カテゴリー: 三浦 寛幸(みうら ひろゆき)

  • 「ゆがみ」の有難さ

    おはようございます。今週から一週間よろしくお願い致します。

     

    今回のテーマは「ゆがみ」。

     

    ゆがみと聞くと大抵の人はイメージとして何か悪いもの、あってはならないもの、正しくしていかなければならないもの、あってはならないというイメージがあるように思える。

     

    臨床家も「歪み」に対し、改善しなければならない、あってはならない天敵のようなものとして捉えている人がほとんどである。

     

    実際に私達、操体の臨床家も「症状・疾患を持った患者は必ずボディーに歪みがある」と創始者である橋本先生のコトバからボディーの歪みを正すことを目的にした臨床の問い掛けを行っているのだが、果たして体が示してくれる歪みとは悪いものなのか、本当に全て改善すべきものなのかと疑問に思う。

     

    歪みとは程度の差があれ、生命体には必ず存在しているものであり、一生涯お付き合いしていかなければならないものである。どんな健康体の人であれ、カラダに歪みのない人はまずいない。

     

    それはカラダだけでなく、心という目には見えないものにも同様に存在し、その目に見えるものと見えないもののバランスを計っているものの結果の一つが歪みのように思える。

     

    そういった一生お付き合いをしていくものを悪い物として捉えるのは少しナンセンスのような気がしてならない。

     

    カラダの歪みにしても、心の歪みにしても、歪みが存在しているからこそ「生かされている」有難さを実感出来るのではないだろうか?

     

    それを踏まえ、私の「ゆがみ」に対する捉え方はカラダと心の声、またはメッセージという有難いものとして捉えている。

     

    その声を聞くことでもっと「自分自身と向き合いなさい」と言われている気がする。

     

    おしらせ

    2015年冬季東京操体フォーラム 速報です。
    12月5日(土)6日(日)二日間開催決定

     

     

  • 『「自分らしさ」という器におさめる』

    大抵の人は人生で一度は「自分らしさ」というのを考えたことがあるだろう。

     

    自分の長所、または短所、自分がどういった性格なのか。ここまでは考えたことはあると思うのだが、そこから更に踏み込んで、自分にはどれだけの可能性があるのか、またはどれだけの器量があるのかまで考えてみたことはあるだろうか?

     

    意外とここまで自分を自己分析する機会はあまりないと思うので、これを読んでいる人はこれを気に考えてみてほしい(特に自分と同じ30代の人には)。

    まだ自分が10代の頃に描いていた自分と重なるのか?20代になり社会と現実の生活の中でどう変化していったのか?

    周りの人が気付く自分の変化に自分自身が気付かないことがある。そういった自分の変化に気付かずに今日という日を過ごしてしまっている人が多いように思う。

     

    私自身もここ数年の間で自分の中にどういった変化が起こっているのかをよく理解出来ていない気がする。よく友人から「昔から全然変わっていないね」と言われるが、それも何か違うような気がする。確実に何かが変化している。

    一日一日、瞬間、瞬間で何か実感することが出来ない些細な変化があるのは確かなのだが、それが何なのかは分からない。

    今日に至るまで「自分らしく」生きてきたつもりであったが、その「自分らしさ」は不思議なことに自分以上に他人の方がよく分かっていたりもする。

     

    ただ自分の成長というか、これが変わったというのが一つある。それは「自分の器」である。

    特に操体を学び始めてからの6年間の学びで得た知識や技術というのは、それを生かすための「自分らしい器」作りだったのだと思う。

     

    命の営みや自然法則を学び実践していくこと、それに繋がる数々の知識、情報にしても操体を学んでいくプロセスの中で「自分らしい器」を作り、得たものを一つ一つ取りこぼしのないように無意識の内におさめているのだと思う。

    それは何を学ぶにしても同じ事が言えて、知識や技術を租借し実践していく中で自分自身の中におさまる様に自分の器を皆が作っていっているように見える。

     

    みなさんも今一度「自分らしさ」とは一体何なのかを見直してみてほしい。それが分かると知識や情報の入り方も変わってきて、新たな自分自身と向き合うことが出来る。そうすれば自分と自分自身が調和し、自分という器に上手くおさまってくるように思う。

     

    一週間ありがとうございました。明日からは半蔵さんです。お愉しみに。

  • 「動物のおさめ、植物のおさめ」

    人間の生き方には大きく分けて2通りの生き方があるように思う。

     

    動物のように本能のまま「何かを求めていく」生き方と、植物のように静観しながら環境と上手く調和しながら生きていく生き方が人間にもあるように見える。

     

