投稿者: karib_sotai

  • 操体法東京研究会の講習で、何を学んでいるのか(4)

    私が操体法東京研究会で学んだのは「教室と生徒」という関わりではなく、橋本敬三先生と三浦寛先生がそうであったような、師弟関係だ。
     
    東京操体フォーラム実行委員の中にも、全国操体バランス運動研究会国に師匠と同行したとか、一緒にスペインに遠征したとか、南会津の伝統療法カンファレンスに参加したとか、三茶での講習以外にお供をした人もいると思う。
    そういうのも、いい勉強になる。
    というか、そういうことが、コツを掴むことに繋がるのではと思う。
     

     
     
     
  • 操体法東京研究会の講習で、何を学んでいるのか(3)

    東京操体フォーラムの実行委員メンバーは、長い人だと21世紀になる前から、操体法東京研究会の講習に参加している。
     
    (東京操体フォーラム実行委員メンバーは、この講習の受講者から選定される)
     
    その中には、ずっと個人レッスンを受けているメンバーもいる。
     
    ベテランほど、勉強している。
     
    何を勉強しているのかというと、
    変わらない本質と進化するアプローチ法だ。
     

  • 操体法東京研究会の講習で、何を学んでいるのか(2)

    かしその後、三浦先生と出会い、自分がやっていたのは「快方向に」と言いつつ、楽な方に動かしていたことがわかった。
    勿論、圧痛点に触れ、そこが最大に緩むところに関節を持っていき、かるくたわめて脱力させる方法は、絶大なる結果を出していた。
     
    私は、三浦先生の実技(その頃、すでに渦状波が誕生していた)を見て「楽」をとおす場合と、「快」をとおす場合の動診の違いを見てしまったのだ。
     
    また、現在私は「足趾の操法」を教えているが、その中に「趾廻し」(ゆびまわし)というものがある。
    他の「ゆらし」「落とし」「揉み」は、橋本敬三由来のものだが、「廻し」は、私が習ったものを研究に研究を重ねたものだ。
    最初私が習った時は、足の指を外回しと内廻しに回してみて「どちらがきもちいいですか」と聞いて、快方向に回す、と習った。
     
    その後、私は三浦先生に足指廻しを行うチャンスがあったのだが(弟子入り前)、その時、今考えると非常に恥ずかしいのだが、よよりによって三浦先生に
     
    「内側に回すのと、外側に回すのは、どちらがきもちいいですか?」と聞いてしまったのである。
    無知って本当に怖い。
     
    三浦先生は、さすがに当時は自分の受講生じゃなかったので、アホなやつだなと思ったと思うが
    「どっちもきもちいい」と答えた。
     
    その時、私の中で「なるほど」と、電気がついた。
     
    それまでにも、クライアントに「どちらがきもちいい?」と聞いて
     
     
    「う~ん、わかりません」と言われることが多かったのだが、これでその理由が分かったのだ。
    そして、三浦先生が、出版されたばかりの「快からのメッセージ」に書いていた「楽と快の違い」というのが直感的にわかった。
     
    私のレーベンス・テーマは「楽と快の違い」になったのである。
     

  • 操体法東京研究会の講習で、何を学んでいるのか(1)

    ” data-en-clipboard=”true”>こんにちは。畠山裕美です。1週間宜しくお願い致します。
    ” data-en-clipboard=”true”>私がはじめて操体法の講習を受けたのは、操体法東京研究会ではない。
    後で知ったのだが、三浦先生の受講生の受講生だった先生に習っていたのだ。
     
    というか私は元々『操体法治療室』の、三浦先生のパートを読んで、操体を学ぼうと決意したクチだったのだが、
    いかんせん当時は情報も少ない。三浦先生は講習の広告を「医道の日本」誌にしか掲載していなかったのだ。
     
    また、操体の全貌が見えていなかったので、誰に習うのがベストなのかよく掴めていなかったし、まずは通っていた学校の
    特別ブログラムで操体法を習うことにした。これが私の最初の『操体法の講習』経験である。
     
