もし海や空気に最初から色があったのならば・・・
人は自身を生かしているものに対し本当にありがたいものだと思えなくなる。
色がないからこそ向き合い方が問われる。
快もそれらと同じで無色無形のものだかこそ本当にありがたいものとして受け取ることが出来る。
水にしても呼吸にしても快にしてもからだが素直に受け入れてくれるものには自分の色目で見ないこと。
それがからだが主語に生き方に繋がってくる。
もし海や空気に最初から色があったのならば・・・
人は自身を生かしているものに対し本当にありがたいものだと思えなくなる。
色がないからこそ向き合い方が問われる。
快もそれらと同じで無色無形のものだかこそ本当にありがたいものとして受け取ることが出来る。
水にしても呼吸にしても快にしてもからだが素直に受け入れてくれるものには自分の色目で見ないこと。
それがからだが主語に生き方に繋がってくる。
もう10年以上前になるが私が実行委員になった頃に三浦先生が皆に問いかけたことがある。
「皆は快に対してどんなイメージを持つ?」
ある実行委員は
「海ですね」
また別の実行委員は
「(快からのメッセージの表紙のような)螺旋のイメージ」
当時の私にとって全く何かを例えることが出来なかった快適感覚。
自然のものを中心に様々なものに当てはめてイメージしからだと共に学習を重ねてきた快も最近は無色無形のイメージになってきた。
その理由の一つが本当に命に必要なものは色がなく「透明」だということである。
水の中に身を置く中で不思議に思っていることが一つあります。
雑念が消え感覚が研ぎ澄まされるということです。
呼吸を止め、水とその流れに身を置く世界では自分とからだが一つになるような不思議な感覚になる。
そして自身を取り巻く環境が鮮明に見えてくる。
不思議なことに最初に取り入れた吸気が多ければ多いほど、からだは軽く感覚は研ぎ澄まされてくる。
陸に出るとまた「呼吸がありがたい」と思える。
そういった現象が起こるのは遠い祖先から受け継いだ細胞の記憶なのか?
またはからだが教えてくれていることなのか?
こんなことが経験出来るのも人が海に惹かれる理由の一つだと思っています。
昔から海には不思議な力があると何となく感じていました。
人のからだを癒すことやからだの本来持ち合わせる感覚を取り戻すために必要な力が海にはあるように感じています。
実際、治療にも使われているのだから間違いのないことだと思えてなりません。
特に人のからだのほとんどは水で構成されていて、病にはその流れの循環が関与しているので療法に自然の恩恵を生かすのは自然なことではないだろうか。
操体でも自力自療に繋がるための動きと流れとそれをより生かす呼吸を大切にしている。
その動きの流れは海と川の関係に似ている。
自然が長い年月をかけ形成してきたものは決して偶然ではなく、地球という命をより良く生かす為に必要なものだったと思います。
私達がからだと向き合うことにおいて、その自然が生み出した知恵から学ぶことは沢山あるのです。
三浦先生、一週間ありがとうございました。
今週からは三浦寛幸が担当致しますのでお付き合い下さい。
今回のテーマは「海」になります。
久しぶりに湘南の海を観てきました。
湘南新宿ラインの辻堂の駅から30分程歩いていると辻堂海浜公園が見えてくる。
その公園の先が湘南の海になるのですが、その道中様々な発見があった。
まずはこの付近で暮らしている人達は都会と比べマスクをしている人が少なかったこと。
昔訪れた時よりも街並みと海辺がキレイになっていたこと。
海に限らず自然と共に生きる人達には都会に身を置く人達にはない豊かさがある。
都会にはない時間の流れ。
自然が奏でるからだが悦ぶリズム。
自然から受け取る呼吸。
そこに身を置くことでしかわからない様々な恩恵が確かに感じられた。
操体の学びで大切にしてきたことなのでより良く理解出来る。
人が自然に惹かれ、生かしてくれているものと素直に向き合い感謝する。
それがからだとの対話の第一歩のように思っている。
本日で最終日になりますが、時代の流れもあり現在の人々は自身のからだの状態を自分で判断することが出来なくなっているように思います。
現在コロナ第七波が訪れ、日を追うごとに感染者数が増え医療機関がパンクしている現状だと聞きます。
