投稿者: karib_sotai

  • 何を学んでいるのか⑤

    「からだ」に対して素直になることは、自分に対しても素直になること。

     

    そのように感じられてくると、自分を生かしてくれている「からだ」への感謝だけではなく、今の自分にとって必要なことにも意識が向いてきます。

     

     

    呼吸やからだの動きから感じとれる感覚は「からだからのメッセージ」です。

     

    自分の意識で色をつけずに、そのまま感じとっていく姿勢であれば、「感じとろう」としているときとは全く違うことを「からだ」は感じさせてくれます。

     

    その感覚はときに繊細で、ときに鮮明で、目に見えないものと繋がっている、ということさえ意識させてくるもの。

     

     

    ただ、そのことをもって、終わりになってはいないだろうか。

     

    その時点で感じとったことをもって、分かったつもり、出来ているつもりになってはいないだろうか。

     

    臨床においても、生活においても、なんだか行き詰まっているな、と感じているときは、ここで止まってしまっていることに気づかされます。

     

     

    感じられたのなら、なぜそのように感じられたのか、考え続けること。

     

    すぐに答えに結びつけようとするのではなく、そのプロセスを充分咀嚼していくこと。

     

    健康維増進学として繋いでいる想いとビジョンを持ち続けること。

     

     

    学ぶ姿勢が問われているとき、生き方そのものを問われているようで、耳が痛いこともあります。

     

    けれどもその痛みは自分自身を更新させてくれる「ヒビキ」でもある、ということも感じられてくるのです。

     

     

    (続く)

  • 何を学んでいるのか④

    「感じとろう」としているときは、「からだ」と向き合っていても、その主体は「自分」。

     

    届いてくる「からだからのメッセージ」は限られたものになってしまう、というよりも、ほんとうは届いているのに、それに気づけない状態になってしまいます。

     

     

    師の指導の中、都度「からだ」との向き合い方が修正されていく。

     

    そして再び「からだ」と向き合うときに感じられること。

     

     

    「からだ」は意識下でコントロールできる範囲を遙かに超えた存在であるということ。

     

    その「からだ」から感じとるということは、自分の意識で色をつけずに、そのままいただくという姿勢であること。

     

     

    そこにあるのは「からだ」に対する素直さです。

     

    「感じとろう」とする自分の意識はその素直さを曇らせてしまう。

     

     

    意識して感じとろうとすることと、感じられたことが意識になることは、全く違います。

     

     

    何度もそういったことを体感し、今感じられること。

     

    「からだ」に対して素直になるということは、「自分」に対しても素直になるということ。

     

     

    「自分」に対して素直になるということは、自分の要求を満たすために自分勝手に振る舞うことではありません。

     

    むしろ閉ざされた自分の意識から解放されて、流れの中にあるということに立ち還らせてくれます。

     

     

    具現化していく想いとビジョン、そして「からだからのメッセージ」。

     

     

    学びにおける「素直さ」を改めて考えてみると、その意識の向く先も変化してくると感じられるのです。

     

     

    (続く)

  • 何を学んでいるのか③

    学びにおける「素直さ」とはなんでしょうか。

     

     

    「何を学んでいるのか」という問いと向き合いながら感じていること。

     

     

    呼吸やからだの動きのとおし方など、教えて頂いたことを自分の色をつけずにそのままやってみる。

     

     

    やってみたことの中で感じられたことを一つの手がかりとし、その継続が本質的な理解に繋がっていく。

     

     

    これも一つの素直さだと思うのですが、それと同時にそこにはまってしまっている自分がいるということにも気づかされます。

     

     

    「からだの感覚」を大切にする操体の学びにおいて「からだ」から感じとっていく、という姿勢は必要です。

     

    しかし、「感じとろう」という意識が強くなってしまったときに、プロセスが目的となってしまい、方向性を見失っていることがあります。

     

     

    「感じとろう」という意識が強くなっているときは、「からだ」と向き合っていても、その主体は「自分」です。

     

    「自分」が感じとれる、または、「感じとろう」としている範囲のことにしか気づけません。

     

    閉ざされた意識の中で「からだ」と向き合っていても、届いてくる「からだからのメッセージ」は限られたものになってしまいます。

     

     

    そんなときは「自分のゾーン」に入り込んでしまい、何のためにやっているのか、その繋がりが途切れてしまうこともあるのです。

     

     

    (続く)

  • 何を学んでいるのか②

    「何を学んでいるのか」と自分に問いかける。

     

    それは、それを学ぶことで何を成していくのか、という問いかけに繋がっいく。

     

     

    操体を学ぶにあたっては、操体を感じとっていくこと。

     

