投稿者: karib_sotai

  • フリー(free)・・・5

    おはようございます。

     

    操体の4つのバルの戒めのなかの、「縛るな」という戒め。

    「縛る」というのは、対人的に自由を制限してしまう、場合によっては、自由を奪う事につながるのが理解できる。

    また、対人的な縛りだけでなく、自分や自分のからだの自由と可能性を狭める縛りもある。

     

    それは、自分の思考による縛り。

    自分の思考によって、本来できることも、始めから出来なくしてしまったりしていないだろうか?

     

    往々にして、思考の仕方も癖がつきやすい。

    思考の仕方の癖は、心の持ち方に影響を受ける。

    そして、心の持ち方は、言葉の指示性に左右される。

     

    「どうせ私なんか」

    「そんなの出来るわけない」

    「歳だからしょうがない」

    「○○病なんだから」

    ・・・etc。
    といった、普段何気なく口にしている否定的な言葉。

     

    自分で口にした否定的な言葉は、先程とは逆の順序を辿り、負の固定観念を思考に植え付けさせ、自分自身を縛り、自由や可能性を自ら放棄することにつながってしまう。

     

    言葉の統制というのも、自分や自分のからだの可能性を妨げない為に、また生き活きと自由に生きる為に必要だと思う。

  • フリー(free)・・・4

    おはようございます。

     

    操体には、4つのバルの戒めというのがある。

    「頑張るな」「欲張るな」「威張るな」「縛るな」の4つ。

    漢字で書くと分かりずらいが、声に出してみれば皆「バル」がついている。

     

    この中の「縛るな」。

    「縛る」というのは、自由にとって大敵と思える。

    わかりやすい例として、昔の奴隷制度のような縛りは、本当に自由を奪っていると思う。

    そして、そういうのは良くない事だと、誰でも思う筈。

     

    しかし、自分でも知らないうちに、相手を縛ってしまっているという事もあるのではないかと思う。

    特に、愛情が強い程、良くなってもらいたいという想いが強い程、過干渉になり、それが縛りにつながり、相手を委縮させてしまったり、気持ちよく生きられない様にしてしまっているケースもあると思う。

     

    私の子供時代には、「教育ママゴン」という、子供からしたら怪獣のような母親が、結構多く居た。

    この時代は、いい高校、いい大学に進学して、いい会社に就職すれば、幸福な人生が送れるといった考え方が多かった。

    それだからか、自分の子供に少しでも幸せになってもらいたくて、「勉強しなさい!!」と、口を開けば捲し立てていたのかもしれない。

    当時は、いわゆる詰め込み教育と呼ばれるものが全盛であり、遊ぶ暇があったら少しでも頭に知識を詰め込めばいい、という考え方もあった。

     

    私も、友達と遊んでいて、その友達の母親が「あんな子と遊んでないで、勉強しなさい!!」と強い口調で言っている場面に遭遇した事があった。

    悪気があって「あんな子」とか言ったわけではないと思うが、「すっげえ母ちゃんだな」とビックリしたのと、友達が申し訳なさそうな顔をしていたのが思い返さる。

     

    近しい間柄ほど、相手にとって良かれと思ったことを、無理に押し付けてしまう事はあると思う。

    しかし、相手を縛って、自分に隷属させるようにしての押し付けは、後々なにか問題を孕んでくる。

    親しき中にも礼儀ありというが、個の尊重もあった上での間柄、間のとり方というのは大事だと思う。

     

  • フリー(free)・・・3

    おはようございます。

     

    フリーダムということから、昨日は1960年代後期のアメリカ映画「イージーライダー」が思い浮かび、少し書いた。

    この映画の主要人物である、キャプテンアメリカことワイアットとビリー。

    2人とも、当時の保守的な人達とは違い、定職に就かず髪や髭を伸ばし、住処も捨ててバイクで開放的に旅し、ドラッグやフリーセックスに価値を見い出すような、享楽的生き方をしている。

    誰からも束縛されずに、自分の好きに生きる、自由といえば自由だ。

    しかし、この映画はそうしたことだけを、フリーダムとしているのではないと思える。

     

    例えば、旅先の農夫の家で、昼食を共にしている場面。

    キャプテンアメリカことワイアットと、農夫が会話を交わしているが、農夫は都会に憧れを抱いてはいるが、典型的な保守的な人。

    妻や家族を愛し、決して裕福な生活ではないが、満足して幸福に暮らしている。

    ワイアットとは、まるで正反対な生き方だが、ピーター・フォンダ演じるワイアットは、少し角度のついた淡いサングラスの奥から羨望のまなざしを向け、リスペクトしながら農夫の幸福に理解を示している。

