投稿者: karib_sotai
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シーラカンス
「憶の快」というと、何故か脳裏に浮かぶのが、私の場合、この映像だけでご飯3杯くらいいけます。。。ゆっくり、悠久の時を生きているような感じがするからでしょうか。そもそも何億年もその形態が変わっていないというのがすごい。(その億じゃないけど)生命の記憶、という点では、あきらかに「もってるもってる」ですね。 -
憶の快(初日)
今週はバレンタインデーですね。
最近は「義理でチョコを配るより、自分にご褒美チョコを」と、考える女子が多いようです。私も自分で美味しいのを買って(Topsのチョコレートケーキをホール食いとか笑)みようかなと思ったりしている畠山裕美です。さて「憶の快」ってなんだ?というのが最初の印象でした。というのは、確か何かの用事で実行委員勉強会をお休みした時に、この単語が三浦先生から発表されたようなので、翌月私が勉強会に出た時には、すでにこの単語が実行委員の間には知れ渡っていたという次第です。まあ、何となく「生命記憶の中に存在する快」みたいなものかな、と、想像はつくのですが。というわけで、フォーラムの賢人に聞いてみたところ、岡村さんと半蔵さんが教えてくれました。ザックリですが、やはり「生命記憶の中に存在する快」という感じのようです。ちなみに「憶の快」とか「渦状波®」とか「第二分析」「第三分析」などの言葉は、三浦先生の考案です。これについてですが、半蔵さんが「目明き」「目利き」の話をして下さいました。我々、実行委員は「操体の目利き」くらいのレベルにはいます。「目明き」というのは「その道のプロで、新しい言葉を作ってもよいレベル」のことで、例えば、利休や世阿弥クラスの達人だということです。その道を極めているので、新しい言葉を創造してもよいのです。なるほど。 -
憶の快を想う。
おはようございます。
昨日、第3分析(D3)、渦状波®について少し書きましたが、実際に臨床で被験者(患者)の方の皮膚に接触し、そこから感じとれるものからは、メカニズム的に言い表せるものではなく、生命そのものの生といった印象を受けます。
そして、操者(施療者)として触れている自分自身も、思考的意識が消えていき、こちら側もその感触をただただ味わっている状態となる。
そして、操法終了後は、こちらも何か癒された気持ちになり、心もからだも軽くなっているのを感じます。
10年以上前に、三浦寛先生は「操体臨床の道しるべ」という著書の中で
「操体は、自然法則の応用貢献の場である、太極という無極無限の宇宙現象創生の中心理念に基づいて、その生かされし救いの生命観に学ぶ場である。
操体の臨床とは、快適感覚と一体となり、快に帰すことにある。操者の存在も快に帰して無になり成り立たなばならない。患者も操者もともに快に調和していくのである。それが操体臨床の成せるところなのである」
と書いております。
この文章、テクニック的に捉えて皮膚へのアプローチを行っている人ではなく、渦状波®または渦状波®から応用して皮膚へのアプローチを行っている人は理解できると思います。
接触する指先にだって相応の意味がありますものね。
そして、今回のテーマであった「憶の快」につうじるものがあると思います。
これは、自分の立場から現象を考えるのではなく、からだの立場に立って、現象を現象とさせている実相に想いを馳せることが必要だと思います。
実相とは何ぞや?