    どちらが良い悪いという概念はないのだが、日々操体と向き合っていると自然に植物のような生き方に自分がおさまってくる。

    f:id:tokyo_sotai:20150618132330j:plain

     

    この写真はターミナルビルのテラスにある植物である。

     

    三浦先生や寺本実行委員が愛情を込め育てていき、ここまで育った。

     

    その愛情とは水以外にも命が悦ぶコトバや臨床から産まれる波動であり、彼らはそれらをありがたく受け取りながらも目には見えない波動で私達に恩返しをしてくれている。

    それは生きる活力なのかもしれないし、または臨床を手助けしてくれているのかもしれない。

    この植物達を見ていると、彼らは彼らなりに「おさめている」ように見える。

     

    そういった彼らの姿勢を見ていると、橋本先生が言われる「人間の生き方が間違っている」というのもよく理解出来る。

     

    人間が人間らしく生きていくには「俺が、俺が」というように自分が主語になってしまっては彼らのようにおさまりがつかない。求めず、与えられた恩恵に対しておさめ、そのおさめたものは見返りを求めず返していく。

     

    そんな生き方が出来れば、きっと病と戦わないでありのままに生きていけるのだと思う。

  • 「環境とおさめ」

    先日、藤川球児選手の独立リーグ高知への入団会見を見たのだが、私はこれも一つの「おさめ」だと思った。

     

    大リーグから日本のプロリーグに帰ってくる選手が思うような活躍が出来ていない中、ネットでは藤川選手の決断を賞賛する声が多く見られ、私も同じ思いだが、それ以上に彼の決断は「おさまるところ」に帰ってきたという印象が強かった。

     

    私は巨人ファンであり、野球を一番観ていた頃の藤川選手は天敵とも言える存在で、彼がマウンドに出てきた時は試合終了のように思っていた時があった。それだけ巨人ファンからすれば、彼は「目の上のタンコブ」であったのだが、心のどこかで彼が投げる「火の玉ストレート」に惹かれていたのも偽りのない思いがあった。

     

    そんな彼が阪神を出て大リーグにいった時は野球の一ファンとして応援していたが、怪我もあり中々ファンの期待に応えられない成績のまま退団した時はガッカリしたが、今回の四国に入団を決断した彼の野球に対する姿勢、思いは野球ファンとしてだけでなく、同世代の男として素直に見習いたいと思う。

     

    またこの会見を見て思ったことは人間にとって環境がいかに大切であるかということである。

     

    どういった環境で自分のやっていること、取り組んでいること、また命の営みを全うしていくかで心のバランス、調和がいかようにも変わる。きっと自分の身心がおさまる環境に自分の身を置くことが命にとっても自分にとっても必要なことではないだろうか?

    もちろん厳しい環境に身を置くことも必要だと思うが、その厳しい中にも自分をおさめられる場所が必要なのだと思う。

     

    今回、彼が決断したことは自分が操体の臨床家として、いずれ訪れる決断するべき時に大きな力になると思う。

    お金や地位以上に大切なことがある。自分がおさまるところにおさまるような生き方の選択をしていきたい。

  • 「操体をおさめる」

    ご存知の方も多いと思うが、東京操体研究会が講習を行っている三軒茶屋のターミナルビルの出入り口には橋本先生の写真が飾られている。

     

    三浦先生は入る時、そして帰る時に必ず橋本先生の写真に向かって一礼をしている。

     

    それを見る度に三浦先生は橋本先生にその日学びで得たことを報告しているように見え、自分も無意識に橋本先生にその日学んだことの報告と感謝を告げることが習慣になった。

     

    こういった三浦先生と橋本先生の師弟関係はとても素敵だなと思う。

     

    またそれと同時に、操体を学ぶことにおいて「好き勝手」は出来ない、許されないということを強く実感することが出来たのである。

     

    三浦先生は常々橋本先生に「操体をお借りし、お返しする」と言われているが、それは操体を学ぶことにおける三浦先生の「おさめ」のように見える。

     

    操体を学ぶという事は橋本先生にしっかりとお返し出来るようにおさめなければならないということであり、こういった姿勢は何にでも共通して言えることである。

     

    おさまらない、おさまりのつかないような学び方には真理は姿を現さないように思える。

     

  • 「真の治療とは何か?」

    操体を学んでいく中で様々な治療法と触れ合い、交流する機会がある。

     

    最近では春のフォーラムにもお越し頂いた腱引きの小口先生の治療をDVDで観る機会があったのだが、戦場医学というだけあり、臨床のスピード、触診の正確さはとても勉強になる。

     

    操体の臨床とは相対する臨床を見ることで自分の臨床に新たな気付きと治療という行為の目的を考えるきっかけを与えてくれたのである。

     

