投稿者: karib_sotai

  • 可能性(2)

    さて、私は自分に問いかけてみました。
     
    「字をキレイに書け」って、お母さんに言われると、なんでハラが立つのかな?
     
    小さい頃の自分に聞いてみます。
     
    すると、小学三年か四年生の私が出てきました。
    小学校に上がるとき、父が万年筆を買ってくれたので、その万年筆で色々書いていたのです。
     
    まあ、自分の想像の世界とか夢とかに遊んでいたワケですね。
     
    色々書いた日記帳は、机にしまっておきました。
    今でもその日記帳は覚えています。ピンクの表紙で、結構分厚くて、紙もピンク色で、青い万年筆のインクがよく映えていました。
     
    その時、母と妹が私の日記帳を持ち出して
    「何くだらないこと書いてるの、バカみたい」
    「字が汚いくせにさ」
     
    と私の前で二人で笑ったのです。
    人に見せるつもりで書いたものではないものを引っ張り出され、バカにされ、字が汚いと言われたわけです。
     
    あまりにショッキングだったので、私はどうもこのことを忘れていたようなのです。
    何度も言われたようで、それ以来「自分は字をキレイに書けない」ようになったのではないかと思います。書痙っぽくなったり、楷書を書こうと思っても書けないとか、思えば色々ありました。
     
    ★これは「母と妹の『嫉妬』によるものです。
     
    ★親子関係は「嫉妬の温床」なのだそうです。
    母と娘の関係で言えば、母親は娘に自分よりも幸せになって欲しくない、という無意識の願いがあります。
    また、夫が娘にこの上なく優しい笑顔を向けたりすると、無意識のうちに娘に嫉妬し、娘をいじめるという状況が起こったりします。
     
    夫の場合は、妻が息子を心配したりすると、無意識のうちに嫉妬が起こり「あんなやつ同でもいいだろう」「勉強したのか」などと、息子に嫉妬が向けられることがあるのです。
     
     
    「あ、だからお母さんから『字をキレイに書け』と言われると、ハラが立つのだな」と分かったのです。
     
    親がそんなことを思うわけがない!と言う方もいらっしゃるかもしれませんが、嫉妬は、子どもへの愛情の有無は関係ありません。発作なので、親自身もコントロールできないものなのだそうです。
     

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  • 可能性(1)

    こんにちは。一週間畠山裕美が担当致します。
     
    今回のブログのテーマは「可能性」です。
     
    私の個人的な話ですが、今まで「こうなる」と、決めたことは、ほぼ叶っています。
    叶っていないこともありますが、多分「これから」のことなのかなと思います。
     
     
    勿論、すぐ叶うというわけではなく、結構な時間がかかります。
    先日などは、20年来の案件が叶って「わ~、すごいな」と思いました。
    どうやって叶ったかというと、一歩一歩、地道に進めて行ったのです。
     
     
    ★このあたりは「牡牛座」(地)で、一つのことをしつこく突き詰めるのは、三浦先生
    「乙女座」(地)とも共通しているのかもしれません。
     
     
    私達はすごい「可能性」を秘めています。
    ところが、その可能性を発揮できないことがあります。
     
    その大きな理由の一つに「劣等感」と「学習性無力感」というのがあるそうです。
     
    「学習性無力感」ってなんでしょう。
     
    犬をケージに入れます。ケージから出ようとすると、電気ショックが流れます。
    すると、犬はそのうち、ケージから出られる状態でも、あきらめて出ようとしなくなってしまうのです。
     
    これは、私の個人のブログにも書いたことなんですが、私は「字がキレイじゃない」というコンプレックスがあります(なので、逆にブラインドタッチとかタイピングは早いんですが)。
    妹はペン字○級で、字が上手ですし、母は小筆が上手です。
    そして、なんだかわかりませんが、母に「書類はキレイにきちんと書け」と言われると、無性に腹が立つのです(「きちんとしろ」と言われても腹が立ちます)。
     
    消したくても消せない嫉妬・劣等感を一瞬で消す方法

    消したくても消せない嫉妬・劣等感を一瞬で消す方法

     

     

