大人が最もやってはいけない事は、若者の勢い(やる気)を殺す(削ぐ)ことである。
若さとは、可能性である。
その分、脆弱である。
その分、幼稚である。
大人は危なっかしくて見ていられないので、何とか世知をもって身を固めさそうとする。
しかし、若者は本来柔らかくしなやかなものである。
だから、何にでも成れる。
そのフワフワしてキラキラしている姿(混沌)が美しい。
若者は、まだモノになっていないから、コトを成すエネルギーを持っている。
大人が最もやってはいけない事は、若者の勢い(やる気)を殺す(削ぐ)ことである。
若さとは、可能性である。
その分、脆弱である。
その分、幼稚である。
大人は危なっかしくて見ていられないので、何とか世知をもって身を固めさそうとする。
しかし、若者は本来柔らかくしなやかなものである。
だから、何にでも成れる。
そのフワフワしてキラキラしている姿(混沌)が美しい。
若者は、まだモノになっていないから、コトを成すエネルギーを持っている。
本日で最終日になります。
近頃は講習の場においても臨床を通すことが多く、場が増えるにつれて人に見せる機会も多くなりました。
その中で「なぜこうしたのか?」という質問を受けることがあります。
聞かれたことは素直にそのまま答えるので、ありのまま答えるのですが、恐らく私の解答に対して100%納得してもらえていないと感じています。
ただ私自身は100%納得してもらえなくてよいと思うのです。
操体法には型はなく原理原則に乗っ取って、場の空気やからだの状態によって生き物のように姿や形を変化させていくものなので、その時、その時でからだに聞き分けた自分なりの感性でアプローチ、表現していけばよい。
つまり答えは一つではなく、可能性は無限にあるということです。
だからこそ操体は面白く、一生涯学べる学問なのだと思います。
一週間ありがとうございました。来週からはお待ちかねの半蔵さんの出番です。
自転車が壊れてしまったので一週間の間職場まで歩いて行っています。
笹塚から原宿まで往復で約二時間程ですが、歩くということをじっくり味わいながら自分のからだと会話しています。
ずっと自転車慣れしてしまい、なかなかこういった機会がなかったので見落としてしまっていたのですが「歩く」ということで得られるからだからの情報はとても大きいように思います。
一歩一歩踏み出していく感覚。その時の足とからだ全体の状態を学んでいることと重ねながら確かめていく。
そういった確認も長時間を歩いていくと意識出来ていなかった普段のからだの癖や仕草が無意識に現れる。
その無意識にしていることの間違いの積み重ねが長年自分のからだが抱える問題、そして意識、生き方と密に繋がっていることを身をもって知ることが出来たのです。
これは自分の生き方のベクトルを示し、その可能性とも関係があるように思います。
そういった普段のちょっとしたことから変えていくことも、自分の生き方、可能性を切り開いていく一歩なのかもしれません。
以前にも書いたことがありますが、操体の学びを得ていると「ある日突然出来る」という不思議な現象に遭遇します。
これは操体に限らず学び続ければ誰でも遭遇することで、個人の能力に関わらず早かれ遅かれ、出来なかったことがいつの日か出来るようになるのです。
一体こういった現象が起こるのは何故かを考えていたのですが、やはり繋がっていることが一番大切なことのように思います。
やっていることとの繋がり、師との繋がりを切らさなければ成したいことも成せるのだと感じます。
また、それらと同じ位大切なのが、からだとの信頼関係です。
私達は「からだの学習」を大切にしていますが、からだが知っていることは私達の想像を遥かに凌ぐものです。
からだから得られる情報を引き出すには、やはり自分でからだをコントロールしようとしてはいけないように思います。
からだを自分の支配下に置こうとする考えこそが、自分の可能性を閉ざす一番の要因ではないでしょうか?
最近は何かやりたいことがあったら、まずは考えるよりも行動に移すようにしています。
臨床にしても、プライベートなことにしても思いついたことは結果を気にせずにトライする。
昔から何をやるにしても、まずは物事を順序立てて、その結果を良いものなのか否かの判断をしてから行動していたように思う。
現在になって振り返ると勿体ないことをしたなと思うこともあります。
そういえば、ずっと愛読している不良漫画の好きなキャラが「やる前に考えるな、やった後に考えろ」と言っていました。
昔から不良漫画が好きなのは後先考えずに本能に従って生きている所が理由の一つですが、大人になるに連れて物事を始める前に自分が出来る、出来ないを考えてしまい、何故か出来ない言い訳から探してしまう。
過去の経験であったり、自分の身の回りの環境であったり、出来ない言い訳は探せば幾らでもあり、それが自分の可能性を閉ざしてしまっている大きな要因のように思います。
操体法の臨床が思考させる問いかけから、からだの無意識に問いかけているのも症状や疾患の改善だけでなく自身の生き方の可能性を広げていくことにも繋がっているようにも見えます。
そうやって見てみると臨床は患者の人生の可能性を切り開く手助けをしているのかもしれませんね。
近頃、大きな成功を収めている人を見ていると、例え本人が望んでいなくても自然に人が集まってきているように見えます。
そういった人達は人とのご縁も当然大切にしていると思いますが、それ以上に自分がやっていることとのご縁を大切にしている。
自分の新たな可能性を見出していくには自分の意図しない力も必要で、それを引き寄せる力もやっていることとのご縁をどれだけ大切に出来るか否かだと思います。
またそれを大切にしていくことで、なかなか気が付くことが出来ない自身の成長に繋がる種を拾うことが出来る。
自分の可能性を広げていくにはやっていることとの信頼関係を築いていくことが大切なのではないだろうか?