それは、からだがしっている。「憶の快」とはからだの無意識が常に触れているものかも?・・・。
一週間のお付き合い、ありがとうございました。
明日からは畠山裕美先生の担当となります。
来週も東京操体フォーラム実行委員ブログ、よろしくお願いいたします。
友松 誠。
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からだがききわけてくる快。
おはようございます。
これまで、操体臨床の第1分析(D1)、第2分析(D2)について書いてきましたが、どちらも、被験者本人(患者)の意識関与が多分に関わっています。
しかし、第3分析以降では、被験者本人の意識関与は遠ざけ、治しをつけてくるからだそのものに対する診断法に変わってきていると感じています。
第3分析(D3)は、皮膚へのアプローチ、渦状波®となります。
皮膚はからだをすっぽりと包み、外部との境界をなしていることから、一般的にはバリアー機能について語られることが多いようです。
しかし、内部、精神との連関も密であり、第2の脳とか第3の脳とも呼ばれます。事実、臨床上最も重視している皮膚の表皮は、発生学的には脳と同じ外肺葉由来であるという。
皮膚に関しての著書の多い傳田光洋氏は、著書の中で、
「絶え間なく変化する環境の中で生きる存在にとって、その境界たる皮膚の方が、生命機能維持のみを考えた場合、脳より上位と言うことも可能かもしれません」
と書いています。
この文章から察するに、頭の脳と同じように、皮膚も様々な情報を処理して統合していると考えれば、頭の脳は思考優位の意識領域での働き、皮膚の方は無意識の領域で生命機能維持の為の働きをしていると感じます。
そして、それぞれ特有の記憶を有しているのではないかと思えるのです。
渦状波®を行っている時、その時空で被験者本人は、快のみをききわけているわけではないようです。
時折、辛そうな表情を浮かべたりします。しかし、その表情は一時的なもので、次には満ち足りた表情にもなります。
この時空というのは、からだが本人の生き方(意識)に合わせている状態から解放され、生命の本源と向き合う状態(無意識)になり、生命体としての記憶を整理しながら、バランス制御に向かっているのではないか?と感じます。
操法後に、昔どこかを痛めた時のことを話してくれ、そこを触ったり動かしたりして確認して、こっちも良くなっていると仰ってくれる人もいますが、からだだって現在の症状が治まるバランス状態となるだけでなく、より根本から良くなるバランス状態となる事を望んでいるのだと思います。
この場合は、からだがききわけてくる快、となるのではないか?と思います。
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からだに快の質をききわける。
おはようございます。
一つ一つの動きから、からだに、気持ちよさをききわける第2分析(D2)において、大事なのは快感度の質をからだにききわけるということです。
操体の病に対する捉え方は、
からだが本来のバランスを保てず、不快な動きの方向に歪むと、
気持ちが悪くなり(感覚異常)① → 動きも悪くなり(機能異常)①’+② → 壊れてくる(異質異常、破壊)①’’+②’+③というプロセスとなります。数字と数字の記号は、異常が進んでいくと、先にあらわれた異常も増幅されていくという事を表しています。エントロピーが増大すれば、それだけ痛みや辛さの不快感覚も増すということでもあります。
ですが、このプロセスは有難いことに可逆性にもなっております。
これを、第2分析(D2)に当てはめますと、
からだにききわけた快適感覚を味わう事によって、からだがバランス制御に向けば、①の気持ち悪さが軽減、消失に向かい → ②の動きもよくなり → ③も回復の可能性が高くなる。
この可逆性を可能とするのに重要となるのが、快感度の質という事になります。
快のききわけも、どんな感じで気持ちが良いのか、その気持ちよさはからだの要求感覚を満たしているのか、といった快の質をききわけることが重要です。
そして、からだの要求感覚を満たした快の質を味わう時空によって、その人特有の歪み、病へのプロセスを、からだが可逆変化させる為のバランス制御に向かうのです。
