カテゴリー: 三浦 寛幸(みうら ひろゆき)

  • 「健康と寿命と向き合う中で ~その5~」

    今までの臨床の中で患者のからだを健康、不健康という見方でからだと向き合ったことがありませんが、あえてその2つをわけてみるならば何が基準になるのでしょうか?

     

     

    もし健康診断等で定められている基準となる数値が全ての項目で基準値以下の人がいたとします。

     

     

    その人が次の健康診断までにすべてを合格点までに持っていくことが出来、医師に満点をもらうことが出来たとする。果たしてそれが健康なのかと疑問です。

     

     

    操体の臨床の中でも思うことなのですが、痛みや苦痛から逃れるための劇的に治るということは果たして良いことなのかと考える時があります。

     

     

    その理由も「治る」という一つの結果に対し、それを維持、そして増進していくために何が必要なのかを考える機会を失ってしまうからです。

     

     

    そういった点においてはある程度の月日をかけて治るプロセスと向き合ってきた人の方がからだからみれば本当の意味での健康といえる。

     

     

    先程例に挙げたこともそうですが、結果に捉われてしまってはそれを引き起こす原因となるものの改善にはならない。

     

     

    からだとそれを使わせて頂いている自分との間には何らかの隔たりが生じてしまっている。

     

     

    そういったことに気付けることが本当の意味での「健康」のように思っています。

     

  • 「健康と寿命と向き合う中で ~その4~」

    当たり前のことかもしれませんが、最近は健康が不健康に傾斜する過程に意識の使い方の間違いがあるように感じています。

     

     

    私も怪我をしたり、からだに不調を感じたりする人間ですが、こういった時は大抵からだの要求やそのメッセージを無視した時に起こっています。

     

     

    その時のことを振り返ってみても、慌てていたり、自分のこころにゆとりがない時に思わぬ怪我や病気に遭遇したりしています。

     

     

    逆に調子が良い時はからだからのメッセージに対し、それに応えられるだけのゆとりとマがあるようにみえるのです。

     

     

    その違いを突き詰めていくと、からだが要求していることと自分の意識が全く違う方向を向いてしまっていることがよく理解出来ます。

     

     

    意識の使い方というのはかなり壮大なテーマかもしれません。

     

     

    しかしちょっとした時に少しからだに寄り添うなきもちを意識の中に取り入れてみると自分とからだの要求の隔たりもなくなってくるように思います。

  • 「健康と寿命と向き合う中で ~その3~」

    身近にいる人達の健康に対する価値観を聞いてみると様々な声が聞けて面白かったです。

     

     

    「自分で決めた基準の体重が増減」を基準にしている人もいれば、

     

     

    「(からだに)痛みがあるか否か」や

     

     

    「おいしくごはんが食べれるかどうか」という人もいる。

     

     

    中には「呼吸が上手く入るかどうか」という声もあった。

     

     

     

    このような様々な声を聞いて思うことは健康の基準としているものが全て快か不快かの原始感覚に繋がっているということです。

     

     

    またもう一つ興味深かったことは一人一人がからだと向き合っていく中で無意識にその基準を定めていることでした。

     

     

    100人いれば100通りの健康に対する基準があり、それはからだとの対話の中で決めているようにも感じます。

     

     

    そういったことからも国や医師が定めた健康に無理に合わせていくことよりも、常にからだとの対話の中で健康と向き合っていくことの方が大事なことなのではないでしょうか?

     

     

    最後に現在の私の健康の基準にしているものは他人が決めた基準や数値ではなく、からだからのメッセージをきけるか否か、そしてそれに応えることが出来るかどうかにしています。

     

     

    その中で重要になってくることは「感覚」と「意識の使い方」です。

     

    明日に続きます。

  • 「健康と寿命と向き合う中で ~その2~」

    操体を学んでいると健康とは美味しいとこ取りをする部分食ではなく、常にからだの声に寄り添った全体食にしていくということがよく理解出来ます。

     

     

    大抵の人達は4つの命の営み(呼吸・食・動・想)の中で最もコントロールしやすいものを1,2個を特化し健康に繋げていこうとする。

     

     

    その理由は非常にシンプルでそうした方がコントロールしやすいし、一つ一つを意識して突き詰めて生活することは不可能なことに近いからです。

     

     

    これだけ健康に興味がある人が多く、各部門のプロがいるのにその4つを総括した健康に繋がる理論があまり聞かれないのは少し残念な気もします。

     

     

    そんな私のきもちが通じているのか。

     

     

    はからずも現在の操体の方向性はそこに向かっています。

     

     

    その理由も健康に繋がる4つの命の営みを「自分でコントロール」するものから「からだがコントール」してくれるものへと転換した捉え方とその可能性を見出すことが出来たからです。

     

     

    つまり「自分にとっての健康」と「からだにとっての健康」は違うということです。

  • 「健康と寿命と向き合う中で ~その1~」

    三浦先生、一週間ありがとうございました。

     

     

    今週からは三浦寛幸がバトンを引き継いで担当致しますのでお付き合いください。

     

     

    今回のテーマは「健康と寿命」です。

     

     

    いつも健康と聞くと真っ先に思い浮かぶのが青汁です。

     

     

    子供の頃、CMで流れていたあの緑色のマズイ液体を飲めば無敵の健康人になれると本気で思い込んでいました。

     

     

    あのマズさを一瞬我慢すれば、つかの間の健康が約束され、多少羽目を外した生活をしてもある程度の健康が約束される。

     

     

    だから「何をしてもよい。許されるんだ」

     

