カテゴリー: 三浦 寛幸(みうら ひろゆき)

  • 皆さんは一日何回食事をとるだろうか?

    最近の私は食事をすることがカラダのちょっとしたストレスになることがある。特に食後にカラダがだるくなることが多いため、一日三食はとらず仕事がある時は朝と晩の二回、休みの日は昼食だけの生活サイクルになっている。

    大抵の人は子供の頃から一日三回食事をとることが日本の規則正しい食事回数とされてきたが、この食事のとり方は本当に正しいのだろうか?

    12月13日号の週刊現代に「一日1食派vs一日5食派」という記事があった。

    この記事は一日1食の南雲吉則医師と一日5食の林田康隆医師による対談なのだが、ここで南雲医師は興味深いことを言っている。
    「私はあらゆる若返りの医学的効果を検証してきましたが、満腹の時に活性化される因子は何一つありません。
    逆にお腹をグーと鳴る時こそ、若返りホルモンである成長ホルモンが肌や消化管を若返らせるのです。また、「サーチュイン遺伝子」と呼ばれる遺伝子は、空腹によって活性化し、人間の体内に存在している傷ついた細胞を修復してくれる。
    これにより、がんや脳卒中、心臓病の予防にもなります。
    実際、あらゆる動物実験で食事の量を4割減らしたほうが、1.5倍長生きすると証明されました」
    サーチュイン遺伝子→長寿遺伝子

    この記事で南雲医師は「極度な満腹」状態を作らず、常に適度な空腹感にすることでカラダは覚醒状態になると言っている。
    つまり自分の私利私欲で食さず、「間にあっている」範囲内で食事をとることがカラダが悦ぶ食事のとりかたなのだと言っているのではないだろうか。

    実際、南雲医師の食事のとりかたは一日一食以外にもちょっとしたものをつまむことで「極度な空腹状態」は作らないようにコントロールしているのだという。
    また林田医師の「一日五食」の食事のとりかたも少しの量を五食食べる「細切れ食」なのだと言っている。

    この2人の対談の読んで今まで私達が当たり前の行っていた「食」の概念を一度見直す必要があるのだと思う。
    本当に一日三食食べなければならないのか?
    それをカラダが要求しているのか?
    自分が無意識の習慣として行ってきたことは命が悦んでいるのか?

  • 「フォーラムで学んだこと」

    今回のフォーラムでは初めて人前で自分が学んできたことを発表する機会があった。

    今まで人前で何かを話す機会といえば大学の論文の発表位なもので、全くこういった機会とは縁がなかったのだが、この経験でとても大きな気付きを得ることが出来た。

    まず人前で自分が取り組んでいることを話すということは自分自身の「試験の場」だということ。

    それは学生等の試験とは少し勝手が違い、ただ答えを覚えれば良いというものではなく、取り組んでいることの本質をどこまで理解しているのかが問われるのである。

    日々自分がどれだけそれと向き合っているのか、どこまで実践し、日々の生活に生かしているのかが問われ、その空間は誤魔化しの効かない場なのだと実感したのである。

    今までの自分は学校の試験にしても、資格等の試験にしても「その場しのぎ」の学びであったように思う。それは「自分」の頭で理解しても「自身」の身に付いていないということである。

    特に操体においては「実践哲学」である以上、人前で話すことにおいては紙の上で答えを書くのとは違い自分が経験、体感したこと以上のことは伝えることは出来ない。つまり理論や計算では自分が相手に伝えたいことを伝えることが出来ないのである。

    そのような事が解かってくると、操体に限らず学ぶということ、人に指導することにおいて「インプット」よりも「アウトプット」の方が大切だということが良く理解出来る。
    食事等と一緒で入れたものを循環していかなければ新しい情報は入ってこない、身に付かないのである。以前のブログでも自分が新しく欲しいものを手に入れたいのならば、手にいれたものは潔く捨てることを書いたが、これは物だけでなく学ぶことにおいても同じことが言えて、本当に大切になってくる。

