カテゴリー: 三浦 寛幸(みうら ひろゆき)

  • 「操体と生きる4」

    去年、三浦先生からこのような言葉を頂いた。

    「オレは弟子達の上達は臨床の上手い、下手で判断していない。日頃の行いを見て判断している」

    この言葉は臨床の技術に捕らわれ過ぎていた私を見かねて言って下さったのだと思う。
    よく噛み砕いていくと三浦先生は己の生活空間の中にどれだけ操体の哲学を活かしているのかを観ているのだと思える。
    例えば食事の時に肘をしめているのか、歩行時に踵から踏み出していないか等、活かせることはいくらでもある。

    私が操体を学ぶきっかけは臨床家を目指すというよりは橋本先生や三浦先生の「生き方」に憧れを抱きこの世界に足を踏み入れたのだが、月日の経過と共に私の学びを得る目的は臨床の技術を磨くことになってしまっていた。そして無意識に操体の臨床と生活空間を切り離して考えてしまっていた時期があった。
    しかし臨床の技術とは操体のほんの一部であって、操体の本質とは人間が人間らしく生きていく為の哲学であるのだと改めて理解することが出来た。
    現在では三浦先生の下に操体を学ばせて頂いているのも臨床の技術を学びにいくというよりは己を磨きにいくという意識の方が強い。どんなに忙しくても週に一度は三軒茶屋に足を運び「ありがたいコトバ」を頂戴し、自身の生活空間に生かすようにしている。
    こういった事に気付けたのも私の能の思考が欲に縛られず、素直な思考になってきたからだと思う。

    現在になって考えると操体の創始者である橋本先生は脳の使い方が私達と少し違っていたように思える。

    私は橋本先生を直に見たことはないが、その世界観は明らかに私達現代人とは違う。例えるなら私達現代人は「動物的」で橋本先生は「植物的」な生き方、脳の使い方をしている。橋本先生の哲学を学ばせて頂くと自分が如何に無駄な思考を働かせているかが良くわかる。ありもしないことを考えて苦しんだり、悩んだりする。それに比べ橋本先生の思想は現象の世界に捕らわれない「ありのまま」自在しているものを受け入れ、その恩恵を存分に生かす生き方をしているように見える。それは自然の摂理と共に静かに生きる植物のようである。操体を実践していく者はまず橋本先生のこういった姿勢が必要になってくると思う。橋本先生の時代に比べ、物が豊かになり誘惑が多くなった時代にこそ現象の世界に一喜一憂しない植物のように自分自身と向かい合い生きていくことが大切なのである。

    2013年春季東京操体フォーラムは4月28日、千駄ヶ谷津田ホールにて開催致します。

  • 「操体と生きる3」

    操体では人間の命の営み(息・食・動・想)における法則を説いているのだが、一体どれだけの人がこの法則を実践し、自身の人生に活かせているのだろうか。

    私も理論は知っていても実際の生活の中で生かしきれていない者の一人だと思う。
    いつも「間に合っていれば良い」と意識していても、いつの間にか必要以上の欲をかいてしまったり、身体運動の法則に反して踵から歩いたりしてしまったりする。
    日常生活の中に存在する自我(欲)と操体で学んでいることを生かそうとする自分との間に境界線が出来てしまい、結果的に自分がやろうとしている事が継続して続かないのである。今までの自分を客観的に見てみると眠っている間に自分が成そうとしている事を忘れてしまっているように思える。人は眠っている間に数えきれない細胞が産まれ変わっている。その細胞は本来「植物性」であると宮沢賢治は言われていた。しかしこのシャバはあまりに刺激が強いため人間の細胞も「植物性」から「動物性」の細胞に変化していったのである。この細胞を如何に「植物性」のものにしていけるかが己の思考回路をイノチの要求しているベクトルに向かわせる大切な要素となる。
    その為には「眠り」という人間の生命に欠かせない営みとの向き合い方が大切になってくる。

