投稿者: karib_sotai

  • ふれる習慣2

    家の周りに自生している植物を探索するようになって、

    最初の頃は、なかなか図鑑にのっている本が見つからなかった。

     

    「キュウリグサ」なんていう名前のついた植物は、たくさんの淡い青色のかわいい花が図鑑に載っているが、この花は実際は2mmくらいの大きさなので、サーっとながしてみていると全然気が付かない。

     

    本腰を入れて、しゃがんで食い入るようにその辺の草を観察すると、以外とすぐ見つかる。一度見つかると不思議なもので、次からはすぐ気が付くようになる。

     

    植物学者の牧野富太郎氏が「牧野富太郎植物記」のなかで

    「植物となかよしの友だちになるためには、まずその植物の名を知ることです。(途中省略)草の名を知ると、その草はもうわたしのなかよしの友だちになりました。わたしはなんどもこの友だちにあいにいって、花のしくみや、葉の形、実のすがたなどをこまかくしらべ、しっかりと頭におぼえこみました。

    それからというものは、いつどこで出会ってもこの草はわたしにほほえみかけてくれるようになったのです。」

    と語っているが、なんだかとてもわかるような気がする。

     

     

    一度しっかりと出会った植物は、次からは別の場所で遭遇しても、馴染みの友だちのようなきもちがわいてくる。気のせいかもしれないが、植物がこちらをみてくれているように感じることもある。牧野氏の『ほほえみかけてくれている』という表現がそこに重なる様におもう。

     

    先述のキュウリグサも出会うまでは全然気が付かない存在だったが、一度出会ってからは、少し歩けば目に入る感じで身近な存在へと変化した(実際、我が家の玄関を出て、車道の向こう側にいたのをみつけたときは「あ、こんな近くにいたの?」と驚いた)。

     

    普段いろいろな情報に触れているけれども、見ていないもの、見えていないものもたくさんあることを思い知らされる。

     

    「目」という感覚受容器を使って、日常生活で見ているものが、なんだかとても限られたものになっているような気もちがしてくる。

    そして、植物を眺めていると、刺激的な情報を見ているというよりも、目を通して触れているような感覚になるのが興味深い。

  • ふれる習慣1

    瀧澤さん

    一週間のメッセージありがとうございました。

    植物を前にしていると、生命の大切な秘密に触れているんじゃないか、というようなきもちになりますよね。

     

    本日からテーマ「free(フリー)」を引き継いで寺本が担当します。

    宜しくお願いします。

     

    今年は春先からひとつ続けていることがある。

    それは身近な生き物に目を向けるようになったことだ。

     

    ひとつは、植物。

    主に雑草と呼ばれている生きものに触れるようになった。

     

    前々から、自然に生えてきては、増えて、そして枯れていく植物たちのことが気にはなっていた。でも、ずっと触れ合う糸口のようなものが見つからなかった。

     

    「名前を知らない」ということが、その理由のひとつになっていると思い、一番手軽そうな図鑑を片手に名前を調べることから始めた。

     

     

    「花」を切り口に植物の検索をするのは、面白く、親しみやすい。

     

    家の周りに集団で生えているこの植物の黄色い花、これはなんて名前だろう、、、なんて花の色から図鑑を調べて、「あ、これだ!」と見つけるのも楽しい。

     

    また図鑑をパラパラと眺めながら、「載っている花はないかなぁ」、なんて家の周辺を逆に探索するのも、興味深い。図鑑に載っている植物に出会えると、宝物を見つけたような、まさに宝探しをしているようなきもちになる。

     

    そういった手探りな植物との触れ合いを通じて、「こども心」というものが蘇るような感触がある。これはとても大きな収穫だった。

     

    「そういえば、こどもの頃はこんな風に無心で遊んでいたよなぁ」と感じつつ、それが遠い記憶の再生ではなく、いま実際に自分自身で味わっている感覚だというのがいい。

     

    こども心のような素朴な感性は、眠っているだけでちゃんとからだのどこかに残っている。

    感性のスイッチが入るようなことはみなさんも日々の生活でたくさんあるだろうが、今回はそういうきっかけになるんじゃないかということをいくつか書いてみたいと思う。

  • フリー(free)⑦

     

     

    「からだ」そのものへの理解を深めながら、自分たちを生かしてくれていることにもふれられる操体の学びがあります。

     

    臨床や生活といったそれぞれの場で区切られることのない健康学を体感していると、「からだ」を主語とした感覚意識の世界は、「生命」としての自分とは何だろう、という問いを与えてくれるように感じています。

