カテゴリー: 三浦 寛(みうら ひろし)

  • 楽と快(5)




    楽ヘノ問イカケハ操者ガ治ス欲求ヲ満タシ、快ヘノ問イカケハからだガ治ス要求ヲ満タス

  • 楽と快(4)




    楽ハ干渉シテクルモノ、快ハ干渉シナイモノ

    楽ハビフテキのヨウナモノ、快ハ呼吸のヨウナモノ

  • 楽と快(3)





    楽ハ相対的基準ナリ
    快は絶対的基準ナリ

    楽ハ欲性ナリ
    快ハ必要性ナリ

    楽ハ肉体的相続
    快は神性ヲ相続スル

  • 楽と快(2)






    楽ハ人間意識
    快ハ生命意識

    楽ハ横軸のスピン
    快ハ縦軸のスピン

    楽ハ現象デアリ
    快ハ空間デアル

  • 楽と快(1)


    楽ハ相対的基準ナリ
    快ハ絶対的基準ナリ

  • 人生のパワースポット 愛と性(2)

    私が知る家族のなかに、ハネムーンベイビーで生まれてきた子供がいます。子供が云々と言っている訳ではなく、お母さんと良人(おっと)のことです。その女性は、幼稚園から大学まで、カトリック系の学校を出ていました。モラルという点では、かなり厳格な環境で育っています。女子の学校ですから、今のように合コンとか、そんな男女のオープンな場もなかった時代です。だからといって初恋もなかったとは言いませんが、せっくすなしのまま結婚、そのハネムーン先で初体験、そして妊娠、出産、育児、つまり母親になってしまったのです。その初夜からせっくすの歓びを得られる訳にはいかないのです。彼女にとっては、苦痛以外のなにものでもなかったのです。今でも拒否しつづけているそうです。夫婦といえど、自分が求めていないことを要求されるのは、苦痛以外のなにものでもないことですネ。
    通院している未婚の女性のなかに、せっくすの経験が無い患者がいます。いろいろな自覚症状をかかえ込んでいて、その症状が、ただ肉体的なものばかりではなく、心の問題もあるのですが、からだはせっくす適齢期なのに、それが無い、本人も恋人がいる訳でもなし、結婚したいという気もちもない、からだの機能、女としての生理がない訳でもない。毎月あるようです。臨床的改善がなされているにもかかわらづ、もう一息突破できないもどかしさを感ずるわけなのです。この女性がせっくすの歓びを知ったら一気に改善されるんだがなァーと思うことがあります。愛と生のなかでのせっくすが一番の妙薬なのですが、性、そのせっくすカウンセラーが必要なのかもしれません。

    ある本を読んでいました。ヨーロッパの国の事情をエッセイに書いたものです。ヨーロッパ人と言っても、ヨーロッパの国にはさまざまな国の人達や宗教が混沌としている訳で、まァ、大変といえば大変な事情があるようです。その一節のなかに、結婚、離婚、そして再婚をくりかえす女の話がのっていました。結婚、再婚をくり返すたびに、その男性の子供が生まれています。その子供(女の子)も成長していく訳ですが、その娘も15、6歳になり、母親のその生き方を冷ややかな目で見ているのです。そんな母親をみて「ママは男を変えても同じ微笑みをくり返している」つまり、男をとっかえひっかえしても、何も変わっていないということなのです。なぜ結婚に失敗したのか、また何故再び結婚する自分があるのか、わかっていない、ということです。相手に変化を求めるが、自分は全く変わりもしなければ人生の学習もしていない、ということですネ。何回結婚しても落ち着くことなく、また離婚してそのうち老いていく。自分が再婚をくり返すなかで、変わっていかないと、ふしだらな生と性にうずもれてしまう。