快に問いかける診断法が体系化されてから、随分と年月が経ちますが、まだまだ一般的には気持ちよさで治る、良くなるという真実が、体験していただくまで判ってもらえない事が多いです。
しかし、様々な病回復の可能性を高める為にも、ただ気持ちがいいだけでなく、どう気持ちが良いのかを、からだにききわけるという事は必要なことなのです。
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まずは楽との袂別から-4
おはようございます。
「気持ちよさをききわければいいんだ。気持ちよさで治るんだからな」
という言葉。
この言葉に反応し、気持ちよさ、快適感覚に問いかける臨床を体系化したのは、直弟子の三浦寛先生でした。
三浦先生は、18歳の頃に70歳代の橋本先生に直弟子として数年間仕え、その後も橋本先生より学んでおり、臨床だけでなく思想、哲学にも造詣が深い。
操体法は、橋本先生の思想、哲学を含めた操体という大きな容れものの一部であり、そして操体と操体法はリンクしている。
創始者の思想、哲学に造詣が深く、実際に創始者の気持ちよさに従ったからだの表現に接触していた三浦先生だから、創始者の言葉に反応出来たのだと思う。
従来の操体臨床と快に問いかける臨床の、大きな違いは、からだを尊重すること。
治すのは、あくまで、からだ。
どんな高等とよばれる治療を受けたとしても、からだが応えてくれなければ、どうにもならないのだから。
気持ち良いという、快適感覚は、被験者(患者)のからだにききわける。操者(施療者)が決めつけるものでもなければ、被験者の思惑でもない。
だから、従来の辛い動きと楽な動きの運動感覚差を被験者に確認するやり方をして、楽という言葉だけを気持ちよいとしているのは、本来の方法ではない。
本人の運動で治るのではなく、気持ち良いという感覚によって、からだがバランス制御に向かう事で治るのだから。
だから、動診もその為の呼び水のような捉え方が必要と思う。
自分の動きとしての運動の数は限りなくある、しかし、からだの動きは8つしかないのだから。
一つ一つの動きで、からだに気持ちよさをききわける。
そして、そのききわけた気持ちよさを味わう時空で、からだはバランス制御に向かう。
この時空が操法となるが、従来のタワメの間とは質が違うものであるから、2~3秒とはならず人によっては何十分となる事もある。
そして、気持ちよさを味わった後の脱力の仕方も、瞬間急速脱力させるではなく、からだの要求に委ねた脱力の仕方となる。
また、操法の回数も2,3回やるという決めつけるのではなく、回数もからだにききわける。
この従来とは違う、からだに快適感覚をききわける診断法(第2分析・D2)が、体系化されたことで、はじめて操体法は、有難く参考とさせていただいてきた正體術から自立できたといえよう。
そして、おおいなる自然の一員であるからだを尊重し、からだから学ぶ事で、操体は深化し、進化していく事となる。
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まずは楽との袂別から-3
おはようございます。
身体を治すのは、あくまで、「からだ」。
そのからだのバランス制御の原動力となるのが、気持ちよさという快適感覚。
楽とは違う、その感覚。動診、操法に於いて、その「気持ちよさ」という感覚には、自分の意思による脱力さえも忘れさせてしまうものがある。
また、自分の意思で脱力したつもりでも、気持ちよさによって、動きを継続させバランス制御に向かう「からだ」。
橋本敬三先生の直弟子である三浦寛先生は、橋本先生の晩年の頃にからだを診させていただいた時のことを、いくつかの著書で書き表しています。
当時はまだ、楽な方に操法をとおし脱力するやり方で、診させていただいたようですが、橋本先生は他の被験者(患者)とは、まるで違う動きの表現をしていたという。
その動きは、視覚でとらえやすい外側の動きではなく、触れることでわかるようなからだの内側からの動きであり、従来の楽な動きでは表現できない動きだったという。
この時、橋本先生は、ただただ気持ちが良いという快適感覚を味わっており、脱力も操者の指示によるものではなく、からだの求めに応じた無意識的な脱力をされていたようです。
