カテゴリー: 三浦 寛幸(みうら ひろゆき)

  • 「アイデアはどのようにいかせるのか」

    操体を学び始めて六年の月日が経過しようとしている。誰もが自分がやっている事を3〜4年続けていくとやっていることの本質がわずかでも見えてくるものだと思う。それはそれなりに基礎が身についてきたことを意味するのだと思うのだが、ここが一流になるか、二流になるかの分岐点になるのだと最近の私は強く感じている。

    現在の私は畠山先生がブログで書かれていたように「守・破・離」の「守」の部分に位置しているわけだが、なかなか「破」が見えてこない。六年やそこらでは当たり前のことなのかもしれないが、学んでいることが「本物」であればあるほど、「守」から「破」への道のりは長く険しいのだと感じる。やはり自分が学んでいることの真理は安くは手に入らないものなのだと改めて実感する。

    私は今でも師である三浦先生のやっていることをひたすら見て、真似て練習する日々であるが、次から次へと溢れ出てくるアイデアを一早く形にしたいという衝動に駆られる時がある。しかし、自分が「これだ!」というものに対し型付け、提案する勇気がない。それは私自身がまだ自分に対し自信が無く、師が見ている先のものを掴めていないからだと思う。
    なぜ自信が持てないのかと考えていたのだが、自分が持っているアイデアを形にした時の結果が見えてこないからだと思う。別の言い方をすると自分がイメージしたストーリーが最後まで描ききれないのである。恐らく師はそんな私の迷いを察知してくれたのか、最近のレッスンの場では「好きなようにやってみろ」「だが好き勝手にやるなよ」等と声を掛けて下さる。こういった声を掛けて頂けるのは弟子としては本当に有難いことであり、私もそれに応えようと自分の考えていることを出来るだけ「道理」から外れないように形にし、師の想いに応えられるように努めている。

    そういった経験から学んでいることはやはりストーリーの結末が描けないうちに出てくるアイデアは本物ではないということである。それは全てのことに同じことが言えて、最初だけ描けて途中からは「どうにかなるだろう」というアドリブでどうにかしてしまうのが一番危険であり、自分が取り組む前の段階から全てのストーリーを描ける能力が備わるまでは自分の持ったアイデアは懐に温めておくべきである。私が思うに自分で身に付いたと思ったりしているうちは、それはまだ本物ではない。自分が身に付けた技術や術が無意識の習慣として普段の行動として出せるようになった時に初めて身に付いたということになるだろう。つまりそれは=姿勢ということになる。師や先生は弟子や生徒の姿勢を見て「出来る、出来ない」を判断しているのだと思う。

    もしこれを読んでいる皆さんの中にも私と同じようなことを感じた人がいたら今一度自分に問いただしてみてほしい。現在の自分の姿勢はどうなっているのか、生き方はどう変化してきたのかを。

  • 「快」の本質

    映画を観た感想を100人に聞いたら100通りの感じた方があるように、一人独りが体感する中で感じる感覚ということは操体の臨床におけるきもちのよさにおいても一人独りが違うイメージを持っていることだろう。

    本日は私が思っている「きもちのよさ」と「快」の違いについて書いていきたい。

    よく患者の人達の声に「痛いけどきもちがよい」、「くすぐったいがきもちがよい」という人がいる。それもまた一つの「きもちのよさ」と捉えても良いと思うのだが、こういった「きもちのよさ」と「快」とは本質が異なるように思える。

    最近の私達が学んでいること、体感している「きもちのよさ」は「きもちがよい」という感覚からベクトルが「快」に変わってきているように感じてしまう。端から見れば同じのように聞こえてしまうが、その本質を辿っていくと違うように感じる。一体、「気持ちのよさ」と「快」とは何が違うのかを考えていきたい。

    この二つのコトバの響きを休みの日や寝る前にずっとイメージしていたのだが、どちらもとても響きは良く、心地よい感覚がある。だが、よく聞き分けていくとカラダは「きもちがよい」というコトバの響きを選択し、命は「快」という響きを選択することを悦んでいるように思える。このように気持ちのよさを捉えていくときもちのよさには「カラダが悦ぶきもちのよさ」「命が悦ぶ快」の2つがあるように思える。
    この二つに共通していることは「委ねる」ということにある。そこには自分という思考は無く、ただ委ねていられる感覚をいう。この世界観は意識と思考を使っている以上、なかなか日常生活において体感することが出来ない感覚なのである。