     
    この本を読んでいたら「コンプレックスのあるキーワードが出てくると、電気刺激を受けたように固まる、あるいは怒りがこみ上げる」ようなことが書いてありました。
     
    どうやら「字がへたくそ」というのは、何か理由があるということらしいのです。
     
     
     
  • 可能性7・・・自分の想い方次第。

    おはようございます。

    雨もあがり、東の空には雲が残りますが、西の空ではどよんとした空気は消え去り、空も青さが増して高くなってきました。糸引くような雲の流れを見ていると、空も新たな一日のためにお掃除中なのかな、とか思ったりします。

    ふと、口ずさんだ懐かしいメロディ。
    「ここは天国じゃないんだ。かといって地獄でもない。
     いい奴ばかりじゃないけど、悪い奴ばかりでもない」
                                      作詞・作曲 真島昌利「TRAIN‐TRAIN」より 

    TRAIN-TRAIN(デジタル・リマスター・バージョン)

    TRAIN-TRAIN(デジタル・リマスター・バージョン)

     

     

    一切の業障海は皆妄想より生ず、という言葉がある。どんな天国のようなところに居ようと、自分の考え方次第で、そこは地獄にもなってしまう。自分の考え方、想いというのは重要だと思います。

    今回のブログのテーマであった「可能性」にもいえることで、自分の考え方、想いによって可能性は狭められたり、ひろがったりもすると思います。
    ネガティブに考えるより、ポジティブに考える方が良いでしょう。しかし、自分中心の思考に縛られていると、ネガティブな状況に陥った時、気持ちの切り替えが上手くいかない。そのまま、怒りや不安、恐怖といった感情が優位を占めてしまう。
    そして、まわりに対しても「見えない銃を撃ちまくる」という状態になりやすくなってしまう。くれぐれも「弱い者達が夕暮れ、さらに弱い者をたたく」という状況にはしたくないですね。

    自分中心ではなく、生かされて生きている。生かされて生きているという意味を、知ろうとする程、感謝の気持ちが湧いてくる。まわりの人、自分のからだ、自然、そして御縁。
    自分勝手な気持ちに懺悔したくなる。しかし、同時に有難い気持ちにもなり、前向きな想いにもなれる。

    今、自分が生きているという事は、本来、無限の可能性の中から、目に見えぬ御縁によって成り立っているのであり、生きているだけでも素晴らしい事。

    「世界中に定められたどんな記念日なんかより、
     あなたの生きている今日はどんなに素晴らしいだろう。
     世界中に建てられてるどんな記念碑なんかより、
     あなたが生きている今日はどんなに意味があるだろう」
                  作詞・作曲 真島昌利「TRAIN‐TRAIN」より

    今日も善い一日でありますように。

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。
    明日からは畠山裕美先生の担当となります。
    東京操体フォーラム実行委員ブログ、来週も、どうぞ宜しくお願い致します。

    友松 誠。

     

  • 可能性6・・・可能性と確率。

    おはようございます。

    最近、量子力学に関する本を手に取って読むと、確率ではなく可能性という表現が多くなったように感じます。私の読む本が、「誰にでもわかる」とか「はじめての」という言葉がついた初歩的なものばかりだから、かもしれませんが何となくそんな感じを受けます。

    可能性と確率。語源的には、どちらも英単語のpossibilityからきているようで、似たような意味合いとも捉えられますが、そうではないと思えるのです。

    例えば、NHKの朝ドラで、主人公の母親の晴さんが、「5年生存率は50%です」と直接本人に宣告され、隣に座っていた旦那が「そんな事をあっさり本人の前で言うな」と激怒していたシーンがありました。
    この場合は確率ですね。データに基ずき、本人のことはおかまいなしに、その時点での確率を客観的に伝える。それを聞いた本人の、先の事など、あまり考慮していない。
    本人や本人のからだの可能性を意識した場合、相手への接し方も違ってくると思うんですけどね。

    思うに、似たような意味合いでも、可能性の方は、相手の立場に立ってとか、自分の考えを押しつけない、決めつけない、という色合いが濃いと思います。
    操体は臨床医学ですが、未病医学でもあります。未病医学とは、このままでは将来、病気になってしまう、という可能性を早期に摘む事にあります。
    その鍵を握るのが、からだの立場も理解し、からだにききわけるという事。

