投稿者: karib_sotai

  • メッセージを生かしていく④

     

     

    「不快」につながるような「感覚」。

     

    例えば、「痛み」なんかもそうですね。

     

    なんでこんな「痛み」にとらわれなければいけないんだろう。

     

    「痛み」なんか早くなくなってくれればいいのに。

     

    以前はよく運動中にケガをして痛めることが多かったのですが、こんなふうにどこか「たにんごと」のように感じていた「自分」がいました。

     

    臨床に携わるようになり、患者さんの「痛み」とは向き合っていても、いざ「自分」のこととなると、その「痛み」の背景にあることにはあまり意識が向いていなかったというのが正直なところです。

     

    「痛み」さえとれればいい、それは当時の臨床観にも通じていました。

     

    それが「操体」を学ぶようになると、不思議なもので、どこか「たにんごと」だった「痛み」が、「じぶんごと」として感じられるようになってきたんです。

     

    「自分」の観点でしか物事を捉えられていなかったときは「たにんごと」だったのに、「からだ」の観点で捉えられるようになってくると「じぶんごと」になってくる。

     

    「からだごと」があっての「じぶんごと」、それは、自分勝手の「自分ごと」とはまるで違うこと。

     

    「痛み」という「感覚」に限らず、「からだ」から「じぶん」というメッセージの「ながれ」を素直に受け取れるようになっていけば、想念の在り方もおのずと変化してくる。

     

    そのメッセージの背景にあることに意識が向いてくれば、「からだ」、そして、「じぶん」を生かしてくれている法則性に気づいて、「こころ」も安定してくるのではないかと感じています。

     

  • メッセージを生かしていく③

     

    「操体」で大事にしている「からだからのメッセージ」。

     

    それは、「感覚」という、わたしたちがよりよく生きていくために必要なメッセージです。

     

    それをある種の「情報」と捉えることもできますが、「メッセージ」として受け取るのでなければ、単に「感覚」を対象化して眺めたリ、あるいは、「思考」で意味づけをして処理してしまう。

     

    特に「不快」につながるような「感覚」は、そのような傾向が多いように思えます。

     

    ただ、臨床の場で体感するのは、そういった「感覚」の捉え方が変化していくということです。

     

    はじめは「不快」な「感覚」をネガティブに捉え、「不快」という枠に閉じ込めたり、もっとひどくなるんじゃないかと妄想苦につながっていたのが、「からだ」の観点になると受け入れられるようになってくる。

     

    「からだ」の観点から受け入れられるようになってくると、意識の振り子が「不快」から「快」に転じていくプロセスも起こってくる。

     

    そういった変化に立ち会うとき、「感覚」を「メッセージ」として受け取るようになってきているんだなと、「からだ」にも「こころ」にも響いてくるんです。

  • メッセージを生かしていく②

     

    「じぶんごと」、「からだごと」、「くうかんごと」が重なってくると、「メッセージ」として届いてくるものに気づきやすくなる。

     

    感覚的な表現になってしまうようなことも、実際に体感すると、妙に腑に落ちてくるんです。

     

    例えば、臨床の場において、患者さんから抱えている症状が発症する機序やどう対応していったらいいのか、訊かれることってありますよね。

     

    操体臨床においても、操体の観点からお伝えすることがありますが、言葉だけだとなかなか点と点が線でつながらず、理解に及ばないこともあります。

     

    そんなときは、「言葉で伝えること」を「からだに伝えること」に切り替える。

     

    操体臨床は、「思考」で理解しようとする意識をとばして、「からだ」に直接伝えていきます。

     

    臨床後、ふと、昔の記憶を思い出して語ってくださったり、部屋に飾ってある師の色紙に目がいって読んでくださったりすることがあります。

     

    それがきっかけで、はじめはつながらなかった点と点が線でつながっていくことがあるんです。

     

    点と点をつないでくれたのは、「思考」による「言葉」の理解ではなく、「からだ」に伝わった接触感覚による振動意識、つまりは「からだからのメッセージ」。

     

    「からだからのメッセージ」によって「想念」は変化し、新たに「ことば」も生まれてくるし、周囲に向く意識も変わってくる。

     

    それは新たな「メッセージ」に気づくことにもつながります。

     

    このような場を体感していると、「メッセージ」をとおして、「じぶんごと」、「からだごと」、「くうかんごと」が重なってくるプロセスが「操体」にはあるんだなあ、と確かに感じられるのです。

  • メッセージを生かしていく①

     

    岡村さん、一週間のメッセージありがとうございます。

     

    心の振動により、テーマ「フリー」を引き継ぐ瀧澤です。

    今日から一週間よろしくお願い致します。

     