    そうした生き方にも、そこに自由があると肯定するように。

     

    自由とは、自分の欲望の赴くままに行動する事ではなく、足るを知り、否定なく、相手や周りを束縛する事なく、幸福に導くものでもあると思う。

     

  • フリー(free)・・・2

    おはようございます。

     

    フリーとかフリーダム、特にフリーダムと聞くと60年代のアメリカ映画「イージーライダー」が思い浮かぶ。

    この映画は、当時の聞き覚えのある曲と、チョッパーというカスタムが施されたハーレーダビッドソンのバイクに関心が向きやすいが、自由への問いかけがされている作品のように感じる。

     

    ワイアットとビリーの2人の若者が、違法薬物の売買で大金を得、ハーレーに跨り、身につけていた時計を放り投げアメリカ大陸横断の旅に出かけるところからはじまり、様々な出会いや出来事を経て、最後は2人とも射殺され、乗っていたバイクも炎上してエンディングとなる。

     

    様々な出来事で多いのが、自由を求めて、やりたいようにやる2人と、地域社会の人達の拒絶や軋轢。

    途中、留置場で出会った酔いどれ弁護士のジョージ・ハンセンが加わり3人旅となるが、このジョージが2人に言った次のような言葉が印象的であり、当時のアメリカ社会を象徴しているようにも思える。

    アメリカ人は自由を証明するためなら殺人も平気だ。

    個人の自由についてはいくらでも喋る。

    しかし、自由なやつを見るのは怖い。

    この言葉が表すように、ジョージも途中で一般の自警団の人に殺されてしまうし、エンディングでは残った2人も、長髪と奇抜な服装をしているというだけで銃を向けられ、それに対して中指を立てただけで発砲され、殺されてしまう。

     

    自分のやりたいように自由にやろうとする若者と、それを恐れ、自分たちの自由を脅かす者として、自由を守る権利として、殺害をも自由とする人達。

    この構図は怖ろしく感じるし、地獄のようだとも思える。

    自由も、我欲の世界観で捉えようとすると、おかしくなってくるように感じる。

     

  • フリー(free)・・・1

    おはようございます。

     

    実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります。

    どうぞ、よろしくお願いいたします。

    今回のテーマは「フリー(free)」ということでリレーしております。

     

    フリー(free)とは、自由であること、何かに束縛されていない状態などを意味するという。

    自由というと、何をやってもいいと解釈する向きもある。

    何をやってもいいかもしれないが、自由には責任が伴う。

     

    やればやっただけの報いがあるのだから、好き勝手し放題では破滅に向かう。

    誰もが心得ている事であり、対外的にはコミュニティの常識に合わせたり、法律に合わせたりしながら、欲望はあれどモラルも考えて生きている。

    その中で、自分が良いだけでなく、他人様にもよろこんでもらう。
    よろこんでもらえる自分の幸福感も味わいながら生きている。

     

    しかし、対内的、つまり心とからだの関係についてはどうだろうか?

    自分のからだに対して責任がある。
    そうした捉え方をしている人はなかなか居ないように思われる。

    やればやっただけの報いがある。
    これはからだに対しても同じ事。

    好き勝手にからだを痛めつける事ばかりしていれば、からだは不調に陥ってしまう。

    からだによろこんでもらう。
    よろこんでもらえる自分である事が、自分のからだへの責任でもあるように思う。

     

    そうした責任の果たし方をしていくなかで、自分も気持ちよく健康に生きられるようになる。

    自由も、破滅に向く自分勝手な自由ではなく、調和に向く自由が拡がっていく。

     

  • ふれる習慣7

    先日お伝えした畑仕事の延長で、ビオトープの育成にも関わらせてもらっている。

    近所の小学校の一角に水を貯められる角型のバットのなかで、ヤゴなどの繁殖の場をつくっている。

     

    ほっておくとこの環境にはアオミドロがわっさりと増えていく。

    増えすぎるとバランスがよろしくないので、手を突っ込んで増えすぎたアオミドロを整理したりする。

     

    最初このアオミドロが繁るなかにどんな生き物がいるのかわからないビオトープに手を突っ込むのに、正直勇気を要したのだが、えいやっと手を入れてみると、これがなかなか結構楽しくなってくる。

     

    古くなったオオカナダモを取り除いたり、そのオオカナダモに絡みつくアオミドロをよけたり、元気なヤゴに触れたり、どこからともなくやってきた小さいメダカをながめたりと、黙々と作業しているだけだが、これが普段使っていないなにかを使っているような不思議な感覚時間を味わえる。

