投稿者: karib_sotai

  • 二日目

    先々週は七日間、先週は四日間継続して臨床と指導の場に立っている。

     

    さすがに今日は昼頃まで眠っていた。

     

    休診日一日、好きに使える真乃時である。

     

    解放される。

     

     

     

  • 初日

    毎年6月になると印税が振り込まれてくる。

     

    額はともかく、出版から37年間絶版にもならづに、

    今でも読者がいることに感謝である。

     

     

  • Free 七日目

    「型」は大事だと言われます。
    また、空手系の人に聞いてみると、たまに「型はつまらないから、自由組み手からやらせてください」という、こわいもの知らず?の初学者がいるとかいないとか。
     
    これって
    「般若身経ってつまんないから、早く動診操法を教えてください」と同じようなことなんです。
     
    般若身経ってつまんないから→こわいもの知らず。あの奥深さを知らない。
    ちなみに型をやりこむとどんなメリットがあるかといえば、無意識のうちにその動きを繰り出すことができます。
    武術などはその最たるものです。
    ああいう動きは、普段から練習していないと、咄嗟には出ないんです。
     
    というわけで、自由の前には型があるわけだよ!という1週間を畠山裕美が担当致しました。
     
    明日からは三浦寛先生の担当になります。 1週間ありがとうございました。
     

     
  • Free 六日目

    どうも
    Free というテーマをもらってから、
    フリースタイルの前には、型がある、ということが脳裏に浮かびます。
    大昔、私のところに
    「基本の操体は効かないから、応用操体を教えてくれ」という問い合わせがありました。
     
    そもそも「基本の操体は効かないってどういうことだ」と思いました。
    ただ、指導するにも「基本はすっ飛ばして応用から教えて」と言われても、基礎(と、基礎の前の型というか道筋)ができていない人にいきなり応用っていうのは難しい、という話をした記憶があります。
     
    多分この方が「基本の操体は効かない」(そんなことは絶対ない)とおっしゃったのは、般若身経や、身体運動の法則(重心安定の法則、重心移動の法則、連動の法則)をしっかり理解していたのかどうか、また、本を読んだだけで、憶測で試してみて「効かない」と言ったのか。
     
    つまり、型をやらずにいきなり操法をやってみたのではないかと思いました。
     

  • Free 五日目

    シバリがあるから、面白い。
     
    東京操体フォーラムの相談役、デーブ川崎さんが「お笑い大惨寺」というオンラインイベントをやっていらっしゃいます。
     
    江戸雑俳とか川柳とか「ことばあそび」を越えた深い世界なんですが、
    この辺り、色々なルール(シバリ)を設定します。
    例えば 川柳・笠附なら、句のアタマに「○○○○○」をつけて一句詠みなさいとか、そのシバリの中で遊んでみることなんです。
    これ、結構アタマを使います。私は投稿もせずに(メンバーには入っている)、みんなすごいな〜!と唸ってるだけなんですけどね。
     

  • Free 三日目

    操体も、最初は「身体運動の法則」とか「般若身経」のような型から入る。
    ただ、殆どの人は、かっこいい操法とか○○に効く操法とか、そういうのをやりたがる。
     
    どこか痛くて調子が悪くて、操体に興味を持って自分でやりたい、と言う人も、型じゃなくて操法を知りたいという。
     
    例えば、日本に三浦寛先生という操体の凄い先生がいるとする。
    そこで習える操体は、百歩くらい先を行っているし、弟子が追従して新しいものを検証し続けている。
     
    さて、三浦先生に操体を習いたい、と決意した際、大事なことがある。
     
    それは「三浦先生に会いに行く道順」を調べることだ。
     
    幾ら操体を習いたいと決意をして準備しても、先生にどうやった会えるのか、どういう交通手段を使えばいいのか、それが分からないと先生に会いにいけない。
     
    操体の「型」というのは、この「先生に会いにいく道順を調べる」ことに似ている。
     
    そもそも、受講料とか期間が大丈夫でも、ここが解決できないと、勉強が始められないんです。
     

  • Free 二日目

    これはことある毎にネタとして話すのですが(またかい、という人がいると思うけど、ごめんね)
    私の患者さんがあるところに行って操体を受けた時、
    畳敷きの道場みたいな部屋に通され
     
    「ここで自由に好きにきもちよく動いてください」と言われ
     
    「えっ」となったそうです。
     
    冷静に考えると、これで「操体」と言って治療費取るのかよオイコラ!みたいな感じです(払ったそうですが。。。。)。
     
    それで「操体ってこんなに不親切なものなの?」と思い私のところに来たんです。
     
    操体はそんなに不親切なものじゃないですし、もっとカラダに寄り添って臨床を進めます。
     
     
    勿論東京操体フォーラムの実行委員だったら「お!広くていいな。しめしめ」とばかりに、自力自動の動診操法をやるでしょう。
     
    ただ、操体の初心者の方に「好きに自由にきもちよく動け」って、それはないだろう、という話です。
    というかこんなところがまだあったら「施術料返せ」とになりますよ。
     
    ちなみに我々は「好きに自由にきもちよく動け」なんていうことは言いません。操体法東京研究会出身者がそんなことを言ったら、師匠のカミナリが落ちるのは明白です。
     
     
    操体には、診断にあたる「動診」「分析」があります。
    また、主役は「からだ」です。
    「わたし」のエゴでもなく、「からだ」です。
     
    何度でもいいますよ。主役は「からだ」です。
     
    それをやってみる。そこで快適感覚の有無をききわける。(動診)
     