    症状、疾患現象の元には、からだの不調和、アンバランスが必ずある。そして、症状、疾患の回復する過程には、バランス調整の過程が伴う。
    どうバランスをとるかが重要だが、それはからだにききわけてみるのが一番確実。その感覚でバランスは調整されるのだから。

    治すのは、あくまで、からだ。からだにききわけた感覚で、バランスがとれてくれば、今生じている病からの回復にも、生じるであろう病の可能性を摘む事にも、つながる。
    健康回復、維持、増進。そしてそこから新たに何か善い事が生じる可能性。調和尽十方。可能性は無限にひろがる。

     

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  • 可能性5・・・日常生活から変えていくことで。

    おはようございます。

    今週は老人週間ということで、高齢者に関してのニュースをよく目にします。
    9月15日の時点で、65歳以上の高齢者の総人口に占める割合は28.1%と過去最高を更新し、70歳以上の方の比率も初めて20パーセントを超えて20.7%となり、5人に一人は70歳以上という割合になったという。

    御長寿の方が増えるのは良い事です。願わくは、平均寿命が伸びるのと同じくして、健康寿命も伸びることですね。

    健康寿命。これは、介護を受けたり寝たきりになったりせず日常生活を送れる期間のこと。
    この健康寿命を伸ばすことが、本人にとっても社会にとっても重要とされている。

    そこで、よく言われるのが体力や運動能力を高めるという事。身体を鍛え、体力や運動能力を高める事で日常動作が楽に行えるようになる、という考え方。
    この考え方は、一般に浸透していますが、果たしてそれで良いのでしょうか?考え方が逆立ちしているのではないでしょうか?

    みんな人それぞれ個性があります。持病を抱えているという事も個性です。年齢が上がれれば、その個性も幅広くなります。長く生きてきたプロセスはそれぞれですから。

    鍛えて体力や運動能力を高めるとした場合、それが出来ない人も当然いる。また、からだにききわけず、いきなり鍛えようとして逆にからだを壊し、日常生活に支障をきたす人もいる。

    日常生活の中から変えていく。下の物を拾う動作一つとっても、無理や無駄のないからだの使い方もあれば、窮屈でからだに負担を強いる動作もあるのです。
    ですが、体力という面からはいってしまうと、そういう事に気付けない。今は、鍛える事が出来て体力もあり、からだに負担を強いる動作での差し障りに気付けずとも、そのツケはついてまわっている。

    日常生活動作をそつなく、つまり局所負担を減らして全体で合目的に行えるような動作に変えていく。そのように変われば、運動能力もおのずと高まるのです。
    力を発揮するにしても、一局所ばかりに力がこもる使い方ではなく、全体的にからだが使える方が、力が発揮できる筈です。そして疲労も、ため込まなくなる。

    そのように日常生活から変えていくことで、ある程度の年齢でも、自分のやっている仕事や趣味、芸事なども向上する可能性がグンと上がり、皆が皆そこに気づけば、健康寿命も更に伸びていくと思うのです。

     

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  • 可能性4・・・耳順う→矩を踰えず。

    おはようございます。

     

    一昨日、昨日と孔子の「六十にして耳順う」という言葉の意味を考えながら書きましたが、耳順うには他の人の言葉が素直に聞けるようになるという以外にも、他の意味もあるのではないかと思いました。

    他の人だけではなく、言葉をしゃべらない存在の声にも素直に耳を傾ける、という意味もあるのではないでしょうか。

     

    この世界は人間だけが生きている世界ではないのですから。もの言わないものにも耳を傾けてみる。そういう優しさは必要だと思います。そういう気持ちになれば、心も潤い、ギスギスした争いの種も少なくなると思います。これも「七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」にもつうじるのでは、と思えます。

     

