新宿に住んでいる住人の60%が一人暮らしの住人だという。それが30代の若者にも蔓延しているのだそうだ。定職もなく、結婚できる、したいという希望もなく、このまま生涯一人ぼっちで生きて行くことを余儀なくされている。自分がない人生を続けて行く・・・。そうした人生しか見えてこない人達が命が尽きるまで耐えられるのか。貯えがないことも、身にしみることだが、心のよりどころがない、家族がない、友人もいない、話せる人がいない、これほど不安な自分はないという。本当にその人達は孤立、孤独を余儀なくされている。極度に人生の孤独を、さびしさを背おい、生きているのだ。ある小老は、故郷で死を迎えたいと言った。しかし現実に帰れるアテは全くないのだ。この小老は、毎日その孤独にたえきれづ、新宿の街をひたすらあてもなく、ただ歩き続けて、孤独と戦っているのだという。そうでもしないと、自分を忘れ、人生を忘れてしまうのだという。生きているのに生きていけない、生きているのに自分が消えていく。心が消えていく。心が痛まないか。同じ人間として、そんな人達より少しでも余力のある人よ。この人達と会話しないか。言葉をかけ、なにか、できることをしてあげられないか。人の生き方にはこれほどの温度差があるのか。報いの報酬にはこれほどまでの落差があるのか。第三者が介入できないほどのものなのか。神の手が、力が及ばぬところのものなのか。いや、人ごとの無神経さ、オレには関係ないことだという。他人事のこころ。自己責任にしても、皆が幸せじゃないと息苦しいのだ。無関心ではいられない。この現実に目をそらすな。目をそらすな。自分がもしそうだったらと、少しは感じて生きること。
カテゴリー: 三浦 寛(みうら ひろし)
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写真撮影
先々週の土曜日の夕方、東京操体フォーラム実行委員のうち有志が集まって写真家のプロ、白井氏に一人一人写真を撮っていたヾいた。公私用に使える、写真である。プロの目で撮る、撮っているのだから、最高のものを撮るツボを心得ているから、さすが、撮られているその対象の緊張をほぐすのもさすがである。たヾ、意識して作られる表情には、どこか硬さや無理がある。どうしたら納得いくような写真を撮ってもらえるのかを考えてみると、顔や、からだの緊張をほぐすことを考えてみればいい。細胞そのものをほぐす手段がある。細胞フェイスをつくる。それが生きた被写体となる。僕がこころがけることは、尊敬している人、一番愛せるものをイメージすること。それをイメージしながら、撮れたものは最高に表情が生きているのだ。表情がゆるむ。又しまる。その無意識がつくり出す。つくり出せる表情とは、このイメージが大切なのだ。このイメージを描くことによって、細胞そのものが最高でステキな表情を生み出すのである。ですから、自分の人生の中で、尊敬する人がいない、一番愛せる存在がない、ということは、いくら美人でもその表情には写し出せるものがないのである。ゆたかなものがないといふことになる。つまり、これという表情が自分に無いってことになる。ですから、自分の美しさ、かわいらしさというのは自分の生き方にかかわってくる。尊敬しうる存在を育ててきたか、ご縁を持たせていただいたか、最も尊敬でき愛せるものが自分であるのが最高である。会ったことがなくても、本をとおして、それらの存在を見いだせることだって可能である。それによって細胞が輝いてくる。生き生きとしてくる。そこにこんなステキな自分が写し出されていたんだと新たな気づきをもつであろう。
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近頃というより
近頃というより、ブログを書きはじめてこの方、小生の順番がまわってくる頃になると、必ず何かと重なり、ワタワタ、バタバタさせられてしまう。例えば今回は分科会の一週間前だったり、それにたにぐち書店の連載の校正が重なったりするのだ。まあ、クリヤーできないことではないけど、気ぜわしくて落ち着かない。せわしいのだ。好きじゃないけど・・・・・。
たにぐちの連載で思い出しだけど、お陰様で『シリーズ操体』は、四月号の連載で100回目となりました。100回の連載を毎月重ねると、8年と4ヶ月かかる訳ですネ。これも継続していくことの重みでしょう。重みだけではなく充実です。息を吹きかけていくことで、命を持つ、といふことです。同志の協力、ありがとうございました。一昨年から同志の協力を得て、連載を続行していました。1回目は山野、そして日下、中谷、秋穂、福田の順でふっていきました。かなり一人一人の原稿の校正には苦労させられましたが、その分、私も勉強させていただきました。かなり私からお灸をすえられ、もうこりごりと思っているのなら大間違い(大間違いだよ)。
いつ、なんどき、そのような依頼が舞い込んでくるかもしれないという可能性を真っ向から否定することができるのか。そうしたことは全くないとイメージすらできないのか?
