投稿者: karib_sotai

  • 小暑の候より・・・2。

    おはようございます。

     

    「心頭滅却すれば火もまた涼し」

    何十年か前まで、本来の意味や言葉の成り立ちとは別に、夏の暑さに耐え忍んで、何かを成し遂げようとする時に、よく使われていた言葉。

     

    しかし、気温が体温と同じくらいに上がる昨今の夏場では、こうした精神論を口にする人は、ほとんどいないと思われる。

    環境が変われば、それに応じた対応をしていかなければ、生命の危険さえ生じてくる。

     

    無理な頑張りは、自分や自分のからだばかりか、周りの人達にも迷惑をかけてしまう。

    これは、コロナ禍を経て誰もが学んだ事柄。

     

    そうした風潮に乗じて、自分だけ「楽」をしようとする人もいる。

    しかし、「楽」と「苦」は隣り合わせであり、その報いはいつか受けなければならない。

    それは、本人もうすうす感じている事だと思う。

     

    心配なのは、真面目に一生懸命やっていて、無理に頑張ってしまう人。

    自分のからだを顧みず、他人様の為、正義の為と頑張ってしまう。

    立派な事なのだが、そうした人が心身の不調に陥った時、自分のからだにもう少し関心を向けてもらえばと、やるせない気持ちになる。

     

    自分の良心、自分のからだに正直になる。

    これからの環境に適応して、より良く生きていくのに大切なことだと思うのです。

     

     

  • 小暑の候より。

    おはようございます。

     

    東京操体フォーラム実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります。
    どうぞ、よろしくお願い致します。

     

    前回のブログ担当の時は、清々しさやさわやかな天候の時季でしたが、今回は時期的には小暑でも、一気に真夏になったような暑さが続いています。

     

    例年であれば、じめじめした梅雨どきですが、今年は6月末には西日本で梅雨明けが発表され、東海地方では7月4日に、その他の地方でも梅雨が明けたような日射しと暑さ。

     

    夏場に体調を崩す人は、梅雨明け時の茹だるような暑さになった時に多くなるという。

    それまでのジメジメした梅雨も、低気圧でそれなりに気温や気圧も安定していたが、夏の訪れとともに気温や気圧が急激に高くなる一方、ゲリラ豪雨も起こったりで、気温や気圧の変化が激しくなる。

    そうした時季、そうした状況に、順応しようとするからだも大変だと思う。

     

    からだの大変さを、わかってあげられる。

    そうした気持ちを向けてあげられる。

    大事な事だと思うのです。

    その上で、御自愛いただければと思うのです。

     

  • ちょっと立ち止まりたいときに7

    ことばは光のようなもの

    ことばは風のようなもの

    ことばは雨のようなもの

     

    忙しい日々を送っていると、やるべきことに追いかけられてそのことに向き合うことで精いっぱいとなることもある。

     

    「今日も一日疲れたなあ」とからだを休めようと床につく。

    目を閉じてからだを休める。

    そのまま、眠りにつくこともあれば、疲れているはずなのに何か眠りたくないような、きもちになることもある。

     

    そういうときは一旦起きて、ちょっと仕切りなおしてみることにしている。

    テーブルの上を片付けてみたり、床を掃いてみたり、カバンのなかを入れ替えてみたり。

    そういうことをしているうちに、何かことばを感じるようなこともある。

    時間にしたらそれほど長くない仕切り直しのときを過ごしながら、感じられたことばを忘れないようにメモしたりする。

     

    その日一日を目まぐるしく過ごした中で、すっかり忘れていた感謝を感じることもある。そういうことがあると、急にそれまでの疲れが変容し、とてもせまっ苦しいところで何かをしようと一生懸命だったようなきもちがしてくる。

    光がさして、風が抜けていくような、そんなくうかんの変化を感じるように。

     

    どんなに忙しくても、時間が無くても。

    そして、忙しいからこそ、ちょっと立ち止まりたい。

     

    あの「メッセージ」が問いかけてくる

     

    『己自身の光で変わりゆく自然をみる』

     

    「操体法 ~生かされし救いの生命観~」(「メッセージ」より)

     

    からだの要求と自分自身の要求が重なっているときのなかで、

    感じられた「ことば」を抱く。

    そのことばは己自身の光なのではないかと感じています。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    バトンを渡して明日からは友松実行委員のブログがスタートします。

    どうぞ、おたのしみに!

