投稿者: karib_sotai

  • 何を学んでいるのか・・・1

    おはようございます。

     

    私は、本格的に操体を学びはじめて20数年となる。

    学びはじめの頃、「何を学んでいるのか」と考える事が多かった。

    自分自身に対する疑問形の問いかけであり、治療技術が学びたくて入門したのに「こういう症状にはこうする」といったことは教えてもらえない。

    しかし、教えていただいたとおりに行ってみると効果は高い。

    なぜ、効果が高いのか?

    自分のそれまでの治療に対する考え方からでは、捉えきれない世界。

     

    その捉えきれない世界は、生命からすれば当たり前の世界でもある。

    生命からすれば当たり前でも、その当たり前になかなか気づけない。

    大空を舞う鳥や水の中を泳ぐ魚のほうが、その当たり前を知っており、それだけ自由に生きているようにも感じられる。

     

    何か、人間それも社会の枠組みに浸かった大人ほど、生命からすれば当たり前の事が分かりづらくなっているように思える。

    そして、何か不自由な生き方となり、バランスを崩して病を抱え、それでも人間社会の枠組みの中での考え方に価値を求め、その小さな枠組みの中に最良を求め、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりを繰り返している。

    観点を変える必要がある。

     

    大自然の申し子である生命からすれば、人間の「ああすれば、こうなる」というような決めつけは、滑稽にも映るであろう。

    小さな枠に囚われずに、もっと大きな視野を持つ事は大事だと思う。

    人間社会の考え方はどうでも、生命には元々救いが貫通しており、生きている限り生かされて生きているのだから、有難く生かされている事実にも目を向けてみる。

    有難く生かされている事実に目を向け、その有難く出来ている理り大自然の理を学ぶ。

    そこに、人間社会の枠の中で矮小化した常識を超える治癒力、回復力、真の健康への導きがあると思う。

  • 何を学んでいるのか

    空間というひとつの「間」を介して、

    様々な情報の授受が行われていることが少しでも感じられれば、

    納得できるものもまた拡がっていくと感じます。

     

    新重心理論を学んでいて、目がみえているものはほんの一部の世界のこと。

    本当のところはみえないものから、みえるものが生まれていくというイメージなのではないかと感じられてきます。

     

    からだのうごきも目にみえないものから生まれています。

    ゆっくりとしたからだのうごきに伴って、

    からだと自分が重なって、感じられたことが少しづつ言葉になっていく。

     

    からだが変化すれば、自分も変化している。

    自分が変化すれば、からだも変化している。

     

    それまで重さとして感じられていたものが、軽さとして感じられてくる。

    何かが解放されていることの一つの現われだと感じます。

     

    学んでいくにつれて、解放されていくものがあり、

    解放されていくことで、シンプルになっていく。

     

    ありのままの自然に宿っているイノチについて、

    学ぶということは、こういうことなのではないかと、

    新重心理論の学びから見せていただいているように感じています。

     

    www.sotai-miura.com

     

    今回は「何を学んでいるのか」をテーマにブログをお届けしています。

    明日からバトンを渡して友松実行委員のブログが始まります。

    一週間のお付き合いありがとうございました。

  • からだとの信頼関係

    新重心理論が展開し始めてから、操体法東京研究会の講習の様子も質的な変化が起こっているのを感じています。

     

    www.sotai-miura.com

     

    以前の講習では、学ぶということに真摯に応えてくれる濃密な指導が展開されていました。臨床家、または指導者を育てるための、カリクラムに沿って、実技も何度となく繰り返し行うことで、ひとつひとつの操法のポイントを身につけていく、からだを通しての学びの空間がありました。

     

    からだの「中心」と「重心」の捉え方が見直され、現在は新重心理論を基に指導の内容が編まれています。

    重心の定義が変われば、これほどまでに、様々なことが変化してしまうのか、ということをここ数年間講習の場に立ち会わせていただいて感じます。

     

    何が変わったのか。

    わたしが学んでいるのか、からだが自ず(おのず)と表現してくれているのか。

    そういう違いが深く関わっている気がしています。

     