    お陰様で、私はこの講習で、いわゆる「連動操体」的なものをマスターした。
    3年くらいで、他者に指導できるくらいになった。
    いわゆる「狙い撃ち」的なもので、実際私のところには、道場破り的な輩や、どんなものか見てやろう的な輩が日本中からやってきた。
    大抵は、操体の効果を目の当たりにして、驚き、勉強します、ということになった。
     
    これが1998年くらいのことだ。

    駒場の蓮
  • 何を学んでいるのか・・・7

    おはようございます。

     

    今回のブログ担当も最終日となりました。

    今回のテーマは「何を学んでいるのか」でした。

     

    私も本格的に操体を学び始めた頃は、疑問形で「何を学んでいるのか?」と考える事が多かった。

    それでも、その疑問形は学び続けていくうちに「本物を学んでいるのだ」という確信に変わっていった。

     

    しかし、本物の学びとか、本当の事とか真実とか真理というのは、隠れてしまいやすい。

    よっぽど、恥ずかしがり屋さんなのだろうか?

    いや、違う。自分の心が隠してしまうのだろう。

    自分の心の中にある、自分の我やエゴ。

    自分の我やエゴは、自分を常に支えてくれているからだをはじめ、自分を生かしてくれている有難い物事を、当然としてしまうところがある。

    有難さを当然として、傲慢になって勝手都合よく前に進んでいれば、必ず綻びが生じる。

    特に健康に関しては、そう言えよう。

    有難く生かされている中に真実や真理がある。

     

    そうはいっても、今の社会環境への適応ばかりに目がいき、忙しい日々を送っていると、自分の我やエゴが大きな位置を占めるようになってしまっている事もある。

    「何を学んでいるのか」と心の中で自分を叱咤し、自分の心のなかの我やエゴを自覚して懺悔する。
    そして、それでも有難く生かされている事に感謝し、激励される。

    そうした間もあって良いと思う。

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。
    来週は畠山裕美先生の担当となります。
    どうぞ、おたのしみに。

    友松 誠。

  • 何を学んでいるのか・・・6

    おはようございます。

     

    朝、テレビ番組のニュースを見ていると、最近はAIによる自動音声でニュ―スを伝える場面が多くなったように感じる。

    人間のアナウンサーが端と端に2人いるのに、わざわざAIによる自動音声でニュ―スを伝えている。

    数年前ならば、自動音声というと何かロボットじみた喋り方で違和感があったが、最近のはテロップの説明がなければ、人間が喋っているようにも聞こえる。

    AIの学習能力に感心しつつも、アナウンサーがいるのにAIにやらせている事に対して、「アナウンサーはちゃんと仕事しろ、受信料払わんぞ」と、どこかのオジサンからクレームが入らないのかと少し心配にもなってしまう。

     

    AIによる自動音声でニュ―スを伝えるメリットには、番組の時間尺どおりにニュースを読み上げられる事があるという。

    そして、アナウンサーもただ原稿を読むだけが仕事ではなく、その前には番組制作の為の打ち合わせや現場取材もしなければならない。

    一部のニュースをAIに任せることで、様々なメリットがあるという。

    なにしろニュースの制作担当者一人とパソコンがあれば出来てしまうというのだから、業務の効率性は高い。

     

    AIアナウンスの質は向上しているが、それでも人間にしか出来ないアナウンスは多いという。

    突然入ってきたニュースへの対応、刻一刻と状況の変わる災害情報への対応、個人的な感想を述べたり、専門家の話を聞きながらの進行など。

    まわりの環境変化を感覚的に捉えて、上手く適応しようとする事。

    デジタル的ではなく合理的でもなく映っても、人間味が感じられ、その人間味ゆえに記憶に深く刻まれる事も多い。

     

    人工知能にはない、生身のからだを持つ人間にしか出来ない事を高める。

    操体も勿論そうだが、どう時代が変わっていこうとも、人間である限り人間にしか出来ない事を高める学びは必要だと思う。

     

     

  • 何を学んでいるのか・・・5

    おはようございます。

     

