カテゴリー: 三浦 寛幸(みうら ひろゆき)

  • 「ひだり5 ~からだの動きと呼吸と感覚~」

    「ひだり」を意識することで変わっていくことは幾つかあります。

     

    からだの構造(つくり)に対する見方・捉え方、からだの動き、感覚、そして呼吸。

     

    これらは劇的に変化していますが、その中でも呼吸は従来よりもその重要性は増してきているように感じます。

     

    まず呼吸を考えることにおいて構造(つくり)に合った呼吸ではなく、からだの動きに適う呼吸とは何かを考える必要があります。

     

    それらを考察するに辺り、臨床の中で左と右をそれぞれ意識し、その時の呼吸と動きを観察してみたのですが、ほとんどの人は左右の違いが明確に表れていました。

     

    その違いは幾つか挙げられますが、一番わかりやすい違いは右では呼吸も動きも早く、逆に左は非常にゆっくりとしたものだったということです。

     

    このようなことと自身の体感したことを踏まえると「ひだり」を意識することで呼吸と動きの繋がりは比例していることを認識することが出来、からだと素直な関係性を構築することが出来る。

     

    つまり感覚優位の自分でいられるということです。

     

    そこでききわけられる感覚こそがいつもブログで書いている「からだにききわける」ということなのです。

     

  • 「ひだり4 ~共鳴 共有 共感~」

    私が臨床や生活空間の中で「ひだり」を意識し、自身のポジションを出来るだけ左に取るようになったのは4,5年前に三浦先生から言われた一言がきっかけでした。

     

    「歩くときは出来るだけオレの左側を歩いてくれ」

     

    何となく言われたことを師や臨床の中で実践していく中で、次第に変ってきたことは感覚を共有出来るということでした。

     

    それまでの臨床は磁石の同じ極を近づけた時のような反発するような時も、時にはあったが、「ひだり」を意識してからの臨床はからだを通じて互いの意識が引き付け合うような感じがします。

     

    その中で起こっているのは「共鳴」「共有」「共感」という流れを互いのからだを通じた交流しているような感覚です。

     

    恐らく昨日書いたような「安心感」はそういう流れの中から生まれてきているのだと思います。

     

    またそういった問いかけを繰り返す中で感じていることはからだが「ひだり」を意識するまでのプロセスの中で呼吸が著しく変化することです。

     

    安心感が得られていない人の呼吸というのはとても波があり荒いように見えます。

     

    その呼吸の波も「ひだり」を意識することで次第に変っていくのです。

     

    明日に続きます。

  • 「ひだり3 ~ひだりを意識し、居て、委ねる~」

    昨日の続きになりますが、私が入院した時に母や担任の先生から受けた安心感は現在の臨床の核であり、一つの指標にもなっているように思います。

     

    「どうすればあの時のような安心感や心の安らぎを患者とからだに提供出来るのか?」

     

    4,5年前まではそんな理想を常に追い求め臨床に望んでいました。

     

    培ったスキル、思いつくアイデア、考えられる全てをぶつけていたのだと思います。

     

    患者のからだが悦んでも自分のからだは悦んでいない。

     

    何か消耗しているような感覚。

     

    結局はどんなに良い臨床をしても互いのからだが悦ばなくては良い臨床ではないということです。

     

    そんな互いのからだが悦ぶこと。それが「ひだり」でした。

     

    それは何も特別なことをするのでなく「ひだりを意識する、ひだりに居る、ひだりに委ねる」というだけです。

     

    それだけで互いのからだは安心し、呼吸が安定し、からだも変っていく。

     

    そしてそれまで自分が見ていたもの、またからだが見せてくれるものも変わり、臨床がとてもシンプルになっていく。

     

    それだけで「何かをしなくては」「もっとよいものを」というような施術する側のエゴも消えていくように感じました。

     

    もしかすると当時の母や担任の先生は無意識にこんなことをやっていたのかもしれませんね。

  • 「ひだり2 ~ひだりが与えてくれたもの~」

    「何となく使いやすいから」というシンプルな理由で使っていた左。

     

    小学校の時にしていた野球やその他の競技でも右手でやろうと思えばやれたとは思いますが、右を使わない理由が当時の私にはありました。

     

    以前に少し触れたことですが、小学校の時に原因も病名も分からない目の病気を患い、一ヶ月程入院したことがあります。

     

    その時のことは今でも鮮明に覚えていますが、からだのどこかが痛むというのは全くなく、ただ眼球が動かせない状態が続いていました。

     