  • ちょっと立ち止まりたいときに6

    ことばは光のようなもの

    ことばは風のようなもの

    ことばは雨のようなもの

     

    何かをやろうとしても、なにかスッと前にすすめない

    そういうことが日々の生活のなかにあるのですが、

    前だったらがむしゃらに、

    何でもいいから手に取ってみたり、とりあえずやってみたりというように、

    あぁでもない、こうでもないと色々試しながら

    向き合っていたように思います。

     

    うまく行くときもあれば、なんとなくうまく行ってないようなときもある。

    やってはいるんだけれども、充足していないようなきもちを感じることもある。

    そういう不思議な実感を持って、ことにあたっているときもあります。

     

    ここのところは、そういうきもちを感じたときに、

    いま「重心」はどこにあるだろうか、と感じるようにしています。

     

    「重心」はどこにあるだろうか

     

    問いかけてみると、「あ、なんとなくだけど、この辺にありそうだな」というのが感じられてきます。

    いま、このあたりに重心があるのか、というのが朧気にでも感じられてくると

    意外とそれだけでも腑に落ちるものがあるものです。

     

    重心の不正を感じ、納得する。

    そこから次の道筋が感じられてくる。

    素直に立ち止まってもいられる。

     

    その立ち止まりの繰り返しのなかで、

    少しずつですが着実な何かを学んでいると感じています。

  • ちょっと立ち止まりたいときに5

    ことばは光のようなもの

    ことばは風のようなもの

    ことばは雨のようなもの

     

    昨日のブログの続きになりますが、自然の奏でる音の世界に重なるような人間の「声」のことを想う時、

    あぁそういえば自分は「ホーメイ」という歌唱法に惹かれてきたなということをもう一度感じ直しました。

     

    ホーメイはロシア連邦のトゥバ共和国という自然豊かな場所で、今もなお歌い継がれている伝統的な歌唱法です。実に豊かな倍音を響かせる音の世界であり、またその特徴のひとつに、小川のせせらぎなど自然を模倣した表現が根底にあることが挙げられます。

     

    その歌を聴いていると、何故かとても懐かしい感じがしてきて、光に包まれているような、また風が頬をかすめていくような、そしてとても透明になっていくような、そんな音の可能性を感じます。何かをからだで受け取っているようなきもちになります。

     

    ホーメイジ(ホーメイを歌う歌手のこと)それぞれが紡ぐ独自の音世界、その表現の幅広さと奥行の深さに人間の声ってこんなにも可能性があるんだ、という気持ちになります。

    それと同時に、人間の声が解放されているのを感じます。

     

    自然の流れがあり、その流れのなかで呼吸が自ずと通り、空間に解放されている人間の声の世界。

    自然の奏でる音の世界に重なるような人間の「声」って何だろう。

    そういう問いを抱くなかで、ホーメイがまた味わい深いものに感じられてきます。

     

    今年の夏はちょうど、なかなか来日する機会のない素晴らしいホーメイグループ「HUUN-HUUR-TU(フンフルトゥ)」が日本を訪問する予定がありますので、もしご興味あれば是非、直接彼らの音の世界を感じてみてください。

    以下に東京公演のリンクを貼っておきます。

    haremame.com

  • ちょっと立ち止まりたいときに4

    ことばは光のようなもの

    ことばは風のようなもの

    ことばは雨のようなもの

     

