人間は昔に戻れません。前に向って進化し、未来を劈かなければなりません。私は、「操体」の中にその可能性を見出していますので、学びを続けて来ました。
本日で最終日になります。
ここ何年間の間「スイッチ」という言葉がとても気になり、臨床や日常生活の中で常に問いかけていました。
皆様もスイッチが入ることで、いきなりやる気が出たり、表情が明るくなったりしたことを経験されたことがあるかと思います。
また病気の人が急激によくなったり、元気がなかった人が急に元気になったりする不思議な現象を臨床で何回も見てきました。
そういった現象がなぜ起こるのか?と常に疑問に思っていたのですが、最近では「スイッチ」がこの現象に深く関与しているように感じています。
わたしの捉えるスイッチは
からだのスイッチ、こころのスイッチ、意識のスイッチ、呼吸のスイッチの4つです。
この4つのスイッチを入れることでからだは劇的に変わるということが自身の経験でよく理解することが出来ました。
これらのスイッチを入れる問いかけを操体の学問の中で学んでいるのです。
一週間お付き合い頂きありがとうございました。
明日からは半蔵さんが担当致しますのでお愉しみに。
現在のじぶんの学びは何かとじぶんのしていることを重ねていくことをしているように感じています。
例えば
からだの動きとじぶんの動きを重ねていくことであったり
またからだが自然としてくれる呼吸とじぶんがする呼吸を重ねていくことをしています。
これらを重ねていくと命の営みに必要なものは全てからだが教えてくれるようになる。
それが結果的にからだの要求に適うものを受け入れる「うつわ」(構造)を自ずと作ってくれる。
なので臨床では「構造のうつわ」よりも「感覚のうつわ」作りを重視しています。
それが健康維持増進への道筋だと信じて日々からだと向き合い学んでいます。
昨日の続きになりますが、なぜわたしが山に登ったのかを考えていました。
その問いかけの先にはきっと初日に書いた「なぜ学んでいるのか?」「なにを学んでいるのか?」の答えがあるように思えるのです。
昨日ようやく見えてきたことは「感謝」という言葉でした。
あの過酷に感じた自然の空間に身を置けたことで呼吸のありがたさ、地に足を付けて歩けることの悦び、食への感謝と様々なことを学ぶことが出来ました。
そういったことを体感出来たことで日常にある当たり前にあるものがとても「ありたがい」ものだと感じられるようになったのです。
つまり意識が変わるということです。
それは操体の臨床にも通ずることであります。
使わせて頂いているからだに対しての感謝。
そしてからだを生かしてくれている目には見えないものへの感謝。
この2つの感謝への気付きと学びが私達が生きることにおいて、また健康維持増進においては非常に重要なことだと思っています。
昨日、山梨県にある八ヶ岳を登ってきました。
早朝4時から登山し、雨や雷雨等のトラブルもあり、最終的には帰宅することが出来たのが23時とわたしとからだにとってはかなりハードな一日でした。
その道中、現在じぶんが学んでいるからだの動きであったり、呼吸を意識しながらどうにか山頂まで辿り着くことが出来ました。
しかしそれからは疲れから足や肩の痛みに襲われそれらを意識し行動することが出来なくなり、その後の行動のほとんどの時間をからだにお任せてしまうことになってしまいました。
そういった時間の中で気が付いたことですが、からだは意識下でコントロールしている中でききわけている感覚と本人の無意識下でききわけている感覚は明確に違いがあるということです。
まずその違いの一つはわたしの意識に上らない様々なことやってくれているということ。
わたしが感じた痛みを緩和させるために全身の至る所に歪みを作り動きの制御をしてくれていたり、からだが必要としている呼吸も呼気と吸気を絶妙なバランスでその入出力をしてくれている。
そしてもう一つの気付きは疲れてくるとからだは左右の優位性を持って動きを表現してくれるということです。
今朝のからだの状態を確認してみると立ち上がることが出来ない程に全身筋肉痛になりましたが、その形状を確認してみると明らかに右よりも左半身が膨張しています。
それは恐らく痛みを感じ始めた後にわたしの無意識の中でからだは左を使うことを選択し、右とのバランスを取りながらその後の過酷な環境を率先し行動してくれていたのだと思います。
わたしが現在学んでいるはこういったからだがしてくれていることを健康維持増進学に繋げていくことだと思っています。
これまでの操体の学びの中で掴んできたことの一つに施術者の生き方は患者のからだに必ず反映されるいうことです。
操体法の臨床の特徴でもあるからだとからだとの世界で行われていることは本人達の意識下に上がらない様々なことが行われています。
その中でも、動き、呼吸、意識の使い方は皮膚とその場の空間を通じ共鳴するのです。
なので臨床効果や結果というのは施術者自身の生き方次第だと言ってもよいかもしれません。
そういうことからも操体の臨床に携わる人間は臨床の技術やテクニック以上に自身の生き方を学んでいかなければならないということです。
そういうことからもわたしが現在学んでいることは「人生学」と言えるかもしれません。
その人生学を知るヒントはからだが知っているように思っています。
以前のブログでも書きましたが、わたしが操体の学びで得ていることの一つは「学び方」です。
その学び方とは「感覚の学習」でもあります。
当時は創始者の哲学を学び、そして師のやっていることを真似ていくことで、それを少しでも再現することをゴールにしていました。
それは学生の時の教科書の丸暗記みたいなもので、テスト前の一夜漬けのような「思考の学び」であったように思います。
そういった姿勢では何も生まれないことと、その先に繋がらないことをからだが動きと呼吸を通じ感覚というフィルターを介して教えてくれたように感じています。
その気付きからのわたしの学びは「感覚の学び」になりました。
現在のわたしの学びの核にあるのは師が何を見て、何を見据え、何を感じているのかをからだと共に動きと呼吸を通じてキャッチし共有することです。
それを繰り返す中で師が示している学びの方向性をからだが理解してくれて、そのからだからのメッセージを言葉にしていくことを学んでいるように感じています。
三浦先生、一週間ありがとうございました。
今週からは三浦寛幸が担当致しますのでお付き合い下さい。
テーマは引き続き「何を学んでいるのか」になります。
いつも何かに追われているような日々の中で10年以上の期間、操体を学び続けている意味をいつも自分自身に問いかけています。
「じぶんのため?」
「からだのため?」
「じぶん以外のもののため?」
正直この問いの答えはあまりよくわかりません。
しかしこの10年以上の期間で学んできたこと、そして現在学んでいることは確かに私自身の「悦び」に繋がっていて、生きることの柱になっているのは確かなことです。
そして私自身が得られた悦びは臨床という場を通じて、または日常の空間を通じて周囲にも確かに広がり、目には見えない形で健康維持増進に繋がっているようにも感じています。
それは目に見えるテクニックや言葉以上に大きな力を生みだし、からだを通じて共有し響き合っているような気もします。
こういう目に見えない力を生み出すのも学びの生み出す力であり、もしかするとわたしの学びが途切れた時にはこの力も生み出せない気がしています。