    それと、忘れてはいけないのが、言葉をしゃべらない一番身近で大切な存在、それは自分のからだだという事。

    からだは、ものを言いませんが、様々なサインやメッセージを送ってくれています。それに耳を傾けているでしょうか。

    ある程度の年齢になり「からだが言うことを聞いてくれなくなった」とボヤク前に、自分はからだの声に耳を傾けていただろうか、と振り返る必要がある。

     

    健康とからだには気を使っていると言う人は多い。「からだに気を使って、毎日、こういう運動をしています」しかし、それは本当にからだが求めている事なのでしょうか。

    良いと思ってやっていることでも、押しつけ迷惑ということもある。からだにききわけずに押しつけ迷惑を重ねれば、そのうち何らかのトラブルが生じてしまう。

    逆に、からだの求めに応じた事を行っていれば、気持ちがいい。からだにききわけてみて、気持ちのいいことを気持ちのいいだけ行っていれば、健康維持につながり、健康増進へと可能性はひろがっていく。

    人それぞれ個性がある。ある程度の年齢を越えれば同年代といえども、その個性はより多様性を帯びてくる。他人様が、これが良いと奨めてくれたものが自分自身に良いとは限らない。自分のからだにききわけてみることが大切。

     

    みんな、それぞれ個性がある。からだにききわけた気持ちよさもそれぞれ。それでも、それぞれに一貫した真理がある。それは自然の法則や摂理という事。

    自然の法則や摂理をしり、からだにききわけながら合わせていこうとすれば「七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」すなわち、自分の思うままに自由にふるまい、それでも道を踏み外さないようになった、という事につうじるのではないでしょうか。

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  • 可能性3・・・耳順う2

    おはようございます。

     

    昨日、孔子の「六十にして耳順う」という言葉の意味を考えながら書いていて、そういえば、と思い浮かんだことがありました。

     

    操体の創始者、橋本敬三先生の温古堂先生語録には、こうあります。

    「昔から色々な治療法はたくさんある。これだと思って優越感をもって威張る。その人は、それ以上の進歩はない。自分なんて、ほんのちっぽけな1人の人間でしかないのだ。もっともっと色んな事を知っている人がたくさん居るのだ。それらを吸収して治療に役立てればよい。ただし、気持ちが良い事ならばである。何か知っていそうな人がいたら、何も知らないつもりで、その人の話しを聞いたらよい。自分の勉強になる。そして人のためになる」

     

    こうした語録が残されているように、創始者は医師でありながら、現代医学にとらわれずに、鍼、灸をはじめ様々な療法からも学んだ人だったと聞きます。

    当時の医師というのは、今よりも社会的ステータスが格段に高かったようです。ですが、そこに胡坐をかき、威張っていたのでは誰も教えてくれない。頭を下げ、謙虚に教えを請い、話を聞いていたようです。

    他人から話を聞くことで、可能性はひろがる。しかし、様々な療法の技術、テクニックを学び、それがすぐにものになるほど、手技療法の世界は甘いものではないと思います。
    また、単に技術、テクニックの良いとこどりをしたものに価値があるとは思えない。

    創始者は、そういう観点ではなく、それらすべてに一貫してつうじる真理を学んでいた。真理が大切。その真理が人のためになる可能性をひろげる。

     

    創始者の、他の療法の人たちに聞く態度。そこには見下すとか、技術やテクニックを搾取してやろうとか、そういった気持ちはなかったと思います。

    同じように真理を探究する者として敬意をもって接していた。

    昭和12年の「漢方と漢薬」誌に載った「力学的医学の構想」の中に、この様なことが書かれています。

    「私は思う、世間は広いと。そして驚くべき天才・篤学の士たちが、それぞれ隠れたところで心血を注いで精進しておられるのを見るのである。医師の免許証の有無にかかわらない」

    耳順う。素直に聞けるようになるには、素直に認める事も大切。

     

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  • 可能性2・・・耳順う。

    おはようございます。

     

    ふと、カレンダーに目をやると、今日は「敬老の日」ということですね。
    何年か前のサンデー毎日に掲載された一条信也氏のコラムによると、敬老という考え方は儒教に由来しているという。
    そして、孔子の有名な言葉を載せていた。