    このところ、朝4時くらいには何かの鳥の鳴き声がきこえてきます。

    すると、あぁもう夜が明けてくるんだなぁと感じます。

     

    雨が降ったり、風が吹いてきたり、木の葉が揺れていたり、

    そういった身の回りの自然が起こす現象のひとつとしてこの鳥の鳴き声も感じられます。

    例えば、風が吹いてきたのを感じている、そのときに受け取っている感じと近しいものや同質のもの、とでもいいましょうか。また、鳴き声が自然と重なっている感じや調和している感じともいえるでしょうか。

     

    その素直なひびきをからだで受け取っていると

    人間の使っている「声」のことをよく想います。

    ふいに窓の外からきこえてくる野鳥の声と同じように、

    人間ももう少し自然と重なるような素直な声が出せるのではないだろうかと。

  • ちょっと立ち止まりたいときに3

    ことばは光のようなもの

    ことばは風のようなもの

    ことばは雨のようなもの

     

    昨日の続きです。

    今はニホンヤモリを育てていないので、虫ハンティングをすることはなくなったのですが、最近また同じように散策する機会を得ることができました。

     

    近くの小学校の授業の一環で蚕(カイコ)を育てるカリキュラムがあり、蚕が食べる桑の葉が家にあったり、近くにみつけた方はご協力いただきたい、という声をききました。ご存知の方も多いと思いますが、蚕は幼虫のうちは四六時中モリモリ桑の葉を食べるので、学校に植わっている桑の樹からお裾分けしてもらえる葉の量では追い付かないのです。

     

    そういう経緯もあり、普段移動する時には桑の葉採集の視点で街を歩くようになりました。注意してみていると桑の特徴的な葉っぱが目に付くようになります。街路樹の植え込みの中からピョンと伸びていたり、川沿いの植生のなかで旺盛に伸びていたりして、恐らく敢えて植えた桑ではなく、桑の実をついばんだ鳥がフンを落とし、種を運んで発芽した「野良桑」的なものが結構あるものだなということが感じられてきます。

     

    また、桑の葉を採集して蚕の幼虫に与えると、おいしそうにモリモリ食べるのがなんとも愛おしく感じられてきます。

     

    不思議なんですが、こういうときを過ごしていると、なんとなく日常の流れから程よく脱線できているような気持ちになります。

    お金を使って欲しいものを買ったり、誰かが用意してくれたものを選んで受け取るような営みとはちょっと違う。自分自身で情報を感じとり、その感じたことを色々な方法で具現化してみる。些細な動きでも何かがうごく。

     

    これも時間にしてはほんの数分の意識の変化でしかないのですが、自分自身にとってはちょっと立ち止まる機会となるひとつのように感じています。

  • ちょっと立ち止まりたいときに2

    ことばは光のようなもの

    ことばは風のようなもの

    ことばは雨のようなもの

     

    以前、このブログにも書いたことがあるかもしれませんが、

    その昔、ニホンヤモリを育てている時期がありました。

    我が家に迷い込んだ小さい生き物を興味本位で育て始める中で、

    色々なことを考えるきっかけをもらった気がします。

     

    ヤモリは生餌しか基本的には口にしないので、

    カゴの中で育てようとする場合、爬虫類専門店に行って御飯用に育てられたコオロギの小さいのを手に入れるか、自分で何らかの虫を捕まえてくるかといった感じになります。

     

    最初は私も近所の専門店に行き、生餌を手に入れてはコオロギも育てるという生活をしていたこともありましたが、どうも食いつきがいまいちだったので、結局近所を散歩しながらクモを捕まえたり、蛾の小さいのを捕まえたりする毎日を送っていました。

     

    やってみると興味深いのですが、そういう視点で散歩をしていると、普段見ているところ以外の部分に目が行くので、なかなかたのしいのです。私は都会生活が長いですが、緑のそれほど多くない住宅街の中で、ヤモリのご飯を見つけるというのは、なかなか容易ではなく、都会のハンティングの面白さを味わっていました。