    近年、同情結婚がはやっているらしい。これは欺瞞的な愛と生のようである。同情が愛なのか。
    以前は友情結婚がはやったらしい、友達感覚をそのまま夫婦の形にしてしまっている。マァ、よりどりみどりである。
    小生、学生の頃、くそまじめで退屈な授業を放棄して、北海道小樽の朝里温泉整形外科で入院患者の物療(リハビリ)のお手伝いを数ヶ月続けていた。若いのに気の毒だなァという気もちが、いつしか同情になる。ただ、機械的に無機質な作業を毎日くり返している訳でもなく、言葉を交わし、情を交わしている訳ですネ。そこに特殊な得体の知れぬ感情がわいてくるのです。それが、相手を理解していくうちに、好きなのかなという感情がわいてきて、ハンディーをかかえているいないに関わらず、それが、好きという私の好意感情なのか・・・・。「同情と愛をとりちがえてはいけないよ」と言われたことがある。ハンディーを乗りこえて育てていく愛と生が自分の中にないと、その愛はこわれやすい。たやすく混同してはならぬのだ。混同してしまうといえば、若さとはほとばしるせい欲があり、意中の異性がいれば、なにが生でなにがせっくすなのか、わからない自分にさいなまれる。このオレの、女性にむける愛は、オレのせい欲のはけ口になるのか、いやそうじゃない、愛しているんだ、どっちの生(愛)でどっちの性(せっくす)なのか、精神的に葛藤する生と性がある。プラトニックの生があり、性欲の性があり、本当に悩ましいのである。ただし、その生も性も、本人にとっては生か死か、命がけなのだ。この生も性も正論で正しいのだ。ただ相手あってのことで、コントロールが必要(自我自制、ブレーキとアクセル)むやみにつっぱしればいいというものじゃない、相手を傷つけ、相手の人生を狂わすこともある。

    ところで皆さんは、60を過ぎた私のせい(せっくす)が知りたいのでしょう。子供づくりのせっくすは卒業し、人生の営みの一部、人生のうるおいの中にある「せっくす」であって、実際にまだそのせっくすも可能である。十分機能もする。パートナーを口説くにも、性欲のための口説きにはならない。互いの人生を認めあうような癒しのせっくすでしょう。ゆとりの中での交わりという境地でしょうか。いくら心が若い、肉体が若いといっても、老いていくわけですから。

    何か書き残していることを思い出しました。今、若い人達のあいだで「めんどくさい」という言葉を耳にします。めんどくさいということは、つまり己の人生に反応できないことで、その営みにある性にも反応できない、つまり無気力な姿を写し出しているのです。めんどくさい、という感情があれば、何をやってもこれまーでよ、です。おしまいです。人生においてもめんどくさい、生きるってこともめんどくさい、せっくすもめんどくさい、パートナーを思いやる、それもめんどくさい。靴下を脱ぐのもめんどくさい、パンツを脱ぐのもめんどくさい。まさかパンツはいていたすことはできません。脱ぐ前にはかなきゃならないことを考えただけでもめんどくさいじゃ、何もないじゃないですか。そのうち一緒にいるのもめんどくさくなりますネ。かといってひとりぽっちでは寂しすぎる人生ですネ。頭のなかだけのことであれば、いくらでも女性をハダカにして、いくらでもワイセツなこともできる。
    まァ、骨になるまで考えることがないってことかな。ではこの辺でおわりにしますか。バイバイ。

    私のブログの後は、三浦が担当します。本人が言い出したことで、その顛末はいかに・・・です。私の知ったことじゃねェと突き放すこともできずですが、まだまだ未熟者(人生経験がゆたかじゃない)ですから。ただ本人は真剣に向かい合っているようですから、ゲキを飛ばして下されば幸いです。

  • 人生のパワースポット 愛と性(1)