     

    素手で何かをする作業というのは、たのしく熱中できる営みにつながっているように感じる。そういえば、先日のブログでも、スポンジを使わずに素手で洗面台や台所など掃除することにハマっている件をご報告したが、そのハマる要因を改めて考えてみると、黙々と熱中できることや、やっていて実感を持ちながらたのしく取り組めることがあるなと思う。

     

    なんとなく、手先だけで作業している感じじゃなくて、からだ全部で営んでいるような感覚を味わえている気がする。

     

    先のビオトープの手入れを黙々としていると、気が付くとシオカラトンボがすぐ近くを飛んでいたり、羽化するための支柱に留まっていたりする。そんなときに、これもなんとなくではあるが、都会の中にいて、自然に溶け込んでいるような気持ちになる。

     

    便利なものが増えていくと、気を付けないと「触れる(ふれる)」機会がどんどん自分の周囲から失われていく気がする。自然環境から人間の作り出した人為環境へさまざまな営みが移行していく。

     

    そんななかで、現在の自分のたのしみは触れる機会をどんなことでもいいから自分の周囲に発掘していくことだ。適当にやろうとすると、なんでも面倒だったり、つまらなかったりするけれど、大抵のことは、「触れる(ふれる)」という感覚意識で取り組むことで、面白さがそこに加わってくる。それがとても不思議な現象だと思う。

     

    そんな試行錯誤を続けながら、自身の周囲における自然環境と人為環境の程よいバランスを探っていければと考えている。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日か友松さんの「Free(フリー)」が始まります。

    どうぞ、おたのしみに。

     

     

  • ふれる習慣6

    日常生活のなかで植物や野鳥に親しみを感じるようになって、そういった生きものと少し積極的に触れ合う機会をもつようになると、何気ない外界からの情報の入り方にも変化を感じるようになった。

     

    一番はっきりと感じたのは、町を歩いているとき、もしくは自転車で走っている時の感じの変化だった。

     

    私は少なくとも週に一回、三軒茶屋に自転車で通っている。

    移動する時間帯によって、その道中に出会う情報は様々だ。

     

    早朝7時頃の移動では車も人も往来は少なく、風が吹いているのを感じ、朝日の気持ちのよさを味わいながら快適にスイスイ移動できる。

     

    これが、当たり前のことながら、昼頃の移動だとそうはいかない。

    車も人も格段に増え、気が付くとそういった対象に意識を向けながら目的地に向かってただただ移動しているのに気が付く。意識が人の往来などに引っ張られているのを感じる。

     

    その意識の向け具合のようなものが植物探索や野鳥の声に興味を抱くようになり、少し変化したように思う。

    目も耳も意識の範囲が拡がって、人や車の存在にも及びつつ、もう少し空間的な捉え方に変わった気がする。

     

    例えば、道中に名前のわかる植物が増えていくと、毎週通る道なので、「馴染みの存在」みたくなる。なんだか、ことばを持たない生き物の友人と目を合わせ挨拶しながら移動している感じになる。

     

    遠くから鳥の鳴き声が聞こえてきたら、それだけで感覚意識の範囲が変化するように感じる。何かスイッチが入るような感じがある。

     

    その時の空間的な視野は、人や車に注意をしながら移動するときの集中した感じとは異なって、もう少し空間的なゆるみをもちながら情報を受け取っている感じがある。

     

    こんな風に振り返ってみると、今までは色々なものに気を付けながら移動していたようでいて、障害物をよけるような感覚で、或る種、局所的な意識の向け方をしていたのかもしれないと感じる。

    窮屈な意識の使い方をしながら、雑踏の空間に臨んでいたのを感じる。

     

    感覚意識にスイッチが入って、情報を受け取る感じに少しゆるみが生まれると、人混みの中にいても、もっと他の情報も感じられて、受け取り方にも隙間が生まれているのを感じる。

     

    空間から受け取っている情報が変化する。

    これも探索を通しての興味深い変化としてたのしんでみている。

  • ふれる習慣5

    植物探索に続いて、連鎖するように興味を抱いたのは都会にいる野鳥の存在だった。

    先日紹介した雑草図鑑の姉妹本で野鳥を扱ったものもあり、

    これがたまたま我が家にあった。

     

     

    (このペースでいくと”山渓”のこのシリーズはすべて買い揃えてしまいそうである)

     