何故己れの可能性をイメージできないのか。創造できなければ何一つ可能になることはないのだよ。鳥羽湾の日の出
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ふとした思いつきや気づきが大いなる進化を生むことがある。
ふとした思いつきや気づきが大いなる進化を生むことがある。しかし、その進化には思いつきや、気づきに、どれだけ意識をむけてその現象をみつづけ、意識を刻みこんでいくか。その積み上げられていく心、いや魂の問いかけが必要だ。己れ(おのれ)のイノチとして、息をしつづけていける思いなのか気づきなのか・・・・という、自分への問いかけがあるかということなのである。
瞬間湯沸かし器であっても、3日坊主のテイであってもならない。
それは自分にとってたのしい事かも知れないけど、人様(ひとさま)がどれだけ、その気づきを共有して生かすことができるのか。人生のよろこびにかえられるのか、である。人様(ひとさま)とそのよろこびを共有できないことこそ、つまらぬ楽しみはない。
一人よがりのたのしみに終わらぬように、その気づきを、思いを育てていくことです。
そのことに息を吹き込み続けていくことです。おかげ横丁で一服
伊勢神宮門前の猫。
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近頃、自分の影にドキッっとすることがある
近頃、自分の影にドキッっとすることがある。都会の生活のなかで「影」を意識させられることが少ないからだ。「ドキッとさせられる」というのは、誰れの影が写っているのだろうかという、ドッキリ感でもある。そう云えば自分にも影があるんだとその時気づくんだね。姿、影なき亡霊でもあるまいし生活している中で、自分には影があるんだって、すっかり忘れて過ごしていたんだなァ〜ってネ。だからと云って自分の存在を忘れている訳じゃないけど。たとえ影がないからといって今あわてることもない。影がなくても十分存在して、たのしめる余裕がある。意識感覚は存在しているわけだから。
私もずい分、ツラの皮が厚くなったなァ。5年〜10年前の自分、どこがかわっているのか、意識のレベルが変わっている。5年〜10年前に存在していなかった自分が居るってことだな。かなり、そんな自分がいるようだ。だからといって違和感があろうはづはない。過去の自分を引きづっている訳でもない。今ここの自分を生きている。今ここの自分が最高であるように、生かさせて頂きたいと、そうある自分を今生きている。
どうしてですか、どうしてですかといちいち説明を求めてくる者がいる。子供でもあるまいし、どうしてですかと聞く前に、自分で考えるのが大人である。こうした人間は、へりくつばかりを口にする。自分で考える、大人になれ。
人は今、想いの中で生きる。今の想いを語り生きている。それは今の想いの中に未来があるからである。しかし現実は、老いたものは過去を語り、若者は未来を語る。その老いたるものにも、その若きものにも今がない。今を語るコトバがない。今を見つめる心がない。
この歳を迎えて、自制していく生き方の中に、なにかしっくりと納まりがついてくる。味わい深き、快適空間が己れの中にあることに気づくのだ。ワクワク、ドキドキ感の快ではなく、しっとりとなじんでとけ込んでくるような、やすらぎというのか癒されてくるおちつき、である。それが静寂と沈黙の我の空間にあるようだ。足がすわるというか、腹がすわるといふのかな・・・・。自分そのものを、自分の次元を越えた観の世界からみれる、みている、それが四次元、五次元なのかはわからないけど、不可視な次元から自分をみるとかなり自分がわかってくるものだ。
写真:伊勢神宮にて
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ブログ最終日
一週間のおつき合い、どうも有難うございました。どのような形で、締めくくったらよいのか、思いだけが大きくふくらんで、まとまりのつかない今の心境です。きっとブログ担当の期間に重なったフォーラムの影響でしょう。
今こうしていても、あの二日間の一コマ一コマがふっとわいてきては、次々に重なり、とりとめもなく思いだされてくるからです。この二日間のできごと、その一コマ一コマの感動はどのような言葉で表現しても語り尽くすことはできないであろうと思います。実行委員、役員一人一人が胸(ハート)におさめておくのが最もふさわしいように思います。なにか、言葉にするとあの感動が消えていくような気もします。なんと表現したらいいのか、私達が企画したこととはいえ、我々も含めて一人一人が名指しで招待状を受け取って参加させてもらった、ディナーショーのような、そんな気分を味わったのです。ただ声をかけられて参加したのではなく、一人一人選ばれて、招待状を受け取った者だけが、参加を許されたような思いがします。それだけに、あの二日間のあのハーモニーのすばらしことといったら、招待状を受け取った参加者のみが味わった、夢のような感動と興奮のひとときをだったと思います。