    運動生理学という分野は、性の生理学といふのだそうです。量子力学、別名筋運動主因性流動波動の原理、とも言うのだそうです。物質的に言えばガソリンオイルの循環とも言うのでしょうか。スイッチがONになって、作動、発信が可能となります。
    だだ、性とは、相手(パートナー)を必要とします。一人での営みは性とは言えません。以心伝心、気ごころ、パートナーの合意があってのことです。パートナーシップです。目に見えない、意識の波動が、まづ、存在するわけです。性に対する意識の波動ですネ。
    ところで、性=せっくす、なにか連想、イメージが異なるのですネ。性とせっくすとでは。性の中には品性、食性、主体性、相対性、人間性、霊性、循環性、相関性、相補性、連動性、といふように、あらゆる言葉の意味につかわれます。ですから、性=せっくすに直接結びついてこない訳であります。
    いったいせっくすとは何語なのでしょうかネ。早朝からこんな愛とせっくすについてレポートしているのですから、幾何学的な、硬い、硬い話になってしまっても仕方がない。文学的な表現も必要なのですが・・・。
    空間波動の営み(エネルギー)が、形となって、現れる現象が、愛と性なのでしょうか。形のない、不可視なる、命にその素材が含まれていた、自在してあったといふことなのでしょう。生命は呼吸し、動的波動の中で、生の営みをくりかえしていますから。そこにせっくす、動物の世界では交)、植物の世界では交配、という営みが存在します、人間の性がせっくすで、動物のそれは「こうび」と言いますが、なぜせっくすとは言わないのでしょうか。こうびとせっくす、なにか行為は行為なのですが、言葉のヒビキが違う気がしますネ。人間が言葉で同じ行為を使い分けていることも、面白い。
    動物が発情期をむかえる季節に入ると、涙ぐましい愛のセレモニーが展開します。オスがメスの気を引くあのお勤めは、全身全霊、命がけなんですネ。人間の男どもは、動物に見習う必要がある。
    動物は快楽のために交尾する訳じゃない。そこに本能的な種の繁殖という目的があるわけです。人間のせっくすは子孫を残す(産めよ、増えよ、この地に満ちよ、です)。残す為の行為がせっくすです。せっくすしなければ残せないのですから、ヒトの場合。女性では、年齢とともにあるものが止まっても、せっくすは可能な訳で、こうなると、動物のそれとは意味合いがちがってきます。互いの愛をかわす手段としてのせい欲のせっくすです。それは健全である限り、じいちゃんばあちゃんになってもある訳で・・・。子供をつくるゆえのせっくすとは遠く離れたせっくすですネ。ただ男はエレクトしなくなっては(生理的勃起状態)いたすことができない、ということです。機能的に役に立たない現象です。年齢にかかわらず、人間には精神的作用が加わってきますから、機能不全といふことも、当然おこってきます。女性が妊娠すると、性そのものも変化します。一人の女性としてのせっくす(性欲)ではないのです。胎教が10ヶ月以上続く訳で、母親に変身します。子供が生まれると、子育てに追われ、性の歓びは一時中断です。おとうちゃんとの交わりは二の次、三の次、それどころではないのです。その歓びは子供にそそがれるのです。
    おとうちゃんとのせっくすは、当分おあづけです。もんもんとするせい欲は、別のコトで解消しなければなりません。それに関しては、自慰行為でおさめることも必要です。
    まあ、このご時世、男が女性化している時代でもあり、このせっくすに至っては、色とりどりで、夫婦であっても子づくりなし、性欲なしの夫婦もいます。

    せい欲は男女平等にある訳なんですけど、男はせっくすにしても、快感の極至(きょくち:操体用語です)で射精をむかえ、機能します。我が子もそれでなえてしまいます。女性のそれは、その快感リズムが引いては訪れ、海辺の波と同じリズムをくり返します。その器は呼吸し、その快感のリズムが収縮と弛緩をくりかえす。絶頂に入ってくると、その器は収縮力を増してくる訳で、男もその行為のなかで、放水するということになるのです。その際、お互い絶頂のリズムが一致するのが最絶頂の極至を共有するという歓びなのですが、男は待つこと、共有することが難しい、というところなのです。パートナーを置き去りにして、自分だけいっちゃうんです。ここがせっくすの難しいところです。ところでオイルの潤滑ですが、この潤滑がないと、せっくすも歓びではなく、物理的接触の最大不至(ふち)を迎えます。快感どころではなく、不快の極みです。こんなこと、やってられっかー、となります。つまり、うるおって濡れてこなければせっくすできないのです。パートナーの女性のオイルです。それが、性感帯にスイッチが入り、その器にオイルがまわって、愛液で満たされていなければ、男の欲求もせっくすの欲求も満たされない、ということです。女性は満たされていくことによって、全身は弛緩しますが、その器は収縮のリズムを高めてきます。「チツケイレン」という名称がありますネ。ケイレンの程度にもよりますが、その行為において、それが起こりますと、男のそのものは、激痛そのものなのだそうです。男にとっても女性にとっても、物理的刺激の最たる快は、せっくすの時の絶頂感なのですから、精神的にもすべてを忘れて全解放の時なのですから、そこに、何かの衝撃によって、生理的ケイレン状態が発生すれば、その収縮力は、オルガニズムのその絶頂の収縮力とは異なる訳ですから、最大苦になる訳です。

