が現象として忠実に現れている。

    そういった神が示してくれている体の部位を愛を持って触れること。そして「神明かし」することが臨床家の務めなのだと思う。

  • 「愛と神隠し2 〜学問〜」

    愛とは神が人間に与えた永遠のテーマである。

    この世に生を授かり、あの世に旅立つまでに様々な人や物、職と出会い、学んでいく中で最終的に愛に繋がってくるのだと思う。

    三浦先生は私達に「学問しなさい」と言われる。

    学んでいることに問いかける。

    「これで良いのか?これで良いのか」と。

    この問いかけの先にまた分からないことがある。

    学びとは問いかけの渦の繰り返しであり、その渦の先に真理があり、愛がある。

    真理に触れたければ、自分が学んでいることを学問にしなさい。

    自分を愛しなさい。

    自分が学んでいることを愛しなさい。

    そう問いかけられているように思える。

    自分が学んでいることの中で得た点と点を一つの線にしていくことが学問であるならば、その永遠と続く線の先にはあるものは愛なのではないだろうか。

    きっと神様は愛を隠すことで人間一人一人に生涯のテーマを与えて下さったのだと思う。

    その神隠しされた一つ一つの点を明かし、線にしていくことが学問であり、愛を知ることに繋がる。

  • 「愛と神隠し〜愛の本質〜」

    こんにちは。一週間よろしくお願い致します。

    今回のブログのテーマは「愛」。

    この壮大かつディープなテーマを与えられてから、毎日のように「愛とは何だろう?」と考えていた。

    35年間、生かされてきて、また操体の学びを得て少しずつではあるが、愛の本質が見えてきている。

    愛とは複雑なもののように見えて非常にシンプルなもの。

    日常生活にありふれているものだけど、気付けないもの。

    でも誰もがいつも触れていて、潜在意識の中に誰もが持ち合わせているもの。

    だが、求めていては姿を隠し、忘れた時にフト現す神隠しもようなもの。

    このように捉えると生きていることは「愛を知る旅」なのだと思える。

    学んでいることも、人や物に触れ合っていることも、時には誰かを傷つけてしまうことさえも全て愛に繋がってくる。

    愛とは「救い」と「報い」の中心にあり、その姿は自分自身なのである。

  • 「正しい姿勢とは」

    人間の本当に正しい姿勢とは何なのだろうか。

    様々な分野で姿勢が原究されているが、未だ完成されたものは出てきていないように思える。

    私達も操体を学んでいる中でこのテーマの核心に迫ってきているように思うのだが、まだまだ完成形のものだとは思えない。

    私自身も先に行われたフォーラムで発表した「自然体立位」の中で、この正しい姿勢について原究し、それを成すための重要なポイントを示したのだが、これもポイントの一つにすぎない。

    このテーマに対し少しずつ見えてきたのが、正しい姿勢とはカラダの器だけを正しても正しい姿勢にはならないということであった。それに順ずる心、また生き方も正していかなければ正しい姿勢にはならないのである。

    橋本先生の著書を読んでいると自然体についてこのようなことが記されている。

    「人が正しければ、容姿はおのずと正端となり、骨格は整い、筋肉は拘筋することなく、
     内臓はその地位に安じ、その機能も互いに相、調和し、身心ともに健康である」

    人が正しいければと記されているが、これは生き方を指しているのだと思う。

    橋本先生がここで伝えたかったこととは、本当の正しい姿勢とは生き方が正しければ、カラダだけでなく身心が自ずと調和が計れて正しい姿勢、自然体となると説かれているのだと思える。

    ここでいう生き方とは先日まで書いた「息・食・動・想」であり、これらをイノチが悦ぶ法則に乗っ取り実践していくことが正しい姿勢に繋がってくるのではないだろうか。

    来年はこの正しい姿勢について原究していき、フォーラム等で発表していきたいと思う。

    今年も一年ありがとうございました。明日からは半蔵さんです。

  • 「息について」

    先日まで「食」「動」「想」について書いてきたが、これらの捉え方が変われば当然「息」に対しての捉え方も大きく変化してくる。

    私自身この変化を大きく実感しているのが、呼吸を上手くコントロールすることで他のイノチの営みをより活かせるということである。

    操体を勉強している方なら存じていると思うが、操体では「息・食・動・想」これらの命の営みが同時相関相補しているとされている。

    これら4つのバランスが取れてこそ自分のイノチの調和が計れ、健康という一つの目的が達成される。その中でも「息」は最重要項目でこの呼吸ひとつで人間の食事にしても、動きにしても、想念にしても全てがイノチ、体が悦ぶベクトルにコントロールすることが出来るのである。

    例えば先日書いた「食」にしても「食する」ということは今までインプットとして捉えられてきたのだが、それがアウトプットに変化してきている。

    何故かというと食することでカラダに負担が掛かることと、それに伴い呼吸で「食」をコントロールすることが出来るからである。

    それだけ現在の操体における「呼吸法」が変化してきているのである。

    その変化の一つのポイントが呼気と吸気の「マ」になる。

    一般的な呼吸法は様々な呼気のやり方は説いているが、その「マ」の重要性は説かれていない。しかしその「マ」の使い方にこそ呼吸が「イキ」ではなく、「ソク」となり、カラダとイノチが悦ぶ呼吸法になる。

