カテゴリー: 三浦 寛幸(みうら ひろゆき)

  • 「人間の病7」

    本日で最終日となるが最後に「病気」は一体何から産まれてくるのかをまとめていきたい。

    今回のブログで書いたような自分の経験、または病気になった人達の語っていたこと等を考えていく中で私は病とは人間の生活からくる「矛盾」が原因のように思う。
    人間は健康でありたいと望む反面、それに適った生き方をしていてない。「おいしいものをたらふく食べたい」「もっと楽をしたい」等と生活の豊かさばかりを追い求めてきた結果、生活は豊かになったが比例するように病の数もなる人も格段に増えた。
    その「矛盾」こそが病の起源であり、改めて私達が見つめ直さねばならない所だと思う。その矛盾を無くす為には人間一人一人が自分の生き方を見つめ直し、己の命が求めている生き方を全うしていかなければならない。
    そういった人間の生き方の元を正していくことこそが私達操体の臨床家の使命であり、本来の医療の在り方だと私は思っている。

    一週間どうもありがとうございました。来週からは半蔵さんにバトンを渡します。

    お楽しみに。

  • 「人間の病6」

    人と病との相関性を紐解く上で大切なキーワードとなるのが「欲」である。

    私が担当する時には毎回書いていることなのだが、人間界だけに存在するこの「欲」こそが病を生み出している一つの要因となっている。

    自然界に自在する法則にはあって人間界には存在しないものは「命のつつしみ」である。

    自然界はある環境のもとで自ずと適正な規模の数量というのが決められている。動物の数や植物の数は「生と死」によってそれぞれの命の営みに応じた数だけの命が存在する。そういった自然界のルールは命の慎みによってバランスを保ち調和がされてきた。
    しかし人間界では「死」という存在に対し背を向け、遠ざけていく事で「生と死」のバランス制御が出来ない状況になってしまっている。それは人間の「生」に対する執着がそうさせたのであり、現在人間が悩まされている病はもしかすると人間の戒めなのかもしれない。

    これは「遺伝子」にも証明されている。一部の研究者によると遺伝子には「利己的遺伝子」と「利他的遺伝子」が存在しているという。「利己的遺伝子」とは自分が得をしようという振る舞いを行うもので、「利他的遺伝子」とは死へと誘う遺伝子だと言われている(生命の暗号 村上和雄署)
    つまり私達の遺伝子には「生きたい」という意思が存在する一方で「死」というものを必然的に受け入れられる遺伝子も存在するのである。これを踏まえて病気を見ていくと「病とは人間の生命のバランスを維持するために存在するもの」という捉え方も出来る。こういった捉え方をすれば「死」というのは必然的な現象であり決して恐れるものではないと言える。そして病死も人間界が生命の維持バランスを計る人間の生き方の一つの報いになるのではないだろうか?

    私も今までは病気に対しては敵対心を持っていたのだが、現在では素直に受け入れるようになった。なぜならば病とは命に対しての「つつしみ」の欠如によって起こることが分かってきたからだ。人間は命は他の命によって「生かされている」のである。それを肝に銘じておかなければ病という形で自分の身に降り掛かってくる。

  • 「人間の病5」

    近頃よく友人や知人から「肩が痛いんだけど何が原因なの?」と聞かれる。

    こういった類いの質問は今に始まったことではないのだが、正直いつも返答に困る。大抵は曖昧にしてその場をしのいでいる。なぜならこういった事を聞く人ほど本気で健康になりたいと思っていないからだ。もし本当に自分のカラダと向き合い健康を望んでいるのならば私と「臨床」という場で向き合ってくるはずだが、ほとんどの人達は交遊の場で聞いてくる。そして結果に対しての本当の原因を知りたがっているのに手っ取り早く治したいという気持ちでいる。こういった人のほとんどが共通しているのが自分のカラダに無関心すぎるということである。

    人間は痛かったり病んだりすると他力的に治してもらおうという意識が働く。もちろん治し方を知っていれば自力で治すだろうが、現代人はあまりにも医者頼みになりすぎていて治し方を自分で学ぼうとしない。自分のカラダの事なのにどこか他人事のように捉えているように思えてならない。使わせて頂いているカラダなのにあまりにも無知すぎはしないだろうか?その代償の一つが原始感覚の鈍りだと思う。

    本来、私達臨床家よりも患者のカラダの事は患者自身が分かっていなければならないのだが、分かっていない人が多い。それは自分にもカラダにも無関心過ぎるからだ。命ある者全てにおいて命を傷つける一番の行為は無関心な事だと思う。特にカラダというのは本人から意識が向けられなくなると様々な箇所からサイレンを出すようになっている。そのサイレンは時として昨日に書いたような原因不明の病となってカラダに表れる。

