投稿者: karib_sotai
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臨床と生活にいかす操体法(四日目)
1999年10月、全国操体バランス運動研究会が、早稲田大学の井深記念講堂で開催されました。実行委員長は三浦寛先生です。この日に出版されたのが「快からのメッセージ」です。ということは、三浦先生と私のお付き合いも25年(岡村さんや半蔵さんはもっと長い)。びっくりしますよね。四半世紀ですよ。と言う私も人生の半分は操体にどっぷりというのが続いております。それはさておき、先日「快からのメッセージ」のテキスト(PCに保存した原稿)を読み返し、なおかつ本書を読み返してみました。と、びっくりしたのは、今は使っていないような言い方や、言い回しが出てくること、現在とは解釈が違うことなどが結構あるんです。先生ご本人に確認してみましたが「今はそんな言い方はしないな」とか「今はそんな風にはやってないな」という箇所がかなりあったのです。これを最新の言い回しに(あるいは解釈)に修正し、確かに少し難解な言葉や言い回しが出てくるので、そのあたりを編集の上、解説を入れようかとも考えています。「快からのメッセージ」が出た時ですが、操体実践者の殆どが、理解できなかったのではと思っています。理解できたのは、実際に三浦先生の「第二分析」を受けたとか見た人に限られるでしょう。というのは、私自身も「生でみるまで」よくわからなかったのです。そもそも私が三浦先生に習う前に操体を教わった先生も、当時は「楽」と「快」は区別しておらず「二方向を比較対照し、快方向に動かし」というように「楽な方にきもちよく」方式だったんですね。つまり、可動域が広い(楽)→快方向という、思いこみです。三浦先生も検証されましたし、私もかなり試してみましたが、楽な動きは快ではなく「楽でスムースでなんともない」「バランスがとれており、ニュートラルなのでなんともない」つまり、楽でなんともない。というのが多いのです。なんともないので、キモチイイわけではありません。 -
臨床と生活にいかす操体法(三日目)
そして、未だによく見かけるのが(新しめの商業出版の本でもこのような間違いが書かれています)「楽な方にきもちよく動いてからだを整えるのが操体法」というインチキです。私「インチキ」って言いますよ。橋本敬三先生は「楽と快は違う」っておっしゃってるんだし。楽な方向が100パーセント気持ちよいわけではないとは言いませんが、99.9パーセントくらいは、楽な動き≠きもちよい動き です。これは、やってみればわかります。「楽な方にきもちよく動いてからだを整えるのが操体法」って書いてる人は、実際にやってないとか、操体を知らないゴーストライターに書かせているんじゃないかと思ったりします。長くなりましたが、「操体における楽と快の違いを明確にする」というのが、私のライフワークでもありますので、何度でも書かせていただきます。そして、この違いがわかると、臨床にも生活にも操体をいかしきることができるんです。 -
臨床と生活にいかす操体法(二日目)
「操体は面白いぞ。一生たのしめるからな」というのは、実感しています。私も人生の半分以上は操体に関わっていますが、面白いのでやめられないんです。どんなところが面白いのか。臨床と生活にいかす、の両方から改めてご紹介したいと思います。操体を学んでいる人達をみていると①「自分自身が健康で元気に過ごしたいので、操体を学びたい」②「自分の職業として操体を身につけ、いかしたい」というように、「自分のケア」と「他者へのケア」にわけることができます。①は勿論セルフケアができるようになります。②は、他者は勿論、自分もケアできるようになります。②は2-1 楽か辛いか動きを比較対照して、楽な方に動かして瞬間急速脱力に導く(第一分析)2-1’ 圧痛点や楽な動きを利用して、脱力の方法は「抜きたくなったら」「抜きたいように」(D1’)2-2 一つ一つの動きに快適感覚の有無をききわけ、快適感覚を味わう(第二分析)2-3 皮膚への刺激にならない接触を用い、快適感覚、それ以上の治癒につながる感覚を味わう(第三分析)2-4 呼吸を用いた診断分析法(第四分析)2-5 新しい理論を用いた操体法2-6 足趾の操法(快適感覚を外部から積極的に与えるもの)もっとあるのですが、これくらいあります。世の中で知られているのが、2-1です。ただし、私はこのブログでも何度も書いていますが、2-1と2-2を混同している方が非常に多いのです。ききわけるもの(診断に用いるもの)が「運動分析:と「感覚分析」なので、問いかけも違ってくるのは当たり前なのですが。