僕は君達に、あえて厳しさを求めて接してきました。しかし、君達の姿に接した島津先生、そして奥様が私に直接言われた言葉が印象に残ります。「なんて、すばらしいお弟子さん達なのでしょう。よくここまで行きとどき、育てられましたね。ありがとうございます。」と・・・・・これが人さまの評価なのです。この評価がなくして東京操体フォーラムも成り立っていくことはありません。
たヾ単に、自分と私達がたのしい、おもしろい、うれしい、それだけの学びだけでは一個人、一集団のみの評価であって、それは人さまがくだす評価とは違います。君達の無心にとり組む、心を一つに励んできたすばらしさの中に、人さまは心を打たれ絶賛して下さるのです。この無心さも、厳しく取り組む学びのなかから育ってくるものです。フォーラムは私達の学びの場でもありますが、人さまに公開し、ご披露しているわけですから、人さまの評価も「すばらしい」といふ言葉として返ってくるように努めることです。その為にも、学ぶことの豊かさ、妥協なき自己への厳しさが求められてくるのです。その自分に求められてくる生ける真心が鏡のごとく人の心(鏡)に写し出されてくるのです。それが品性となって人様の心を打つのではないですか。人に対するやさしさ、いたわり、思いやり、いつくしみに顕現するのです。それが「楽しい」「愉楽しい」の違いです。それは自己に対する誠意であり、隣人に向けたマナーです。愛する心です。私が君達に求めている、学ぶということの厳しさとはそういうことだったのです。人さまの評価を得ていく、ということは、そう簡単なことではないですね。私達は学びのなかで、人さまの心を解(と)かしていくことです。真理であることが学びです。それは一人一人が真理の化身であることに目覚めることです。真理が真理の力で立てる、それが自己の目覚めであって、人さまと共感し、調和してまざりあっていくことだと思います。
ブログを終えるにあたって、最後の一言
愛するものの弱さとは
ひとりきりでは
生きていけないってことです神さまもそうでした
神は愛なり といいます
神さまも愛に生きている
生きる為に
我が息子が、我が娘が必要だったのです
神のその存在こそ、共に生きている姿であって
ひとりっきりでは なかったのです実行委員の皆さん、ご苦労もあったでしょうが、君達はスゴすぎる、なんてたまげた存在なんだと思いました。本当に大きく大きく成長して実ってくれましたね。私への招待状、ありがとうございます。心から・・
理事長
前列左より
橋本敬三先生(写真で参加)、三浦寛、島津兼治先生、畠山裕美、森田珠水
二列目左より 鵜原増満、小代田綾、佐伯惟弘、秋穂一雄、平直行、友松誠
三列目左より 三浦寛幸、日下和夫、小松広明、辻知喜、岡村郁生、山野真二、山本明、福田勇治
四列目左より 西田尚史、中谷之美、横森昌裕、甲斐田泰平 -
「人間関係」
私は23歳の時から臨床という場のなかで、自分を育ててきた人間であるから、どうしても診る側、診られる側、つまり「先生」と「患者」の立場のなかでの人間関係が多くなる。又操体を学びに来る人達との間柄も「先生と生徒」という場の中での人間関係、交わりである。相手は必ず目的を持っており、私との接触がある。私の立場は相手のその目的に適う助言者であり、仲介者としての存在である。
私は相手のその目的に適う場の存在に徹する。それなくして人との関係、その基を構築することは出来ない。つまり信頼関係を産み構築しうる土台、基を試され続けるなかで、その関係が熟してくる。相手がその目的を手中にした後の私と相手の関係、継続しうる関係を持ち得るかどうか、それは互いの意志によるものだ。継続しうる関係が成り立つにしても、それは静かなる存在意識のなかで、必要ありし時に存在し、冷湿布のようなかかかわりのなかで関係が成り立つ。静かなる心のゆとりのなかで、はぐくまれるものである。それは、とびきり熱くはならない関係である。域(イキ)を保てる関係である。域(イキ)とは、立ち入らない、干渉しないという域(イキ)である。求め必要とする時に存在しあえる関係であって、常に求めあう存在ではない。人間関係とは自分ありきの関係である。