     

    近くにコンビニはいくつもあり、欲しいものは結構なんでも手に入りますが、ヤモリのご飯はさすがに売っていません。でも、夜になるとコンビニにはその光に誘われて外のガラスに蛾が止まっていたりするのです。そういう獲物を捕まえにコンビニに行ったりもよくしていました。コンビニとの新しい関係が生まれたのです。

     

    こんなことでも、生活のなかの視点がガラリと変わり、単調な生活に面白みが感じられてくる。今思えば、この「ハンティング」を通して、いつどういったところに生き物がやってくるかなど感じる機会が生まれ、ほんとにわずかなことではありますが、自然の流れのようなものに触れていたのだと感じます。

     

    他人が用意してくれたものじゃないものに自分自身で取り組んでいく。

    まずやってみて、自分自身で感じ、何かを成していく。

    そのことの繰り返しでまた考えなければいけない事が生まれてくる。

    自然とこころが動き、ことばを感じられるようになる。

     

    忙しい生活の中で、数分でもそういうリズムの変わるときを過ごすことができていたというのは、自分自身にとっても必要な栄養だったのではないかと感じられてくるのです。(つづく)

  • ちょっと立ち止まりたいときに

    おはようございます。

     

    ことばは光のようなもの

    ことばは風のようなもの

    ことばは雨のようなもの

     

    そんなことばによって

    誰かに読まれるのことない

    わたしとからだとの間で

    感謝のひびきを通じて交わされている手紙

     

    瀧澤さん、一週間ありがとうございました。

    本日から寺本が担当します。テーマは引き続きフリーです。

    宜しくお願い致します。

     

    昨日までの瀧澤さんのブログを拝見していて、「あぁ瀧澤さんが日々からだに向けて抱いている手紙のようなものを覗かせてくれているんだなぁ」と感じました。

     

    ふと、日々の行き来の途中で立ち寄る巨樹の前で過ごすひとときのことが思い出されました。

    高層ビルの根元に聳えているスダジイの保護樹木なのですが、

    この大きな木に無性に会いに行きたくなるのです。

     

    ビルの基礎の少し高いところに位置しているので、触れられるような距離にないのですが、何をするでもなく、その大樹の前に立っていると、とても落ち着きます。

    その木の下はちょうどいい日陰になっていて、気持ちの良い風がそよいでいるのが感じられたりするようなところです。

     

    地に根を張って、寡黙に立っているその樹木の前で、わたしも立っている。

    立ち止まることは意外にエネルギーを傾けないとできないのかなと、

    でも静かなときのなかで、そこにいてもいいように感じられてくる。

    整理のできていなかった何かが少し落ち着いてくる。

    ことばが感じられてくる。

     

    時間にすればほんの1分程度なのですけれどもね。

    流れる時間のなかにいて、ちょっと立ち止まりたいときに、この樹に会いにいっているような気がしています。

  • からだへ⑦

     

    からだへ

     

    ありのままをそのまま素直に感じてみる。

     

    そうやってあなたの声の感触をふかめていきたい。

     

    そして、あなたの背景にあるはたらきの法則性に気づいていきたい。

     

    学びの質が変わると、そんなふうにおもえるようになってくるのですね。

     

    この学びのおかげで、今まで素通りしてしまっていたあなたの声や、背景にあるはたらきに気づき、確かな感触としてふれる機会が増えてきました。

     

    けれども、掬いきれていないことはまだまだたくさんあります。

     

    それでも、あなたの声を共有できる学びがあり、「わたしのあなた」ではなく、「等しいあなた」に出会える悦びがあり、それは未病医学の在り方にも通じてくるのですね。

     

    いつもふかい感謝です。

     

     

    一週間ありがとうございました。

     

    明日からは寺本さんです。お愉しみに!