    こういった「委ねる」という感覚を体感すると生きるということにおいて思考と意識の他にもそれらが関与しない無意識の感覚が在るように思える。私はこの無意識の感覚に「快」の本質があるのだと思っている。これは昨日書かせて頂いた「第七感」の話しの続きになるが、自我を超越し、全てを委ねられる感覚が第七感の覚醒に繋がっているように思う。しかし生活という空間の中に身を置いている以上、この覚醒はなかなか出来ない。

    だが、一つだけ日常生活の中で「委ねる」という感覚を体感することが出来るのが「眠り」である。
    私の感覚だと、眠りには「思考が眠る眠り」と「意識が眠る眠り」、「カラダが眠る眠り」があるように思える。夢をみることや眠れずに朝まで時が経過するのを待っているような眠りは誰にでも経験したことがある眠りだと思うが、それは不安や緊張が邪魔をしているか、または意識とカラダが眠りを要求していない状態であり、寝ていても寝ていないような状態にある。この眠りはとても不快な感覚がある。
    しかしそれとは逆に寝たらアッという間に朝を迎えていたり、ほんの少しの間だけ寝ていた等の眠りは睡眠を取った時間に関わらず、心とカラダがリフレッシュされた状態にある。この眠りは意識や思考は完全にOFFになり、とても気持ちがよく、臨床で快適感覚を味わった後の爽快感に類似している。

    その眠りの状態こそが先程私が言っていた「委ねている」状態に近いのだと思う。それは何かに例えようとしても例えられるものでもない不思議な感覚であり、それを体感すると命がとても悦んでいるように感じる。

    話を戻すがこのようなことは快の本質にもいえて自分という思考が介入してしまうと、「〜けど」「〜のような」という〜が付くようなきもちのよさになる。ただ純粋に自分自身を委ねていられる純粋な快こそが本来の快の本質であると私は思っている。

  • 「五感を超えた感覚」

    先月東京操体フォーラムが開催された。その時に同志である日下さんの講義の中に人間の五感についての話があった。

    その話を聞いて以降、五感に興味を持ち自分なりに臨床に活かせないかと考えていたのだが、そもそも医者を含めたカラダを診させて頂いている人間が診断の中で五感をそれほど重視いないことがおかしいのではないかと思っている。

    私が思うに人間のカラダにおいて五感とカラダにはお互いがバランスを取る様な関係性があるように思える。それは本人しか分からない「感覚」という目には見えないもので表わされていて、五感におけるバランスの不調和が人間の命の営み(息・食・動・想)のバランスを崩し、病気になるのだと思う。

    この五感のバランスを考えていきたいのだが、私に当てはめると私は自分の感覚的に視覚、聴覚が悪く、その分、味覚、嗅覚、触覚は良いように思う。聴覚が悪い原因は自分では分からないが、視覚は明らかに普段の使い方の過ちによる結果だと思う。それを有難いことに五感が「間に合えば良い」ようにバランスを取ってくれている。このバランスのおかげで私は日常生活を不自由なく暮らすことが出来ているのだが、この五感が間に合わない、つまりどれか一つでも失ってしまったらどうなるのだろうか?

    私は子供の頃に視覚に原因不明の障害が生じてしまった経験があるが、その時は自分に何かが欠けているような感覚はなかったように思う。現在、なんらかの原因で五感の何かを失ってしまった人達にもそういった感覚はあるのではないだろうか。現実では何かを無くしてしまっているように見えても、何かで補おうとする命のバランス感覚が作用し、第三者が思うほど本人は不自由を感じてはいないのではないだろか。
    それは神様が何か新しいものを与えられているようにすら思えてしまう。

    例えば産まれつき耳に障害がある人が音楽で類い稀な才を持っていたりする。それは正常に機能している人には足りない感覚、つまり第六感に新たな感覚が与えられているのではないだろうか?
    一般的にこの第六感とは感・直感、物事の本質を掴む心の働きと言われているが、先程例に挙げた人は私が思うに自我が消え、とても研ぎ澄まされた世界に身を置いているような感覚なのだと思う。これは決して現在インターネットに載っているような他力で簡単に手に入るものではない。命がバランスを取ろうとする生命現象の中でのみ得られるものなのだと思う。

    そして私はこの先にも自在空間と繋がり、自我を超越する未知なる感覚、つまり第七感があるように思える。現在私達が臨床でテーマにしている「快」のベクトルはこの第七感に向かっているように思う。
    しかし五感が正常に機能している以上はこの感覚を体感することはなかなか困難なことであり、意識して容易に手に入るものではない。ただ、カラダにも使わせて頂くルールがあるように心・意識にも使わせて頂くルールがあり、その法則を紐解いていければ生と死を超越したこの感覚に目覚めることが出来るのではないだろうか?