    ただ、それだけではまだぼんやりで、生かす方向までは見えてこない。

     

    感じとったことを繋いでいる流れの先で生かしていく意志を持つこと。

     

    その生かし方を自身で気づいていくように、師について学んでいる、と気づかされる。

     

     

    そのように感じる背景に、師の励む姿勢と共に「からだ」はあります。

     

     

    もっとも身近に生命現象を感じさせてくれる「からだ」。

     

    その「からだ」は意識下でコントロールできる範囲を遙かに超えた存在です。

     

    むしろ「からだの無意識」がわたしたちを生かしてくれています。

     

     

    その「からだ」を感じとって、「からだの要求」に応え続けていくこと。

     

    それを可能にする正当な使い方を学び続けているなら、「生かされている」という実感を出発点として、学んでいることを生かしていけるように励んでいく。

     

    その方向に向かって歩いているのは、「からだ」と「自分」の両者です。

     

     

    「からだ」と向き合うということは、自分と向き合うということと重なってきます。

     

    生かしていく意志も、「からだ」と共にあります。

     

    (続く)

  • 何を学んでいるのか①

    岡村実行委員ありがとうございます。

     

    バトンを受け取った今週担当の瀧澤です。

    一週間よろしくお願い致します。

     

     

    今回のテーマは「何を学んでいるのか」です。

     

     

    操体・操体法を学び続ける中、「何を学んでいるのか」という問いに対して今感じていること。

     

     

    師について学ぶ機会を頂いているということは、学問として繋いでいる流れの中で学んでいるということ。

     

     

    自分は今どこに、どのように立っているのか。

     

     

    それを見失ったとき、その学びは自分の意識の中に閉ざされた狭いものになってしまいます。

     

     

    「自分のゾーンに入っている」。

     

     

    三浦理事長から指摘して頂き、その都度はっと気づくことがあります。

     

     

    操体創始者橋本敬三医師が成してきたことと成そうとしてきたこと。

     

    それを託された三浦理事長の成してきたことと今まさに成していること。

     

    その流れの中で学ぶ機会を頂いている身として、忘れてはいけないこと。

     

     

    流れを繋いでいる想いとビジョン、そして「からだからのメッセージ」。

     

     

    それは必然的に自分の生き方と向き合うことになります。

     

     

    (続く)

  • 何のために学んでいるか⑦

    (続きのまとめ)

     

    自分自身が問いを立てる練習をすることです。

    そして、その問いに答える練習を積み重ねていくことです。

    積み重ねてきた力は生きる姿勢を養います。

    それは「操体」を学ぶために欠かせないことの1つだと思っています。

     

    探求すること。

    探求活動は、自分自身の力を1段上のレベルに引き上げるチャンスです。

    獲得させた知識及び理解において生きた働く場を与えること。

    学びの成果を確かめて、実際に一つ一つ学んだことを用いていくこと。

    それを自分自身の生きる姿勢の中に組み込んでいくことです。

     

    学びの中での訓練なしには、形だけの、うわべだけのものになってしまう。

    つまり、理論と実技は両輪の環。

    それを臨床と生活の場で活かしていけばいいのです。

    自分自身に向かい問いを立てれば「操体」を学ぶデザインは決まってきます。

     

     

    (まとめの注意点)

     

    「発想」とは人の役に立ってオリジナリティーがあることです。

    全くオリジナリティーがなく人の役に立たないものは「妄想」となります。

    それは、微生物の「腐敗」と「発酵」にも似ています。

     

    微生物の働きで、ヒトの役に立つものを「発酵」と言い、役に立たず悪さをするものを「腐敗」といいますから。

     

    「妄想」は一番見るべき部分を放棄し、自分の認識を誤ってしまうことです。

    現実逃避も同様、「妄想」は現時点での欠点に目を向ける勇気を持たない限り、

    生じてくると思います。

     

    この「発酵」しやすい環境とは、「腐敗」も同時に起こりやすくなっています。

    それを「発酵」とさせるかどうかは、その「間=マ」を図り、正確にタイミング

    をつかむ能力も必要となってくるのです。

     

    どんなに素晴らしい思想を並べても、伝わらない技術は無意味です。

    生命現象ですから、自然法則は貫通しています。

     

    本物はどのような状態でも伝えることができるはずなのです。

    それを「何のためにまなんでいるのか」の繋がりとしておきます。

     

    ということで、一週間のお付き合い有難うございました。

    明日からは、瀧澤副実行委員長の登場です。よろしくお願いします。

  • 何のために学んでいるか⑥

    (続き)

     

    今ある手持ちの知識や、手持ちの発想でつくる仮の答えは、

    当然ながら不完全なものしか出来ません。

     

