投稿者: karib_sotai

  • 「からだとじぶんの自由 ~その5~」

    操体を学び始めてから15年近くの歳月が経ちましたが、年々自身の学びの姿が自由うになってきているように感じます。

     

     

    動き、呼吸、動診における介助・補助。

     

     

    その問いかけが自由になってきているのも、からだが要求していることが瞬時に感覚的に理解出来るようになってきたからなのだと思います。

     

     

    これもじぶんの操体、またはからだの理解度が深まってきたというよりも、自身のからだが教えてくれているように感じます。

     

     

    学び始めた当時は教わったことを何度も繰り返し、自分の思い描くイメージをからだで再現していくことをゴールにしていました。

     

     

    それはからだの学習よりも脳の学習が先立って、どこか不自由さを感じていたのを覚えています。

     

     

     

    しかし、ある時からそういった不自由さが消え、からだと向き合う中で自由な発想が生れるようになってきました。

     

     

    教わったことをそのままやるのではなく、からだを通じて、感覚を通じて生れてきた発想を形にしていくような感じです。

     

     

    そういうじぶんに変化してこれたのも、正当なからだの使い方をしていく中でからだとの信頼関係が築けたからなのだと思います。

     

     

     

    生きることにおける主導権はからだに委ねるのは決して簡単なことではありません。

     

     

    しかし重心の適性化の中で正当なからだの使い方をしていけば、からだは私達に絶対的な安心感を与えてくれる。

     

    その安心感は「自由」を与えてくれるように思います。 

  • 「からだとじぶんの自由 ~その4~」

    からだが自由を得るためには学ぶことと同じように動きも点を線にしていく必要があります。

     

     

    例えば操体でもからだを使う・動かすことにおいて重視している母指球や肩甲骨等もただそれを意識して使えばよいわけではありません。

     

     

    そこを意識し動かすことでからだのどの部位がよりよく活きてくるのか学習をする必要があります。

     

     

     

    指の末端から足のつま先まで動きが表現出来る部位全てに繋がりがあり、そこには「ながれ」がある。

     

     

    そのながれが呼吸と共にスムーズに流れれば、からだの動きは自由な表現の世界になる。

     

     

    その中でききわけられる感覚こそが本人の思考が関与しない「からだがききわけている感覚」ということです。

  • 「からだとじぶんの自由 ~その3~」

    そもそも人が有している「感覚」とは一体何なのだろうか?

     

     

    よく感覚の話をすると大前提として

     

     

    人それぞれ違うもの

     

     

    その時々によって変化するもの

     

     

    その時のからだの状態によって変わってくるもの

     

     

    として認識されている。

     

     

    つまり一般的には感覚とは無形なるもので常に変化し続けているものとして捉えられている。

     

     

    しかし見方を少し変えて主語を「からだ」にしてみる。

     

     

    からだが本来ききわけている感覚はひとりひとりに違いが生じるのだろうか?

     

     

    わたしが自身のからだや臨床等でみる限り、多少の誤差はあるかもしれないが、それらに違いはなく全てが快のベクトルに向いているように思います。

     

     

    なので、わたしたちはこの学びの中で「からだがききわけていること」に素直に従うことを重視しているのです。

     

     

    この素直さこそが、からだを自由にする秘訣なのかもしれません。

     

  • 「からだとじぶんの自由 ~その2~」

    昨日の続きになりますが「じぶんにとっての自由」、そして「からだにとっての自由」とは何なのかを常に考えています。

     

     

    本日はわたしが考える「からだにとっての自由」を少し書いていきたいと思います。

     

     

    この捉え方は様々な見方、捉え方があると思いますが、大抵の人は運動という枠の中で動かし、鍛えていくことで得られるものだと捉えられているように見えます。

     

     

    また別の問いかけ方としては運動ではなく、からだの歪みを正していくことで得られるものだとも考えられます。

     

     

    どちらも良し悪しはともかく、それを維持し、健康の増進に繋げていくにはかなりの労力が必要になる。

     

     

    そして何よりそれらを実践してことにおいて「壊れる」可能性も無視は出来ない。

     

     

    そのリスクを出来るだけ回避し、より信用のおけるものとは何なのかを自由を得るためには考える必要があります。

     

     

    操体ではそのからだの自由にしていく1つの問いかけが「感覚」なのです。

  • 「からだとじぶんの自由 ~その1~」

    三浦先生、一週間ありがとうございました。

     

     

    本日から三浦寛幸が担当致しますのでお付き合い下さい。

     

     

    今回のテーマは引き続き「フリー(free)」となります。

     

     

     

    最近、周囲の人達との会話の中で健康に関する話がとても増えてきたように感じます。

     

     

    体調管理に必要な情報や食べ物、暑さ対策等、数え上げればキリがないほどの情報が身近にはあり、それを少しでも多く共有していこうという姿勢が伝わってきます。

     

     

    そういう会話の中でわたしにも何か健康に関する必要な情報を求められることがあります。

     

     

    その時に「こういうのを食べればよい」「こういう運動をしたらよい」等の一般の人達が求めている具体的なノウハウは答えられませんが、1つだけアドバイスをしています。

     

     

    「からだに問いかければよい」ということです。

     

     

    それを実践していけばからだにアプローチばかりしようとするじぶんの姿もメッセージを受け取るじぶんに変化してくる。

     

     

    このからだとの会話のキャッチボールをしていくじぶんの意識の持ち方で特別なことをしなくても自身の健康に必要なものが自ずと見えてくるようになります。

     

     

    それが「じぶんとからだにとっての自由」なのだと思います。

  • 七日目

    圧とは重さではない。

     

    重さを感じない生命くうかんのことである。

     

    それが圧である。

     

    三浦寛

     

  • 六日目

    運動系のヒズミも、重心の不正も、からだの動きと流れ、息の適性も、圧の変化、内圧の変化である。

     

     

  • 五日目

    この二つの くうかん が 圧の変化に重要な影響を与えていることに気づいた。

     

  • 四日目

    橋本先生の晩年、朝目が醒める時間、ふとわいてきた言葉があったという。

     

    それが、原始感覚は圧の変化である、という言葉である。

     

    よく親しんできた内容だが、今再度圧の変化に問いかけてみる。

     

    近頃 くうかん に意識が向いている。

     

    この くうかん には二種類あることに気づいた。

     

    空間と、からだ内部の腔間である。

     

    ごく最近まで、腔間にはほとんど意識がなかったことである。

     

    関心がなかった。

     

     

     

     

  • 三日目

    亡き母に生前「地味な仕事につくんだよ」と、聞かされた。

     

    私はその事を守っているようだ。

     

    コツコツと身につけていくことが性にあっている。

     

    長つづきしているってことは、カッコイイんだと思う。

     

    あくびしちゃった。