上医は未病を治し、中医は病みかけている者を治し、下医は既に病んだ者を治す
2025年春季東京操体フォーラムは4月29日(火)昭和の日、
ルーテル市ヶ谷センターで開催致します。
上医は未病を治し、中医は病みかけている者を治し、下医は既に病んだ者を治す
2025年春季東京操体フォーラムは4月29日(火)昭和の日、
ルーテル市ヶ谷センターで開催致します。
本日で最終日になります。
昨日、三浦先生の臨床をうけてきました。
その中でやはり操体の臨床の本質には「からだがききわけていることを感知すること」と「からだに対する気付き」があるように思います。
からだの学習をどんなに積み重ねていっても、からだの情報全てを取りこぼさずにキャッチすることは出来ません。
しかし操体法の臨床の中で、皮膚の接触や動診を通じて、取りこぼしてしまっていたからだからのメッセージに気付くことが出来る。
そのメッセージに気付くことが重心の適正化に繋がり、時間の経過と共にからだの自然治癒力を引き出していくように感じます。
やはり臨床は一発勝負ではなく、その過程の中にあるものが大事なのですね。
治すことに関与するのではなく、「からだに対する気付き」を与えていくことに関わっていく臨床の世界はとても素敵なことだと思います。
一週間ありがとうございました。
明日からは半蔵さんが担当致します。
操体の世界を知ることにおいて、「からだの動き」を認識し、学習していくことはとても大切なことです。
本日はこのブログの中でもよく触れている「からだの動き」について少し書いていきたいと思います。
「からだの動き」って何のだろう?
この問いかけには正解がなく、生き続けている限り永遠に問いかけ続けるものだと思います。
答えのないものだからこそ、からだを通じて得られたものを少しでも書いておきたいと思うのです。
からだの動きとは
最小限の意識関与(エネルギー)で生命活動に必要な最大エネルギーを引き出すもの。
そしてわたし達を生かしてくれているものへの気付きとその生かし方を示してくれるものでもある。
からだの動きは手の指先から足の指、首に至るまで全身の繋がりを呼吸と重ねていくことで表現出来る。
からだに必要な呼吸を取り入れることで動きは螺旋の回転を作り、からだを絶対的な安定させる縦軸を作ることに繋がっていく。
その軸はからだの安定だけでなく、心と意識の安定にも繋がる。
また、その中でききわけられるものは「からだの声」であり、やがて感謝のきもちが芽生える。
そのきもちを持ってからだと向き合っていけば、外圧と内圧のバランスを保たれ、皮膚も柔軟性のあるいきいきとした状態を維持していける。
これがいったいどんなものなのかを皆様も自身のからだを通じて問いかけてみて頂ければ幸いです。
かなり昔の話になりますが、三浦先生の治療所に伺った時に操体法の臨床を受けたある有名人の雑誌の切り抜きを目にした。
その方はインタビューでこんなことを言っていました。
「(操体法の臨床)は不思議な世界」
まだわたしが学ぶ前で操体法の事は全くわかりませんでしたが、この言葉がずっと心に残っていました。
現在では操体法の臨床の世界観を一言で表現するならば、「からだの世界」「(からだがききくわけている)感覚の世界」と表現が出来ます。
しかし初めてこの世界を体感した人は「不思議な世界」なのだなと改めて感じました。
そんな「不思議な世界」で体験したことが日常の中でどのように生きてくるのだろうかと考えています。
その時の本人の記憶が時間の経過と共に薄れていったとしてもからだと皮膚がいつまでも記憶してくれている。
その記憶を頼りにその人が「からだの気付き」を得て、健康に過ごしていける。
それが不思議な世界の正体なのかなと思っています。
操体の臨床とは生き写しの世界だと近頃感じています。
操者のからだと患者のからだ、空間を通じてこの2つのからだの間で様々なことを交換し共有されている。
当然それぞれ「施術者」と「患者」という立場がありますが、2つのからだは対等な関係性の中で様々なものを共にしている。
互いの呼吸と動きを通じて、接触の中で1つの流れに乗り、快を共有する。
時間の経過と共に「じぶん」は消え、それまで陰に隠れていた「からだ」という1人の人格者が顔を出す。
そして、その人格者はそれまで隠していた想いを「じぶん」に伝えていく。
その想いを受け取り、日常に戻る中で共に生きる「からだ」の存在を認めていく。
これが操体法の臨床の姿なのかと思っています。
ここ数か月の間、自身が関節リウマチになった原因を毎日考えています。
1,2年位前になった腱鞘炎を放置していたこと、日常の中の食生活、昼夜が逆転した生活。
思い当たることは幾らでも挙げられますが、現在になって1番強く感じるのは「我慢」することに慣れ過ぎてしまったことなのかなと感じています。
痛みやからだの生理現象等のわかりやすいことだけでなく、人間関係まで「我慢」することに慣れ過ぎてしまい、いつしかそれを当然の事としていた自分がいました。
そんな自分の都合で仕方がなくしていた「我慢」も、からだからすれば「ウソ」の積み重ねです。
それでもからだはなんらかのメッセージを送ってくれています。
呼吸や動き、そして目に見える形で重心の偏差とからだを正当に使う妨げとなる歪み。
そのメッセージにはからだの「じぶんにだけは素直でいて欲しい」という想いがあるように思えます。
もしかするとからだにとって1番の良薬となるのはからだに対して「素直」になることなのかもしれませんね。
現在の操体法の臨床はからだに対してウソをつかない、素直になるための問いかけをしているように感じています。