    実際のところ、現代の操体ではそういった可能性を実現できるところまで進化を遂げている。私が思うに生前、橋本敬三先生は五感を超越した感覚に目覚めていたのではと思えてしまう。その感覚を人間誰でも体感出来る術を操体法に示して下さったように思えてならない。

    今日は少しぶっ飛んだ話をしてしまいましたが、明日もお付き合い下さい。

  • 「カラダの本来の動きについて」

    人間のカラダには私達がまだ知らないとてつもない動きの可能性がある。

    それは橋本先生が示された3法則1相関性(重心移動の法則、重心安定の法則、連動の法則、そして呼吸との相関性)が基礎となり、それが現在では8法則8相関性にまで至っている。
    この操体が説く進化の過程、そしてこれからの道筋には一体何があるのだろうか?

    私は三浦先生が説かれている8法則8相関性を意識し学んでいく中で、従来のカラダの動きとは明らかに違う点があることを感じた。それはカラダの動きには外の器の動きと中の器の動きがあることであった。

    よくインナーマッスルを鍛えるというコトバを耳にするが、私が言う外の器の動きとは皮膚を介した筋・骨格だけの動きであり、中の器の動きとは外の動きでは稼働しない細かな神経繊維の動きを含めた目には見えない動きをいう。
    橋本先生が現役の頃に行っていた楽か辛いかの分析法(第一分析)では私がここで言っている中の器は作動しきれていないように思える。この中の器をフルに稼働させるには気持ちのよさへの問いかけの中で三浦先生が加えた5法則7相関性が必要になってくるのである。この問いかけを行うことで感覚の聞き分けも普段の生活では聞き分けることが出来なかった感覚も聞き分けることが可能となった。私が思うにこの「中の器」の作動こそがカラダ本来の動きであるように感じる。

    それらが可能になった要因として、カラダの動きをコントロールしている脳への問いかけと普段カラダが使いきれていないパーツを意識的に使うことが要因として挙げられる。

    それをこれから説明していこうと思うのだが、その前に人間の動きの可能性を考えて頂きたい。そもそも人間は本来備わっている数%の身体能力しか発揮せずに一生涯を終えるといわれている。それは脳が制御しているからであり、アスリートでは無い限り日常生活の中で必要以上にカラダの動き、運動パフォーマンスを挙げる必要はない。
    よく格闘漫画等で脳が覚醒し、無意識の中で自分の技量を超えた能力を発揮することが描かれているが、これは自分の意思ではコントロール出来ないカラダの動きを自我を無くすことで、本来のポテンシャルを発揮することが可能であることを伝えたいのだと思う。
    これを踏まえると人間のカラダにおける本来の動きの可能性は思考を出来るだけOFFにし、ほんの少しでも無意識に近い状態に持っていくことにある。そしてその状態にする最良の手段は肩甲骨の開放と目の使い方にある。私が強く感じるのは人間の動きは目線の使い方によって無限に広がっていくように思う。そしてその目線とはカラダにとっての意識であり、カラダの全てをコントロールする司令塔のような役割を担っているのである。

    私達は格闘家でもなければ、アスリートでもないのでこういった能力を追求する必要がないのかもしれないが、ただ普段の生活でカラダを使わせて頂いていることを踏まえると本来カラダが持ち合わせる動かし方、その可能性を知る義務があるのではなかろうか。

  • 「螺旋について」

    ある時、こんな事を考えていた。

    「人間や動物のカラダはなぜ、円柱なのだろうか?」
    「ロボットのように四角ではいけなかったのか?」

    例えば、人間のカラダがガンダムのように四角の構造で、発するコトバも漫画であるようなリズム感のないコトバになったらどうなるのだろうか?大体、皆が同じ想像されると思うが、私はロボットと人間の大きな違いは心とカラダの連動にあると思う。人間のカラダが丸く、コトバに起伏があるのは連動があり、その連動によって波動という波が産まれる。その波動は螺旋の回転が生じ、命の波動が生み出されるのである。それは犬や猫も人間と同じことが言える。命在る者にとって、その構造が四角では角がたつし、連動は決して起こることはない。円で出来ていることが命を与えられた特有のつくりなのだと思う。

    今日はこの螺旋について少し書こうと思うのだが、皆さんは螺旋を描く(イメージ)する時にどのように描くだろうか?