    「われ一五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」

    六十になって人の言葉が素直に聞かれ、たとえ自分と違う意見であっても反発しない。七十になると自分の思うままに自由にふるまい、それでも道を踏み外さないようになった。
    という意味であり、孔子は老いを衰退ではなく、逆に人間的完成と捉えていたということが書かれていました。

    確かに肉体は年月を重ねていけば衰え、若い頃のように自分の思うようにいかない面も出てくるでしょう。「オレが、オレ我」という自分中心の物事の進め方では、無理が生じてくる事を身をもって経験するのだと思います。

    しかし、それをネガティブに捉える必要はないと思います。むしろ、若いときには気づけなかった事を学び、新たな可能性をひろげる好機。

    視点優位では自分の主観が優先されてしまう。自分一人で生きているわけではなく、生かされて生きている。皆それぞれ生きてるだけでも凄い事。自分の持つ色眼鏡をはずして耳を傾けてみる。
    そこに自分の可能性を超えた、より大きな可能性のひろがりがあるのだと思います。

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  • 可能性1・・・協力する、引き継ぐ。

    おはようございます。

     

    東京操体フォーラム実行委員ブログ。今週は友松が担当いたします。どうぞ宜しくお願い致します。

    さて、今回のテーマは「可能性」です。

     

    可能性は無限にひろがる。よく聞く言葉だと思います。

    私も、その通りだと思います。しかし、その反面、自分の出来る事には限りがあると思っている面もあることも確かです。

    可能性には限りがあると思ってしまう自分、その心には自我を中心とした、自分の観点からみた個の世界観があります。

     

    確かに、人間個人なんてちっぽけで弱い存在です。やれる事には限りがあると思えます。

    しかし、そんなちっぽけで弱い存在も、2人寄り、3人、4人と集めれば、やれる事、何かを成し遂げられる可能性はグンと上がる。

    更に、互いに協力し合い、智慧を出し合うことで、その可能性はまた上がっていく。

     

    それでも人間には寿命というものがあります。個人の存在というものは有限です。しかし、個の存在が無に帰しても、遺志を継承する人がいて、その意志が生き続ければ、可能性は無限にひろがる。

     

    操体の創始者、橋本敬三先生は、自然の法則、自然の摂理といったものを究明し、それを応用して、人々に貢献することを後進に託したという。

    操体法も、創始者が臨床で行っていたことを、単に病気の治し方の方法論とかマニュアルとして捉えてしまえば、そこからの進展やひろがりの可能性は狭められてしまうでしょう。

    しかし実際には、動きをはじめ生命活動に関する自然の法則や摂理を究明し、それを応用して臨床成果を上げていた。それを引き継ぐことで、貢献への可能性は更にひろがり、そしてまた次世代へとつながっていけば、その可能性は無限にひろがる。

     

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  • 可能性を味わうように

    昨日に引き続き、

    「味わう」ということに最近興味がある。

     

    私自身を振り返ってみるとき、

    いかに常日頃、味わうことなく生活しているか、

    ということに気付かされる。

     

    例えば、大好きな定食屋さんに行って

    先週も食べた好物のものを食べていても、

    本質的には、その経験で味わえる感覚は先週食べたときとは同じではない。

     

    でも、同じではないことに意識を向けることは

    意外と忘れられていて、

    前回と同じ経験をしているような錯覚を体験しているように感じる。

    言い方を変えれば、前回と同じ道筋は見えているが、

    可能性は閉じてしまっているようなものだと思う。

     

    一方で、操体の臨床を継続して受けている方から

    「今日はまた、この間と違う感じでしたね」

    というような感想をいただくことがある。

     

    最初のうちは、そのことをあまり気にしていなかったが

    こういった本人の気づきは、自身の感覚のスイッチがONになっている

    ひとつの証拠なのではないかと思う。

    また、新しい道筋が発見された、その気付きでもあるのではないか。 

     

    からだを通して、

    その時にしか経験できない感じを味わえる。

    言わば感覚の可能性にタッチしている

    この操体の臨床には、操体ならではの面白さがある。

     

    一週間ありがとうございました。

    明日からは、いつも新鮮な息吹を感じさせてくれます

    友松実行委員の登場です。

    おたのしみに。