    「わたし」が試行錯誤を重ねて理想的な姿を目標にじっくりと学び続ける。

    「わたし」は薄まっていって、「からだ」が表現してくれているからだのうごきに委ねる空間がある。

     

    新重心理論の講習に参加していて感じること。

    いままでとはまた一味違った、からだとの信頼関係。

    それが、それぞれの「わたし」と「からだ」とのあいだで育つ様子を、

    見届ける機会に立ち会っているような気持ちになるのです。

  • 目にみえないものを手がかりとして

    からだからのメッセージを受け取る。

    からだの声をキャッチする。

    からだと対話する。

     

    「自分」と「からだ」と、キャッチボールをするときに、

    ひとつの手掛かりとなるものが、目にはみえない「感覚」です。

     

    「からだ」がききわけているものを、

    感覚を介して「からだ」にききわける。

     

    このような、からだとの関係をどのようにして可能なものにしていくか。

    目にみえないもの、なかなか言葉にできないことを、

    様々な工夫をこらして臨床のなかに活かそうとしてきた歴史が操体にはあります。

     

    からだという存在に、感覚という手がかりを頼りに、近づいていく、重なっていく。

    今考えるとそのようなイメージが浮かんできます。

     

    「重心」と「中心」の定義は変わり、

    現在学んでいる内容にも、変化をもたらしています。

    からだがききわけているものに、よりダイレクトに重なっている。

    そういったことが、臨床のなかで可能となってきているのを感じています。

     

    感覚を大切にしてきた学びの歴史があるからこそ、

    現在学んでいることが非常にシンプルなものとして、感じられてくるのだと思います。

  • 間がうまれる

    ゆっくりと動きを表現する。

    動きがゆっくりと表現される。

     

    生活のなかの何気ない動作から、

    「ゆっくり」という言葉をきっかけとして動きの質に変化が起こると、

    「間(ま)」がうまれ始めます。

     

    以前、本東京操体フォーラムで操体法クロニクルズと題して、歴史を紐解き振り返る機会がありました。その際にも、操体法の歴史は、「間」の歴史でもあったのではないかという気づきがありました。

     

    臨床のなかで、からだを介して様々な間が生まれるように、

    被験者や被験者のからだ、そして自分自身との向き合い方はアップデートされてきました。

     

    臨床の目的が変わり、立ち方は変わり、アプローチも変わり、言葉もかわる。

    その変化に伴って、表現される動きも変容し、間にもおのずと質的な変化が起こってきました。

     

    特に「感覚」を重視するというテーマを臨床に生かす工夫を重ねる過程で、

    「間」の捉え方も変化し続けてきたのだと感じます。

     

    操法のなかで生まれる「間」は、感覚を介したききわけの学びとともに、

    更新され続けてきたのです。

  • ゆっくり

    からだが表現する様々な動き。

    その動きのことを学んでいると、それに伴って学ぶことは拡がっていきます。

    色々なことがテーマとして感じられてきます。

     

    そのひとつとして、「ゆっくり」という言葉も、実に深みのあるテーマだと感じます。

    操体ではこの何気ない問いかけを大切にしています。

     

    まだ学んできて10数年ですが、「ゆっくり」という言葉がなんで大事なのかというのは、学んでいく度に、また新鮮なこととして感じられてきます。

     

    ゆっくり、という言葉を味わっていると、普段の生活がいかにリズムの速い動きのなかで営まれているかを感じることもあります。

     

    人間が便利なモノを次々に発明、開発、創造し、それを巧みに使いこなしてきましたが、それに伴ってひとつひとつの生活のリズムは加速してきているように思います。

     

    「ゆっくり」という生活のなかの間(ま)もひとつひとつ少なくなっていったのではないかと感じます。

     

    この身ひとつで、「ゆっくり」という間の中で、ききわけ、味わうことは、

    からだの要求している適正なリズムに重なるひとつの方法ではないかと感じています。

  • からだの動き(うごき)の解放

    操体には「動かして診る」というからだを診る際の独自の眼差しがあります。

     