    螺旋は右回りからの渦もあれば、左から描く渦もある。大きな渦を描く人もいれば、小さな渦を描く人もいる。更には外回りの人もいれば、内回りの人もいる。

    どちらの円が良いか悪いかというのは無いが、この螺旋のイメージこそがその人の思想を忠実に表しているように思う。それはコトバにも同じことが言えて、その人が発するコトバの波動は生き方に反映されている。人それぞれコトバの波動は異なり、その産み出す螺旋が命の悦ぶ螺旋か、もしくは命の悲しむ螺旋なのかが生きていくうえでとても大切になってくる。

    こういったことは臨床だけでなく、人との付き合いにも応用出来るものでもある。

    「波長を合わす」というコトバが適切なのかは分からないが、人と人とが付き合っていくうえで人間は無意識のうちに相手が出している波動に合わせ、調和させながら生きているのではないだろうか?よく自分とは合わない、生理的に無理等というコトバが出るのも自分の描いている螺旋と相手との螺旋が調和しないからなのだと思う。人付き合いが上手い人は相手の波動をいち早く察知し、その波動に合わせ付き合うことが出来るのであるのだと思う。

    このように螺旋のイメージは操体の臨床や生き方においてもとても大切になってくる。

    それは人間が常に螺旋を描きながら、波動と調和し生きているからだ。

    三浦先生が皮膚に触れる診断法を「渦状波」と名付けられているが、なぜこういった名称にし、体系付けられたかを考えていくと先程述べたことが大いに関係しているように思える。

    こういったが少しでも見えてくると操体の臨床がなぜ「感覚」を重視しなければならないのか、なぜ人間のカラダは丸く出来ているのか、なぜコトバが大切なのかが解かってくるのである。

  • 「操体」の素晴らしさ

    昨日、東京の蒲田で開催された「伝統療法カンファレンス」に東京操体フォーラムの一員としてこのイベントに参加させて頂いた。

    こういった様々な伝統療法が行われている場には初めて参加したのだが、本当に沢山の驚きと気付きがあった。

    まず会場入りして最初の驚きは一般の方達の健康に対しての熱意である。このイベントに参加するまでの私のイメージでは参加者のほとんどは、それを職にしている人やカラダの健康に困っている人達が来るのを想像していたのだが、参加者の中には若い人達も多くいて、熱心にどういったことをしているのかを見て、体感し勉強されていた。
    こういった光景を目にすると自分が想像している以上に、世間の人達は健康に目を向け自己管理の責任を全うしようとしているように思う。それが忠実に表わされていたのが私達の施術を受けに来られたお客様の反応であった。

    操体の臨床を初めて受けに来る人のほとんどの人は施術の最中に思考が働いてしまう。
    どういうことをしているのか、自分は何をされているのかと考え、最初はなかなか感覚を聞き分けることが出来ない。それは仕方がないことだと思うが、昨日来られた方達はそういった思考の関与がなく限られた施術時間の中で「快」を味わい自分のカラダの変化を愉しんでいられたように思う。それが出来たのも自分のカラダに対し自己責任を全うしようとしている姿勢の表れなのだと思う。

    また、あの空間に身を置き感じたのが「操体の素晴らしさ」であった。他のブースと比較すると私達が施術を行っていたブースはとても静寂な空間で、他から悲鳴にも聞こえる声にも影響されないとても静かな空間であった。それは施術者と患者と、私達が作っている空間が臨生という空間を作り、お互いが「快」を共鳴している豊かな時間であった。

    こういった豊かと呼べる時間・空間こそが操体の臨生の醍醐味であり、独自のものだと思う。受けに来て頂いたほとんどの方達から聞かれた「きもちがよかったです」、「今まで体感したことがない不思議な感覚でした」という声も操体の持つ魅力だと思う。