我々から見ると「こっちの痛いのと、こっちの痛くない方、どっちがきもちいいですか?」みたいな問いかけをしているのです。そこのあなた!今の問いかけをみて、違和感を感じませんでしたか?感じたあなたは凄い。感じなかったあなたは、これから知ってくれれば全く問題はありません。「どっちが痛くて、どっちが痛くないか」と動かして診ているのに、「どっちがきもちいい?」と聞いてるんですよ。これ、変ですよね。しつこいですけど、試してみてください。あなたは寝違えて首が痛いです。右に回すと「あたたた」となりますが、左は取り敢えずは痛くありません。そ こ で怪しい治療家が登場し「首が痛いんですね。それでは、首を右に回してみて、それから左にまわしてみて、どちらが痛くないですか?」「で、どちらがきもちいいですか」と聞いているのと同じです。痛くない、は、きもちいい、ではないですよね。これ、未だに多くの人が「痛くない方はきもちいい」という、感覚的・言語的な勘違いをしているのです。自分でやってみればわかるんですが(どちらが楽か辛いかは簡単にわかりますが、どちらがきもちいいか、と聞かれると「わからない」となります。これが「操体って『きもちいい』って言われるけどよくわかんない」と言われることがある由縁です。きもちよくない(痛くないこと)のに、きもちいい?と聞かれても「はあ?」ってなりますよね。 -
臨床と生活にいかす操体法(初日)
こんにちは。畠山裕美です。前回に引き続き、臨床と生活にいかす操体法、ということでお話したいと思います。私は長らく「臨床畑」にいます。医師が創案した治療法(でもありますが、生き方のガイドラインもあります)として、診断(動診)と治療・施術(操法)という面で操体に関わってきました。この辺りはプロの特性というかサガというか、研究しすぎて何だか小難しい話になってしまう。小難しいのではなく、重箱の隅をつつくように操体を学んでいるので、そうなってしまうんですよね。(自分のブログなどでは、臨床家向けに書いているので、一般の方が読むと「なんじゃこりゃ」と思うだろうなといつも思います)ちなみに、有名な話なので、操体に興味のある方は覚えておいてくださいね。操体の創始者、橋本敬三先生は、患者さんには「簡単ダヨ」と言っていたそうです。わら半紙にガリ版で印刷したものを手渡していたとか(ガリ版って、今知っている人はどれくらいいるんでしょうか。昭和40年代頃まではガリ版というか謄写版印刷というのが結構ポピュラーでした)。しかし!弟子には「よくこんな難しいことに足をつっこんだな」と言ったそうです。あと「操体は儲からない」とも。そして「よく、こんな難しいことに足をつっこんだな。でも操体は面白いぞ。一生たのしめるからな」我々は「面白いぞ。一生たのしめるからな」にはまったわけです。確かに面白い、そして一生たのしめると思います。春のフォーラムは4月29日に開催です。
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臨床と生活にいかす操体法・・・7
おはようございます。
桜の花が散っている。
花が散って、道路の側溝に、茶色身を帯びて溜まっている。
車が通ると、花びらは踏まれて、かたちを留めなくなっていく。
無情にも感じる。
しかし、見上げれば桜の木の枝には、新しく瑞々しい葉っぱがついている。
変化は常であり、良い意味で無常。
より良く変化していれば、来年はもっと大きく、多数の美しい花を咲かせているだろう。
変化を受け入れる。
受け入れた上で、より良く生きる。
日常生活は常ではなく、日々生まれ変わり。
より良く生まれ変わる為のサポートをするのが、操体の臨床であり、臨生でもあると思う。
一週間のお付き合い、ありがとうございました。
来週は畠山裕美先生の担当となります。
どうぞ、おたのしみに。 -
臨床と生活にいかす操体法・・・6
おはようございます。
遅咲きの今年の桜も、散り際を迎えている。
先週までは、美しく満開に咲き誇り、春の主役として親しまれていたのに…。
名残惜しい。
桜は美しさと儚さを併せ持つ。
美しく価値あるものだから、散り際は儚く感じてしまうのだと思う。
誰でも自分の人生があり、その人生は美しい。
美しいが、人生は有限。
その美しい人生の主役は自分だろうが、主人公は自分自身。
身がなければ、どうにもならない。
主人公には、本当の自分という意味合いもあるという。
本当の自分とは?
自分が主役としてどう生きるか、という面だけで考えていても埒はあかないと思う。
自分は、「どう生かされて、生きているのか」という自分自身への問いかけも必要。
自分のからだや、からだをとおして、どう生かされているのか?