    こういった事を未然に防ぐ為にも常にカラダの声に耳を傾け、その声に適うケアを自力で行っていく必要があるのだ。このケアも何も治療ではなく自分のカラダに聞き分けた命の営み(息・食・動・想)を行っていけば良いのである。こういった事はカラダを使わせて頂いている以上の最低限の責任であり、自分の健康は自分で勝ち取っていかなければならないのだ。

  • 「人間の病4」

    昨日までは「人間の生活の過ち=病気」という事を書いてきたが、今日は突然原因不明の病気になった人のことについて書いていこうと思う。

    「私って生きている意味あるのですかね?」

    これは報道特集の「光と音を失って ある女子大生の葛藤と挑戦」で取り上げられた女子大生が言っていたコトバである。
    彼女は普通の日常生活を送っていたのだが、急に視覚•聴覚を失った。
    彼女のように人間は突然、身に覚えのない病気に襲われることがある。例え命の営みが100点満点だったとして回避出来ない病気が存在する。私も小学四年生の時に原因不明の眼球が動かなくなる眼の病気になったことがあるので彼女達の気持ちが少しだけでも理解出来るのだ。やはり治る確証がない病との戦いは自分の存在の意味さえ問いたくなるのも無理はない。私が病気になった時も「もしかしたらこのままいくと眼が見えなくなるのではないか」とよく考えたりした。
    そんな経験があったからこそ現在は五体満足で生活を送れる健康の有難さを持つ事が出来たのかもしれない。
    だが私のように完治した人間はこういった事が言えるかもしれないが、彼女のように完治せずに一生その病気と共に生きなければならない人には軽々しくこういった発言は出来ない。しかし以前にも述べたように全てを受け入れなければならない。「なぜ私が‥‥」等と葛藤しても病気は喜ぶだけでなのだ。

    私が彼女の本当に凄いと思ったのが病気を素直に受け入れた事である。人間誰もが病に冒されると心に様々な葛藤が生じる。その病の原因、自らの行い、未来、様々な葛藤がある。その葛藤を打ち消し、現実を受け入れるのは誰にでも出来る事ではない。大抵の人は病を否定し、自分を否定し、自分と向かい合えずに生きていく。しかし彼女は生涯付き合わなければならない病気と正面から向かいあい前を向いて生きようとしている。
    命の「生きようとする意思」と共に生を全うしようとしている姿勢がある。それだけでも彼女が生きている理由はあるのではないだろうか。この彼女の生きる姿勢こそが五体満足で生活する事が出来ている私達が学ぶべきことだと思う。

    私は彼女が病気になる前にどのような生き方をしてきたかは分からないが決して彼女が命の営みの法則が赤点だったとは思えない。この世の中には彼女のように自分以外の第三の要因で病気になった人達が沢山いる。それは私達人類がどこかで自然の法則から外れた歩みを進めてきた以上、もしかすると避けては通れない宿命になっているのかもしれない。

  • 「人間の病3」

    昨日まで述べたように人間のもたらす病のほとんどの原因は命の営み(息・食・動・想)の過ちが原因となっている。
    腰痛にしても、風邪を引くにしても人間が本来行うべき責任を果たさないからカラダが病む。当たり前の事を当たり前に出来ないから心とカラダが悲鳴をあげるのである。子供の頃に私が腰痛で苦しんでいた時に母からこんな言葉をかけられた。

    「ムカつくとか、こういった心を持つ事が腰を痛くしたりするの。だから何にでも感謝しなさい。そうすればあなたが痛いと言っている所も治るわよ。」

    昔は軽く受け流していたコトバであったが臨床に携わっている現在では母から頂いたこのコトバを有難く受け止めている。

    このコトバから分かってきたことである。それは健康と不健康との境目は「感謝出来るか否か」ということである。
    それは当たり前にあるものにどれだけ感謝出来るかが健康でいられる秘訣とも言える。

    ここで道元の言葉を一つ紹介したい。

    「眼横鼻直」(禅のことば 禅のこころ 武田鏡村)

    この意味とは眼は横にあり、鼻は縦にある。つまり「当たり前のことを当たり前こととして捉えなさい」という意味で真理は当たり前の所にあるのだと説いている。この原理を命の営みに当てはめると、呼吸をすること、食事をすること、五体満足で動けること、能を使い考えられること、そして眠ること、こういった当たり前に行っている事こそが人生における最高の幸せであり、有難いことなのである。
    そしてこの真理とは「生命活動における愛と調和」であり、それを「快」というベクトルに向かわせていくことが命が要求していることなのだ。これらを成す為にも私達は自分自身、カラダの声と向き合いと自然法則に乗っ取った生命活動を行っていく必要がある。