    三浦先生も今回のブログで書かれていたが眠りには幾つもの性質がある。
    「意識の眠り」
    「無意識の眠り」
    「カラダが要求している眠り」
    「自我(欲)の眠り」
    以上の4つは私なりの見解で書かせて頂いたのだが、こういった様々な性質があるので自分でコントロールしていかなければならない。そして、ここで注目したいのは眠りの質と寝相との相関性である。
    私は寝る前によく考え事をする。己の中にある「期待」「不安」等を眠りに就く前に色々と考えてから寝る習慣がある。特に「不安」な事を考えてしまってから眠りに就いた時は眠りが浅く朝の目覚めも良くない。そしてカラダにも何らかの影響を及ぼす。それは寝ている間の己の意識が寝相という形で身体に影響を及ぼしているように思える。「偏頭痛」等は良い例である。一般的には生活リズムの乱れや緊張状態が原因だと言われているが、私は眠りに就くときの己の思考回路がそのまま「歪み」となっていると思っている。
    橋本先生も著書で「寝相」について書かれているが眠りが身体に及ぼす影響は決して小さくない。

    「寝相は体重力を利用して、骨格の凸凹を調節するのである。それは無意識が自然療能をやってくれているのである」(「からだの設計にミスはない」P104より)

    このコトバからも眠りには自然治癒力を引き出す作用があり、それは人間の無意識の中にあるということである。その無意識から産まれる治癒力を活かすにはまず眠りに己の思考を持ち込まないことだと思う。

    こういった眠りに対する捉え方が日常生活における己の意識の使い方を変える事に繋がっていき、自分と操体との関係を深めていくのである。

    2013年春季東京操体フォーラムは4月28日、千駄ヶ谷津田ホールにて開催致します。

  • 「操体と生きる2」

    学びというのは「命」在るものだと私は思っている。

    そして命を宿している以上は「意思」があり、常に変化していくものであるので、「永遠不変」ということは無い。学びを得ている者はその変化を常に察知し先人達から得た知恵を新しいものにしていかなければならない。そして己が得たものを次の世代に引き継いでいく「使命」があるのだ。

    操体においても創始者である橋本先生の「意思」を弟子が継承し、体現してきて本日に至っている。操体を学ぶということにはそういった「責任」と「義務」を背負いながら東京操体実行委員は日々精進し、操体の本来在るべき姿を世に広めているのだ。

    今回のブログではこういった操体という「命」在る哲学を私達はどのように学んでいけば良いのか、または生かしていけば良いのかを考えていきたい。

    第一に教えに対し無条件で「はい!」と言えるか否かで入ってくる情報(インプット)が大きく変わってくる。これは学びに対しての「素直さ」とも言い換えられるが教えを請う者は己の思考を如何に働かせずに無条件に全てを受け入れる事が大切になってくる。
    教えられた事に対し「なぜ?」「どうして?」と疑問に思うこともあるだろうが、その疑問の答えを見つけることよりも、まずは「そうなんだ!」と受け入れることの方が大切である。そうすることでその時分からなかったことが後に自ずと答えが出てくるものだと私は思う。もし機会があれば注意深く観察して欲しいのだが、教えられたことに対して頷いている人と「はい!」と言っている人がいるのだがその人達の間では明らかに上達の速度に違いがあるのである。

    次に大切なことは時間•空間の「マ」の取り方が大切になってくる。武術の達人にしても同じことが言えるのだが「達人」「一流」と呼ばれる人達は「マ」の取り方が本当に上手である。それはスポーツや臨床だけではない。人前でしゃべるのが上手い人達も自分の時間•空間を絶妙の「マ」を置いて話している。私が思うにこういった人達は作法や己の持っている技術を細分化し、それを端から分からないように己の「マ」で丁寧に一つ一つこなしているのだと思う。操体を学ぶことにおいても一つ一つの作法を細かく丁寧に行っていく必要がある。その点が一つの線となり初めて一つの型に納まるのである。

    2013年春季東京操体フォーラムは4月28日、千駄ヶ谷津田ホールにて開催致します。

  • 「操体と生きる1」

    こんにちは。一週間宜しくお願い致します。

    去年の最後のブログで少し触れたので書いておきたいことがあるのだが、今年の1月末から下北沢の古着屋でアルバイトをする事になった。

    正直な気持ちを書くと20代中心が集まる職場に今からアルバイトという立場で働くのは少し抵抗があったのだが、臨床家として独り立ちする前に最後のわがままとして自分のやりたい事にチャレンジすることにした。そんな意欲を持って応募し、面接まで行き着き採用に至った。現在は週5日の勤務で操体の学びと平行しながら日々生活している。