    また、その呼吸法を体感し、身に付けていくとカラダの動きや自分の意識は呼吸だけでコントール出来るようになる。

    こういったことを体感すると人間の生命活動は「息」のコントールによって成されるのだと理解出来る。
    これからもっと「息」について深めていこうと思っている。

  • 「息について」

    先日まで「食」「動」「想」について書いてきたが、これらの捉え方が変われば当然「息」に対しての捉え方も大きく変化してくる。

    私自身この変化を大きく実感しているのが、呼吸を上手くコントロールすることで他のイノチの営みをより活かせるということである。

    操体を勉強している方なら存じていると思うが、操体では「息・食・動・想」これらの命の営みが同時相関相補しているとされている。

    これら4つのバランスが取れてこそ自分のイノチの調和が計れ、健康という一つの目的が達成される。その中でも「息」は最重要項目でこの呼吸ひとつで人間の食事にしても、動きにしても、想念にしても全てがイノチ、体が悦ぶベクトルにコントロールすることが出来るのである。

    例えば先日書いた「食」にしても「食する」ということは今までインプットとして捉えられてきたのだが、それがアウトプットに変化してきている。

    何故かというと食することでカラダに負担が掛かることと、それに伴い呼吸で「食」をコントロールすることが出来るからである。

    それだけ現在の操体における「呼吸法」が変化してきているのである。

    その変化の一つのポイントが呼気と吸気の「マ」になる。

    一般的な呼吸法は様々な呼気のやり方は説いているが、その「マ」の重要性は説かれていない。しかしその「マ」の使い方にこそ呼吸が「イキ」ではなく、「ソク」となり、カラダとイノチが悦ぶ呼吸法になる。

    また、その呼吸法を体感し、身に付けていくとカラダの動きや自分の意識は呼吸だけでコントール出来るようになる。

    こういったことを体感すると人間の生命活動は「息」のコントールによって成されるのだと理解出来る。
    これからもっと「息」について深めていこうと思っている。

  • 「救いと報い」について

    現在の操体のカラダを動かす・使うこと、また命に対しての捉え方は「報い」から「救い」に変化してきているように感じる。

    例えば身体運動の法則における作法にしても利き手に応じた作法であるのだが、この利き手というのは天性のものではない。

    物心を付いた時に「使い易かった」というだけであって産まれもっての利き手は存在せず、それはこのシャバに産まれてからの「癖」であり、現象であり、「報い」というように捉えることが出来る。

    このように「報い」からの捉え方では同じ人間なのに個体差や感覚差というのが生じてしまう。

    では「救い」の観点で利き手を見ていくとどうなるかというと、同じ事を万人がやっても皆が同じ体感が出来る「絶対性」がそこには在る。
    つまり右利きも左利きも存在ないのだと言える。

    私達が今まで学んできたことは呼吸にしても、カラダを動かすことにおいても、食事にしてもカラダに聞きわけることで「快」という一つの大きなベクトル(目的)にその指標向けてきたのだが、そこには右利き、左利きという優位性があり、相対性が生じる。

    それはこの世に生を授かってから現在に至るまで己が育んできたカラダ、意識が大きく関与している。

    しかしこれを「救い」という観点から見ると利き手というのは無く、皆が同じカラダの使い方・動かし方をすることが本来の人間本来の「ありのまま」になる。

    この人間の「ありのまま」の要求を満たしていくことこそがイノチが悦ぶことであり、私達臨床家だけでなく生ある者全員がカラダを使わせて頂いていることへの責任なのだと思う。

  • 「動」について

    臨床を行っているとこちらの指示する通りに動ける人と動けない人がいる。

    これは私が操体の臨床を行う上で、ずっと頭を抱えていた問題で操体の臨床家にとって一度はぶつかる壁だと思う。

    果たして動ける人と動けない人の違いは何なのだろうか。体の動きを知らないからだけでは済まされない何かがあるのではないだろうか。

    この問題の要因は被験者の「意識」が大きく関与しているのだと思う。

    それは自己責任を全うするという意識とも言えるが、己が使わせて頂いているカラダなのに使い方が分からない、手入れの仕方が分からない、壊れたらお医者さんに治してもらえば良い、こういった意識にカラダが反抗し、動けなくさせているように思う。

    こういった意識で生活している患者は、カラダを治してもまた病を作り、治しにくるという繰り返しになる。

    それを繰り返さない為にも患者自身の思考や意識を変え、自分のカラダやイノチと素直に向き合えるような臨床と哲学が操体にはある。それを成す一つの栄養となるのが「快」なのである。

    快を味わい、自分の心と意識の中にそれを受け入れることで己の生き方が変化し、カラダもその意識の変化に素直に反応するのである。

    こういったことを理解してきたので私自身、自分の臨床のテーマに「患者の生き方を変える」という目的を持つようになった。

    とても壮大なテーマかもしれないが、ただカラダを治すだけの臨床家にはなりたくない。

    患者の心とカラダ、そして意識が快のベクトルに向かい、その先に自分の生き方に責任を持つようになる、そんな臨床が出来る臨床家を目指している。