今私は30名以上が集ふ組織をかヽえている。寺子屋、塾から育っていった仲間、同志、塾生である。志を一つにする、一人一人のイノチの集団、生命の集団である。それは橋本敬三の意志を継承する卵の集団であった。そしてその卵が孵化して自立するまでに育ってきた。彼らは実際に橋本敬三を知らない世代である。彼らにはその像しか知りえない。私という化身をとおして、又師の書籍をとおしてその姿を写し描くしかない。しかし、師が成し成そうとしてきた業績を己(おの)れの生に描写し、己れの生き方に写し出そうとしている、それは自分を知るために、自分の生の目的を知りえるゆえに写し出そうとしている。光のごとく写し出したいと思う意識に従っている。自分の生-人生に光をあてるゆえに、光を当て自分が成したいことをみたいのである。
この集団は己れの意志に従っている。真理を学ぶ一人一人の集団である。静かな汗を流している、そのなかで自分に己れの歓びを与えている。又、共に一人一人がその歓びを共有しあっている、その長に立つ私は、彼らの親の目でみている。橋本敬三先生の化身の目で彼らを見ている私自身は、親の目と兄弟姉妹の目で彼らに親しんでいる。まざっている。橋本敬三の魂、その霊的分身として彼らを見ている。
この分身を介して、私の姉の息子が、そして私の息子が橋本敬三の意志(太極の意志)を継承している。私はすでに私個人ではない。私は自分自身を機動しなければならない。生かされしこの命を機動すること、それが私自身であることを知る。私が機動することは、彼らが機動することである。新たな意識、次元を超えた意識の元で機動していることを意味する。私はその波動を送りつづけ、機動する力である。私は彼らのエネルギーである。互いが学びつづけていることが大切だ。何かを感じとることが大切だ。何かを感じとる役割を担う、それが私自身である。そして今、彼らとの距離が「師匠とその弟子」という関係(きづな)で結ばれるように成った。これは一人一人の生涯にわたる関係(きづな)である。永遠、永久につづく関係である。それは血縁なき霊的関係にあって、慈しみあえるもの、ことの成り立ちである。しかし血縁なきとは云ふものの、元を正せば元の起源から生じたこの命であるからして、私を生んでくれた親が違うとういだけのことであり、その親も一からなる存在から生まれてきているのだ。人間関係とは信頼関係である。この信頼関係とは、自己との信頼関係でもある。つまり自分自身といい関係なのか、ということが重要な問題(テーマ)なのだ。人間関係とは自己との信頼関係の上に成り立っている。ベターな関係の原則はまづ自己とのベターな関係をつくることにある。なぜなら、信頼関係には責任がある。自己に責任がともなう。それは自分を信頼しているか、愛し許している存在か、好きか、そうした自己肯定で自分といい関係にあるかという責任である。そして人間関係の構築は、謙虚に学び成長しつづけていこうとする自分の姿にある。又その関係とは、自分あってのかかわりごとである。そこから人間関係が生まれる。それは人とのかかわり以上に、己れ自身とどうかかわっていくのがか重要なことだ。己れとのかかわりを良くすることは、とても大切なことである。
人との関係や、つながりにおいて、まづ自分を語れる人になることだ。それは、自分との関係をより密に大切にすること、自分との対話、自分とのかかわりの時間を常に持つことだ。生活を追いかけてもこの貴重な時間を手に入れることはできないのである。生活時間のなかから少しでも、自分との心の対話、生命時間を意識的に取り込むことが必要なのだ。作り出さなければ入ってこない時間である。人と向かい合う前にまづ自分自身とより親しみをもって向かい合うことで、少しづつ本質的な自分を知ること、それは相手のことを理解する一つの手あてになっていく。
人との人間関係において、確かなことは良しに悪しきにつけ、そういう人間関係を自ら引き寄せていることである。相手に求めれば求めるほど自由にならない。求める相手は自分自身である。そして相手には与えることである。相手に適うことを与える歓びを得ること、あなたはすばらしい人だ、と認めてあげることだ。それが豊かな人間関係である。なぜ求めれば求めるほど自由にならぬのか、自分の心さえ自由にならないのに、相手の心を自由に操つることはできないのだ。操つるのは自分自身で他人ではない。サギ師は、人をだます前に自分をだますし、偽るのだ。それがまんまと人をだますプロの手口である。それが人をだます秘訣なのだ。
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「そこが知りたいのが本音」