    今回このような経緯で自分の職場を選んだのだが、ここで学べた事があった。
    その一つがいかなる仕事であっても操体の学びに生かせるということである。

    古着屋で働くことと操体には共通性が無いように思えるのだが、意外にも臨床との共通点がある。それは「センスを磨ける」ことである。臨床家という職業に限らず、いかなる職業においても普段からの身だしなみがその人の品性を表す大切な要素である。いくら腕が良く、名声のある臨床家でもスーパーで買ったジャージで治療をしていたのなら客からすれば多少なりとも不安になるはずである。
    また操体の臨床においても動診の介助・補助は患者のカラダの状態や体位(うつ伏せ、仰向け、腰掛位)でも掛け方は異なってくるので、そこで問われるのは創造性、つまり「センス」ということになる。何をやるにしても物の見方•捉え方には様々な方向性がある。それをより良い方向から観る為には「センス」がとても大切な要素になってくるのだ。

    操体の講習でも三浦先生や畠山先生が言われていたが「センスを磨くこと」が臨床家としても1人の人間としても大切になってくる時代だと思う。そういった点において三浦先生をはじめ東京操体フォーラムの実行委員の方々は臨床の技術だけでなく普段からの身だしなみや物を見るセンスも普段から磨いている。

    そういった心掛けが「一流」になる大切な要素になるのではないだろうか?

    そして操体において、こういった「センス」とは言い換えれば「原始感覚」を磨くということにも繋がるのである。操体の臨床における一番大切なのは「感覚を聞き分ける」ことであるので、あながちファッションにしても、何にしてもセンスを磨くことと操体の臨床は無関係だとは言えないのである。こういったことからも私が古着屋で勤めるのも臨床に生きるものだと考えている。それはいかなる仕事においても操体は生かせるということでもある。

    2013年春季東京操体フォーラムは4月28日、千駄ヶ谷津田ホールにて開催致します。

  • 「人生の豊かさ」について 〜その7〜

    今年最後のブログとなったが、今年一年を振り返り私自身も環境も大きく変化した一年であった。何が変わったのかと言うと「学び」に対しての姿勢である。今までの私は自分の興味の範囲内しか学ぶことをしなかったのだが、今年は様々なことを吸収しようと思ったので時間があれば図書館や美術展等にも足を運び己の人生の肥やしに出来るものと向き合うようになった。姿勢が変わることで自分に入ってくる情報やその捉え方も大きく変わってくるものであり、私の臨床に対する捉え方、向き合い方も大きく変化させたのである。その結果、人のカラダを診させて頂くことにおいて「カラダ」という器だけでなくその人の「心」にも意識を向けるようになったのだ。
    こういった変化のきっかけにはある本の出会いがあった。それは今年の春に購入した「こころと治癒力」(ビル•モヤーズ 小野善邦=訳 草思社)という本である。何気なく購入したので内容は全く分からなかったのだが不思議な事に月日の経過と共にわかるようになってきた。それは私が操体の学びを深めてきたのと橋本敬三先生、三浦先生という師と繋がっているから分かるようになったのだと思う。このたった一冊の本が私に生きるということ、そして臨床のヒントを与えてくれたのである。それは人間の悲願である健康はカラダだけでなく心の健康とも密接に関係しているということである。以前にもブログで橋本敬三先生の「アンコロ餅」の話を書いたがこの本もまた臨床において「想」の重要性を説いている。いかなる病にもその根底には心に何らかの問題が生じているということ。そこには執着、怒り等が存在し人体に影響を及ぼしているというのが改めて分かったのである。こういった心の病が「息・食・動」の営みのバランスを崩しカラダに何らかの症状・疾患をもたらす。やはりこの「息・食・動・想」4つの生命の営みが調和していかなければ心とカラダのバランスはとれないのである。そして生命の営みは何事にも「ありがたい」という感謝の気持ちを持つことが全てを調和に導き、そして己の人生も豊かにしていくものだと確信している。

    またこの本にはこんなことが書かれていた。
    「治療(ヒーリング)は心配り(ケアリング)から始まる」
    操体の臨床においても同じことが言える。講習の中で常々「診断」の重要性は言われているが、この診断とは何もカラダの形態を診ることだけが診断ではない。患者の心理状態も診断の重要なポイントになる。患者が訴える症状・疾患の根底にはその人の抱える心の病も存在すると私は思う。そういったことを診るのが人のカラダを診る側の人間には絶対的に足りていないような気がする。症状・疾患を抱えてきた患者に対してこういった診断をしないで治療をするのはただの慰安にしか思えてならない。患者の心を診て治療し始めて臨床なのだと思う。

    こういったことが出来るようになるには、まず私自身が己の生き方を正していかなければならない。そのヒントは操体の中だけでなく、操体と繋がっている様々な学問にあると思う。これからは臨床の技術だけでなく人生を豊かにする様々なことを学んでいこうと思う。