     

    呪いにも近い思い込みを持ち続け、TVで「からだによい」「健康になれる」と流れると何でも食いつき、そして好き勝手をしていたように思います。

     

     

    そんなあまりにも健康に対して無責任で「からだ任せ」な自分と決別出来たのは操体という学問を通じて「からだの声に従った意識の更新」が出来るようになったからです。

  • 「うらとおもて7 ~共に生きるもう一人の人格者~

    本日で最終日になりますが、最近は人体における裏と呼ばれる部位に注目しています。

     

     

    例えば手掌や足の裏と呼ばれる部位。

     

     

    これらには臨床における重要なヒントが隠されているようにみえます。

     

     

    筋肉の圧通膏血だけでなく皮膚の柔軟性や色、体温を診るだけでも、その人の生き様を垣間見ることが出来るのです。

     

     

    また私自身の体感としてはそういった裏と呼ばれる部位に意識を向けることで、そこからききわけられるからだの声も大事なメッセージとして受け取っています。

     

     

    いうならば

     

     

    「からだという人格者の意識と心は私達が日常の中で意識が行き届きにくい部位にある」

     

     

    ということです。

     

     

    一週間お付き合い頂きありがとうございました。

     

     

    来週からは半蔵さんが担当致しますので愉しみにしていてください。

  • 「うらとおもて6 ~生かしてくれているものの変化を診る~

    昨日のブログの補足になりますが、操体の臨床における施術者が見るべき患者の変化は動きと呼吸、そして意識と感覚です。

     

     

    この4つの変化が同時相関相補し合う関係にあり、ひとつの変化すれば他の3つも時間の経過と共に変化するという捉え方です。

     

     

    これらは患者本人が意識することの出来る表面的なもので、その裏でからだがしてくれていることにも着目しなければなりません。

     

     

    例えば私達が生きることにおいても常に共にしているリズム。

     

     

    動きのリズム、呼吸のリズム、睡眠のリズム、生活のリズム。

     

     

    これらのリズムがからだが要求しているリズムと合っているのかどうかも操体の臨床では着目しなければならないことだと思っています。

     

     

    こういったこと以外にも診るべきことがありますが、アプローチの窓口がたくさんあるのも操体の凄さでもあります。

     

     

     

    最後になりますが、大事なのは痛みや訴えている症状の改善にも努めていますが、それは目的ではなくプロセスのひとつだということを認識すること。

     

     

    その先にはからだとの信頼関係を築いていくことがある。

     

     

    私達はそれを成すために私達を生かしてくれている様々なものからメッセージを受け取り、そしてアプローチしている。

     

  • 「うらとおもて5 ~からだからのメッセージ~

    先日、長年操体の臨床を受けている知人に施術をしました。

     

     

    彼女は臨床の後にこんなことを言っていました。

     

     

    「最初(当時)は足を揉んでもらっても、首に触れられても、何をしているのか分からなかった」

     

     

    「でもいつか電車の中で少しの時間手を揉んでもらった時に、はじめてきもちのよさが理解出来て、そこからマッサージに行っても強い刺激を求めなくなった」

     

     

    「マッサージも行くことも少なくなったし、操体で自分とからだが変化するということも実感できるようになった」

     

     

    「また最近何事もからだに相談するようになった」

     

     

    というようなことを当時の感想から近況までさまざまなことを伝えてくれました。

     

     

     

    この言葉を聞いて彼女のからだを形成するさまざまなものの変化があって、それが結果的に生き方の変化に繋がっているのだと感じました。

     

     

    その変化とは表面的に目に見えるもの、意識出来るものもあれば、本人の意識には遡らない裏の変化もある。

     

     

    その表と裏の変化に対しからだは何らかの形でメッセージを送ってくれる。

     

    その声に気付けるようにすることが私達臨床家の努めである。

     

     

  • 「うらとおもて4 ~痛みからのメッセージ~

    臨床の世界に足を踏み入れてから「痛み」というものは一体何なのかをずっと問いかけています。

     

     

    最近の臨床でも痛みはからだの様々な情報を被験者と操者に教えてくれることを実感しました。

     

     

    そのわかったこととは

     

     

    痛みとはからだの意志から発せられるものであるということ。

     

     

    痛みが無痛に変化するプロセスの中で本人の意識も変化するということ。

     

     

    私達操体の臨床家は痛みを改善することが目的ではないということ。

     

     

    痛みはからだからのメッセージを受け取るためのひとつの窓口であるということ。

     

     

     

    このような捉え方をしていくと痛みというものにも表と裏のメッセージがあるということがわかります。

     

     

    その裏のメッセージをからだを通じて理解し、向き合っていくことが大切なことのように思います。

  • 「うらとおもて3 ~背面から見るからだの動き~

    操体の講習では実技、そしてからだを背面から見ることが多かったように思います。

     

     

    現在になって考えてみると、背面からの世界は人がどのようにからだと向き合っているのかを教えてくれるということも理由のひとつであったように感じています。

     

     

    いつもブログで書いていることですが、操体の臨床家として診断の中で最も大切にしていることが

     

     

    「からだの動きにおける自然な動きと不自然な動き」

     

     

    この違いを見抜くことです。

     

     

    またそれを別の言葉で表現するならば

     

     

    「からだの動きなのか、自分の動きなのか」

     

     

    ということです。

     

     

    この2つの違いが見抜けるようになると、その人がからだからのメッセージをどのようにうけとっているのかも見えてくる。

     

    からだの動きによって表現される世界はその人自身の生き様を忠実に表している。