    今回のフォーラムでは私自身が本当に参加者に伝えたかったことはある程度伝えることは出来たが、それは決して一人では出来なかったことだ。
    黙って見守って下さった師・先生、先輩の存在、そして信頼する同志と相方の存在があってこそ出来たことで、改めて自分との向き合い方、操体との向き合い方を見つめ直さねばならないと実感した時間であった。

  • 「フォーラムを終えて」

    こんにちは。一週間よろしくお願い致します。

    先月開催された秋季東京操体フォーラムから実行委員長を務めることになった。

    前任の岡村さんからバトンを引き継ぎ望んだ初めてのフォーラムだったが、終わるまでの期間なぜ自分が指名されたのかをずっと自問自答する毎日であった。

    私は臨床の技術や知識にしても、操体と向き合う姿勢にしてもまだまだ学ぶことが多い未熟者で現在の実行委員メンバーで自分以上に実行委員長に相応しい人は何人もいると思っている。

    そういった実力者が多い実行委員メンバーの中で岡村さんからバトンを託されたことの意味が今回のフォーラムを終えてようやく少しずつではあるが分かってきたのである。

    一つ目はこれからの操体を引っ張っていくのは一人の実力ある人よりも皆で協力し合える人が良いということ。

    二つ目はもっと自分に「暴れろ!」と言っていること。

    三つ目は岡村さんの意思だけではなく、橋本先生や三浦先生の意思でもあるということ。

    振り返ると操体を学び始めて現在に至るまで沢山の人達に支えられ、現在の自分がいる。実行委員長を務めることはそういった自分を支えてくれた人達に少しでも恩返しをするまたとない機会なのだと思っている。

    また私自身岡村さんから使命を受けたことに特別な価値があった。
    少し恥ずかしい話だが、私は岡村さんと初めてあった時から「こういう人になりたい」というような憧れがずっと心の中にあった。

    臨床をする時でも常に「岡村さんのような」イメージで、いつも背中を追いかけていたように思う。

    その「憧れ」とも言えるような存在の人から強い意思と想いを託された嬉しさは自分の不安や迷い以上に責任感と使命感が勝る思いであった。
    そんな「意思」と「想い」をこれからの後の世代に継承していくことが自分の使命であり、責任だと重く受け止めている。

    そんな使命と日々向き合いながら精進し、東京操体フォーラムを盛り上げていこうと思いますので、皆さんこれからもよろしくお願い致します。

  • 「操体からのメッセージ」

    本当の当たり前(アタリマエ)とは一体何なのだろうか?

    よくよく考えてみて、自分が「当たり前」としていたことは「アタリマエ」ではないように思う。

    電車がある、それが時間通りに来る。家の近くにコンビ二がある。生活に必要なものが当然のように店頭には揃っている。

    このような暮らしの中の「当たり前」の水準が高ければ高いほど、なかった時の不便さ、ストレスは大きくなる。

    自分が置かれている環境によって暮らしの価値観は様々だと思うが、都会の真ん中で暮らしていると本来の自分の感覚を鈍らせてしまっているように感じる。

    こういった暮らしの中の「当たり前」は人間界の「当たり前」であって、地球やイノチのアタリマエではない。
    生物や自然界、地球という単位を一つの家で見ていくと、その同居人からすれば私達が普段行っていることは異常に見えるだろう。

    例えば同居人である動物達ははその日の食料を何時間、何十時間費やして取りにいく。次のイノチを作るのに性行為をする。それも一人のオスが何人ものメスを相手に行うケースもある。中には自分のイノチを次のイノチの肥やしにする。
    これを人間の社会で行うのは人間の価値観からすればこういったことが異常に見えてしまう。

    しかし地球で生きている同居人はアタリマエのようにこういったことを行っている。
    地球からみれば「同じ価値のイノチ」が行っていることが正常と異常に分かれてしまうことが不思議でならない。

    もちろん人間には人間の命の営みがあるが、人間は自分達が作ったルールに縛られすぎているように思う。

    その「縛り」が人間の暮らしにおける価値観をおかしくしてしまっているのではないだろうか?

