カテゴリー: 三浦 寛幸(みうら ひろゆき)

  • 「陰と陽 ~音楽~」

    先月末にフォーラムにも起こし頂いたヒカシューのメンバーでもある佐藤正治さん率いるMASSAのライブがありました。

     

    今回で二回目になりますが、良いと思う音楽というのは操体の臨床と同じで回数を重ねる度に味わい深いものとなり、心地よい感覚の世界に導かれていきます。

     

    また、それと同時に「本当に良い音楽とは何なのか?」と考えさせられます。

     

    たくさんの人から拍手、喝采を浴びるものが本当に良いものなのか、それとも売り上げが良いものが良い音楽なのか?

    その判断は各々の価値観や時代の流れによって変わってくると思いますが、ただ一つ言えることは本当に良いものとは音楽にしても、物作りにしても、また臨床においても、魂の思い入れがどれだけあるかどうかのように思います。

     

    また、それに比例するように、その人自身の生き方、品性も作品に影響しているのではないでしょうか?

     

    私自身、以前のブログでも書きましたが、音楽とはあまり縁がなく、たまに聴く位です。しかし胸に響く音楽は大切にしたいという想いがあるので、佐藤さん達のライブは出来るだけ足を運び生で聞くようにしています。

     

    足を運び、その人達の顔を見て、音を介して魂を感じる。それを明日からの自分の励みにする。MASSAのライブにはそんな私自身の想いがあります。

     

    そういった想いで佐藤さん達の音を受け取っていくと、音楽にも「陰と陽」があるように思います。

     

    心に響く音楽、皮膚を介してからだで受け取る音楽。右脳に響く音楽、左脳を揺さぶる音楽。時代が必要とする音楽、時代が隠した音楽。

     

    受け取り方は人それぞれなので、あえて分別する必要はありませんが、誰もが知っている音楽の裏に「隠れた名曲」というのがあるように、音楽にも先日まで述べたような現象と潜象が潜んでいるように感じます。

     

     

     

  • 「陰と陽 ~太極の意志~」

    私が操体を学び始めた当初、私自身の中で未だよく理解出来ていないことが一つありました。

     

    それは橋本敬三先生が説かれている「太極の意志」が何なのかということです。

     

    「太極の意志」を理解する上で、SEXという神性なる儀式がとても重要なポイントのように思います。

     

    この「太極の意志」という言葉は橋本敬三先生の著書や三浦先生の中でもよく目にしますが、現象の成り立ちにおいて陰と陽に分極される、その起源が「太極の意志」であり、それは「愛と調和」だとされています。

     

    太極の意志をSEXという観点から見ていくと、種を与えるエネルギー(男)とそれを受け取る器が(女)が必要であり、それが一方通行ではなく、互いが調和しなければ命は誕生しない。このように捉えると分かりやすいように思います。

     

    この「調和」ということを理解する上で、男女それぞれの心のあり方もとても大切なことではないでしょうか?

     

    先日の三浦先生のブログで「陰と陽とはギブアンドギブアンドギブ」と欠かれていましたが、この意味には男と女の間で見返りを求めないこと、私達は太極の意思から受け取れるものを存分に受け取りなさいと言われているように感じました。

     

    橋本敬三先生が「太極の意志」の「志」を「思」という字にしていないのか、というのも男と女の交わりを欲や思考ではなく、神性を持って行いなさいというメッセージがあったように思います。

     

    このように太極の意志を見ていくと、陽から陰の時代に移行に伴い、女性という存在が大切にされているのも納得出来ます。

     

    私は操体の学びを得る中で女性は無条件に尊敬の存在だということを学びました。その中でも自分の母親には特にその想いは強く抱いています。

     

    それは臨床においても同じです。女性に触れるということは神性に触れるのと同じような意識で触れなければなりません。

     

    こういった時代の流れからしても、操体の臨床も楽から快へと移行したのも自然の原理に適っているのかもしれません。

     

  • 「陰と陽 ~般若身経における心の在りかた~」

    昨日の話の続きになりますが、毎回フォーラムではプログラムの中に般若身経を組んでいます。今回のフォーラムでは実行委員のtaskチームで発表しましたが、毎回参加者に日々進化する般若身経をどのように伝えていくかはとても考えさせられます。

     

    なぜ考えるのかというと、それだけ橋本敬三先生が説かれたこの般若身経は操体を学ぶことにおいてとても重要であり、奥が深いものだからです。

     

    一般的に般若とは「ほとけさまの智慧」だと説かれていますが、橋本敬三先生はなぜからだの使い方・動かし方のルール、法則をこのように名付けられたのでしょうか?