    特に左の眼球が動かせないという感覚があり、左の視界が極端に狭くなっていたように思います。

     

    左の視界が狭くなったことで動くということ影響がありましたがメンタル面でも人の優しさを受け入れられなくなっていたように感じました。

     

     

    そんな状態の自分にいつも左側から優しい声をかけてくれたのが母と担任の先生でした。

     

    それ以降「ひだり」という空間に誰かが居てくれる安心感を知り、そして「ひだり」が人と人との繋がりにおいて重要な役割があるのだと無意識的に学習していたのだと思います。

     

    それからの自分は「ひだり」の世界の中で生き、そしてその世界から受け取れるものを「感覚」として大切にしてきました。

     

    その経験の中で得たことが現在の操体の学び、そして臨床に大いに役に立っています。

     

    明日に続きます。

  • 「ひだり1 ~ひだりを使うことで見えてくる世界~」

    三浦先生、一週間ありがとうございました。

     

    今週から三浦寛幸が担当致しますのでお付き合い下さい。

     

    テーマは引き続き「ひだり」になります。

     

    子供の時から人にはなぜ利き手、利き足があるのだろうかとずっと疑問に思っていました。

     

    当たり前のことですが、人体の主な感覚器感には左右二つに分かれ、このどちらかを優位性を持って使っている。

     

    例えば利き手。

     

    一般的に言われていることではあるが、ほとんどの人が右利きだと言われていて、それが先天性のものなのか、後天性のものなのかはまだ明らかにされていません。

     

    ただ一つ言えるのは右手を基準に世の物もシステムも成り立っているということです。

     

    その理由は単純に世のシステムに「使いやすい」「やりやすい」という理由からだと言えます。

     

    しかし現在になって思うのは、そのように進化してきた世のシステムも「からだ」にとって本当によいものなのか?と疑問に思っています。

     

    私は産まれてからずっと左の世界で生きて来ましたが、操体の学びの中で更に左の旨味を知ることが出来ました。

     

    それはからだの世界と繋がり、感覚の世界との結ばれ、見えない世界との繋がっていくのだと思います。

     

    「左」とはそんな繋がりをもたらしてくれるものだと感じています。

  • 「操体・操体法を薦める理由7 ~シンプルが故に~」

    本日で最終日になります。

     

    これまで自分が思っていることを中心にあれこれかいてきましたが、結局は操体を薦める理由はからだと自分が悦ぶからなのです。

     

    「操体はムズカシイ」「私には出来ない」と言う人がいるのかもしれませんが、やっていることは非常にシンプルなことです。

     

    なぜムズカシイと思うのかと私なりに書かせてもらうと、自分の世界でからだを見て、コントロールしようとするからなのだと思っています。

     

    自分がからだに出来ることはそんなに多くはないですし、専門書に乗っているようなことを全てやって果たしてそれが健康に繋がるのかは疑問です。

     

    でしたら、日々少しでもからだと向き合って、悦んでくれることをやる方がからだにとっても自分の為にも良いように思います。

     

    操体の臨床においても、やっていることは非常にシンプルで全ては「からだが要求していることに適う」ために必要なことをしています。

     

    シンプルが故に奥が深い。

     

    だから学び続けることが出来る。

     

    橋本敬三先生が「操体は一生愉しめるぞ」と言われたのも納得しています。

     

    一週間お付き合い頂きありがとうございました。

     

    明日からは半蔵さんの出番です。

     

    お愉しみに。

  • 「操体・操体法を薦める理由6 ~患者から学べること~」

    最近操体の臨床の中で感じることの一つが「からだに対しての関心を持つ人」が増えてきたということです。

     

    こういう時代背景もあり、自分と向き合う時間、からだと向き合う時間が増えた為か、最近臨床をした人達は私がやっていることを興味深く話を聞いてくれます。

     

    そういう方がいると自分も嬉しくなり、いつもより日常動作のことやセルフケアに関すること、普段私がやっている感覚の世界のことまで話をしてしまいます。

     

    後々なぜ自分が嬉しくなったのかが不思議だったので考えてみたのですが、なにより響いたのが健康と向き合う姿勢でした。

     

    当然「痛みをどうにかしてほしい」というのはあると思うのですが、それ以上にその痛みの原因と後の予防と向き合おうとしていました。

     

    きっと「使わせて頂いている」という意識でからだと向き合っているのだと思います。

     