    今年一年どうもありがとうございました。1年を通し好き勝手に思っていることを書かせて頂きましたが、やはり「インプット」だけでなく「アウトプット」していかなければ大切なことが入ってこないと感じた年でした。来年はもっと学びを深めてより良いことを書いていけたらと思っています。

    来週は半蔵さんの出番です。お楽しみに。

  • 「人生の豊かさ」について 〜その6〜

    今日は昨日の続きで伊東豊雄さんの言葉を紹介していきたい。

    「東京が失ってしまった豊かさが東北には残っている。なぜ豊かかと問われれば、ここには人と自然とが一体化された世界が存在しているからである。人々は未だに自然の恩恵で生きている事を幸せに感じている。だから自然の猛威に屈伏しても決して自然を怨むことはないし、自然への信頼を失う事もない。何度津波に襲われても再び海辺に戻ってきたいと願う人々の姿がその証である。」

    『あの日からの建築』より(伊東豊雄 集英社新書

    この伊東豊雄さんの言葉で私達には「自然に生かされている」という潜在意識が在るのを再確認することが出来た。あれだけの災害にあっても自然に対して文句を言わない。それは私達は自然の恩恵無くしては生きていけないということを無意識に悟っているからである。そして私は裕福がいかに貧しいことかとも感じた。私は産まれてからずっと32年間東京で暮らしてきたのだが物は当たり前のようにあり、生活には不自由を感じた事もあまり無かった。しかし贅沢な悩みなのかもしれないがそういった「当たり前」に在る事が自分を縛り付けているような気がしてならない。無い事がどれだけ自由なのかと思う。
    伊東豊雄さんは上記で書き記した以外にもこういった事を書かれていた。

    「(仙台の町を歩いた時に)人々の表情が意外に明るかったことが印象に残っています。中略 あ、みんなどうしてこんなに明るい顔をしているのだろうと。人はすべてを失ってしまった時、悲しみを越えて純粋な気持ちになれるからでしょうか」

    本当の「豊かさ」とは人の中に自在して在るものだと私は思う。被災地の方達をTVや雑誌等で見る度に胸が痛む。しかしあの時の事は被災地の方だけでなく私達に大切な事を教えてくれた気がするのだ。それは「命の豊かさ」であり、そこには人間が持った執着や嫉妬といった概念は存在しない。「神聖」という言葉は適切かは分からないが人間誰もが持ち合わせいて、橋本敬三先生が言われている「神からの授かり物」の一つなのだと思っている。

    最後になるが私自身今まで見てきた数々の建築家の作品は「素晴らしい」と思う反面、どうか「個人主義」を感じてしまうことが多かった。しかし伊東豊雄さんの「せんだいメディアテーク」や「みんなの家」等を見て本来人間が求めている建築の姿を見れたような気がした。それは人と人とがふれあい、そして自然と共存していける建築であり、それは決して「美」を求めた作品としての建築ではない。伊東豊雄さんの作品や本を読んで皆が求めている建築の姿に「命の豊かさ」を感じることが出来た。

  • 「人生の豊かさ」について 〜その5〜

    今回のブログのテーマがなぜ「豊かさ」になったのかというと先月の1日に畠山先生の紹介で東京大学にて行われたOETR(海洋エネルギー&東北再生)シンボジウムに足を運んだことがきっかけであった。
    この講演は建築家の伊東豊雄さんや編集工学で有名な松岡正剛さん、森美術館の館長である南修史生さん等、様々な分野で活躍されている方達が東北再生について自身の活動、思いを語る場となっていて、私にとってこういった人達の生の声を聞く事は今後の糧になると思い参加させて頂くことになった。