    からだの構造(つくり)の歪みがどうなっているかを診ること以外に、ではそのつくりを動かしてみたらどのような変化が起こるのか、またはききわけられるのかというポイントに注目し、からだに伴う様々な動き(うごき)を臨床のなかで生かせるまで体系化してきました。非常に素朴ではありますが、大変にユニークな問いかけです。

     

    このようなアプローチを臨床の軸にしてからだと長年向き合ってきた操体は、その診断分析法の進化(または深化)のプロセスで、からだという生命に宿っている様々な動き(うごき)を拾い上げ、解放してきたのではないかと思います。

     

    からだには目にみえるなじみ深い動きもあれば、実はこういったことも「動き」だったなぁと思えること。また目にみえない日常生活ではなかなか現れてこないうごきのようなものもあります。

     

    前者の身近な動きは言葉を変えれば「運動」と読んでもいいかもしれません。からだには、「運動」的な動き以外にも、普段意識することのあまりない非常に豊かなうごきの可能性が存在しています。

     

    少し、大げさな表現となりますが、からだにはうごきが「隠されている」のではないかと感じられるときがあります。

    こういったからだのうごきがひとつひとつ解放されていくことは、

    からだの要求に適っていることなのではないかと感じています。

     

    具体的に臨床のなかで実現されるには、どういったことが肝要となるのか。

    からだとともに、その中身のことを学んでいるのが、操体なのだと思います。

  • ゆっくり、解放、シンプル

    瀧澤さん、今回も一週間の投稿ありがとうございました。

     

    『学ぶ姿勢は、生きる姿勢と重なります』

    はい、そのように感じます。

     

    以前にも増して、いま学んでいることがその場だけのことにならずに、境界線を引くこともなく、自身の生きる姿勢にどんな影響をもたらしているのか、というのが面白く、大切なこととして感じます。

     

    『「感覚」という個々に委ねられることを、いかに「からだ」で受け取っていただけるか。

     

    「からだ」で受け取っていただいたことが、ほんとうに健康維持増進につながってくるのか。』

     

    「感じ取ろう」という真面目な姿勢。それもまた視点を変えてみると、実は「自分」の方に主体があって、ほんとうの意味で自ずから(おのずから)からだの方で表現されている何かをいただくことと意味合いが変わってきてしまう。「感覚」を通しても、そういう矢印の方向性の揺らぎことが起こることがある。

     

    いただいたことをおかえしすることが素直に表現される。

    それが、「からだの要求」と私たちが呼んで、学んでいるものとも重なってくる。

    そんなイメージが湧いてきましたが、いかがでしょうか?

     

    『そして、空間と調和することを「からだ」にとっての「快」と捉えるなら、変化に応えていくくとは自分自身にとっても「快」なのだ、とおもえてくるのです。』

     

    「からだ」という操体で大切にしているテーマが、空間へと拡がっていく感じ。「からだ」と「自分」が重なってくると、変化も快も空間を介して貫通しているようにおもえてくる、というイメージが伝わってくるような気がします。

     

    学んでいると、解放されて、重なってくる、というのは本当に不思議ですね。

     

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    と、いうことで、

    改めて一週間のメッセージありがとうございました。

    本日よりテーマ「何を学んでいるのか」のバトンをいただいて、寺本が担当します。

     

    操体という非常に特殊な視点をもった学びを通して(しかもその特殊さが進化し続けていることがまた独特なのですが)、最近キーワードとして浮かんでくるのは

    「解放」というイメージです。

     

    これは操体のなかで取り上げられている「呼吸」や「動き(うごき)」などのひとつひとつのテーマについても言えることであり、また学んでいる自分自身の変化を通して感じられるイメージでもあります。

     

    学び続けていれば、いくほどに、その内容が膨らんで拡がりをもってくるようです。

    でも捉え方としては、よりシンプルなものとして受け取ることが可能になってくるのが不思議です。

     