    ★きもちよく動く、のではなく、動きを表現してみないとそれが快なのかそうではないのかわからないですよね。
     
    ききわけられて、そのきもちのよさを味わってみたいというからだの要求があれば、それを味わう(きもちよさを味わうことが操法となる)。
     
    ちなみに、快を聞き分け味わっている時は、からだに委ねているので、想像を超えたからだの表現が見られることがあります。
     
    つまり
    診断分析(動診)の時は、一定の型にそってからだに(うごきを)表現してもらう。
    快適感覚の有無を「からだ」に、ききわける
    聞き分けた快適感覚、味わってみたいのか否か「からだ」にききわける。
    「からだ」が味わって見たい要求を満たしていれば、その快適感覚を味わう
     
    味わっている時は、からだに委ねているので、「からだの無意識の動き・表現」が発動されることもある。これは意識的なものではないので、型やパターンには当てはまらない。また、十人十色の表現でもある。
     
     

    「型」の練習。
  • Free 初日

    ” data-en-clipboard=”true”> 
    ” data-en-clipboard=”true”>こんにちは。畠山裕美です。
    テーマは「Free」。自由、ということですね。
     
    この辺り、すでにトム・ペティの
    Free Falling が浮かぶ私です。
    貼り付けたのは、MTVアワードかなにかで、トム・ペティとアクセル・ローズが一緒に歌っているという貴重な映像です。
     
    しかし名曲だわこりゃ。
     
     


    www.youtube.com

    あ、こちらはSteve Jonesの Freedom Figterです。この曲もかっこいいですな。

     
     
     
    ある文章の講座で、いきなり「何でもいいから好きなテーマで自由に書いて」と言われ『全然書けなかった」という話を聞きました。
     
    これ、1カ所だけじゃなくて数ヶ所から聞くので、そういう指導をしているところもあるんだなあ、と思います。
     
    この講座が、本をもう何冊か出してます、くらいの人ならばネタはあるでしょうから「よっしゃ、あれ書いたるか」と、執筆できるかもしれません。
     
    ただ、もしあなたがその手のことは全く初めてで、おまけに作文系は昔から苦手だし、という状況だとしたら、書けなくてもおかしくはありません。
    というか、文章習いに行ったのに「何でもいいから自由に書け」と言われてもかけるわけないじゃん!
     

  • フリー(free)・・・7

    おはようございます。

     

    何年か前に、新聞で目にした「老年的超越」という言葉が、ふと思い浮かんだ。

     

    東京都健康長寿センター研究所の増井幸恵氏によると、「老年的超越」とは85歳以上の高齢者に起こる心理状態を指し、スウェーデンの社会学者、ラルス・トルンスタムが1989年に提唱したという。

     

    それによると、85歳を超える高齢になってくると、それまでの物質的で合理的な世界観が、宇宙的、超越的、非合理的な世界観へと変化していくのだという。

     

    わかりやすい例を挙げれば、以下のようになるという。

    ・自分自身への関心が薄らぎ、身体機能の低下や容姿の衰えも気にならなくなる。

    ・お金や社会的ポジションへの執着心がなくなり、自らのことより周りのことを大切に考えるようになる。

    ・社会との向き合い方が変わり、表面的な人間関係や友達の数などにこだわらなくなる。

    ・自分の存在が過去から未来への大きな流れの一部であることを感じる。

    ・物理的に離れたところにいる人、先祖や昔の人とのつながりをしみじみと思う。

    ・生命の神秘を感じ、死への恐怖も消えていく。

    歳をとれば、肉体的、体力的に衰え、若い時のように外に向けた自由というのは、制限されてくるであろう。

    しかし、失うものへの恐怖心から解放されて、心の奥底への旅というか、内から宇宙、宇宙を超えた祖神の里につながる自由の愉しみがあるならば、歳をとるのも悪くないように思える。

    長生きして、そうした幸福感も味わうべきだと思うし、そうでなければ勿体無いとも思う。

     

    更に希望を申すならば、肉体的、体力的衰えは自力自療でカバーして、外に向けた自由をたのしみ、内に向けた自由も愉しみ、より多幸感を味わいたい。

    そうした希望を叶える可能性が、操体にはあると思う。

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。
    来週は畠山裕美先生の担当となります。
    どうぞ、おたのしみに。

  • フリー(free)・・・6

    おはようございます。

     

    思考による縛りは、自分や自分のからだの自由と可能性を狭めていると感じる。

    なかでも、操体の学びにとっての大敵は、固定観念からの思考による縛り。

     

    人間の重心についても、古来より長い間、固定観念が定着してしまっていると思う。

    思考だけだと、どうしても物と同じような捉え方で、物体としての人体の中心という考え方になりやすいと思う。

     

    しかし、生命体としての人間のからだは、物とは違う。

    また、金属部品から形成され、電気を動力源として動く金属機械とも違う。

    私達のからだは、重力とともにある生かされし空間と関わり、息をし、動き、生命エネルギーの入出力を行いながら、像(カタチ)を保っている。

    まず構造や形態ありきではなく、空間と関わりながらの息、動を主とする生命エネルビーのバランスが崩れれば、その構造や形態は保てない存在なのだ。

    そうした事実に則れば、重力とともにある生かされし空間と調和し、正当な息と動が成る重心の定め方こそ、真理なのではないだろうか。
    そして、そこに真の健康体としての像はあると思う。

    決して、固定観念からの物体的中心が、重心になるとは限らないと思う。

    私たちの師である三浦寛先生は、何年か前より重心の適正化を提唱している。

    先生こそ真の真理の求道者であり、50年以上の臨床経験から得た真理である重心の適正化は、素晴らしいものである。

    自由で満足して生きる為には、健康は欠かせないが、誰もを健康に導くものだと感じている。