     

    からだが「くうかん」であればこそ、その「くうかん」に響くように、伝わっていく「ことば」はある。

     

    最近は、そういった「ことば」を含めて、届いてくる情報を受け取るときに、情報とメッセージの違いにふれる機会が増えてきました。

     

    感覚的な表現になりますが、「メッセージ」とは、伝わってくる「ながれ」によって直にふれている「感覚」を味わわせてくれるもの。

     

    それは、単に知識として情報を得るということとは全く別次元のできごとです。

     

    わたしたちは、ことあるごとにメッセージに触れているし、振れている、そうおもえる確かな感触があります。

     

    その確かな感触は、接触感覚による振動意識であればこそ、生まれてくるものであり、故に共振し、共感し、感動することも、感謝することもできる。

     

    そんなふうに想うのも、「操体」を継続して学んでいると、「じぶんごと」、「からだごと」、「くうかんごと」として物事と向き合い、その背後にある成り立ちにさえ意識が向くようになってくるからです。

     

    「じぶんごと」、「からだごと」、「くうかんごと」が重なってくると、「メッセージ」として届いてくるものに気づきやすくなる。

     

    その継続は、届いたメッセージを生かしていくことにもつながっていきます。

  • 心の振動⑦

    (続きです)

     

    脳外科医の先生は語り続けます。

     

    (※注:脳自体には「痛み」を感じる神経がありません。

     皮膚に局所麻酔して可能な「アタマ」への問いかけです)

     

     

    その脳手術行為の途中、

    何回も、何回も、患者に話しかけます。

     

    「痛みはありますか?」

    「話はできますか?」

    「昨日の夜、なにを食べたか覚えてますか?」

    「どこで生まれましたか?」

    「あなたはシンガーでしたよね、

     ちょっと歌を歌ってもらえますか?」

     

    このような問いかけの後、

    患者の症状が変動することは、ほぼ全例であります。

    (※注:高次脳機能障害が発生すること)

    それを、どう捉えたらいいんだろうと、毎回、自問します。

     

     

    この独白を感じとり、如何でしたでしょうか。

    脳外科医の先生が語られる事実は、「操体」の「想念」から考えて

    みると相当に興味深く、操体の「想念」にヒントを与えてくれます。

     

    「からだ」が、感覚で分離したケースにおいての「アタマ」主体では、

    「からだ」の意識・無意識を介した「心」

    には、響気にくい状態になりうる。

     

    「アタマ」で考えて、脳実質を介しての

    言葉にする使い方となる。

     

    いいとか悪いではない。

    物事の観点が変われば、感じ方、考え方、心の持ちようが変わる。

     

    「心」の持ちようが変われば、言葉の使い方も変わってくる。

     

    「心」の持ちようが変われば、「間」わりの現象も変わってくる。

     

    さて、今週のブログ「フリー」にお付き合い頂き、

    有難うございました。

     

    明日からは、瀧澤副実行委員長の登場です、

    お愉しみに。

  • 心の振動⑥

    (続きです)

     

    脳外科医の先生の語りは続きます。

     

     

    脳実質を切っていく行為は、なんと表現したらいいのか、

    よくわからないんです。

     

    だけど、大変特別な、そして不思議なプロセスなのです。

     

    うまく、表現できない。

    人の脳を、ザクザク、切っていく感覚。

     

    その行為が、

    その人の、

    患者さんの「心」というか、

    「意識」というか、

    高次脳機能を切り込んでいるような気に、

    どうしても、囚(とらわ)れるからです。

     

    当然、あくまでそう、感じるだけでしょう。

     

    わかってもらえるか、わからないけど。

     

    うまく説明できているか、わからないけど。

     

    自分が切っている、

    豆腐のような目の前の脳実質組織と、

    その向こうにいる患者と、話をして、

    脳機能を、その場で、自ら、確認していること。

     

    このことに相関性があるとは、

    アタマでの理解はあれど、正直、そう思えないわけです。

     

     

    このような体感語で、

    「心」の振動で、語ってくれたのです。

     

                          (続く)

  • 心の振動⑤

    (続きです)

     

    また、違う機会に興味深く考えてしまう、

    現役脳外科医の先生のエピソードがありました。

     

     

    「『心』は脳機能の一部ですか?」

     

    この質問に関して、脳外科医の先生は静かに、

    できるだけ、興奮を抑えるかの如く、語りました。

     

     

    毎週のように覚醒下手術 (awake) をしていて、

    不思議に思うことがあるので紹介します。

     

    (※覚醒下手術の定義:術中に患者さんを覚醒させ、

     運動・言語機能・高次脳機能の局在を同定し、神経

     機能リアルタイムでモニタリングする手術術式)