    過去に学んでいたことも、現在学んでいることから俯瞰して、また新たな捉え方が芽生えてくる。

    決して、ムダなことにはならない。

     

    操体がテーマとして学んできたことは、地続きで繋がっている学びのプロセスがあります。

    今回はこのようなことをテーマに展開したいと思います。

    よろしくお願い致します。

  • 何を学んでいるのか⑦

    今日が最終日となります。

     

    今回の「何を学んでいるのか」というテーマをいただいて今感じていること。

     

    「何を学んでいるのか」と自分に問い続け、それに応え続けるということが、いかに大切かということです。

     

    それによって、自分が今取り組む課題やテーマも見えてくる。

     

    学ぶ姿勢は生きる姿勢と重なります。

     

     

     

    「からだ」のご縁を頂いて出会う人達に、操体を健康維持増進学として伝えていけるように、理論も実技も学び続けています。

     

    ただ、理論や実技を学んでいることをもって、それを学んでいるとは言えないな、とおもうようになりました。

     

    なぜなら、それは「答え」ではないからです。

     

     

    理論にも、実技にも、「感覚」という「からだからのメッセージ」があります。

     

    「感覚」という個々に委ねられることを、いかに「からだ」で受け取っていただけるか。

     

    「からだ」で受け取っていただいたことが、ほんとうに健康維持増進につながってくるのか。

     

     

    これまでがそうだったからではなく、今自身が取り組んでいる中で応え続けていくことです。

     

     

    操体を学問として繋いでいる流れの中で、自分が今どこに、どのように立っているのか。

     

    それが感じられれば、流れの中で「ながれ」の方向性も見えてくる。

     

    「今」に必要な変化にも意識が向くようになってくる。

     

     

    わたしたちを生かしてくれている「からだ」も常に環境の変化に適応し続けています。

     

    操体のことばで言えば、「からだ」は空間と調和している。

     

    それは「生命の意志」です。

     

    「からだ」と自分が重なっていると、変化に応えていく意志を持つ、ということもまた「からだ」と共にある、と感じられます。

     

    そして、空間と調和することを「からだ」にとっての「快」と捉えるなら、変化に応えていくくとは自分自身にとっても「快」なのだ、とおもえてくるのです。

     

     

    一週間ありがとうございました。

     

    明日からの寺本実行委員にバトンを渡します。

     

    よろしくお願い致します。

  • 何を学んでいるのか⑥

    自分自身が開かれた状態になっているとき、特に意識していなくても、ふっと「からだ」から感じられることがあります。

     

    「からだ」の学習として、呼吸やからだの動きをとおしているわけではないのに、おのずとそういう呼吸になっていたり、からだの動きとして表現されていたり。

     

    「無意識的に」そうなっているわけですが、それは、一生懸命やり続けて、「自分が無意識的に」できるようになっているという感じではないのです。

     

    もともと、そのように設計されている「からだ」が「からだの無意識」によって表現してくれている。

     

     

    操体は健康維持増進学です。

     

    「自然法則」に基づいて、誰がやってもそのようになる、ということを具現化できるように進化し続けています。

     

    そして、「感覚」という「からだからのメッセージ」を大切にしています。

     

     

    健康という誰にとっても身近なテーマを、「からだ」という誰にとっても身近な存在をとおして向き合っている。

     

     

    「感覚」といっても感じ方は人それぞれです。

     

    どのように感じられるかは、そのときの「からだ」と自分の関係性でも変わってきます。

     

    ただ、ふっと「自分の意識」が外れたときに「からだ」から感じられることは、普段は気づきにくいけれど、素の「からだの感覚」として、誰もが受け取っている「からだからのメッセージ」なのではないかとおもうのです。

     

     

    それを生かしていけばよりシンプルに「からだ」に伝えていくことができる。

     

    シンプルに「からだ」に伝われば、その人自身も普段の生活の中で生かしやすくなる。

     

     

    生きた学びになるかどうかは、伝わった先でも生きてくるかどうか。

     

     

    そのような目線を持ち続けることも必要だと、学びの中で感じています。

     

     

    (続く)