    自分自身が持っていないもの。

    つまり、操体の知識、操体の情報、操体の理解の、

    その本質、所在に気付くことさえできれば、

    それを埋めたくなり、それを手に入れたいと学びを成しうるのです。

     

    「アナログ」といえば「触覚」。

     

    「触覚」の情報はとても大切です。この感覚を育てるのです。

    あらゆる行為において、直接触れる事はとても重要なのです。

     

    生命現象を受けとるような感覚を大切にしないことは勿体ない。

    「息」にしても、その入ってくる方向性があり、「意識」にしても、

    その向かう先はあり、「目線」にも膨大な情報はあるのです。

     

    一つ学び終えたら、その学びを忘れないことです。

    いつもその問いかけに立ち戻り、自分自身で答えを仕上げようとすれば、

    解消されずに残っている不明の所在に気づきます。

     

    そこでもう一度学び直すと言う動機が得られるのです。

    その答えを仕上げきることができれば、そこに達成感も得られます。

    自分自身の進歩自分自身の成長に気づきます。

     

    そのような意味でいえば、操体を学ぶ事は、ある種の「快」の体験です。

    「快」の体験を繰り返していることともいえます。

     

    このように「操体」を学問として維持するモチベーションの源質として、

    達成感のある「快」は、継続する力として働いてくれるのです。

                             (続く)

  • 何のために学んでいるか⑤

    (続き)

     

    「何のために学んでいるか」という問いかけを投げかけられ、

    「なぜだろう、どうなっているんだろう」と、疑問を持てば、

    それを解明したい欲求は生まれてきます。

     

    「操体・操体法」指導者、三浦寛理事長の書籍を読んでみると、

    「第2分析」「渦状波Ⓡ」革新的な作品を生み出したものほど、

    最初は伝わりづらいものとなります。これが「孤独」となるのです。

     

    この「孤独」とは、本質的に表現者たる所以(ゆえん)のもので、

    はじまりはすべて、表現は「孤独」から始まるもののようです。

     

    ここから噛み砕きながら伝えていくことで、それが周囲に伝わります。

    これも、理解されるところまで努力を続けなければいけません。

     

    創始者橋本敬三先生の直弟子である三浦理事長から、

    「操体・操体法」を学ぶことで、生まれる問いの欲求を満たす事は、

    ワタシにとって、最も原始的な学ぶことへの理由になってきます。

     

    なぜなら、隠されているものは覗きたくなるものでしょう。

    仮の答えを作り、その目標を解くべき課題で示していくことなのです。

                              (続く)

  • 何のために学んでいるか④

    (続き)

    何を学ぶのか。

    それは「どんな問いに答えていくのか」という事でもあります。

     

    「操体」を学び「操体法」の存在する意義や、

    その「学びを進めた先にあるもの見つめていくこと」

    これは、「間=マ」を読めるように学び取ることです。

     

    「間=マ」というものは、豊かな情報。

    つまり、「アナログ」と言うものを読み取る能力を示します。

     

    本質的に、表現とは「間=マ」の「マ」を図る能力のこと。

    「アナログ」から「デジタル」への相互交換性の高い能力を、

    コツコツと磨いていくことでもあります。

     

    これから学ぶところ。

    それは、そのプロセス途上にあり、成し遂げようとしてきたこと。

     

    師と「同じ景色が見えてはいない」のであれば、

    それを訂正していただき、同じ方向性の景色を見ているかどうか。

     

    そのうえで「操体・操体法」の進めた先を共有する事になります。

     

    創始者橋本敬三師の見たかった景色。

    そこに拡がって見えていた景色を想像しながら、学んでいるのか。

     

    アナログのような問いに、どのような答えを導こうとしているか。

    それをデジタルで、常にイメージしていくことです。

                            (続く)

     

     

  • 何のために学んでいるのか③

    (続き)

     

    長い間かけて学ぶ事は、

     

    「解決すべき問いかけを持つ」ことです。

    「自分事として認識できる」ことです。

     

    その設定方法が、「何のために学んでいるか」になります。

    それはワタシにとって「操体」を学ぶ理由の一つ。

     

    かの、レオナルドダヴィンチは何かに取り付かれたかのように、

    晩年まで「水」のスケッチを続けていたといいます。

     

    おそらく、「水」と言う究極のランダムを掌握すること。

    この無限の情報量を有しているアナログを、アナログのままに

    取り込み、自然環境を豊かに取りいれたのではないでしょうか。

     

    これも自分に学ぶ意義を伝える簡便で、効果的な方法であり、

    愉しみながら続けていくための理由となっている事は確かです。

                              (続く)