    人の思考が人間の「当たり前」を勝手に作り、それを共通意識で「法」としてきた。

    もちろん、それが人間に必要なことであった為で、法がなければ人間の欲は暴走し、秩序はなくなり、地球はただの無法地帯となる。ただ、法の縛りは人間の思考を反発するように働かせようとしている。縛りがあればあるほど人の意識はその世界を縮小させていく。

    だが、そのベクトルを地球、自然界に向ければ人間の「当たり前」は当たり前でなくなり、自然界と調和した「アタリマエ」が産まれてくるのではないだろうか?

    つまり現在のように情報で溢れている今だからこそ発想の転換が必要なのだと言いたい。

    それは生きるということ、また臨床でも同じことである。

    今まで自分達が培ってきたことが「当たり前」でなくなる時代がきているように思う。

    一週間、自分の一人事にお付き合い頂きありがとうございました。来週からは半蔵さんです。お愉しみに。

  • 「カラダからのメッセージ」

    前回のブログでも「感覚」について書かせて頂いたが、これを原究していくと「発声」にも快・不快があるということがわかった。

    例えば人は誰かと喋りたい時、喋りたくない時があると思うのだが、それは心や気分だけではなく、カラダの要求感覚がそのような現象を引き起こしていることもある。

    七月に行われた「操体マンダラ」では「アイウエオ」を発声しながらカラダの構造(つくり)を操り、感覚を聞き分けるということを試みたのだが、それらを通じて人間の五感にはそれぞれ感覚が聞き分けられ、カラダとも深く相関しているということが理解出来た。

    やはり操体は「感覚」を重視している以上はカラダと相関している全てのものに目を向け活かしていかなければならない。特に目には見えないものを活かすことはとても大切でカラダの内、外に在るもの使い方が操体の学びにはある。それを快のベクトルに導いていくことが操体の臨生なのだと思う。

    こういった気づきの中で「表情とカラダの相関性」ということに着目し、その相関性を検証してみた。

    今までの『表情とカラダ』の捉え方からすればカラダの圧痛から表情がリアクションする捉え方であったが、ここで書いているのはその逆の捉え方になる。

    人間の感情には主に「喜ぶ・笑う・悲しむ・怒る・憎む・迷う・苦しむ」がある。
    こういった心の変化を忠実に表わしているのが顔、表情なのだが、以下はその感情がカラダのどの部位にヒビキとして影響しているのか、自身のカラダを通して体感した結果である。

    喜ぶ→手の小指
    笑う→足首の内果
    悲しむ→みぞおち
    怒る→手の親指、足首の外果
    憎む→おへそ
    迷う→肩甲骨
    苦しむ→頚椎7番
    (以上のことは私自身で体感した感覚的なことになります)

    という具合に人間の感情とカラダは綿密な関係性にあるものだと私は思っている。

    このようにヒビキのある部位は臨床で診ている箇所が多い。少なからず心のこういった動きは人体に何らかの影響を及ぼしているように思える。

    また最近は『舌』にも注目している。

    人体で最も感覚の聞き分けが優れている舌をどうにか生かすことが出来ないかと検証しているのだが、どうやら舌も目線ほど万能ではないが、カラダの構造を操ること、また感覚を聞き分けることにおいて何らかの相関性がある。
    その具体的なことはまた次のブログに書こうと思う。

  • 「両親からのメッセージ」

    振り返ると子供の頃に両親から操体を学ぶ上で必要な作法をすでに教わっていたような気がする。

    例えば『肘をついて食べるな』、『踵から踏み込むな』と口を酸っぱくして言われていたことを鮮明に覚えている。祖父にしても、父にしても幼い頃からとても厳しかったが「しつけ」に関しては超一流だったと思う。なぜならば1つ1つのコトバに説得力と愛情があったからだ。