    最近、鳥好きの方と続けて知り合いになったこともあり、なんとなく野鳥のことは気になっていたが、せいぜいドバト、カラス、スズメ、ウグイスだかメジロだか、それと電線に留まっているでかいインコ(ワカケホンセイインコ)くらいしか頭になく、なかなか縁遠い存在のままだった。

     

    そんな中、鳥好きの方と一緒に畑作業をしていて、とても興味深い体験をした。

    その方が急にピタッと手を止めて彼方を眺め始めたのだ。

    どうしたんだろうと思うと、どうやらどこかで野鳥が鳴いているのがきこえて、その声を頼りに探していたのだった。その人は鳴き声で何種類かの野鳥のききわけができる方だった。

     

    なるほど、鳴き声か。

    そういえば日中の時間帯に、鳥の鳴き声から鳥の種類を判別するとか、そういったことをやってみることなんか思いつきもしなかったなと思った。バードウォッチングならぬ、バードヒアリング?とでも言えばいいのか。

     

    それからというもの、自宅にいる時も、散歩している時も、自転車で移動している時も鳥の鳴き声に耳を傾ける時間をもってみるようになった。そうすると、なんの鳥がさえずっているかは勿論わからないけれど、結構たくさんの種類の声が聴こえてくることに驚いた。

     

    何とも言えず、鳥の鳴き声が音を介して触れてくるような感覚を味わうようになった。

    しかし、あんなに小さなからだで、あんなに遠くからよくもまぁしっかりと声が響いてくるものだ。

     

    もうひとつ自分自身面白い変化があった。

    鳥の声に耳を傾けることをするようになって、朝、設定しためざましアラームの鳴る前に鳥の鳴き声が聞こえてきてハッと目が覚めるているのでは、と感じる機会が増えた。確認することはできないが、そういうとき目が覚めてまず意識が向いているのが外で鳴いている鳥の声なので、多分その響きがきっかけになっているのではないかと想像する。

     

    日常生活で耳の使いどころを少し変えてみているからだろうか。

    この調子で鶏の「コケコッコー」ではないが、アラームなしに、近所の野鳥に起こしてもらえるようになったらとても理想的だなぁと思う。

  • ふれる習慣4

    (続き)

    雑草図鑑を片手に探索をはじめた最初の頃、先日のブログでも触れたとおり、なかなか図鑑に載っている植物を見つけることができなかった。

     

    普段の目線の高さで「この植物生えてないかなぁ」と探していてもなかなか見つからない。ようやく見つかりだしたのは、しゃがんで観察するようになってからだった。

     

    このしゃがむまでの道のりが、意外と自分にとっては重い腰をあげるといった感じで、そこがひとつの分岐点となっているのを感じた。本腰をいれていなかったのだ。

     

    普段生活をしていて、何かを観察するためにしゃがむなんて、ほとんどしていないことに気が付いた。と同時に、こどもの頃はしゃがんで観察していたよなぁと思い出した。

     

    このスタイルで観察しはじめると、立って漠然とながめていた時には見逃していた植物や、小さな花の存在が目に入ってきた。

    見ているようで、見えていないものがあることに驚いた。同時に、探索の面白さも断然増して、だんだん図鑑に載っている植物と出会えるようになってきた。これはとても不思議な変化だと感じた。

     

    見えている世界のスケール感や解像度のようなもの、

    それが、しゃがむことで大きく変化するのがとても面白い。

    しゃがむことで、「見る」から「見えてくる」に変化することもあるのかもしれない。

     

    なぜだか分からないけれども、このしゃがんでいる時の感覚意識と、

    場面は変わり、皮膚に触れて、からだからのメッセージを受け取っているときの感覚意識が重なるように感じる。

     

    これも植物と「触れ合う」ようになって、教えてもらった。

  • ふれる習慣3

    (続き)

     

    植物に親しみを感じ、自分なりに探索などしていると、前日のブログでも触れたような「目」の新鮮な感覚を味わう。

     

    新鮮さというのは、目で触れているような、とても穏やかな目の使い方を感じることだ。植物に近寄って観察していても普段感じるような目の疲れとは違い、寧ろ、目がリフレッシュするような感じがする。

     

    逆に、こういったことに目を使っていると、何も意識していないときは、目から結構刺激的な情報を受け取り続けていることに気が付く。パソコンしかり、スマホしかり、テレビしかり。

     

    パソコン作業で目が疲れた時などは、外に出て、馴染みの植物をとっても近い距離でながめることが、最近のブームで、私にとっては、最良の目薬のようなものとなっている。

     

    刺激的でない、触れるような、接触するような目の使い方。

    試行錯誤している最中だが、これもからだの使い方・動かし方の延長にあるものだと感じる。