投稿者: karib_sotai

  • しずかなことば4

    (つづき)

     

    身近な言葉をもたない生き物。

    例えば親しみを感じる植物などに触れているときのしずかな間。

    そういう間の時を味わうことが、日々目にみえない流れに流されがちな生活のリズムなかで自分にとって大切なものだと感じるようになった。

     

    この感じが何かに似ていると思っていたが、こういった空間はからだに触れているときの感覚にとても似ているような気がする。

     

    普段自分が使っている言語ではない何かで、言葉をもたない生き物のことを感じる。

    植物もからだも言葉ではない何かがひびいている。

     

    そのひびきのことを生活の中ではすっかり忘れがちになっていると思う。

    昨日まで目の前で光りを帯びていたものが、今目の前ではその光を失っているかのような、

    そんな不思議な忘れ方。

     

    すぐそばにあるのに忘れていることを思い出す。

     

    そのしずかなうごき、しずかな間が本当にかけがえのないものではないかと感じられてくる。

  • しずかなことば3

    昨年くらいからか、今までよりも植物に対して親しみを感じるようになった。

     

    植物全般の名前に詳しくなるとか、そういう感じではないのだが、たまたま道端に自生している名前もしらない植物が目に付いたときなどには少し近づいたり、時にはなんて名前なのかなと調べたりして、関係が生まれるようなことに時間を使うようになった。

     

    そういうことをしていると、馴染みの植物みたいなものが自分のなかに芽生えてくることもある。

     

    昨年のちょうどいまくらいの時分のこと。

    仕事などで結構疲れてしまってトホホだった時に、よく散歩をしていた。そこで雨露に濡れて光っている小さい白い花をつけたある植物が目にはいってきた。小さなランのような花をたくさんつけるその植物は、見ようによってはその花がかわいらしい目のついた顔のようにも見えてくる。調べて見たらツタバウンランという植物だった。

     

    なんだかその愛嬌のある姿を眺めていると落ち着くので、そういう出会いをしてからは時たまそのツタバウンランの自生する場所を訪れるようにしていた。この頃、言葉をもたない小さな生き物の姿にだいぶ癒されたように感じる。

     

    季節が変わり、花も枯れてしまってからはその場所に足を運ぶこともなくなっていた。4月のある時期に、ふと思い立ったので久しぶりにその場所を訪れてみた。すると、昨年と大体同じ場所にツタバウンランの葉っぱが茂っていた。

     

    あぁ今年もその場所にいるんだなと思い、また数日後に訪れると花が咲いてあの小さな白い顔をのぞかせていた。しずかな風に揺れて振動し、からだをふるわせていた。

    その姿に触れて、なんだか1年ぶりに会えたような気がしてなんとも言えない気持ちになった。なにかしずかに語りかけてきてくれているような、そんなきもちにもなった。

     

    自分を振り返ってみて、植物と接しているときのしずかな間と、普段人間と言葉を介して接している時の感じがまるで違うなぁと思う。

    植物に触れている時は、本当に必要なしずかな間を味わっているのではないかと感じる。

  • しずかなことば2

    (つづき)

     

    庭のスミレの葉を食べるツマグロヒョウモンの幼虫に気が付いて数日。

    いよいよ、我が家に自生するタチツボスミレの葉もなくなりつつあった。

     

    昨年は昨年でホシホウジャクの幼虫の面倒をみていた時期があり、蝶や蛾の生まれ持った食性の一途さ、その凄さは経験済みだった。

     

    昨年もまったく意図せず草にひっついて我が家にやってきたまだ名前のしれない幼虫の食性がわかるまで、つまりヘクソカズラの葉っぱを食べる幼虫だと気が付くまで、それっぽい葉っぱを与えても一向に食べない鋼の食性を目の当たりにしていたこともあり、今回も、もしもの時に備え、スミレの葉の散策を行っていた。

     

    スミレは探してみると意外と見当たらない。

    あまりにも見当たらないので、普段から自然観察が生活の一部になっている仲間に相談したりもした。

     

    さすがの観察眼で、自転車で数分の所に一株自生している目撃情報など教えてくれた。そこは寺院の墓地の外側で、「外側に自生しているということは、墓地の中にはたくさん生えているのでは」という見立てだった。そういう捉え方ができるというのも素敵だと思った。

    私の方でも、ようやくスミレが自生している場所を見つけたところで、試しに数枚摘んで持ち帰った。

     

    ツマグロヒョウモンの幼虫は今日も定位置にはいなくて、少し離れた鉢のノビルにじっとつかまっていた。

    このまま屋外で様子をみようかという気持ちと、でも幼虫が食べるものがもうないしなぁという気持ちが交錯し、最終的には余計なおせっかいが勝って、飼育カゴに移して飼うことにした。

     

    ところが、摘んできたスミレを与えても一向に食べる気配がない。

    気が付いたら虫かごの屋根にもぞもぞと移動してじっとしている。

     

    自分が摘んできたのはスミレじゃなかったのか、、、

    昨年の記憶が蘇る。またこの幼虫が食べられる草を見つけるまで、時間がかかりそうだなぁ、と例の墓地の周りに生えているスミレの様子を見に行こうかと思っていたところ、幼虫の口から糸のようなものが出ていて、虫かごの屋根にくっついているように見えた。