    このカンファレンスに参加出来たことは改めて自分が学んでいることの素晴らしさを実感するよい機会となった。他の手技が行っている「術」は素晴らしいものだと学ぶ機会でもあったが、他の手技にはない「感覚を聞き分ける」というシンプルで奥が深い操体の素晴らしさはあの場に身を置かないと分からなかったことである。

    三浦先生、畠山先生、瀧澤さん、寺本さん、新さん、香さん、一日ありがとうございました。

  • 「体感して掴んでいく真理」

    現在は新たな同志と共にとても豊かな学びの時間を私自身、心底愉しめている。
    去年から加わった新たな同志からは沢山のことを学ばせて頂いているのだが、それは臨床の技術や知識だけではない。
    今までの自分にはなかった「感性」を各々が持っていて、私だけではなく東京操体フォーラムという組織全体に新たな血を注入し、学びの場をとても豊かな空間にしてくれているように思う。

    こういった豊かな時間の中で私自身の学び方も大きく変わってきた。

    教えて頂いたこと、与えられたテーマに対し鵜呑みにはせず、それに至った理由とその先にあることを考えるようになった。
    その中で「仮説」を立てることで、師から教わった結果だけでなく、その道筋を自分なりに辿り、なぜそうなったのかを自分で体感しながら結論を出すようになった。

    もちろん、それが間違いであることもある。だが、その間違いは「失敗」ではない。真理への糧となるものなのだと捉えるようになった。
    学びとはその繰り返し、積み重ねであり、失敗こそが学びの本当の愉しさなのだと思うようになったのである。

    やはり本当に掴みたいものは理論だけではなく、自分のからだを通して体感しなければ身につかないものだと思う。

    こういったことを少しでも理解してくると師である三浦先生が歩んできた半世紀にも及ぶ操体の道は途方もなく険しい道であったものだと想像出来る。

    私が師に対して本当に凄いと思っているところは、自分を導いてくれる師が現世にいない中で、意思を継承し、現在の操体を体系化されたところにある。それを成せてきたのも師の教えを忠実に守り、学びの本当の愉しさを解かっていたからだと思う。

    そういった師が身近にいることを本当にありがたいことだと感謝しなければならない。
    そして師が現役でいる間は泣き言を言わず、出来るだけ近くで学び、精進していきたいと思う。

    一週間ありがとうございました。来週からは半蔵さんです。お楽しみに。

  • 「無心」

    今日は私の好きなコトバを一つ紹介したい。

    「無心は、いっさい心なきなり」(黄曝『伝心法要』)

    無心は、いっさい心なきものである。
    「無心の心」は、心に何もとどめないことである。心に生じてくる、いっさいの観念が、まったく何もないという状態の心だ。
    「私が」ということも、「あなたが」ということもない。
    何も求めることもない自由な心の状態にしたい。

    「禅のことば 禅のこころ 武田鏡村」(第1章 生きる知恵を学ぶ P28より)

    三浦先生が最近、講習で言われるコトバがある。

    「自分を主語ではなく、からだを主語にしなさい」といわれる。

    操体の臨床は他の手技療法と大きな違いがある。

    それは「感覚を聞き分けること」である。

    「感覚を聞き分ける」ということは患者のちょっとした心身の変化を常に聞き、感じて、それに適うメニューを提供していかなければならない。そのためには自分を主語にしてしまうと相手の感覚の聞き分けを無視することになるので、私は常に上記に記したコトバを念頭に相手のからだと向き合うようにしている。

    やはり臨床において自分が主役になると相手のことよりも「どうやって治してやろう」「こうすればもっと良くなるはず」と自分の手柄を立てたくなってしまうものだ。特に私のような臨床経験がまだ浅い人間にはこうした思考は必ず働き、自分を主役にしてしまう。
    そうならないように臨床の空間には自分や自分事を持ち込まず、無心で相手のからだとだけ向き合えるように努めている。

    ここで一言付け加えておきたいのが、「無心」というのは何も考えないことではない。相手のからだとこころを、そして空間をまるごと一体受け入れられる心をいう。

    こういったことを生かせるのは臨床だけではない。己の生き方にも十分に生かせることである。

    人間が生きることにおいて自分を主語にしてはならない。自分が主語になってしまうと誰かしらに迷惑をかける。別に誰かの為に生きろというわけではない。自分の為で良い。ただ、自分のしていることが間接的でもよいので誰か(何か)の為になることをするのが、自分を主語にしない生き方なのだと思う。

  • 「皮膚が教えてくれること」

    お風呂上りに皮膚が赤くなったり、痒くなったりしたことはないだろうか?