    厳しさの中に温かさと強さがあり、何よりも私達の将来を考えていてくれたのだとこの歳になって、ようやくわかるようになった。

    それを100%自分の生活の中で遂行しきれているかはわからないが、いつも自分の細胞の中には両親のコトバは生きている。

    そういった親からのしつけを受けてきた中で育んできたことはいずれ「生きる作法」、そして操体の学びにおける大きな糧となった。

    その私から見て、最近の親のしつけは少し甘いように見える。そもそも「マナー」という点で親が子供の手本になれていないように思う。

    身近なことで例に挙げると飲食店等で彼らを見ていても、見本になるべき親が肘をついて食べていたり、喋りながら食べていたりする。またコーヒーショップでも自分が使った後のことを考えずに使う大人が多い。

    それは端から見ていても決して気持ちが良いものではない。

    生きる作法とは第3者から見ても、気持ちが良いものでなくてはならない。

    本当に些細な事なのだが、子供の時に受けてきたしつけがこういった何気ない日常生活の場にも大きく反映される。

    そういった点において私が親から教わってきたことは現在操体を学んでいるということにおいて、その基盤を作ってくれていた。
    操体で学んでいることは臨床の技術だけではなく、「生き方」そのものなのである。

    こういったことがわかってくると生き方というのは自分だけではなく、子供に対しての責任にもなってくる。

    いずれ私も人の親になると思うが、父のように強く、母のように優しい「しつけ」の出来る人間にならなければいけないと思う。

  • 「ブラックジャックからのメッセージ2」

    ・命の対価

    昨日の続きになるが、ブラックジャックのコトバで「人間の命を預かる医者が大金を貰って何が悪い」という有名な台詞がある。

    この台詞から手塚治は私達にやっていることの「プライド」と人間に対しての「イノチの価値」を問いかけているように感じる。

    これは医者だけでなく全ての人間に言えることで自分が取り組んできたこと、やっていること、そして自分のイノチに対して価値を付けることの重要性を言っている。

    例えば絵画一つ例に挙げてみても、作品の値段には書いた人間の費やした時間、お金、労力、情熱といった自分が作品に費やしたイノチの値、そして付加価値が含まれている。
    もし本当に自分が欲しい、必要だというヒビキが作品にあるのなら、付けられた値段に対し付加価値を理解して支払うことが作品を作った人への敬意になる。

    それは医療に関しても同様のことが言えて、ブラックジャックが世間的に高いといわれる値段を請求するのは患者に対し「自分の命の値段」と「生きる意志」を問いかけているのだと思う。

    このような捉え方をすると「治療」に対しての対価は決して高いと思わないことが治る最良の薬ということになる。それが自分で壊したカラダに対しての責任であり、自分のイノチの努めではないだろうか。

    手塚治の作品には人間はもっと自分の命の価値を認識するべきというメッセージがあり、自分も含めて己の命に対して自己責任を全うしていかなければならないと強く思う。

    それにはまず生活に追われないこと。そして自分で見ている価値観を生活ではなく、イノチというステージで価値観を構築していくことが大切なのだと思う。
    確かに「美味しいものを食べたい」「良い家に暮らしたい」という要求は誰にでもある。
    しかしそういった暮らしの価値観は現象的なものであり、絶対的なものではない。現象の価値は追求していけばいくほど、新しいものを求めてしまいきりがないのである。

    物で満ちた現在だからこそ本当の人間が持たなければならない本当の価値観を手塚治や橋本先生はメッセージに残されている。

    最後になるが、手塚治と自然法則との相関性という観点でこの本を読んでいった時に面白い台詞があった。
    それはブラックジャックの恩師である本間丈太郎が死ぬ間際に
    人間が生き物の生き死にを自由にしようなんておこがましいと思わんかね
    という台詞である。
    これを私なりに解釈すると人間が人間らしく自然の法則に乗っ取り生きていれば医者は必要に無いのだよ、ということで、「自然界と仲良くしなさい」という手塚治、または橋本先生からのメッセージのように聞こえる。