     

    調べて見ると、どうやら蛹化の前兆らしかった。

    たしかに、それから数日かけていままでの幼虫スーツを脱ぎすてて、蛹は段々と漆黒に染まり、その体表にはメタリックの格好いい柄を纏い始めた。

     

    私が余計なおせっかいをするまでもなく、その幼虫はスミレを程よく食べつくし、絶妙な蛹化のタイミングを迎えていたのかもしれない。

     

    人間の私が頭で考えていろいろ思案していたわけだが、自分のおかれた環境のことを、その幼虫の方がよっぽどからだ全部で感じて知っていたのではないかと改めて驚いている。

  • しずかなことば

    おはようございます。

    瀧澤さん1週間のメッセージありがとうございました。

    本日からの1週間、寺本が担当致します。

    テーマは引き続き「フリー」です。よろしくお願い致します。

     

    春になって、庭の鉢植えにイモムシが見られる様になった。

    黒とオレンジのいかつい模様で一見毒のありそうな毛に包まれているツマグロヒョウモンの幼虫であった。

     

    毎朝植物に水をあげているので、毎朝顔を合わせるようになった。

    この幼虫はスミレ科の植物を食べる。我が家にも少しだが勝手に鉢に生えてきたタチスボスミレがあり、この幼虫はそのわずかなスミレの葉を頼りにしている。その姿を気にかけていた。

     

    ある小雨の降る朝、いつもの鉢植えを除いてみると、例の幼虫が居なくなっていた。

    みれば鉢のなかにはもうスミレの茎くらいしか残っていない。鳥にでも食べられてしまったのか、もしくは食べるものがなくなってどうにかしてしまったのか。

     

    ひ弱な妄想をしているところに、黒とオレンジのもぞもぞが少し離れた鉢を移動している姿が目に入ってきた。見れば移動先の鉢にもスミレの葉っぱがわずかに生えている。

     

    一体、この幼虫は何をききわけて自分のいのちをつなぐ草へ向かって旅を続けていられるのだろう。不思議に思う。

     

    そして、黙々とひとつの何かに向って生きている姿に何とも言えない気持ちがしてくる。

     

    自分にとっての大事な何かが何なのか。手にしていたと思っていたものが、気が付いたら手からこぼれてしまっていたり、何か忘れてしまっているようなきもちになったりする私にとって、この友の姿は静かなことばとして問いかけてくる。

  • とどく⑦

     

    じぶんの意識がはやるとき、

     

    からだのリズムとかさならない。

     

     

    からだをおいてけぼりにしていると、

     

    生かしてくれているはたらきには気づけない。

     

     

    大切なことは、覚えることより、気づくこと。

     

    己の土壌に育ちはじめた確かな手応え。

     

     

    これがいいとおもうには、まだまだだけど、

     

    その感触を、ゆっくり、ていねいに迎え入れつづけたい。

     

     

    生かしてくれているはたらきは、

     

    ちゃんとからだにとどいているから。

     

     

    一週間ありがとうございました。

     

    明日からの寺本さん、どうぞよろしくお願い致します。

     

  • とどく⑥

     

    そんなことを言うために、生まれてきたのかと、

     

    かなしむ言葉がいる。

     

     

    わたしの口には、二枚の舌がある。

     

    ときに、器用に言葉を操ろうとする。

     

     

    けれども、このからだには、皮膚には、

     

    ほんとうをとどけようとすることばがある。

     

     

    そのことばの感触に、素直にふれていく姿勢が、

     

    信念なのではないかとおもえてくる。

     

  • とどく⑤

     

    隔てていたものがなくなって、

     

    すっと、迎え入れられているときの感触を、

     

    気づいてさえいないであろう、呼吸やうごき、圧の感触を、

     

    大切にしていく。

     

     

    それが、ひとつの記憶となって、

     

    あるとき、表現されていることに気づいたとき、

     

    記憶もまた、からだに、皮膚に、息づくものなのだと、

     

    うれしくなる。

     

  • とどく④

     

    天が近い、地が近い。

     

    遠い、というよりも、気にもかけてこなかったことと、

     

    つながってくるからだのうごき。

     

     

    じぶんのうごきから、からだのうごきに変わる感触を大事にしていると、

     

    重力も、ひかりも、空気も、水も、土も、みんな、じぶんごと。

     

     

    じぶんからからだになると、じぶんごとになる不思議。

     

    今まで、隔てていたものは、なんなのでしょう。

     

  • とどく③

     

    何も感じていないのではないと、

     

    ここから、気づいていくのだと、

     

    素通りしていた、からだのこえにも、

     

    生かしてくれているはたらきにも、

     

    息とどきたい。

     

     

    おかえりと、一つにかさなるところ。

     

    ただいまと、還ってこられるところ。

     

     

  • とどく②

     

    ふれているだけなのに。

     

    そう言われるときは、いつも、

     

    ふれているからこそ、とおもっています。

     

     

    わたしを生かしてくれているからだの皮膚に、

     

    生きるよろこびにつながる記憶の感触。

     

     

    息がしやすいと、からだがききわけ、吸気でふくらむ。

     

     

    ふれているからこその、息ものなのです。