    誰でも自我がある。

    自我があるから人間なのだという人もいるだろう。

     

    自我については様々な捉え方がされるが、他者や外界から区別して意識される自分という意味で捉えてみる。

    そうすると、自我というのは自分が自立する為に必要なものではあるが、本来の目には見えないけれども大切なつながりというものを、なにか遮断してしまう作用があるのでは、と感じてしまう。

     

    このつながりの遮断というのは、生命の存在や、その存在がいかにして健康でより良く生きていけるか、を学ぶ上では障壁となってしまうように思う。

    自分ひとりで生きているわけではない。

    自分ひとりで生きているつもりでも、それは自我の世界であり、本当は他人様はおろか、ありとあらゆるものから生命エネルギーをいただき、生かされて生きている。

     

    ありとあらゆるものから、どう有難く生かされている生命なのか。

    ありとあらゆるものから、頂いているものをどう有効活用している生命なのか。

    その活用を最大限に高め、生命エネルギーの収支バランスをとっていくには何に着目するべきなのか。

    何がバランス制御の原動力となっているのか。

     

    こうした学びを続けていると、自分の我というものはいわゆる二の次にした方が良いように思えてくる。

    素直な感覚が重要なのであり、有難いと素直に感じられた事というのは、自分も共感、共鳴している訳なのであり、自分の主義主張もそこに寄せていくべきなのだと思う。

    天に唾して生きてはいけないのだから。

  • 何を学んでいるのか・・・4

    おはようございます。

     

    操体の創始者、橋本敬三先生の遺された色紙の数々には、「調和を探る」という言葉がよく使われているように感じる。

    操体の学びは、「病をやっつける」というような、相対対立して病という悪者を攻撃するやり方を学ぶものではない。

    病はバランスの崩れの表れなのであり、バランスの崩れをいかにして調和に導けるかを、学ぶべきなのである。

     

    痛い方から痛くない楽な方に動かして診る第一分析から、動かして気持ちよさをききわける第二分析へのシフトアップ。

    このシフトアップは、単に言葉が変わっただけのものではない。

    調和という観点から捉えれば、より全体的となり調和の範囲は広がり、質も密になっているのだ。

     

    動かして気持ちよさをききわける第二分析が公開されて、二〇数年が経つ。

    この二〇数年の間にも、三浦寛先生によって診断分析法は進化してきた。

    そして現在では、新重心理論が提唱されている。

    新重心理論によって、調和の範囲は更に広がり、広がるだけでなく質もより密な結びつきになると感じる。

    その調和は、個としての全体的調和の範囲を優に超え、時間、空間との関わりにも及ぶ。

    これは、何を意味するかというと、真に健康で長生き出来る事につながるという事。

     

  • 何を学んでいるのか・・・3

    おはようございます。

     

    治すのは、あくまでからだである。

    バランスを崩し、不快症状が生じている状態でも、からだは本来のバランスに戻ろうと働いている。

    イタイ、ツライをはじめとする気持ち悪い感覚も、本人にバランスの崩れに気づいてほしくて、協力してほしくて発しているサインでもある。

    そのサインに早めに気づき、不快なバランス状態から、からだの悦ぶ気持ちの良いバランス状態にしていける程、病からは無縁でいられる。

     

    操体の創始者である橋本敬三先生は、晩年に「気持ちよさを(からだに)ききわければいいんだ、気持ちよさで治るんだからな」という言葉を遺している。

    橋本先生の現役時代に行っていた、痛い方から痛くない方に動かして診る操体法も、ボディの歪みに着目して、神経系や循環系の圧迫を単に取り除くだけでなく、動かして診る事で系統的にも生命エネルギーの流れをスムースにし、効果を高めていた。

    そして橋本先生は、そこに満足することなく、より全体的な調和に導けるよう、現役を退いても学びと研究を続けていた。

    そして、学びと研究を続けた最晩年になって、上記のような「気持ちよさで治る」という言葉を発した。

     