    「真の治療」とは一体何なのか。一般的な治療には薬物療法、外科的療法、理学的療法、鍼灸療法、指圧療法、整体療法等、医術を通して様々な治療が行われている。

     

    いずれの治療法も結果的に患者の「壊れたカラダをどうにかしてほしい」という要求に応えることが最大の目的としているが、果たして患者のそういった一方的な要求に応えることで互いが救われるのだろうか?またカラダを治すことだけが真の治療なのだろうかと疑問に思う。

     

    この問いの答えを模索していく中でこういったコトバと出会った。

     

    「(施術者する人間は)的確な効果を収めて治療となるためには、これらの医術を受ける患者側において、日々(受ける)療法を身に実践することによって、患者の無意識に、よくなる、治って行く、という連想が働くから治るのであります」(医学博士岡田一好著「生命の医学 P161より」

     

    この本、このコトバは自分がどういった臨床家を目指すのか、どういった臨床をしていきたいのかを考えていく上で、私に大きな指標を与えてくれた。

     

    前日のブログでも少し書かせて頂いたが、患者が体感する痛みも体が治る過程において必要なものであり、その痛みも患者のカラダが悦ぶヒビキとなり、やがてカラダの治癒力、意識、生き方が変わってくるのである。

    そういった臨床を成すには岡田一好氏が言われるように療法を実践していくこと、これは自分とカラダと向き合うことであり、患者自身がいかに自己責任と向き合い付き合っていくか、カラダの治癒力に繋がる命の営みを無意識に全う出来るかということである。

     

    操体と他の医療行為の大きな違いには「カラダに感覚を聞き分けること」、それに連結して「自己責任との向き合うこと」が挙げられる。それを結ぶキーワードとして患者自身が自分自身のカラダの治癒力を他人任せにはせず、向き合っていけるかということである。そういったことを気付き、実践していき、それによって「おさまるところにおさまる」ように手助けすることが「真の治療」ではないだろうか?

  • 「臨床のおさめ」

    昨日書いたことは臨床でも同じことが言える。

     

    視診・触診・動診、それぞれ一つ一つをおさめていかなければならない。

     

    治しぱなしの臨床では治るものも治らないし、施術する側も後味が悪い。

     

    やはり臨床もお互いが「ありがとうございます」と素直に頭を下げられるような臨床を行っていかなければならないと思う。それには臨床の中でお互いの信頼関係を構築していくことがとても大切になってくる。

     

    そういったことを考えていく中で、私自身が操体の臨床家として、最近大切にしているのが「痛み」との向き合い方である。

     

    どの臨床でも施術者と患者は共通して「痛み」と向き合わなければならないのだが、どの手技を見ていても「痛み」とは自らの生き方、行いに対しての「報いの痛み」のように見える。つまりカラダを壊した代償を痛みとして払わせているのである。

     

    施術する側の観点からすれば、患者に「痛み」と向き合わせることでカラダの構造を正し、「もうこんな痛い思いはしたくない」と思わせることで患者自身の生き方を正していくことも一つの臨床であるのかもしれない。

     

    しかし私達操体の臨床家は「きもちのよさで体は治る」という創始者のコトバがある以上は患者にそういった代償を払わせるような「報いの痛み」と向き合わせるべきではないと思う。

     

    ではどうしていくべきか。それは「痛みも体にとっては必要なもの、またはカラダが治す過程で必要なもの」という「救いの痛み」として捉えるべきである。

     

    こういった捉え方をすれば、「痛み」もただ痛いだけで留まらず、快へと変化し、やがてカラダが悦ぶ治癒力へと変化する。

     

    そういった捉え方で痛みと向き合っていくと臨床も治しぱなしということにはならず、おさまるところにおさまる。臨床が互いにおさまれば施術者と患者自身もきもちがよいし、良い信頼関係が築けるように思う。

  • 「おさめとコトバ」

     

    みなさん、おはようございます。

     

    一週間よろしくお願い致します。

     

     小十郎君ごくろうさまでした。捨て猫であんなに小さかった小十郎君がブログを書けるほど大きくなったのも、彼の生きたいと いう強い意志と2人のご主人様の寛大な愛があったからだと思います。シモン君の兄貴(笑)としては嬉しく思います。

     

    今回のテーマである「おさめ」について各々の思い、考えを見て思ったことは「おさめ」とは私達の普段の命の営みの中で常に行っているということ。

     

    「ありがとうございます」

    「ごめんなさい」

    「おはようございます」

    「おやすみなさい」

    「いただきます」

    「ごちそうさま」

     

    こういったコトバを自然とコトバにすることで命の営み一つ一つが丸くおさまり、キレイに循環するようになる。

     