    行く前は正直、建築学科を卒業したとはいえ、10年以上も建築の世界から離れてしまった自分にこういった話が理解出来るのかという不安もあった。しかし、そんな小さな不安よりもこの講演で掴める事の方が遥かに大きく感じたので仕事や用事をキャンセルして足を運んだのだ。
    何故それほどまでに行きたかったのかというと東北復興に尽くされている方達の生の声を聞きたかったのと、そういった方達の生き方•仕事に対しての姿勢を少しでも感じてみたかったことが理由にあった。特に講演の前に本を読んだ伊東豊雄さんの考え・思想には操体と通じるものを感じ、とても共感するものがあった。それは自分がやっている事のビジョンに「心の豊さ」「命の豊さ」を追求していることである。
    伊東豊雄さんの建築に対する姿勢は職種こそ違うが三浦先生と同じで自分の好きな事を徹底的に追及し、それが結果的に自分のため、世の人達のためになっている。こういった「求道者」の言葉や生き方を見ていると現代人に欠けている「命の豊かさ」があるように思う。私からすれば橋本敬三先生にしても、ブッタにしても同じ事が言えて、己の「道(タオ)」が「豊さ」と結びついているように思える。
    ここで補足しておきたいのが「命の豊かさ」とは決して「生活の豊かさ」ではないという事である。大抵、私達は「豊かさ」=「便利」としてしまいがちだが、ここでいう「豊かさ」とは人間の命が本来求めている要求であり決してお金や物等の目に見えるものではない。それは「自然法則」の中に自在してあり、その法則と共に生き、学ぶことこそが己の人生の「豊さ」なのである。こういった事に結びつくヒントが伊東豊雄さんの著書にあるのでそれを明日紹介していきたい。

  • 「人生の豊かさ」について 〜その4〜

    人生を豊かにするには生きているうちにどれだけ「死を意識した生き方」が出来るかが鍵になってくるだろう。どれだけやり残した事があるのか、後悔した事があるのか、といった事が死ぬ間際になってから出てきたのでは後の祭りである。「後悔」しないためには常に死を意識した生き方が大切になってくるのではないだろうか?そもそも死とは誰にでも訪れれる絶対的なものである。だが大抵の人は「死」に対し人事のように捉えている。10代、20代ではなおさらである。しかし、いずれ訪れる「死」とは「未来」としてではなく「現在」の延長という捉え方をすれば他人事ではなくなってくる感じがする。これは時間の哲学になるが私は「未来」とは存在しないものだと思っている。例えば天気予報が明日晴れだと言っていて予定をたてたとする。その「未来」とは不確定なものに対しての予想であって全ての事象は現在にしか存在しない。だからこそ絶対的に在る「死」に対して現在存在するものとして捉えるべきだと思っている。あと1つ時間に対する捉え方で大切なことがある。仮に私が80歳まで生きるとしよう。年数であと47年、日数にすればあと、約17000日しか余命がないということになる。これだけの時間を「も」と捉えるか「しか」と捉えるかで余生の生き方が大きく変わってくる。それでもこういった話すらあくまで仮の話であって33歳の私でも明日は約束されていない。それは誰にでも言えることなので常に「現在やるべきこと」はやっておくという意識で今を生きるべきだと私は言いたい。こういったことを踏まえ、「後悔」に関する次のことを紹介したい。
    以下のことは「だから死ぬのは怖くない」(週刊朝日MOOK)の「人が死ぬ前に本当に後悔すること6」である。
    (1) 会いたい人に会わなかった
    (2) 行きたい場所に旅行しなかった
    (3) 他人に優しくしなかった
    (4) 美味しいものを食べておかなかった
    (5) 愛する人に「ありがとう」と伝えなかった
    (6) 家族との関係をよりよくしなかった
    これは終末期の現場で緩和医療に携わり、一千人超の死を見届けた大津秀一医師が選んだものである。
    こういった人生の後悔に共通していることがある。それは実現出来なかったほとんどが日常生活の身近なことであって、決して実現が不可能ではないということである。この6つの項目を私達のような若者からすると出来そうな事のように感じてしまう。しかし意外にこういった身近な事ほど歳を重ねるほどやっていなかったりする。つまり、いつかやるでは遅いということになる。
    こういったことからも「死」はいつ訪れるか分からないので自分のやっている事、やりたい事は後回しにしてはならないのである。

  • 「人生の豊かさ」について 〜その3〜

    現在日本のサラリーマンの人口は3000万〜4000万人程とされている。私は世の人達の仕事への思いに興味があったのでパソコンや本等で色々調べてみたのだが、意外に己の仕事に対して「やりがい」を感じている人は少なく感じた。様々なサラリーマンの声を聞いていると彼らにとっての仕事とは生活のための「手段」になってしまっているように思える。そういった人達のほとんどは現在やっている仕事ではなく、次のやりたい仕事や休みの趣味に意識が向いてしまっている。「手段」になっている以上、仕事にストレスや不満が生じるのは当然であり、己の人生に満足出来ていないのは当然のように思える。自分の人生を本当に豊かにするには、まず自分のやっている事に取り組む姿勢が大切になってくる。そしてそれが一生涯続けていける仕事であれば最高に豊かな人生となるだろう。今日は生涯を通じて自分の仕事に身を捧げている方達の声を紹介したい。
    「まずは目標を定める事。次に達成するための方法を考える事。後は突進する。」
    「仕事をやっとるんでも学問をやっとるんでもない。愛情のためにやっとるんです」(教育学者 曻地三郎)
     