  • 「ブラックジャックからのメッセージ1」

    〜手塚治と橋本敬三という医師〜

    最近、手塚治の「ブラックジャック」を読み直している。

    当時、この漫画の印象は「高額な手術費を取る医者」というイメージだけが残っていたのだが、現在は自分も彼と同じ「人のカラダを診させて頂く」立場、また操体を学んでいる者として読み直していくと、とても共感出来ること、学ぶべきことがある。

    何度も読み返しているうちに、この手塚治の世界観はどこか橋本先生の哲学に似ているような気がしてならない。

    手塚治は医学博士だったこと、そして橋本先生と時代が重なっていることは決して偶然でない気がする。もしかするとこの2人は接点があったのではないかと思える位に共通の哲学に共通点がある。

    その一つに「因果応報」という共通したキーワードがある。
    特にブラックジャックという医者は人間の因果応報の世界を忠実に表現している。

    例えばブラックジャックが設けている「治療費」はお金がある人からはフンダンに取る、またお金が無い貧しい人達からはタダのような金額で治療をする。
    それは自らの行いで、その報いは皆同じなのだということ、また命の対価も皆平等なのだという手塚治のメッセージがそこにはある。
    橋本先生もまた「救いと報い」という表現で「この世は因果応報の世界」、つまりこの世に産まれてきている限りはもともと救われていて、報いを避けることは出来ないと説かれている。

    この2人が共通して言われていることはそれだけではない。カラダ、生命の捉え方も類似している。

    ブラックジャックを読んだことがある人なら見たことがあると思うが、彼が幼少時に本間丈太郎にオペをしてもらった時の話で手術中メスをブラックジャックのお腹の中に入れたままにしてしまうという話しがある。

    そのメスは七年後に再びオペをする時に取り出され、カルシウムによって包まれていたという信じられないような(漫画なので実際はどうなるか分からないが…)話しなのだが、ここで手塚治が言いたかったのは「人体の神秘」なのだと思う。

    人のカラダは時として私達が考えられないような奇跡(治癒力)を起こす。

    それは決して偶然の産物ではない。医学的にある程度の事は解明され、カラダのことは薬や時に手術という行為で病気や怪我は治せる時代になったが、時として知識や計算では治すことが出来ないこともある。カラダには人智を超えた、何か神架かった力が働き治しをつけることがあり、自らが傷ついた、傷つく可能性を未然に防ぐ防衛本能と人間が関与出来ない治癒力があるだと説いているように思える。

    橋本先生が「治すことまで関与するな」「治すことはカラダに任せればよい」と言われるのも人間のカラダに在る「神性」を悟られていたからであり、「カラダは神様からの借りものなのだから、医者が、施術者がそこまで頑張らんでもよい」と言っているように感じる。

    今日は長くなりそうのでこれ位で。また明日も引き続きブラックジャックのことを書いていきます。

    ブラック・ジャック (1) (少年チャンピオン・コミックス)

    ブラック・ジャック (1) (少年チャンピオン・コミックス)

  • 「橋本先生からのメッセージ」

    三浦先生・畠山先生・今先生の著書である「操体法 生かされし救いの生命観」での橋本先生のコトバの中にこういったメッセージがある。

    操体法 生かされし救いの生命観

    操体法 生かされし救いの生命観

    「高みとは東西南北の中心点 それは横たわる十字架である。
    空をきる手刀は線をえがき 一時の通過となる
    痛みに言葉を与えよ 繋げ連鎖させよ
    輪をえがき空を舞え
    己を捧げ捨てて 己の慈しみ それにより
    生まれたこころを真とする これを愛という」