    私達が普段さりげなく口にしているコトバには生かされていることへの感謝の気持ちを込めるのと同時に一つ一つの行為を自分自身にある神性におさめているのだと思う。

     

    一日が始まりは生かされていることへの感謝のコトバから始まり、終わりを迎えることにまた感謝を告げて一日をおさめる。

     

    人生はこのように「おさめ」で始まり、「おさめて」終えることの繰り返しなのだろう。

     

    このように当たり前に口にしているコトバの意味を租借していくと、当たり前の事の中にとても大切な事が隠されているようにみえる。

     

    昔の人たちはきっと普段から使っている言葉を自分自身の中に在る神性に響くように、そして丸くおさまるように改正していき現在のコトバがあるのだと思う。

     

    私達はこういった祖先の遺産を大切に使わせて頂けることに感謝しなければならない。

  • 「愛と神隠し7 〜手の平〜」

    愛と神隠し7 〜手の平〜

    手の平は人間の生き方、思想を忠実に表わしている。

    それは一つの愛の結晶のようにも見える。

    昔、ある女優さんが手に触れた時のフィーリングで男性を選ぶというのを見たことがある。

    私もその女優さんが言っていることを少しは理解出来る。

    臨床の時に患者と話をして得られる情報よりも手の平を見たり、触れたりすることで得られる情報がその人と体を理解する最良の手段になるような気がする。

    手の平ほど人の体温であったり、しわの形状にしてもその人の特徴が出る部位は他にはないので、診なければならないような気がしてならない。

    恐らく私がこういったことを感じるのは、エネルギーの入出力を一番行っているのが手の平であるからかもしれない。

    人が握手することも、神社で手を合わせて一礼することにしても、手の平を重ねることは神性(愛)と繋がっていく一つの作法なのではないだろうか。

    そんなことを考えていると、保江邦夫氏と矢作直樹氏の対談の本でこのようなことが書かれていた。

    ありのままで生きる (天と人をつなぐ法則)

    ありのままで生きる (天と人をつなぐ法則)

    『手の中心を「たなごころ」といいますね。その「たな」は神棚の棚なんですね。あわせたときに、そこに神が宿るという』(P158より)

    この言葉からも手の平には神がいることがよく分かる。

    また、手の平に窪みも、神・自在空間からの愛を受け取る「器」なのかもしれない。

    こういった捉えかたをすると、私達が今まで認識していた体のパーツの役割には裏の意図があるように思える。

    それも神隠しの一つであり、これを明かしていくことも学問だと思う。
    一週間ありがとうございました。

    来週からは半蔵さんです。お愉しみに。

  • 「愛と神隠し6 〜素直さ〜」

    愛とは自分の知らない自分を素直に受け入れること。変化を恐れないこと。
    知らないことを知る勇気、これも愛であり、素直に「はい」と言える言葉が愛を知る一歩となる。

    「ノー」、「いいえ」とば、言い訳であり、自己否定になる。否定に愛は存在しない。
    言い訳ほど、自分の魂を傷付ける言葉はない。

    今までの私は自分がミスをした時には、無意識で「言い訳」を探していた。
    「〜だから出来ませんでした」等と最初に出来ない、出来ていない理由を探し出し「すみませんでした」で片付けようとしていたのである。

    生きることにおいて、100%の努力をしたと自負していても、結果が伴わなければ出来たことにはならない。時には「なぜこんなに努力したのに…」と思うときがあるかもしれないが、出来なかった理由に何か自分の力が及ばない外的要因があったとしても、それは己の行いに原因があると素直に受け入れるしかない。

    出来ない自分、出来ていない自分、出来なかった自分。その原因を突き止めていくのも「神隠し」の一つだと思う。

    もし何かミスをした時は、まず自分に「ごめんなさい」と言うこと。それをした上で相手に謝罪すればよい。そうすることで相手に何か言われたとしても、言い返したり、反発したくなることもあるかもしれないが、内なる自分には「はい」と受け入れること。

    そういった姿勢は仕事においても、学ぶことにおいても、とても大切なことである。

    操体を学んでいても「はい」と言えない人と言えない人の違いには入ってくる情報が大きく異なっているように見える。
    例えば同じ難題を与えられたとしても、「はい」と言える人には神様が救いの報酬として神隠しを明かし、それを素直に受け取れない人には神さまは答えを明かさないように思える。

    こういった「はい」と言える姿勢こそが、自分の魂への愛であり、神明かしに繋がる一番の手がかりになる。

    それにはまず自分自身が変化すること。変化を恐れていては入ってくるものも入ってこない。
    変化の先にあるものは愛であり、自分自身の本当の姿のように思う。