この当時は誰も、気持ちよさ、快適感覚に問いかける動診、操法など行っておらず、橋本先生自身も楽な方に操法をとおし、脱力するやり方を行っていた。
しかし、橋本先生は、日々、御自分で自力自動による動きをとおしていて、気持ちよさによって自力自療が適う、という事を御自分の身体がより良く変化していく過程から悟っていたのだと思う。
自分の運動の動きで自力自療が適うのではなく、気持ちいいという感覚で自力自療が適う。
運動による動きではなく、感覚。気持ち良いという快適感覚で、からだが動く。
こうした事実、真実が明らかになるにつれ、逆モーション療法とも呼ばれた運動感覚差を確認しての、楽な運動での整復法から、からだの要求を尊重した臨床のとおし方にシフトしていく事となる。たわめの間然り、脱力の仕方然り。
そして、橋本先生が現役を引退された最晩年の頃、橋本先生より
「気持ちよさをききわければいいんだ。気持ちよさで治るんだからな」
という言葉が発せられる。
明日につづく。
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まずは楽との袂別から-2
おはようございます。
操体法も初期の頃は、正體術をヒントに客観的に骨格、関節の構造を診て、運動系の歪みを修正する方法がとられてきた。
この、客観的に診るとは、本来は凄く熟練を要する事なのです。
二者択一的に対なる動きを選択し、楽か辛いかの運動感覚差をききわけると言ったって、その二者択一的な動きをどう選択すればいいのか、客観的見地から行うとなると、とても奥が深いものなのです。
機能解剖学的に局所の関節運動の知識はあっても、その動きがどう全体と関わって、全身に連動するのかという事になると、正確なことは判らなくなるし、それまで書物にもなっていない。長年の経験によるところが大きくなる。
だから、操体法が一般に広まった時に、パターン化、マニュアル化という事も起こってきた。
例えば、肩凝りであれば最初に、この動きを選択して二者択一的に楽か辛いか運動感覚差を分析し、同じように次はこの動きで二者択一的に分析し、次にこの動きを二者択一的に分析して、それぞれ楽な方に動かして→動きをタワメて→瞬間急速脱力するといったことを、2~3回行っていけば、大抵は良くなる、といった具合だ。
これも客観的と言えば客観的なのかもしれない。客観的の意味には、みんなに共通したもの、みんなに共通して当てはまる、という意味もある。
しかし、本来の運動系の歪みを修正する為の客観的診立てではなく、質はともかくとして、みんな誰でも簡単に行えるマニュアル化したやり方が先に広まってしまった。
このマニュアル化したやり方は、みんな誰でもそこそこ成果をあげられるようにはなっているが、柳の下にいつもドジョウがいるとは限らないが如く、いい加減に行っていれば、いい加減な結果につながる。
だから、効果を高めたければ、しっかり研鑽を積んでいく必要がある。
研鑽を積むと言っても、局所関節、筋肉の客観的メカニズムや自分の知識、考えばかりを優先させた押しつけの臨床経験を積んでも意味がない。
知識を豊富にする事は大事だが、客観的に診る事を突き詰めていけば、自然体からみてということであり、これは身体運動の自然法則を説いた般若身経と真摯に向き合い、まずは自分自身で自然法則に則った動きを体感する事。
自然法則に則った全身が調和に向かう動きを体感し、それによって身体がどのように変化するのかを身をもって学んだうえで、相手がどうような法則違反をしてボディに歪みを生じさせているのか、その歪んだボディからはどのような動きが一番辛いのか、相手の身になって辛い動きの反対である整復復元コースを感じとっていく。
そうやって感じとる研鑽を積んでいき、どの動きを選択して二者択一的に分析するかが判ってくれば、果たして二者択一的に辛い方にも動かす必要があるのだろうか?という疑問も湧いてくると思う。
また、辛い動きの反対である、楽でスムースな動きの可動極限でタワメて、2~3秒後に瞬間急速脱力に導くという方法も、ツクリだけでなくツクリを構成させる内側の動きとの関連を考えれば、瞬間急速脱力できない人もいて当然であり、もっと安全でバランス制御に向く本質的な事柄に目を向ける必要がでてくると思うだろう。
バランス制御に向く本質に目を向けた時、それを行うのは?