     

    この「般若身経」と名付けられた意味には橋本敬三先生が私達に暗示した裏の意味があるように思えます。

     

    世の中の現象には全て裏と表があるように、からだと表裏一体となっている心にも、この般若心経とは違う、陰の時代に適うルール法則があってもよいのではないでしょうか。

     

    私自身の橋本先生の時代に記されていたからだの使い方、また更に進化している般若身経を自分のからだを通して体感していると、そのヒントは意識の使い方にあるように思います。

     

    意識と無意識、それは表裏一体、陰陽の関係にあり、救いと報いにも繋がってくるように思います。このシャバで生きている限りは意識というのは常に働き、無意識というのは、このシャバを離れた時にあるものだと思います。それを踏まえると般若の意味とは意識を出来るだけ無意識に薄めていく意味があるのではないでしょうか?

  • 「陰と陽 ~操体と腱引き~」

    おはようございます。三浦先生、一週間ありがとうございました。一つ一つの言葉にとても深い意味がありましたね。これは操体を学んでいる人に限らず、学問に携わっている人全員に向けたメッセージなのだと思います。

     

    では改めて、今週一週間は三浦寛幸が担当致します。よろしくお願い致します。

     

    今月5日、6日と二日間に渡り冬季東京操体フォーラムを無事開催することが出来、二日間合計で約120名の方にお越し頂きました。

     

    講演して頂いた先生方、参加して頂いた皆様、また場所を提供して頂いた市谷ルーテル、昭和女子の関係者の皆様、ありがとうございます。

     

    この二日間で強く感じたのは「陰と陽」この相対する二つが交わる時代がすぐそこに来ているということです。

     

    操体と腱引き」「法と術」「自力と他力」もっと言うならば、「潜象と現象」、同じ臨床に携わっていても全く違うアプローチをしている手技がお互いの良いところを学び、吸収しようと学びの場を共にしたことに大きな意味があるのではないでしょうか?

     

    その意味が何なのか、直ぐに結論を出す必要はなく、各々が感じ取ったことを今後の人生の糧にすれば良いのだと思います。

     

    また今回のフォーラムにはヒカシューのメンバーでもある巻上公一さんと佐藤正治さんにもお越し頂きました。操体と音楽、一見あまり関係無さそうに見えて感覚を通じて共鳴し合えるものがあるのですね。

     

    感覚の共有。これも操体の魅力の一つなのだと改めて思いました。

     

    このように今回のフォーラムは自分がやっていることに関係なく、操体を通して自分の人生の肥やしになるものを共有し合う豊かな場となりました。

     

    私達、東京操体フォーラム実行委員は早速来年の春に向けて始動しています。

     

    もし、今回のフォーラムを通じて自分の中に何かひびくものがありましたら、ぜひ来年の春もお越しください。お待ちしております。

  • 「利き手とゆがみ」

    今回のブログのテーマである「ゆがみ」を考える上で正しい姿勢、ゆがみを作りやすい姿勢を考えなければならない。

     

    先日までのブログの中で「自然体」について触れてきたが、正しい姿勢と自然体では少しニュアンスが違うように思える。

     

    自然体とは無意識的に作れるカラダの状態で、正しい姿勢とは意識的にカラダに学習させていくものであり、そして自然体を作るにはまず正しい姿勢を理解し、カラダに学習させていく必要がある。

     

    正しい姿勢とゆがみを作りやすい姿勢の違いを考えていく中で、私は「カラダの力み」に注目してみたのだが、力みに繋がる姿勢というのは骨盤の状態(前湾、後湾)にあるように見える。

     

    カラダの歪み、力みがある人は右重心の傾倒になりがちで、骨盤の状態が後湾曲(反った)人が多く、それは精神的にも緊張を作りやすい傾向がある。

     

    私達が操体を学ぶ上でまず骨盤を前湾曲させることをカラダに学習させるのだが、どうも骨盤が後湾曲(反った)した状態ではカラダは力んでしまい、歪みを作りやすいということが分かった。

     

    そしておもしろいと思ったのが、私が見た範囲の中での話しだが、骨盤が後湾曲している人の傾倒として左利きが多いということである。

     

    左利きの人間は何か特別な才能を持っていたり、何かを感じ取る能力は秀でているのだが、右利きの人に比べリズムを取ることや柔軟な動きを行うことを苦手とし、カラダを使うことにおいても動きが硬いように見える。

     

    それは歩行原理から見て右足に重心を掛けてカラダを使っていることが一つの理由として挙げられる。

     

    私自身も利き手が左で、足は右利きなのでよく分かるのだが、右に重心を掛けることで生じるカラダのゆがみは必要以上の負担が掛かり、力みへと繋がり、生命リズムに狂いが生じる。

    ではそういった負担を無くしていくにはどうすれば良いのか?