操体法の考えではこうである。
症状、疾患とは、からだの異常を示す警告=サイレンとみなしている。このサイレンそのものに放水しても延焼しつづける。この警告は火元であるボディの歪みそのものが火元になっている。その火元に放水しなければ鎮火しない。なぜ火元がボディーの歪みなのかというと、どのような症状・疾患たるにおいても、その全期にわたって、ボディーの歪みが発症以前から発生しているのだ。症状・疾患のレベルが上がるほど、局所の歪みが全身に波及し、より歪みを歪体化する。しかし、ボディーの歪みを正すと言えども、その歪みがどこから手をつけていったらよいのかが、わかりにくいのだ。又、必要あって存在している歪みもある。
そうしてみると、それらの症状や疾患と直接関与している歪みが知りたい、確認できないものかと考えるのが臨床家である。この火元で言えば、火元のどの火種が、その症状・疾患と関与しているのかが知りたいのである。多くの臨床家は、それが知りたくて、長い臨床経験を積むのである。そこが知りたいのである。それでも、つかみきれずに現役から身を引いていくのである。この火種が理解できれば、臨床に無駄がない。なぜ無駄がないのか、それは、からだの治し方、治り方が見えるからである。この火種の歪みが修復されてくると、全身形態の歪みまでもが正体化されてくるのである。
火元に放水しても火種そのものを直接放水する必要がある。そうすれば、くすぶり続けることなく鎮火する。現在まで、火元の存在を認めても火元の中の火種までは理解できなかったのである。
どの臨床家も、この火元のなかの火種が知りたくて、四苦八苦しているのだ。 -
「色紙」
今週に入って、朝の目覚めが一段と早くなる。そして平均化している。その日を待ち望んでいる目覚めですネ。
昨日、今日と外は雨まじり、よっぽど寒いのかなと思い、防寒着をまとい、闇の外に出たものも、かなり外気は暖かい。とてもホッとする。昨夜からフォーラムで配布する色紙に書き込みを入れる。今回はふとした思いつきで、趣向をかえてみる。一つは、クジラの尾ビレを数十本抜き取って筆(ふで)にして書き添えたものと、紅葉して舞い落ちた落ち葉をモチーフに、それをカラーコピーに複写して色紙に貼りつけ、その上から想いの言葉を添えてみた。ふとした思いつきで急遽やってみたことなので、どうかなと思うのだが、・・・・参加者が多いのはうれしいことだけど、その分色紙の枚数が増えることまで考えになかった。まだ人数が確定できないので、おおよその見当で一枚一枚仕上げている。
まだその三分の一もできていないのだから、皮算用してもはじまらないか・・・・。毎年色紙に添えている言葉は、どうしているのかというと、そのネタは一年365日書き込んでいる日記帳の中にしまい込んである。
それと、色紙に向かっている時に浮かんでくる言葉が三分の二ほどあるんですよ。つまり、「旬の言葉」ですネ。旬のものを添えられるのが一番いいと思っているけれど、色紙の数ほど湧き出てくるわけじゃないから・・・。
色紙は、人生訓あり、体験や経験の中からつかんだこと、失敗談から得たものもあって、私自身色紙を書いていてたのしい。それに、命、その生命に意識をおいていると、生命そのものから頂ける言葉、感じてくる言葉も拾えるんだネ。この命に意識をむけると、まだ知らない言葉がたくさんあるんだろうなと思う。とにかくネ、四六時中操体のことを考えていると、どうでもいいようなこと、不要なことは滅多に入ってこないものなんです。雑音っていうのでしょうか、雑念がないんですよ。ですから、僕自身、自分の内なる自分にかなり忙しいんです。何か、たくさん意識の中で脳細胞を、頭を使っているんですネ。この生命には私自身が創造(つくり)出した条件なるものは元々無いのですから、つくり出されてあるものを、そのまま有難く頂いているだけなのですから、その気なら、なんでも手に入るようにできている訳です。無条件で無限なる有難きものが生命ですから、いかにこの生命(イノチ)といい関係でいるかですネ。人間関係とて、いかに自分との信頼関係を保っているのかということなんですよ。自分が好ましい状態にあることが一番大切なことなんじゃないかな。自分のことや他人のことで怒りを覚え、爆発させることもあるけど、腹が立つのだから怒りは怒りでいいよ、しかし、後に引きずらないように、私は後で自分に謝る。「ごめんなさい」ってネ。その想いが怒りなんだから、謝ってしまえば怒りは消える。怒りを正当化すればするほど怒りはおさまらない。
