それは操者(施療者)ではなく、バランスを崩す生き方をしてきた被験者(患者)でもない。
それは、被験者の「からだ」なのだ。
そして、からだには楽という選択肢はない。からだは快、不快という原始感覚を羅針盤として生命現象、バランス現象を展開しているのだ。
このバランス制御に向く本質に気付いた時、従来の正體術の手法からヒントを得たやり方の決まり事を見直し、操体は自立への道を開くこととなる。
明日につづく。
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まずは楽との袂別から。
おはようございます。
東京操体フォーラム実行委員ブログ、今週は友松の担当となります。
一週間どうぞよろしくお願いいたします。
今回のテーマは「憶の快」となります。
憶の快。この憶の快という言葉は、まだ操体関連の書籍にも載ってない新しい言葉です。新しいといっても、操体の深化に伴なった進化により、必然性をもって生まれた言葉ですから、まずはその経緯を知ることが肝要と思います。
操体、操体法は創始者である橋本敬三先生の時代から随分と進化しておりますが、その進化の大きな要因として、「楽」から「快」へのシフトチェンジが挙げられます。
楽から快へシフトチェンジした事で、はじめて操体は操体法のヒントとなった正體術から自立していく事となる。
創始者は、医師でありながらも様々な民間療法とも交流しながら、それらを自らの臨床に活用していた。そんななか、正體術との出会いもあった。
そして、正體術の手法をヒントに、どちらが辛い動きで、どちらが楽な動きか、本人に運動感覚差を確認させ、楽な方へ動いてもらい、瞬間急速脱力するという臨床のとおし方を行うようになる。
この臨床のとおし方(第1分析、D1)の目的は、ボディ(横紋筋系運動系)の歪みを正す事にあった。当時は、楽な動きでボディの歪みを正せば、おのずとバランスがとれて様々な症状、疾患に効果があると考えられていた。
また、当時は人々の生活様式や暮らしぶりが、近年とはずいぶんと違っていたので、この臨床のとおし方でも十分に効果はあげられた。
しかし、時代が進みにつれ、人々の抱えるストレスも多様化して増え、骨格を基礎とする横紋筋系運動系の歪みを正すだけでは対応しきれないケースも増えてきた。
横紋筋系運動系を楽な方向に動かして歪みを正せば、おのずとバランスがとれて回復改善に向かう、では不十分。
もっと緻密にバランスがとれるまでの経緯を、掘り下げて究明する必要がでてきた。肉体は横紋筋系(随意筋系)だけで成り立っているわけではなく、平滑筋(不随意筋系)もあり、それぞれ神経系統も違う。自分が楽と思う随意的な動きに、不随意筋系が常に協調してくれるとは限らないだろう。
客観的に見て、ボディの見てくれがよくなっても、それが内部との調和に向いていなければ、本来のバランスがとれたとは言えないのではないだろうか。
事実、それだけではボディの歪みの修正も一時的なものとなりやすい。時代が進み、ストレスの度合いも、精神的ストレス、内臓ストレスの占める割合いが大きくなってくれば、尚更だと思う。
「楽」では、もう古い。
明日へ続く、
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バランスという深遠なる世界
操体という畑で、からだについて学び
「歪み」というものに対しての捉え方も
変化してきました。
端から見て「アンバランス」なように見えていても
果たして本当にそれはバランスが取れていないのか。
そういうことも感じる必要があることを知りました。
その一例として、当人の「からだ」だけを診て、バランスを考えるのと
その人の纏っている「環境」も含めたところでのバランスを感じることの
違いが挙げられると思います。
どの領域まで診て、考え、感じ、語ろうとしているのか、
そこで大きく意味合いは変化する。
そして、操体はからだとのキャッチングボールでもあり、
「楽」と「快」では、これもまたバランスのベクトルやニュアンスがだいぶ変わってきます。
「楽」が見せてくれるバランスと
「快」をききわけることで満たされるバランスは全く別物。
さらに、その先の世界に触れて、現在進行形で学んでいる自分もいます。
もし操体というもの、わからないながらも真剣に学んでみたいと感じるのであれば、
是非アクセスしてみてください。
特に最近の操体は、「空間」でキャッチできる情報に溢れていますので
ズルい野次馬根性をもって操体にジカアタリしてみてくださいね。
着々と始動しています。
発表者からのメッセージも届いています。
それでは一週間お付き合いいただき、ありがとうございました。
明日からは巧者組の一人友松実行委員の登場です。
どうぞ、おたのしみに。