     

    それを冬のフォーラムで明らかにしていきます。

     

    興味のある方はぜひ起こし下さい。

     

    おしらせ

    2015年冬季東京操体フォーラム 速報です。
    12月5日(土)6日(日)二日間開催決定

     

    明日からは半蔵さんの出番です。お愉しみに。

  • 「記憶とゆがみ」

    未だ私自身の中に鮮明に残っている辛い記憶がある。

     

    それは大切なお世話になった人の他界、失恋という誰もが経験することなのだが、私はその現実を受け入れられずにいつまでも後悔の念に捉われていた時がある。

     

    「もっとこうすれば良かった」、「何でこんなことをしてしまったのか」という自らの行いによって誰かを傷付けてしまうこと、または自分の行いに対する後悔というのは一番魂が傷つくように思える。

     

    操体を学ぶ前の自分はそういった経験を辛い経験として持ち続けたまま、それをいつまでも後悔したり、自分自身への怒りに変えたりしていたように思う。

     

    今となっては、そういった過去の自分を全て受け入れ自分自身を許すこが出来たのだが、自分が臨床を行う立場になり同じような経験、思いをした人の体には心の歪みとそれに比例してボディーにも歪みが生じている。

     

    心の怒りや悲しみ、辛い過去の記憶はカラダの部位に歪みや病気等、何らかの形となって現われる。

     

    何より厄介なのが、人が辛い記憶を心の奥に隠すように、カラダも歪みを奥深く隠すことである。

     

    治療を続けても中々治らない人、また原因が明らかにならない病にはそういった心の歪みが関係しているように思う。

     

    それは目に見えるものだけを追っていては改善されるものではない。

     

    目に見えない潜象の中に病や歪みを作る要因がある。

     

    私達臨床家は心とカラダ、目に見えるもの、見えないもの、その両面を見ていく必要がある。

    もしかすると私達が臨床で頭を抱える問題を解決するヒントは、私が経験したような過去の苦い記憶、自分を許せない心、そういった目に見えないもの、生き方の過程の中にあるのかもしれない。

     

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  • 「空間とゆがみ」

    去年に引き続き、今月の5日、6日に福島の会津にて伝統療法カンファレンスが開催された。

     

    私は所要の為、5日だけの参加だったのだが、その短い時間の間でも本当に実りのある有意義な時間であった。

     

    様々な手技の先生達の治療との向き合い方、その先生達のお弟子さん達の姿勢、治療の内容以外にも様々なことを勉強することが出来た事。そして会津の自然に囲まれながら臨床を行う素晴らしさを体感出来た事が大きな収穫であった。

     

    そういった空間に身を置き、改めて勉強になったのは臨床における時間・空間の大切さである。

     

    施術者はいかに患者が自分と向き合うための臨床を行えるかである。雑音が入る空間はとても刺激的な波動があり思考が常に働く。いくら腕が良くても患者がカラダと素直に対話出来る空間がなければ治療効果も出ない。

     

    操体は場所を選ばない素晴らしさがあるが、空間が与えてくれる治癒力も大切だと思う。

     

    三浦先生が治療されている三軒茶屋のターミナルビルにしても、岡村実行委員の治療院にしても、何かカラダが悦ぶような空間の波動がある。

     

    そういったカラダと向き合うための空間作りも臨床の一つであり、技量の一つなのだと思う。

     

    今回の伝統療法カンファレンスが豊かな自然の中で開催されたことの意味の一つにこういった事が含まれているような気がする。

     

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  • 「癖とゆがみ」

    先日のブログではカラダの自然について書いたが、ボディーの歪みとは自分の癖と密接に関係している。

     

    自分が楽だと思いカラダを動かしていても、実はボディーには歪みが生じていたりする。

     

    それは楽という感覚でカラダを使っていてはボディーに歪みを作りやすいことを意味している。

     

    つまり無意識の習慣の中に楽という感覚を植えつけてしまってはならないということであり、やはり快という感覚が生活習慣の中に感覚としてなければ、カラダも自然な状態にならないのだと思う。

     

    それは臨床においても同じで、楽という感覚の問いかけと快適感覚への問い掛けでは患者自身の生き方の意識回路も大きく変わってくる。

     

    楽の問い掛けではカラダの癖というのは中々改善することは出来ない。なぜなら楽とは自我への勝手の付く問いかけであり、そこには体を使う・動かすことにおける自然の法則という真理はないからである。

     

    私自身も癖には本当に悩まされた。それは現在私達の学びの中で重要視している骨盤の形状である。

     

    去年の秋のフォーラムでも骨盤の前湾曲の重要性は説いてきたのだが、私も無意識の習慣として骨盤が反った状態になってしまう。

     