    「その場その場で出来る事を見つけて一生懸命にやる。生きるってそういうこと」(漫才師 内海桂子
    「やりたい仕事に希望通りにつけた理由は運もありますが、一番は人との繋がり」(プラネタリウム解説者 河原郁夫)
    「人の評価ではなく、自分が納得出来ればそれでいいんだよ」(サックス奏者 尾田悟)

    「最高齢プロフェッショナルの条件 徳間書店取材班」より

    この言葉は80、90歳になっても現役で仕事をされている方達の声である。上記で紹介した言葉は修行の身である私にとって必要だと感じた一部を紹介した。私がこの言葉から学べた事は人とのご縁、自分との絆を大切にし日々を一生懸命生きるということである。そして何より大切なのがこういった方達は若いうちから自分のやりたい事と出会っているということである。現在人のほとんどが第二の人生で自分がやりたい事をやる人がいるというが、私は60歳を過ぎてから自分の本当にやりたい事をやるのでは遅いような気がする。10年、20年という短い期間ではやっている事の「神髄」が見えないように思うのである。そういった点において私がやりたい事を20代のうちに見つけられたのは最高に豊なことだと思っている。
    少し話は逸れるが私は幼少の時に父とどこかに遊びに連れて行ってもらったり、一緒に遊んだ記憶があまりない。しかし私に何かを強要したこともなかった。「お前の好きな事を自分で選んでしっかりやりなさい」そういった事を常々言われていた。そういった父の教えがあり仕事ややりたいこと等は自分の意思で決め好きな仕事をする事が出来た。このような経験があるからこそ先に紹介させて頂いた方達の声は少しは理解出来るのである。
    「一生自分の好きな仕事で飯を食べていく」
    そんな格好良くて豊かな人生にしていきたいと思う今日この頃である。

  • 「人生の豊かさ」について 〜その2〜

    昨日の話の続きになるが操体プラクティショナーの認定に伴いアルバイトを退職することにした。
    環境面や待遇に不満があったわけではない。しかし、ここ半年間で自分のカラダに無理をしながら仕事をしていたことで操体の学びにも支障があったこと、そして今年取得出来た資格を活かした仕事がしたいと思ったことが退職の理由であった。以前三浦先生がブログの「時節到来」というコトバを使われていたが、私にとって現在が自分を変えるチャンスの時だと思っている。

    振り返ると無理をしながら仕事をしていくうちに操体を学ぶ環境を作る「手段」の1つでやっていたアルバイトがいつしか「本業」になってしまっていたような気がする。「手段」が自分の「目標」を妨げるものとなってはならないので、どんなときも操体を学ぶ事を最優先させてきたが、「目標」がある以上「手段」にはいつか区切りをつけなければならない。「臨床家として独り立ちしていく」という明確な目的のために現在が次のステップに進む時だと思っている。操体を学んでいる同志達の学びの姿勢を見ているうちに自分を変える必要がある思うようになったのだ。
    きっと誰もが自分を変えたいと思う時がくる。それは自分の人生をより豊かにしたいから変化を求めているのだと思う。自分を変える方法として決意を新たにしたり、髪の毛を切ったりといった事があると思うのだが私の経験上こういった事ではなかなか自分を変える事が出来ない。
    こういった事を考えていると三浦先生のあるコトバを思い出した。
    「腹をくくれ」
    これは操体を学びにきたいという受講生が迷っている時に言われいたコトバであった。これも1種の決意なのかもしれないが、本当に腹を決めた人間は自分の信念を最後まで貫く強さがある。今までの自分を振り返ると腹をくくれていなかったのかもしれない。そう感じたからこそ現在の仕事を辞めたのだ。やはり人間は自分を変えていくには三浦先生が言われているように自分のやっていることに腹をくくって取り組むことが大切だと感じた。世の中の一体どれだけの人が自分のやっている事に対し腹をくくれているのか?「腹をくくった」人は自分のやっていることに一切の迷いが無く日々精進している。そして腹をくくった人の人生はとても豊かなのである。私もこれからはそういった人達のように覚悟を持って操体と向き合い自分の人生を豊かにしていきたいと思う。