     

    「自分が」ではなく、「からだ主語」の感覚意識でふれていく「快」の感触は、法則性を、生かされているということを自覚させてくれます。

     

    それは、「これまで」の学びも大事にしながら、そこにとどまることなく、「これから」の眼差しをいただいているというきもちにもさせてくれるんです。

     

     

    「からだ」の中心と重心の捉え方が変わる。

     

     

    新たに感じられる感覚に気づいていくこと、それは、新鮮に感じられることも、「からだ」の記憶につながっていると感じられることもある。

     

    エネルギーやながれといった現象を生みだしてくれている「素」へとつながる想いは、感謝と同質になり、感覚優位の表現を体現していくことと、健康維持増進を体現していくことが重なっていく。

     

    それは、「からだ」にとっても、「こころ」にとっても、「息がしやすい」軽さへと、つながっていくメッセージでもあるのではないでしょうか。

     

     

    一週間お付き合いいただきましてありがとうございました。

     

    明日からは寺本さんにバトンが渡ります。

     

    どうぞ、お愉しみに。

     

  • フリー(free)⑥

     

    植物、特に樹を見ていると、自然体律位と重なってきます。

     

    むしろ、自然体律位によって樹と重なるのを感じるといった方がしっくりくる。

     

    その場にとどまる植物にとっての「その場」とはなんなのかというように、目には見えないつながりをも感じとっているとき、「その場」という環境の捉え方も、「からだ」で共振することを教えてくれます。

     

    環境からのエネルギーのながれを、非対称性の「人」として受け取り、それが循環して巡るとき、「からだ」主体になっていく確かな感触があります。

     

     

    「からだ」は、左右対称の構造(つくり)があり、それが動いている。

     

    長いこと、それにとらわれていたような気がします。

     

    先にそのような形があって、決められた動きがあって、それを頭の中でイメージし、再現する。

     

    こういった学習によって発揮されるパフォーマンスと、「からだ」が主語になり、「からだ」がききわけていることを素直に受け取ることで表現されてくることの違い。

     

    どちらをとるかといった選択的なことではなく、「からだ」そのものの理解を深めながら、自分たちを生かしてくれていることにもふれられる操体の学びの中で、その違いを感じています。

     

  • フリー(free)⑤

     

    先日、ある新聞の記事が目に留まりました。

     

    白神山地のシンボルになっている推定樹齢400年のブナが枯死したというものです。

     

    数年前の台風の影響で、「マザーツリー」と呼ばれるその樹は、幹が折れ、衰えが進行し、今春の芽吹きが確認できなかったために、樹木医に枯死と判断されたそうです。

     

    記事には、台風以前の葉が生い茂っていたころの写真と、現在の枯死と判断された写真が並んで載っていました。

     

    その写真を見たとき、この樹が枯死しているとは思えませんでした。

     

     

    まだ生き続けている。

     

    この樹はまだ何か表現し続けている。

     

     

    そんなふうに感じたんです。

     

     

    その姿は、昨日ふれた自然体律位と重なっていました。

     

  • フリー(free)④

     

    不調を感じているときは、「からだ」と「自分」がずれている。

     

    「からだ」がおかしいわけではないんだなって思うようになったのも操体に出会ってからです。

     

     

    どうして「からだ」と「自分」はずれていくのか、体感して気づくのは意識の使い方にありました。

     

    思考意識になっているときって、本当に「からだ」がおいてけぼりになっている。

     

    「自分の思考」が主語になっていると、「からだ」にとって必要なことは何なのか分からなくなってくる。

     

     

    操体を学び始めてから、「からだにききわける」ということを知り、「からだ」にはからだの意志があり、「からだ」は「快」を要求しているということを、臨床や生活の中で「からだ」の変化をもって体感してきました。

     

    「からだ」に意識を向け、「からだ」にききわけ、「快」を共有していくと、「からだ」と自分のずれは少なくなり、不調は解消され、健康維持増進に向かっていく。

     

    そこには思考意識ではふれられなかった意識感覚の世界がありました。

     

     

    そして今、重心の適正化において、感覚意識の世界にふれています。

     

    「からだ」がききわけていることを素直に感じて委ねていくこと。

     

    それは、スイッチが切り替わるように「からだ」が主語になっていくのですが、それを可能にしてくれるのが自然体律位という立ち方です。

     

    自然体律位と、それに通ずる自分たちを生かしてくれているものの生かし方によって、「からだ」と「自分」のずれが一つの線に重なってくると、「からだからのメッセージ」を受け取りやすくなる。