    それで思い出したのは、その器を取り囲んでいる筋肉をみると、なんと8の字の筋の束、構造になっていることなんです。8の字の筋肉がケイレンすれば、どれだけの収縮力、収縮圧が加わるのか、ということです。そのオイルの潤滑も、8の字の筋肉の収縮によってその器がうるおって、その器に血液があつまり、燃え、その器もぬくもりを増してくるのです。オイルがまわるとは、その器だけが濡れてくるのではないのですネ。涙腺もゆるんできます。内耳の粘膜もしめってきます。鼻の粘膜もしめってきます。唾液もふえます。心身ともに健全ですと、乾燥していないんです。みずみずしいのです。体調リズムがくずれ、症状疾患におちいると、乾いてくるのです。乾いてくると刺激をよりうけますから、そこに不快がともないます。せっくすするという行為において、それ以上にうるおいが必要なんですネ。乾いた器には、挿入不可能です。

    そうなると、男は、せっくすする前に、女性のからだがうるおうように、さまざまな作業が必要になります、用語で言えば、前戯ということです。それを省略するということは、つまり、ろくに診断もせづに、治療行為に及んでしまうというバカげたことと一緒です。目的に到着するプロセスを無視してしまっている訳ですネ。
    男のそうした無知が、女性の不感症を引き起こしているのしょうネ。せっくすにおいても、そうですが、相手あってのことですから、まづ相手を優先すること、その気が上昇するまでは、相手のからだと心を満たしてあげることが必須でしょう。満たしてあげなければ、与えられないのです。これを循環の法則、と言います。調和するには、循環のプロセスが大切なのでした。

    その絶頂の際、女性はさまざまな言葉を発するそうです。男はうなるだけのようだとも聞きますが、例えばイク、という言葉、イクとは死ぬ、天国に行く、遠いかなたに飛んでいく、我、自我がない、自分がいない、未知なる世界が「イク」の意味とも解釈していいのではないでしょうか。そうしてみると、男の「イク」は、一瞬の現実なんだなァと思います。
    臨床でいえば、治療の後、即効的な効果があったとしても、その効果が持続しない、長持ちしない、その場限り、とでも例えて言えることじゃァないですかネェ。それは先に述べた、診断もせづ、いきなり治療行為に及んでしまう、というその結果と同じですネ。ですから、診断もせづ、治療するのは単なる慰安行為だと、治療じゃネェと公言する先生もいるのですから、それは多いに公言すべきだとおもいますよ。

  • 「時節到来」とそのつながりについて(4)

    バカモン!と説教されて、納得、納得。これでスッキリした。怒ることなんて一つもない訳である。もし怒るのなら、慢心、邪心があるからであろう。

    「らく」から「快」にギアチェンジして1年、2年と歳月が流れ、1つ1つ整理し、まとめていきました。そこでまた、時節到来の運気がめぐってきました。今は亡き、柏樹社の社主、中山信一社長から、本を出版するようにすすめられたのです。「橋本先生には、話をつけ、了解していただいてあるから、思う存分書いてみなさい」とのことでした。中山社長は、私の言動をじっと見て下さっていたのだ。
    その依頼から1年後、正師の卒寿(90歳)の年に完成、師にお渡しすることができた。正師は「これでいい」と言って下さった(私39歳であった)。

    操体法治療室―からだの感覚にゆだねる

    操体法治療室―からだの感覚にゆだねる

    この年は創元社から「生体の歪みを正す」が出版されている。この本は出版までに、なんと10年かかっている。創元社のトップが難色を示し、ストップがかかっていたのだ。正師は編集の保坂氏に、何度も出版を急ぐようお願いしたようである。