    腰が反った状態になるとカラダには力みが生じ、歪みを作る一つの要因になる。

     

    その癖を徐々に改善出来た事で自分の思考では聞き分けられない感覚が芽生え、カラダは少しずつ自然な状態になってきているのを実感している。

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  • 「カラダにとっての自然」

    前日まで私のゆがみに対しての捉え方を書いてきたのだが、これらを書いていく中で疑問に思うことがあった。

     

    それは果たしてゆがみのないカラダが本来の自然、正常なのかということである。

     

    その定義、基準を説いている医者、施術者は私の知る限りいない。

     

    私も操体の学びの中で不自然な中の自然ということも認識し、ある程度対称にすることで後は体が治しをつけることを念頭において臨床を行っていたが、よく考えていくと本来カラダが持ち合わせる本当の「自然」の基準というのは分からない。

     

    左右上下均等になっているのが自然なのか?無意識の内に左右上下差を無くしていくことに捕らわれ臨床をしていたように思う。

     

    しかしよく考えていくと人の体の内部は左右対称ではないこと、また各パーツの役割がそれぞれ異なっていることを考えるとカラダは非対称性の中でバランスを取っていて、必ずしも左右上下対象にすることが自然ではないように思えてしかたがない。

     

    カラダの内部のように外部もまた非対称性の中のバランスというものがあり、そのバランスを上手く調和させていくことが大切なのではないだろうか?

     

    自然なカラダの定義が無い以上、私達は何を自然として捉えれば良いのか?

     

    その架け橋となるのが「軸」である。歪みのある不自然に見えるものも心とカラダに軸がしっかり立っていれば、自ずとカラダは自然な状態にバランスを取ってくる。

     

    それには心と体、命が要求している自然を感覚を聞き分けることが大切になってくる。

     

    カラダにとっての自然とは自分の頭の思考ではなく、目には見えないカラダの内部感覚の中に答えはある。

     

    橋本先生は当時からこういったことに着目したからこそ、感覚を重視し、「治すことまで関与するな、カラダに任せなさい」と説いたのだろう。

     

    こういった橋本先生のコトバからも目に見える現象(カラダ)と目に見えない潜象(心や空間など)のバランスを診ていかなければならない。

     

    そのように捉えていくと人が完全なる体(構造)の自然を定義し、それに捉われる必要はなく、臨床においても歪みを全て改善する必要もないのである。

     

     

     

    全てはカラダに任せること。私達はそれを手助けすればよいのだと思う。

     

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  • 「ゆがみと治癒力」

    なぜカラダと心は歪むのか?ボディーが歪むという現象とは命の営み(息・食・動・想)、つまり己の「生き方」に対する一つの通知表のようなもので、今までそれは自己責任を怠った一つの「報い」として今までは捉えてきた。

     

    症状・疾患を抱える患者はその報いに対して自分でどうにも出来なくなると医者や手技療法に頼りにする。それに対し医者や臨床家はその症状・疾患を治すために様々な技法、手段を用いて治療するのだが、その報いの一つの対価として痛みを与える。

     

    痛みを与えることで患者の思考には「二度と痛い思いはしたくない」という思いから自分の生活習慣を見つめ直し、命の営みを正すこともあるが、一度痛みや苦痛が無くなると歪みは普段の生活の中でまた元に戻ってしまう。つまり痛みという報いの対価では歪みの元となるものが改善されないのである。

     

    その元となる原因が改善されなければ、同じ痛みを何度も味わうことなり、それが蓄積されていくと一生涯痛みと付き合う事となる。

     

    そのようにならない為にも、自分で好き勝手生きてきた患者自身の生き方、意識、心の「ゆがみ」を正していく必要がある。

     

    では救いの対価とは何なのかを考えていくと、それはカラダの治癒力なのだと思う。

     

    カラダに備わっている治癒力は歪みと陰陽対極のものであり、カラダが歪むのと同様にその分、カラダには治癒力という救いが備わっているのである。

     

    こういった捉え方をしていくと臨床とはカラダの歪みという現象だけを診るのではなく、患者自身の生き方という目には見えない潜象も診ていく必要があり、それを命の要求に適う様に変えていくことがカラダを診させて頂く者の務めなのだと思う。

     

    生き方を変えていくには、まず命の営みを含めた意識を変えていくことが必要になり、まずは患者に命の営みにおける「自己責任」と向き合わせることがとても大切になってくる。

     

    カラダは治るように設計されている。それはカラダに備わっている治癒力であり、そういった救いの生命観の有難さに気付かせることが、これからの臨床家にはとても大切なのではないだろうか。

     

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