    こういった事に感謝しながら、法則に乗っ取って生命活動を行っていく事が私達の責任であり、病を遠ざける最良の方法なのである。

  • 「人間の病2」

    昨日の続きになるが「心理的ストレス」が腰痛を引き起こす原因の一つなのは間違いないと思う。人間の心が及ぼす身体への影響、それは「腰痛」だけに限らず様々な病気と相関性がある。
    番組内でも例に挙げられていたが自分が無意識の内に感じているストレスというのは誰もが持っているものであり、本人の意識が行き届かない所でカラダに何かしらの影響を及ぼす。そのストレスと上手く付き合っていければ良いが、消化しきれないと番組で言っていたように「原因不明」という診断がされてしまうのである。
    私が最近強く感じているのが操体で説いている命の営み(息・食・動・想)の中で想念のバランスが取れていないため、体調を崩している人があまりにも多い気がしてならない。心の不調和が己の呼吸、食事、動きのバランスを崩壊させているのである。

    このような心とカラダの相関性は橋本先生の言葉にある「妄想苦」が深く関係している。
    これを身近なことに例えれば「自分は友人に嫌われているのではないだろうか?」または「もっとお金があれば」等、ありもしないことを勝手に想像し苦しむことを言うのだが、こういったことは人間誰しもが経験したことがあるだろう。
    特に病人はこういった心の葛藤を常に持ち合わせていて、それが病の根底にある原因となっている可能性も大いにある。このストレスは現代で解明出来ていないほとんどの病と相関していると言っても過言ではない。

    私の知人にもいるのだが医者が原因不明だという病気に苦しめられている人は多い。
    私もそういった人達のカラダを診させて頂いたことがあるが健康な人と比べ皮膚、筋肉は固く常に緊張した状態にある。
    そして一番厄介なのが感覚の聞き分けが正常ではないということである。どこを触診しても痛みを感じない。それは快・不快を聞き分ける原始感覚が鈍ってしまっているのである。
    こういった人達の話を聞いていくと共通して心に多大なストレスを抱えている。そのストレスのほとんどが空想、つまり思い込みのものであり、橋本先生が言われている「妄想苦」なのである。
    このような患者が増えてきている現状を考えると私達臨床家はカラダという器だけを診て治療する時代は終焉を迎えたように思う。これからは患者の持っている心の病も診断し、治療していかなければ間に合わない時代になってきている。

    こういった心の病こそが昨日の腰痛の話であった「二足歩行の宿命」なのかもしれない。それを宿命にしないためにも自分を必要以上に干渉し、自我と戦わないことが最も良い解決策となるだろう。

  • 『人間の病1」

    こんにちは。今回も一週間宜しくお願い致します。

    先日の三浦先生のブログでも書かれていたが、四月に春期東京操体フォーラム、五月にはバレンシアでそれぞれ開催された。この二つのフォーラムは私にとって特別なものであった。
    それは新しい実行委員の仲間が加わって初めてのフォーラムであったので、今まで以上に自分がしっかりしなければならないという責任感が芽生えたことである。
    振り返ると今までのフォーラムは心のどこかで先輩方達に甘えている自分がいた気がする。だが今回のフォーラムは先輩方と新しいメンバーとで協力し合い、皆が協力し合いフォーラムを開催することが出来たと思う。
    そういった経験が出来たことでこれからの東京操体フォーラムは私達若者が引っ張っていかなければならないという強い責任感が芽生えた。それを成す為にもこれからは操体の学び、自分の人生の学びを今まで以上に深めていこうと思っている。

    ブログの本題に入るがNHKで「病の起源」という番組が放映されている。
    この番組では現代における代表的な病気をピックアップし、その原因、解決方法を辿っていくという内容である。現在の私にとってバラエティー番組等を見るよりもとても面白い内容であったので暇を見つけては見るようにしている。その番組の中で「腰痛」の特集されていた(2008年10月5日放送)。

    この番組の冒頭で腰痛に対しておもしろい表現をしていた。

    「現代における腰痛とは二足歩行の宿命なのだろうか?」

    私が診ているクライアントや知り合いの中にも腰痛持ちはとても多い。
    この原因は八割以上が明らかにされていないのが現代医学の現状と言われている。確かに腰痛の原因というのは様々で人間のカラダの使い方の間違い、または心の在り方等があり、原因を突き止めるのは難題だと思う。
    だがよく考えてみると不思議なことに猿やチンパンジー等の人間と同じ二足歩行している動物には腰痛がない。人間も産まれながらに腰痛持ちはいない。ある時から法則から外れた腰の使い方をして痛めてしまっている。