     

    脳外科の手術において、おそらく唯一、

    「脳実質」を切って進んでいくのが、悪性脳腫瘍手術です。

     

    つまり、良性脳腫瘍手術も、脳血管障害も、機能脳手術も、

    下垂体腺腫のエンドスコープも、脳のシワを分けて進むか、

    脳実質には、極細の針を刺すのみです。

     

    つまり、脳実質をザックリと切っていくわけではない、と。

     

    脳実質を切っていく行為は、なんと表現したらいいのか、

    よくわからないんです。

     

    と、心情のような語りとなってきて、

    心の振動により共鳴して感じたこと。

     

    たしかに、この特殊な術式「覚醒下手術」において、

    「アタマ」では不思議で理解しにくいのですが、

    これを踏まえて興味深かったことは、この続きなのです。

               

                  (続く)

     

  • 想念、心の振動④

    (続きです)

     

    少し前、ベテラン外科医の先生から伺った話。

     

    「がんの発生原因は、根本的に何だと思いますか?」という、

    質問があったのです。

     

    外科医の先生はしばらく、最新の一般医学的見解を口頭で説明

    してくれましたが、その後、個人的見解として語られたこと。

     

    これこそ、現役外科医の体感だと、神妙に「心」に響いたのです。

     

    (以下、メモ書き)

     

    自己体験と並行して、望んだことではなく、自らの母親が、

    「多発転移性の膵臓癌」に診断されるという、状況に直面し、

    解決したこと。

     

    さらにいうと、人間の肉体性と、人間の精神性について。

     

    個人的な友人の専門家との共同研究をしつつ、思うこと。

     

    それを、誤解を恐れず語るならば。

     

    「がん」を自らの身体に作り上げるのは、 

    その「からだ」の中に内包し、

    咀嚼排泄できない「怒り」の蓄積だろう、そう思います。

     

    このように、語ってくれました。

     

     

    この「感情」、「心」といわれている関わりを、その条件、

    「振動」状態を、とらえて語られたのでしょう。

     

    繰り返しますが、外科医の先生は、ガンのもたらす「怒り」

    という、ある「腔」の振動状態。

    それを感覚的表現の、「怒り」という言葉で表現したのです。

     

                           (続く)

  • 想念、心の振動③

    (前回の続きです)

     

    内臓系の神経回路を「自律神経」といいます。

     

    これは例え「脳死」したとしても、

    生命維持自体は可能なことからも明らかです。

     

    日本の言葉にも、このようにあります。

     

    「胸が高鳴る」

    「胸躍らせる」

    「胸騒ぎ」

    「胸が張り裂ける」

    「心が痛む」

    「腹がたつ」

    「はらわたが煮え繰り返る」

    「腹の虫が収まらない」

    「腹黒い」

    「断腸の想い」

     

    まだありますが、感情表現で「内臓」を使った表現が

    とても多いのです。

     

    ゆえに「心」の在処も、アタマ(脳実質)だけではない。

     

    「祖神の里」からの振動、その所以ではないでしょうか。

     

                                (続く)

     

  • 想念、心の振動②

    経験や知識がいくら増えても、

    新しい謎は減りません。

     

    理解の先に、

    もっと大きな驚きが待っている。

    これがホントの、「操体」です。

     

     

    「からだ」で感覚したことを学びに活かす。

    それこそ、「操体」を積み重ねた証です。

     

    「からだ」に訊くことこそ、天晴れなのです。

    「脳実質」は、晴れて透き通った状態で使う。

     

    透きとおった空間と、「心」の芯が

    重なる腔間になったとき、軸を介して

    「心」は開き、天晴れ状態に繋がる、

    そう考えます。

     

     

    それでは、テーマを繋げるように、

    「腔間」と「心」にも触れていきます。

     

    西原克成先生の著書「内臓が生みだす心」という本があります。

    書中にある内容は、米国で行われる

    「心肺同時移植」手術を受けた方の性格が、

    ドナーのものに置き換わる事実で始まります。

     

    本質的には、心=脳ではないのかもしれない。

    この事実を理由づけている一つの考察が、

    「発生学」なのです。

     

    つまり、

    腸管とそこに付随する器官からなる腔腸類、

    これこそ脊椎動物の祖先。

     

    そこを埋めるように筋骨格系ができて、

    全身をコントロールするために、脳実質は

    できてきます。

     

    ですから脳実質は、あくまで、

    「コントローラー」であって、

    そこに「心」そのものはありません。

     

    故に、操体の想念もシンプルになればこそ、

    アタマだけでは理解出来ないわけです。

     

                                      (続く)