これらを目にするとウイルスだけでなく、人々の健康に対する不安と環境との向き合い方に狂いが生じこのような時代の流れを作ってしまっている一つの要因のように見えます。
私も含めての話ですが、いざという時に医者頼みにしてしまう自分、自身の健康を脅かされた時にやるべきことを自分で判断出来ない自分。
そんな自分が健康が脅かされると顔を出す。
それは「からだ」とその声を置き去りにしてしまっているから起ることなのだと思います。
現在は一人一人が健康で生きていくことに非常に困難な時代になってきたのは確かなことです。
しかしそんな時代だからこそ今一度「自己責任」と「環境との向き合い方」を自身のからだと共に見つめ直す必要があるように感じています。
その先にはからだの自然治癒力という形で応えてくれる。
それはからだとの信頼関係によって成り立つものである。
一週間お付き合い頂きありがとうございました。
明日からは半蔵さんが担当致します。
操体を学んできて良かったと思うことの一つが自力自療が出来ることです。
風邪や熱が出る前のからだの変化は呼吸と動きが教えてくれる。
その流れと循環が滞っていると何らかの症状が顔を出す。
それが結果的にからだの歪みとなり、その歪みを取っていくことで症状は改善されるという捉え方で昔の操体の臨床は成り立っていました。
しかしそれだけでは一時的な改善は見られても直ぐに元に戻るということが度々見られたのです。
その理由は歪みが改善されたからだという「うつわ」に患者は何を入れてよいのか分からなかったからです。
現在となってはその「うつわ」の歪みを正すことよりも、それに何を入れるのか?ということを問いかけています。
呼吸を入れ方、抜き方、そして正当なからだの使い方。
そしてその先にある「からだがききわけてくれる」こと。
それらによって自然治癒力はからだの無意識が自ずと発揮してくれるのです。
からだの自然治癒力を引き出すために臨床家として必要なことがあります。
一つはからだの意識とからだの無意識、そして患者自身の意識を識別することです。
この3つの世界の違いをしっかり認識し、結果的にからだの無意識が発揮する自然治癒力へと導くことが出来れば、からだは想像を絶する治癒力を発揮してくれる。
問題はそのからだの無意識にどのようにスイッチを入れるかで、そのヒントは呼吸と皮膚とからだの動きが教えてくれる。
それらに触れ感覚することで日常生活そのものが臨床空間になる。
人が生きるために命あるものを頂くのと同じように、からだの自然治癒力に必要な「快」もこの空間から頂いているように感じています。
今まで快の捉え方としては動きや呼吸の中でからだの内側から自発的に生み出しているものではないかと思っていました。
しかし最近は臨床の空間と日常生活との境界線がなくなってきたことで何か特別なことをしなくても常に快を受け取りながら生きていれている感覚があるのです。
そういった感覚と共に生きていると、快にもその受け取り方の作法というものがあるように思います。
その作法とはまずはからだの声を聞くこと、そしてそのメッセージに応えること。
そのキャッチボールは呼吸とからだの動きで行われる。
大事なのは自分の色で見ないこと、色を付けないこと。
そうすればからだはどんな状況でも応えてくれる。
からだの自然な治癒力の個人差は一体何によって生じるのかと考えていました。
例えば同じ位の年齢で同じような体格、そして症状をも似た2人でも片方の人は治るのに膨大な時間がかかるのに対し、もう片方の人は瞬時に治る人もいます。
人に個人差、個体差があるのは当たり前なのだと思いますが、もともと持ち合わせるからだの治癒力に違いはないので、これらには決定的な違いがあるのだと思います。
その違いの一つは「痛み」との向き合い方で、これに対し素直に受け入れるか否かで治癒力にも大きな差が出るように見えます。
そしてもう一つは発する言葉です。
言葉には「からだが受け入れてくれる言葉」と「からだが反発する言葉」があり、この2つは日常の動きや食にも何らかの影響を与えている。
こういったことを踏まえると人の自然治癒力には心の持ち方、想念が大きく関わっているのは確かなことです。
痛み等のからだが示してくれること、見せてくれることに対し、否定せずに受け入れること。
そして治すことを自己責任として持ることが治癒力を高めることにおいて大切なことのように思います。