    改めて現在の自分がこのコトバと向き合うと以前とは明らかに違うヒビキがある。

    それはこれまでの学びの中で感覚的に掴んでいたことを
    言語化しきれなかった私に橋本先生がコトバとして示して下さっているように感じる。

    痛みにイノチが宿すコトバとは「ヒビキ」であり、その命には波動が生まれる。それはやがて螺旋状の回転の渦が生じ、「快」へと変化し、カラダに悦なるヒビキを与える。

    名も無いイノチには悲しみが産まれるように名も無い「痛み」は「不快」にしかならない。
    痛みが快に変化する名こそが「ヒビキ」であり、そのヒビキはやがてカラダを介し、心と調和する。

    そこから産まれた心こそが自分自身への「愛」なのだと思う。

    橋本先生がここで書かれていたコトバの真意はまだ掴めない。

    しかし橋本先生は私達に無限の可能性、テーマを与えてくださった。

    現在の操体は一昔のものと比べてかなり進化してきているが、その進化も過程の一つに過ぎない。私達が自然法則を応用貢献していく限り、この進化は決して終わることはない。

    しかしそれはルールがあってこその進化になる。つまり好き勝手な進化の先には『真の真理』は存在しないということであり、やはり操体を学ぶ人間は橋本先生が示して下さった自然法則のルールの下で進化していかなければならない。

    こういった橋本が私達に示して下さったコトバにはヒトが生きるということの本当の「真理」があるように思う。また臨床家へのメッセージも隠されている。私たち操体の臨床家は橋本のメッセージ対し反応していかなければならない。それには自分が学びの中で掴んだこと、分かったことをそのままにしないことが重要である。

    「わかった先にあるわからないこと」に目を向けなければならないのである。

  • 「人との繋がりが与えてくれること」

    今年になり昔の友人、知人と偶然再会することが多い。それも私が普段から意識している人達との再会である。

    今までの自分は何百、いや何千もの人との出会いがあり、その中で繋がりたい人を選択してきた。それは意識的に選択してきたというよりは、本能的に私が数ある出会った人達の中から選択してきたのだろう。

    そんな自分が選んだ友人達との繋がりを年の経過と共にいつの間にか繋がりが薄れてきた今日この頃だったが、この再会は私にとって本当に繋がっていたい人、または己の人生に必要な人達とは繋がっていなさいという神様からのメッセージだったように思える。

    また知人や友人と会うことよりも自分の時間を愉しんでいたことで外から受け取れるものが極端に少なくなってしまったように感じる。これからがこういった自分の姿勢を少しずつでも変えていきたいと思う。
    その理由は私がこれから歩んでいく臨床家としての人生には沢山の人達との繋がりが不可欠になるからだ。特に学ぶということにおいて人から得られることは数知れないほどあり、自力だけでは己が得られる気付きにも限界がある。また操体を学ぶことにおいては同志から得られるものは計り知れない。

    よく「自分はパソコンと携帯があれば生きていける」という若者がいるが、確かにそれがあれば生きていく上で必要最低限の情報や時間潰しにはなるのかもしれない。

    ただ私が思うにこういった人達ほど自分が得たいことを「手っ取り早く」という意識が強い。私も昔はそういった人のように出来るだけ早く、安く手に入れたい人間であったが、そうやって手に入れたものは薄っぺらで先が無いのである。
    やはり同じ情報を得るにしてもインターネットや本から得るのと自分が知りたいことを深く極めた人から「生きたコトバ」で聞くのとでは大きな違いがある。

    例えば極端な例になるが操体を勉強したいが、まずはネットや書籍で勉強しようというのと、よし最初に三浦先生の所に勉強しにいこうというのでは身につく速度が全く異なる。それは技術や経験値もあるが、それ以上に誰かの声を聞いて学ぶことはコトバの力と自分を奮いただせてくれる波動があり、知った先がある。こういったことからも一流になりたければ人との繋がりを大切にしていける人間でなければならないということが解かる。

    一週間お付き合い頂きありがとうございました。来週からは半蔵さんです。

    お愉しみに。