    しかし、橋本先生には「気持ちよさで治る」という操体法の体系化までの時間(寿命)が残されていなかった。

    橋本先生の遺志を受け継いだのが、私たちの師である三浦寛先生であった。

    三浦先生は、からだの動きを分類し、オクタント(極限安定率)を満たすからだの全体的な動きを研究し、そのからだの動きにより身体全体が調和に導かれる中で、気持ちよさがききわけられ、気持ちよさの質によって、バランス制御が可能となる事を究明した。

    つまり、より質の高い気持ちよさをききわけ、その気持ちよさを十分に味わう事で、不快な症状、疾患からの改善が可能という事。

     

    これは、全体的な調和がより密になるという事でもある。

    橋本先生が現役時代に行っていた、痛い方から痛みのない楽な方に動かして診る操体法では、全体的な調和の粗いところがあった。

    その調和の主体は横紋筋系骨格関節系であり、不随意筋まで含めた調和はなかなか成り立ち難かった。

    例えば、内臓疾患を抱えた腰痛などの場合は、横紋筋系、不随意筋系どちらも良くなるようなバランスとは成り難かったと聞く。

    しかし、気持ち良さの質の高さをバランス制御の基準とする事により、調和は成り立ち、どちらも改善がみられるようになった。

    調和の和は広がり、質的にも粗い結びつきではなく密な結びつきになったという事。

     

    「からだにききわけた気持ちよさで治る」これは、今の社会通念に照らし合わすと、解りづらいかもしれない。

    しかし、生命の生存にとって「快に従う」という事は、切っても切れないものなのであり、そうなっているという事は救いなのである。

    不快に従って生きろというのであれば、此の世は生き地獄であろう。

    生命の仕組みが、有難くそうなっているという事からどう学ぶか。
    大切な事だと思う。

  • 何を学んでいるのか・・・2

    おはようございます。

     

    私も本格的に操体を学ぶ前に、操体法に関する本をいくつも読んでいた。

    そして、その中に載っている症状、疾患に対する操体法も注意深く読んでいた。

    読んでいて、不思議に感じたのが同じ症状、疾患でも全く違う事を行っていたり、同じやり方で違う症状、疾患にも対応して、その効果を謳っている事。

    症状、疾患を何とかしたいとか、治したいといった人には、妙な療法に映ると思う。

    本を読むだけでは、なかなか理解が追いつかない。

     

    疑問点を抱えつつ講習に参加していたが、ある時「操体には症状、疾患を治すという発想がない」といった旨の話を師がして下さった。

    そうなのだ。師がそう断言して下さったお陰でモヤモヤが晴れた。

    それまでの、痛い方から痛くない方に動かして、2,3秒間動きをたわめて脱力するという第一分析に於いても、より身体全体を調和に導く事ができれば、どんな症状、疾患にも対応可能なのだ(熟練は要するが)。

    痛い方に動かすよりも、痛くない方に動かすほうが、より身体全体を調和に導きやすくなるのは自明の理であろう。

    大事なのは、どの動きがその症状、疾患に効果があるという事ではなく、身体全体を調和に導き、からだのバランス制御に向けた働きが発揮できるかどうかである。

    だから、操体の創始者である橋本敬三先生も、晩年は第一分析を用いつつも、動きを2,3秒間たわめるとか、瞬間急速脱力に導くといったそれまでの第一分析の決めごとを撤廃して、たわめの間も脱力の仕方もからだに委ねるというふうに、調和に向くからだ本位のやり方に変えていったのだと思う。

     

    身体全体が調和に向き、からだがバランス制御に向けば、自ずと症状疾患も治まってくる。
    からだがバランス制御に向き健康が回復する過程に於いて、症状疾患も解消されるという事でもある。

    治すのは、あくまでからだであり、施術者ではない。

    施術者が治し方をいくら学んでも、からだが応えてくれなければ、どうにもならない。

    施術者は、からだがより良くバランス制御に向くようにお手伝い、サポートをする立場である。

    どう、より良くサポートしていくか。そうした学びは本当に大切だと思う。