    時節10年目にして、正師の念願かなふ。正師90歳。待ちに待ち望みつづけたこの一冊。目にするたびに霊気がはしる。私は師よりこの本を2冊いただいた。その1冊の裏表紙に、言葉をのせていただいた。一見、何を残されたのか。たどたどしい字である。よくよく師の字体をなぞってみると、「三浦君、あとは頼む」と書いてあった。
    ふるい立つ想いで、目にしたのである。

    生体の歪みを正す オンデマンド版―橋本敬三論想集

    生体の歪みを正す オンデマンド版―橋本敬三論想集

    処女作「操体法治療室」が、でき上がりました。しかし出版にあたって、正師の身内から、クレームがついたのです。はじめに取りつけ了解ずみであった約束ごとが、ことごとく破棄されたのです。、監修から正師の名がはぎとられ、「タイトル」も、改題されてしまいました。その上、正師の本棚に置いてもらえなかった。本心、心底くやしい思いがしましたネ。くやしくてくやしくて、なんでこんな「仕打ち」が待っているのだろうかと。でも、これも一つの大きな試練で、自分が試されているんだなと、思いました。

    しかし、その無念のくやしさが、また時節到来の運気を運んでくれたのです。その後、次から次へと出版のチャンスが与えられ、十冊以上になってしまっていたのです。どうですか「つながっているイノチがあるじゃないですか!」

    そしてさらなる時節到来がめぐってきたのです(1999年、当時50歳)バラ研(全国操体バランス運動研究会)の全国大会を東京で開催したことでした。東京での開催は、16年間なかったのです。会場は早稻田大学の国際会議場の大ホールでした。下見をして内心おどろきました。ゆうに、千人以上が入れるホールなのです。
    ウーン、この会場をうめることができるのかと、背筋がゾーッと凍りつきました。私は亡き師に「師も望んで下されば、命がけで、やりとげますから、力を貸して下さい、見とどけていて下さい」・・・・と。そのかいがあって、二日間満席の状態だったのです。

    さらに時節到来の運気は連鎖していく。それは東京操体フォーラムの設立だ。すでに10年になる。昨年から京都でも開催、スペインでもセミナーが開催されるまでに育った。
    その間、他の分野で活躍される指導者を講師に招き、「一つにつながっていく」という目的が成されるようになってきた。この中には、お互いに学びあえる素材がたくさんある。それは感無量の歓びである。この無量の歓びを共有していくことも、時節到来の気運が巡ることにつながっている。フォーラムに招いた指導者は、意識の世界でぶっ飛んでいる人達だ。ぶっ飛んでいる人達とつながっていくことは、一人一人の人生にとって大きな財産となる。
    静かに暮らし、コツコツと静かな汗を流し、そして涼しげな顔をした人達である。
    本物でした。


    新田和長氏(ドリーミュージック エグゼクティブプロデューサー)と。


    平直行相談役、島津兼治先生、さがゆき氏と共に

  • 「時節到来」とそのつながりについて(3)

    楽への問いかけは、操者の指示によって、管理されていることがわかってきた。
    楽への問いかけにおいては、それでよかったのだが、快のききわけについては、間に合わない。快のききわけの中では、操者の決めつけ(マニュアル通りの指示)は、リスクであることを知る。その行程の内容、問いかけを、改めて変えていく必要があったのだ。
    らくか、つらいかという問いかけの鋳型(イガタ)に、快の問いかけがおさまるわけがない。快の問いかけがおさまる鋳型を体系化していくことが求められていることが、はっきり理解できたのである(快の器には、らくはスッポリとおさまるが、らくの器に快はおさまらない、ということなのだ)。
    「楽」と「快」。からだはどちらを選択し、要求してくるのかである。操者はその認識をきちんと整理し、確認しておく必要がある。その認識がないようでは、「快」のステージに入ることはできない。

    からだの、その選択のききわけは、わかってしまえば簡単でした。被験者にキーワードを与えてみるのです。「からだにききわけて」が、そのキーワードです。
    「からだにききわけて、教えて下さい」・・・と、この問いかけによって、被験者の意識にスイッチが入り、「楽」と「快」の分別が可能になるのです。このキーワードをとおしてみると、からだが選択し、要求してくる感覚がみえてきます。からだは快を選択し、要求してきます。
    なぜですか?
    からだには楽という識別コードがないのです。ですから、楽に対して反応できないのです。