    何事にも自己責任という意識で取り組み、からだのことに関しても他人事にはしないという姿勢でいるということの大切さを学べたのです。

     

    このように操体の臨床では患者とそのからだから学ばせて頂けることが沢山あります。

     

    それも私が操体を薦める理由になります。

  • 「操体・操体法を薦める理由5 ~からだと意識と生き方~」

    快適感覚を味わってからの私は自身の生き方とそれまでの正当なからだの使い方に反する癖を無くすことを一つのテーマとしてきました。

     

    それまでの自身の生き方を見直してみると「楽」というものが自分の苦しみでもありました。

     

    「楽をして生きたい」「楽をして稼ぎたい」「辛いことはしたくない」

     

    こんな人として誰でも持っていそうなものが自分の成長の妨げとなっているような感じがあり、それを払拭したいと思っていた時がありました。

     

    現在になって振り返るとそんな自分の意識がからだに不要な歪みを作ってしまっていたように思います。

     

    からだの歪みが自身の意識を歪ませていたのか、逆に自分の意識がからだに歪みを作っていたのか。

     

    どちらも相関している関係であるため、どちらからでもアプローチは出来たのだと思いますが、まずは自分の動きの癖を正していくことを試みました。

     

    その問いかけの中で次第に自分の中である「楽」という意識も自然の中で変化していったのでした。

     

    結果として楽をしたいという自分も薄まってきたことで命の営みもからだが悦ぶものへと変ってきたように感じています。

     

    こういった「からだと意識」の関係も快を味わい「正当なからだの使い方」のなかで変えることが出来る。

     

    これも私が操体を薦める理由の一つでもあります。

  • 「操体・操体法を薦める理由4 ~自分で決めなければならない時代の中で~」

    ここ一年半の間、周囲の人達を見ていると自身の生き方が問われる時代になってきたように感じます。

     

    私の職場では自粛して家に引きこもっている人、体調不良で休む人、普段と変らず自分のやるべきことを貫いている人、様々な人が見受けられます。

     

    近隣の店舗でも経済的な影響や体調面での影響から店をたたむも見られ、人々が生き抜くのに厳しい現状が浮彫になってきています。

     

    この状況の中、私が感じているのは様々な選択肢が与えられ、自分で自分の生き方を決めていかなければならない時代になってきたということです。

     

    当然生きることにおいて、やる理由もあれば、やらなければならない理由もある。その反面やれない理由もあれば、やらない理由もある。

     

    こういった時代なので、経済的な面から見ても、健康面から見ても、その良し悪しの判断は現段階では出来ませんが、自分でやるか、やらぬかを判断し、その責任を負っていかなければいけないということは確かなことです。

     

    個人的にはその判断をTVやネットの情報に任せきりにしてしまうことが一番怖いことのように感じています。

     

    その点においては「自己責任の中でからだと相談しながら判断し、行動していく」という、この学びで掴んできたことがこれからの時代に武器となるように思います。

     

    そういう判断力が身に付けられることも操体の魅力なのではないでしょうか。

  • 「操体・操体法を薦める理由3 ~からだに対する素直さ~」

    このブログを書く前に以前の自分の日誌を読み直していたのですが、ある時から自分のからだとの向き合い方や学びの姿勢が大きく変化したときがありました。

     

    ノートを見直すと以前の自分は師や先輩のやっていることを一生懸命トレースし、再現性を強く求めていた時期があったように思います。

     

    きっと操体の実践者の誰よりも技術、テクニックを身に付け臨床も「自分が治してやろう」という意識が抜け切れていなかったのかもしれません。

     

    ただそんな意識もある日を境にからだとの対話を重視するようになり、やがて自分を生かしてくれているものに意識が向くようになりました。

     

    それは人が生きることにおいて技術やテクニック以上に大切なことがあるという気付きでもあります。

     

    呼吸にしても、食事にしても、動くことにおいても普段何気なくからだがしてくれていることは本当にありがたいことなのですよね。

     

    そのからだがしてくれていることに意識が向けられるか否か、そして本当にありがたいものとして受け入れられるのかが操体の本質を知る上で大切なことです。

     

    私のことに関しては自分が信じていた学び方の間違いに気が付けたこと、そしてその間違いを素直に受け入れられたことが自分が変れた大きな要因のように思っています。

     

    現在になってみると、その素直さがなければこの学びを続けられていたかは定かではありません。

     

    そのからだに対して素直さを学習することが操体の臨床の核でもあり、私が操体を薦める理由の一つでもあるのです。