操体の学びを得てから学ぶ以前と比べやってみたいことが増えたなと思います。
それは周囲に自分が興味を持てることを趣味の範囲ではなく、生計を立てて取り組んでいる人が多く、その影響が大きいように感じます。
音楽にしても、アートにしても、昔から自分がやりたかったことをやっている人達からいつも良い刺激をもらい、それが現在の操体の学びの糧となっています。
周りには特に音楽をやっている人が多いですが、その人達が奏でる音は自分の臨床のイメージを表現してくれているようで新たな発想が生まれるのもそういった人達のお陰です。
操体がここまで進化し続けているのも周囲の人達が表現する世界観の影響も大きいと思います。
以前、三浦先生は「動きをデザインする」ことの大切さを説いて下さいましたが、操体の可能性を広げていくにはアーティストのような感性を磨くことも大切な要素ではないでしょうか?
三浦先生、一週間ありがとうございました。
今週からは三浦寛幸が担当致します。お付き合い下さい。
今回のテーマは「可能性」です。
このテーマを聞いた時、ふとこの本が脳裏に浮かびました。
この本とは付き合いが長く、最初に出会ってから25年近く経っています。
私が中学の時の担任の先生がプレゼントしてくれたのが、出会いのきっかけでしたが今も大切な本の一つです。
絵本なのになぜか惹かれる。特別凄い言葉はないが心に響く。
昔から何をしても上手く出来ないことがコンプレックスになっていた当時の私はこの本との出会いから「常に完璧でなくてよい、間に合っていれば足りないものは後から探せばよい」と考えを改めるようになりました。
こういった考え方は何となく操体の考え方に似ていますよね。
私がこの本と出会ったことも、その後の操体とのご縁も偶然ではなく必然だったように思っています。
今にして思うと橋本先生や三浦先生の生き方や操体の哲学に共感出来たのも、この本との出会いが私にこの道の可能性を示してくれていたように思います。
今までのこだわりを捨てて、
このクエスチョンの中身をあからさまにしていくことである。
「三浦は一人、何をつぶやいているのだ」と
他人事として受け止めて欲しくはないのである。
私も皆さんと同じ操体という器を学んでいるのだから、
三浦一人のたわごととして無視しては欲しくはないと思うし、
このクエスチョンにあるものは操体を学ぶ一人一人、全員のテーマであり、
これからの課題である。
自然法則の応用貢献をなそうとしてきた偉大な真理の指導者、橋本敬三先生。
私達はそのなしてきたことのその先にあるものを学んでいくことだ。
加藤平八郎君は橋本先生から直接学んだ数少ない一人である。
その彼が操体の今の現状をつぶさにみていて、危機感をつのらせているのである。
その彼の声にも素直に耳を傾ける必要がある。
それは至極真っ当で当然の成り行きだと思うからである。
加藤平八郎君は直接操体法に関わってきてはいないので、
その危機感の本質にあるものが何なのかについては、理解できていないこともあるはずである。
しかし彼が聞き分けている嗅覚は狂いがないものである。
私自身、組織活動のごく一部を毎年みているが、平八郎君の訴えがよくわかる。
橋本敬三先生は「ワシは操体法の良き理解者であり最高のよき理解者である」と。
そのことは真理が真理の力で立てること。
その真理は自然法則の応用貢献にあるのだと。
その言葉に耳を傾け学んでいないのが今の現状を全て写し出しているのではないだろうか。

この世界は七十数年前に
陽の時代から陰の時代に時が変わったと言われる。
確かに全てのことが今のままでは間に合わない、
対応しきれない状態に追い込まれている。
操体法も流れが大きく変化した。
「楽から快への転換」である。
今、「快」への問いかけが問われる時代に入り、
さらに「快」を超えた問いかけに入っている。
しかしこうした変化にどう対応していうのか。
それは、必然性の中で生まれていることなのであるが、
なぜなのか?ということは従来の対応では間に合わなくなってきているのである。
操体法もこれからも存続していくのか。消えてしまうのかの「危機」に直面している。今のままでは、消えて無くなっていうのであろう。
今までの常識にある通念を疑ってかかる必要がある。
疑ってみることによって、何かがおかしいことに気づくことになるだろう。
この疑問、つまりクエスチョンの中に危機を乗り切るヒントが埋もれている。
その一つでもチョイスさえできれば、甦ることも可能である。
そのクエスチョンを問いただしてみぬ限り、
いくら体制を強化し制限しようとしても本体そのものの中身が不明瞭である限り、
手当の施しようがないのである。現状維持すら崩壊するであろう。
この疑問に気づかないということは今まで学んできた意味がないともいえる。
そのまま、あの世に引きずっていっても仕方がないことなのだ。