    つまり腰痛の原因とは明らかに人間のカラダの使い方の過ち、そして心•意識の在り方等に問題があるのだと思う。
    このように考えると腰痛は決して二足歩行の宿命などではなく、「人間の過ち」から起こる病気なのである。

    そもそも現代における腰の捉え方に私は違和感がある。
    番組の中で度々「腰を動かす」という表現がされていたのだが、確かに腰は動くものだが「動かす」という意識感覚に問題があるように思う。現代の操体の腰に対する捉え方に「腰から動く」ということはほとんど行われない。動きは手関節•足関節等の末端から動かし、腰はその末端からの動きを支える「軸」となるものだという捉え方をしているからだ。こういった捉え方をする事で腰に負担をかけるリスクを避ける、もしくは腰に負担をかけてはならないものだと私は認識している。
    「腰を動かす」という表現•意識こそが腰に必要以上に負荷をかけ、腰痛という症状を引き起こしているのだと思う。

  • 「操体と生きる7」

    先日、畠山先生から「ISIS編集学校」の案内のメールを頂いたのだが。そこにとてもおもしろい記事があった。編集人インタビューでの鈴木寛さんの記事である。

    そこには編集工学の観点から観た「メッシ」の在り方について書かれていた。
    なぜメッシはFCバルセロナとアルゼンチン代表での成績が大きく変わってくるのか?どちらも同じメッシがいるのに片方は上手く機能し、もう片方は機能しないのか?その違いについて鈴木寛さんは松岡正剛さんの言葉をお借りして「世界定め」の違いと言われていた。
    FCバルセロナではチーム、オーナー、そしてサポーターが一つの「世界観」を共有している。それはカンテラからの選手の育成であり、ボールポゼッションを高め相手に攻撃をさせないというバルセロナ独自の哲学である。その哲学はバルセロナのファンでなくてもフットボールファンなら誰にでも知られているほど浸透しているのである。これを編集工学の観点から観てみると、まずは「世界(目的)を定め」→「イメージを共有」→「哲学を持つ」→「単語(選手)を動かす」ことが組織を成功させる手順なのだと私は鈴木寛さんのインタビューを観て感じたことだ。アルゼンチン代表はこの手順が上手く出来なかったからW杯で失速したのだと思う。

    この編集工学の観点は操体にも応用出来ると思う。それは生前橋本先生は三浦先生や他の弟子達に「これからの操体の臨床は楽ではなく快をテーマにしなさい」と言われた。その「快」というテーマを与えられた操体を学んでいる弟子達は本来そのテーマを共有し、橋本先生が説かれた操体の哲学の下に当時確立されていなかった「快」というイメージを共有しなければならなかった。しかしそれを組織として共有出来なかった為に現在の操体の臨床は各地で違うことが行われてしまっている。結果としてこうなってしまったのでこの善し悪しの判断は私自身の心の中にしまっておこうと思うのだが、これからの私達は三浦先生の下で与えられたテーマ(意思)を共有し日々共に進化していかなければならない。私達はこれからFCバルセロナのように橋本先生の哲学を世に、そして後世に伝えていく使命がある。その為にも松岡正剛さんや鈴木寛さんの言われている物の見方•捉え方をしていく必要がおおいにあると私は思っている。私達操体の臨床家は日々臨床だけに明け暮れて良い時代はもう去ったと最近強く思うようになった。

    皆様も興味があったら観てください。
    とても勉強になります。
    http://es.isis.ne.jp/

    一週間お付き合い頂きありがとうございました。
    明日からは半蔵さんの出番です。
    楽しみにしています。

  • 「操体と生きる6」

    今日は紙面で話題になっている「体罰」について書いていこうと思う。

    柔道の女子ロンドンオリンピック代表や大阪の高校で起こった体罰問題。
    一体どこからが体罰の基準になるのかはよく分からないが、恐らく強い立場の人間が弱い立場の人間に手を挙げた、もしくは手を挙げられた者が心に深い傷を負った時点で体罰として成立するのであろう。