    最近、私も風呂上りに太ももや背中が痒くなる。

    この原因の説は様々だが、私はこの症状が出る時は決まって精神的なストレスを感じる時に出る。水温等の環境的な要因、もしくは肉体的なストレスによるものなのか、または私のように精神的な要因によるものなのかは分からないが、いずれにしてもこれはからだが皮膚を介してなんらかのメッセージを送ってくれているように思えるのだ。

    また、おなかが痛い時、もしくはお酒を飲んで気持ちが悪いとき等はおなかや背中の皮膚をおさえたり、さすったりする。
    決してつまんだり、つねったりはしない。
    それは無意識のうちにからだが皮膚に対して「刺激」ではなく「接触」することで痛みを和らげたり、不快を無くすというのを本能的に知っているからだと思う。

    一般的に皮膚はからだの総面積の15〜16%を占め、その大きさは個人差はあるが、畳一枚分にもなると言われている。これだけの量が一ヶ月に一度生まれ変わるということは皮膚にも私達と同様に命があり、意思を持っているのである。

    その意思は私達が持っている意思とは独立したものであり、からだが持つ健康でありたいという意思に忠実に従っているように感じる。人間がからだを介して何かを感じることにおいて、皮膚は必ず関与している。「刺激」には敏感に反応し、「接触」にはを喜ぶように反応するのである。

    このように皮膚を捉えていくと、皮膚が持つ意思を無視してはならないのだと思う。皮膚は心身の状態を忠実に表してくれるものであり、私達以上にからだのこと、こころのことを知っている。

    これからはもっと皮膚からのメッセージを大切にしていこうと思う。

  • 「痛みに対しての捉え方」

    おもしろいことに、どんなに五体満足で健康な人でも人体のどこかしらに「痛い」ところがある。
    臨床を通していても、なぜ、こんなに健康な人にこれほどの痛みが通るのか不思議で仕方ない時がある。また症状・疾患を抱えている人ほど痛みが鈍感になっていることが多い。それはからだが無意識に痛みを隠そうとするからなのだと思う。

    なぜ、からだは痛みを隠そうとするのか?

    そういえば、私が2年間、飼っているハムスターも人間と同じように病気や怪我を隠す習慣があると聞いた。それは外敵に対し、自分を強くみせるために本能でそうしているらしい。

    きっと人間にもそういった自然の本能が備わっているのだと思う。それは自分の意識レベルでは感じ取れないものであり、無意識にからだが行っている行為なのである。

    そのように痛みを捉えると、人間の意識レベルで感じる痛みはからだからのメッセージであり、本来からだが治さなければならない箇所ではない可能性が高い。例えば、肩が痛い、腰が痛いという症状があったりしても、からだが「痛い!治してくれ!」と訴えているのは肩や腰ではなく、無意識にからだが痛みを隠している箇所なのだと思う。

    操体の臨床では患者の訴える症状・疾感を鵜呑みにはせず、からだ全体を丸ごと一つとして診て治療をする。からだがどこを診てほしいのかを診断し、快適感覚を通してからだが治す手助けをしているのが操体の臨床なのだが、気持ちのよさを味わっていくと患者が訴える痛みは変化し、時間の経過と共に快に変わり、からだが喜んでくれているように感じるのである。

    「痛み」に対し、こういった捉え方をしていくと決して悪いものではないことがわかる。
    それはからだからのシグナルであり、「痛み」という不快があるからこそ、気持ちのよいという快適感覚が聞き分けられるのである。
    人間が生命活動を行っている以上は、からだには少なからず歪みが生じる。それは歪みという形でバランスを保っているのであって決して悪いものではない。そして歪みから生じる痛みも常に変化する感覚であり、気持ちのよさと表裏一体で感覚とからだのバランスを保っている。

    もしかすると「痛み」というのは人間がからだを使わせて頂くうえで、なくてはならないものなのではないだろうか?

    誰でも「痛い」のは嫌なものだと思うが、この痛みこそが、からだの治癒力を引き出す「快」の起源になるものだと私は思っている。