問いかけながら学ぶ。この学びは、日常生活をはじめ、人生を豊かで優しく美しいものにしていくと思う。
操体臨床も、そうしたからだからの学びなくしては、成り立たないと思う。
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臨床と生活にいかす操体法・・・5
おはようございます。
健康のために歩いているという人は多い。
特に朝の時間帯は、定年を向かえ、これからの人生をたのしく健康に過ごしたいから歩いている、という感じの人をよく見かける。
歩く事は全身運動にもつながり、特に桜の花咲くこの時季であれば、良い気分転換にもなる。
何もしないでいるより、良いのは確かであろう。
何もしないでいるより、良いのは確かだろうが、見ていると何か危なっかしい人もいる。
実際、転んで打撲だけならまだしも膝の皿を割ってしまって、見かけないと思ったら、何か月も入院していたという人もいる。
また、寒い時季に頑張って歩いていて、心筋梗塞を起こして倒れてしまった、という話もよく聞く。
そうした人たちに共通するのが、足腰が弱っては困るから、頑張って足腰を鍛えようという考え方。
しかし、今までの不自然な癖のついた動きから頑張ると、無理をする事につながってしまう。
そして、怪我もしやすくもなる。鍛えようとする前に、バランスを考慮する必要がある。
自分の意図する行動には、必ず調和に向けたからだの動きが関わっている。
このからだの動きに合わせるように行動出来るほど、バランス制御に向き、エントロピーの増大も防げてくる。
逆に、からだの動きと噛み合わなくなるほど、バランスは崩れ、壊れやすくなってしまう。
健康に良いと思って行っている行動が、消耗に向かってしまったり、怪我もしやすくなってしまう。
そうした状態からの無理は禁物である。
やらない方が良いというのではなく、からだにききわけながら行った方が良いという事。どの様な状態に陥っていても、バランス制御に向けたからだの動きは生じている。
それに合わせて、全体的な流れ、循環を良くして、元々備わっている能力を十分に発揮させる。
臨床にもつうじる事だと思う。
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臨床と生活にいかす操体法・・・4
おはようございます。
操体の創始者、橋本敬三先生が昭和の始め頃に書いた書物に、以下のような文面がある。
人が正しきにおれば容姿はおのずから端正となり、
骨格は整い、筋肉も拘緊するところなく、
内臓もその地位に安んじ、
機能は互いに相調和して、健康である。
この文面の内容を満たすには、全身体性のからだの動きと、それに相関する適正な呼吸が必要。
また、この内容だけでも、単線的な物事の捉え方ではなく、バランスが大事であり、生命現象とはバランス現象なのだという事が理解できよう。
バランス現象は動き、流れでもあり、同時相関相補しながら循環して像(カタチ)を成すものである。
よく臨床の場で、「この動きで腰痛が治るんですか?」とか「肩凝りにはどういう動きがいいですか?」とか、○○体操の類やストレッチをするようなニュアンスで、質問を受ける事がある。
しかし、気になる部分を単線的に何とかしても、その時は良いのだけれど、気になる症状が直ぐまたぶり返してくることは多い。
また、無理をすれば、却ってツラクなることも多い。あくまで全体的な調和の元に、気になるところも良くなっていくのだから、生命としての全体のバランス制御に向くからだの動きを導き出す事が肝要。
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臨床と生活にいかす操体法・・・3
おはようございます。
症状、疾患にとらわれる事なく、健康の回復、維持、増進を目的とするのが操体。
これは臨床でも、普段の生活でも同じ事。
何故、それが可能なのか。
それは、操体法が感覚をききわけた自力自療を旨としているから。
自力自療を適えるには、これを自力で行わなければ生存が保てないといった、誰もが行っている生存必須条件の生命活動に着目する。
生命体として、動きと呼吸は必須であり、無意識下でも、からだがエントロピーを増大させないようバランスをとりながら営んでくれている。
そうした、からだ(生命)の叡智を畏敬し、からだの本音を尊重する。
からだの本音は、エントロピー増大には決して向いておらず、気持ちよく快適に限りある生を全うしたいという事。
それを本人にも、感覚をとおして望んでいる。
治しをつけるのは、からだなのであり、からだの本音とその要求に忠実である事。
だから、決して害など無く、最小エネルギーで最大の効果が期待できる。
生存の必須条件である動きと呼吸が、からだの要求に適ってくれば、生命現象も根本からより良く変わっていく。
その先にあるのは、健康の回復、維持、増進であり、その過程で症状疾患も治まりがついてくる。
本来、治しは自力自療なのだが、とかく被験者本人は思惑の建前や理屈に惑わされている。
だからか、臨床の場では「こんなことで、良くなっちゃったんですか?」といった驚きの声もよく聞く。
しかし、治まりをつけたのは自分自身であり、本人のからだ。
操者(施術者)は、からだの本音とその要求に忠実であるよう、サポートするだけ。
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臨床と生活にいかす操体法・・・2
おはようございます。
臨床は臨生でもあり、新たな自分自身へ生まれ変わる場でもあると思う。
新たに、より良く生まれ変わる為の、動きと呼吸。
操体の臨床は、病んだ部分を操者(施術者)が治すという修理をするような場ではない。
操体臨床の目的は、症状、疾患を治すのが目的ではないという事。
今、生じている症状、疾患現象は、生活(生命活動)の間違いから起こっているのであり、その根本である動きと呼吸を正していく。
正していく過程に於いて、今、生じている症状も治まりがついていく。
治まりをつけていくのは、被験者のからだであり、からだの求める動きと呼吸がより良く導き出せるよう、操者(施術者)はお手伝いをする。
被験者も、意識や感覚をとおして、からだの求める動きと呼吸により、良くなっていく過程に立ち会っている。
他人事ではなく、自分事なのであり、そこで得たもの学んだことを、普段の生活のなかでも活用すべきであり、そうすることで再発しづらくなるのは勿論、今までよりもより健康に生まれ変わっていく事が可能となっている。
症状疾患に囚われる事なく、健康回復、維持、増進を目的とするのが操体。
それは臨床以外の普段の生活でも同じ事。
結果は自ずとついてくる。