     

    感覚優位で表現されるいのちの営みへとつながっていきます。

     

  • フリー(Free)③

     

    操体を学ぶ以前は、臨床に携わっていても、いかに症状を改善できるか、ということばかりに意識が向いていたんです。

     

    その為には、テクニック(術)を身につけていくことが必須だと思っていました。

     

    自然治癒力という言葉も知ってはいましたけど、今一つピンときていなかった。

     

    それで、操体を学ぶようになって気づくんです、思考意識で臨床に関わっていたんだなって。

     

    思考意識で再現性の世界を求めていたんです。

     

    テクニック(術)があれば、それが可能だと思い続けていた。

     

     

    でも、「からだ」はもっと解放された存在で、表現の世界に生きているんです。

     

    「生きる限り快適に満足して充分に生きたし」という生きる姿勢を可能にするのは、感覚意識で「からだ」の表現に気づいていくこと。

     

    そうすると、臨床の関わり方も「からだ」が主語に変わってくるし、「からだ」がききわけていることに委ねるという点において、臨床と生活の垣根もなくなってくる。

     

     

    向かい合うべきは「からだ」と、その「からだ」がききわけていること。

     

    そういうことを今、操体をとおして学んでいます。

     

  • フリー(free)②

     

    昨日の続きですけど、「ことば」も「呼吸」もリズムだなって感じるんです。

     

    すっと入ってくることもあれば、ふっと抜けたりすることもある。

     

    受け取ってからの「間(ま)」もあって、こんなふうに伝わっていくんだなという確かな感触がある。

     

    その伝わり方は、刻む時間の長さとは関係ないし、コントロールされたものとも違う。

     

     

    感覚意識になっていると、上手い、下手って気にならなくなってくるんです。

     

    それよりも、からだがききわけているリズムになっているかどうか。

     

    「こうしなきゃ」っていう思考が外れると、感覚優位のリズムで表現されてくる。

     

     

    ゆっくり。

     

    じっくり。

     

    しっくり。

     

     

    空間を介して、「からだ」と「からだ」を行き来する。

     

     

    そのようなことを体感していると、いのちの可能性が広がってくると感じられるんです。

     

  • フリー(free)①

     

    岡村さん、一週間のメッセージ

    ありがとうございます。

     

    今日からテーマ「フリー(free)」を引き継ぐ瀧澤です。

    よろしくお願い致します。

     

     

    共振して連鎖する感覚意識の「ことば」って「からだ」に届くんです。

     

     

    思考や嗜好のフィルターなんか全然機能しなくなって、もっと深いところにすっと入ってくる。

     

    それでいて、思考や嗜好のもっと手前で、それこそ、「ふれる」瞬間に素で受け取っている。

     

    志向は「からだ」と共感して重なってくるから、「からだ」がききわけていることとして、素直に委ねられる。

     

     

    呼吸と一緒。

     

     

    「ことばが入ってくる」実感と、「息(そく)が入ってくる」実感は重なるんです。

     

    どちらも、「からだ」の内部と外部を循環しながら往来する。

     

    境目でふれているから、「圧」だって生じる。

     

    「感じられる」とか「響いてくる」とか「残っている」とか、メッセージの指向は「からだ」からだから。

     

     

    感覚意識になっていると、「ことば」も「呼吸」も元は同じとおもえてくる。

     

    自分たちを生かしてくれている素として伝わってくる。

     

  • 「フリー(Free)」⑦

    質量のある物質もまた、

    質量のないエネルギーの、一つの様態である。

     

    全身を通じて「からだ」に、「圧」を纏って貫通している。

     

    「からだ」の外にも脳がある。

     

    「からだ」を外れても、はみ出しても、感覚受容は可能。

     

    それに「からだ」は、つなぐことができる。

     

    生命の感覚を「からだのうつわ」で受け、探求者として育む。

     

    「からだ」を主語にして、本人の意識も変容していく。

     

    自己の思考は消せる。

     

    共生・共感・共有する「宇宙意識」につながる。

     

    原始生命に、果てしない「快」がある。

     

    「操体」を学んでいればこそ、不思議を愉しみとして受ける。

     

     

    エネルギーのインプット・アウトプットで感じる、「環境」。

     

    それが、一つとなる体験こそ、

    「原始感覚」そのものではないだろうか。

     

     

    以上ももちまして一週間のお付き合いとなり、有難うございました。

     

    明日からは瀧澤副実行委員長の登場です!お愉しみに。