    ですから、「らくかつらい」かの問いかけ(第1分析)においては、被験者本人に指示を与えるか、確認するかで「からだの要求感覚」をききわける、とうい問いかけが、欠落しているのです。
    楽からステップして次なる快のステージは、本人の要求を満たすことではなく、まづ、からだの要求感覚をききわけ、満たしてあげることなのです。そもそも、この「楽」という感覚は、人間だけが勝ちとった、特殊な感覚のようです(勝ちとった、というより身につけてしまった特殊な感覚)、自然界には存在しない、自在するものは、快だということ、この快とは、バランス感覚、つまり調和するということです。

    ついでですが「欲」も自然界には存在しません。4つのバル「バルの戒め」ですネ。「頑張る」「欲ばる」「いばる」「しばる」です。無いものを身につけてしまうと、対立をよび、執着し、迷いを生じます。

    先日、4名の合同レッスンがありましたが、実行委員の山野氏が、黒板に
    カンノンサマ → 観自在 → 観世音菩薩 → 観自在菩薩 → 施無畏者(おそれることなきをほどこす)→ 快(全てはこれ快なり、楽ごとじゃない)
    これは仏道の教えを説いているのですが、「おまえたち、こんなこともわからづにいきているのか、バカモン!!カーツじゃ!!」と天界から説教されているようですネ。

  • 「時節到来」とそのつながりについて(2)

    私は、今こそのんびりとした診療をつづけているが、若いころの私は、臨床の虫であった。臨床が好きで好きでなめまくっていた。師からいただいた、動かして診る、という診断が大好きであった。
    修業時代からゆうに44年間、動診の世界をたのしんでいる。からだの構造(ツクリ)を操ることに関しては、見えない動きまでみえてしまう。からだの動きには、人格がある、んだと公言したのも私自身である。
    しかし、1976年、大きな転機が訪れる。「楽から快にシフトチェンジせよ」という正師のメッセージであった。操体法そのものの、大きな転機であった。
    大改革がなされたのである。楽から快へスイッチを入れかえよ」とのご命令なのだ。
    当時、その正師のメッセージに、数いる多くの誰が反応したかである。
    反応そのものが、また大きな時節到来の運気をつかんだことになる。
    即反応すること、キャッチすること、それが時節到来の運気を運んでくる。私は即反応した。そして5年後、処女作「操体法治療室」に快にといかけた診断と操法の体系化を記した。正師はこれでいいと言われた。しかし、その多くの学び人は反応しなかった・・・・いや、できなかったのであった。その多くの人達が師の話を耳にしていながら、師の話を聞き逃していたのだ。
    師は、その多くの人達に「託した」のである。このメッセージに反応しろと。
    その多くの者が、その言葉にためされたのである。やっているなら、このメッセージに反応しなさい・・・と。ここで反応したものと、反応しなかったものとの、その後の学びに、大きな落差が生じてもそれは「のるかそるか」の選択なのだ。27年の空白、正師もさぞ歯がゆい思いの中で、この事実を黙認したにちがいない。・・・やっとここ数年来、今になってうすうす気づきかけて来て、楽とは言わなくなった。ただ言葉上、「楽」から「快」にスイッチが入っただけで、動診-操法には、生かされている状態ではない。
    人は一度つかんだものは、あの世までもっていく。つかんだら離そうとはしない執着である。同じことを学んでいても、自分が理解できないことには、フタをするのだ。つまり無視してしまうのだ。半歩でも一歩でも踏みだす勇気がないのである。
    師のメッセージを解読するのに5年の歳月を要した。そのメッセージに反応したが、頭の中が真っ白になるほどの衝撃であった。師が言われていることの意味が理解できなかったのだ。「楽と快の認識」が全くなかったのである。それから5年、「楽」から決別し、「快」への新たな決断を成す。この決断と勇気と、その試練をのり越えることも、時節到来の金を運ぶことになる。
    楽への問いかけを一切なくす。それは愛に通じる勇気ある決断である。一年一年集中したすると第1分析(楽)の全貌その流れや水位が読めてきたのである。動診が操法にいたる行程すべてが操者側に管理されていることだった。