    私も小学校の時に担任の先生に手を挙げられた記憶がある。その原因は「いじめ」であった。
    私からすればほんの軽い気持ちで相手をぶったのだが、私が想像していた以上に相手は傷ついていた。そんな私の悪ふざけが許せなかったのだろう。担任の先生は授業中にも関わらず私を廊下に呼び出し無言で数回顔を殴ったのだ。現在になって考えてみると先生はぶたれた相手よりも私の事を心配して殴ったのだろうと思う。当時は怨んだりもしたが本当にあの体罰がなければ現在の私は人の痛みが分からぬ人間であったと思う。いつか会える日がくれば先生に「ありがとう」と言いたい。
    しかし、こういった愛のある「体罰」でも現在では問答無用に問題とされる時代となった。時代が「心と心のコミュニケーション」を重視するようになったからである。それは「体と体のコミュミケーション」では相手に自分の想いを伝えるのが困難な時代になったとも捉えることが出来る。

    こういった事は「体罰」だけに限らず男女間においても愛でも「SEXよりも心の対話」が重視されるようになった。それは肉体を介した「刺激」よりも心と心の「調和」が人間の欲求を満たす時代になってきている。大げさに言うならば心と心が繋がっていれば、手と手を繋いでいるだけでもSEX以上のエクスタシーを感じることが出来るのである。
    操体の臨床においても「楽」から「快」へ、「刺激」ではなく「接触」を重視しなければ間に合わない時代となっているのである。ここで書いておきたいのが「楽」と「刺激」には最初に己の思考(自我)が存在してしまうという事である。それに対し「快」と「接触」には自我はなく相手との調和によって成り立つものなのだと思う。それは「体罰」でも同じ事が言える。「体罰」を行う者は自分の想いを相手に伝える為の「コミュニケーション」の一つとして行ってしまったのだと思うが、それは己の「エゴ」に過ぎない。必要以上に相手を干渉するから自我が働くのである。「なぜわかってくれないんだ」といった己のエゴよりも相手を成長をありのまま受け入れる器量と必要以上に干渉しない「愛」がこれからの指導者には必要だと思う。

    こういった時代の変化に対応する為には私達は己の思考回路をシフトチェンジしていかなければならない。それは先日も述べたように「動物的な思考」から「植物的な思考」へのチェンジであり、自分にも相手にも干渉し過ぎない自分自身で在るということだと私は思う。それは操体の学びにおいても同じ事が言える。植物のように自分に多くを求めず、ありのままの自分と向き合い学んでいくことが学びと長く、深く付き合っていける大切な心得なのだと思う。

  • 「操体と生きる5」

    近頃よく宮沢賢治の「アメニモマケズ」をよく目にする機会が多い。

    私は学生時代から本が苦手な人間であったが、なぜか宮沢賢治の本だけはとても熱心に読んでいた記憶がある。
    当時は当然ながら、その世界観は全く分からなかったが現在になって読み直してみると、その魅力がよく分かる。それは童話作家でありながらイノチの在り方に目を向けていること、また自然と連帯協調にあると思う。宮沢賢治の経歴等を見ていると如何に人は自然との共存を大切にしていたかがよくわかる。

    宮沢賢治岩手県花巻市で産まれているのだが、彼が産まれた直後1896年に三陸地震による震災が起こっている。言うまでもなく彼は自然の猛威の恐ろしさ、恩恵を肌で感じながら生きていたのである。こういった環境で生きてきた彼だからこそ他の童話作家では感じる事が出来ない生命観、宇宙観が表現出来るのだと思う。

    そして宮沢賢治のもう一つの魅力とは「不可視な世界」との繋がりを誰にでも分かりやすい童話で表現している所にある。宮沢賢治のコトバを借りると「心象のはひいろはがね」の世界であり、それはこのシャバの世界の本当の世界のようにみえる。また童話作家でありながら「細胞一つ一つには核があり、それは植物で出来ている」と書かれていたそうだ。まるでそこらの医者よりも人間のイノチを知っているかのような言葉に私は人間•宮沢賢治に魅了されていった。

    私が本日、宮沢賢治を取り上げたのは宮沢賢治と橋本先生には共通点があると思ったからだ。橋本先生の著書には宮沢賢治から影響を受けたとは書かれていないがとても類似する点がある。それは自然との繋がり、自我を超越した自分自身との向き合い方、そして死んだ後に後の世代に残した影響力等が挙げられるが、なにより脳の使い方がとても「右脳優位」だということである。

    この右脳を働かせるものの捉え方•見方は私からみれば「宇宙的」であり、「自在」という目に見えない時間•空間に目を向けている。それは頭が良い、悪いではなく脳の使い方が私達現代人と違うのである。もしかすると震災があった現在こそ約100年前に同じような震災を経験された宮沢賢治の思想や橋本先生の哲学が私達の本当に必要としていることではないだろうかと思うのである。