投稿者: karib_sotai

  • 向き合う空間

    「臨床」って何だろう。

     

    操体と出会って、学びを続ける中で

    今でもそういったことについて考えます。

    逆に、そういうことを知りたいがために

    学び続けているのかもしれないとも感じます。

     

    特にここ数年で、この問い掛けの質が

    がらりと変化をしてきているように感じています。

     

    操体の特徴ですが、臨床を通して

    「向き合う空間」を与えている

    と言えるのではないかと思うのですが、

    これは初期の「楽か辛いか」という「運動分析」の時代から一貫しています。

     

    ただ、その目的は大幅に変化をし続けていて、

    「何」と「何」が向き合うのか、

    その目的を見据えて、アプローチを変えていくこともできます。

    操体は臨床を通して、様々な向き合う空間を演出しているのだと感じています。

  • 向き合う時間

    先にも少し登場しましたが、

    「時間」というものが気になっています。

    何も意識する事がなくても

    勝手に経過し、流れていくもの。

     

    以前は「時間」に関して興味をもつことも

    特別考えることもなく、ただ流れていくものであるように

    感じていました。

     

    最近は少し違うような気がしています。

    意識をもって取り組むことで、

    同じ5分でも、違った表情をする。

    そういうことが起こっている様に感じます。

     

    意識をもって取り組む、

    自分にとっての第一歩は自分自身と向き合うことだと

    思うようになりました。

     

    ゆっくりと、

    自分が本当に考えていることに意識を傾けて、

    からだにききわけて受け取ったイメージを言葉にする。

    方法はいろいろあると思いますが、

    そのうちに、すっぽりと別の時間を味わっているような気持ちに

    なっていることがあります。

     

    何かに追われるように忙しくしているからこそ

    余計にそういった「時間」が必要だったんだと感じます。

     

     

  • 楽を選ばない生き方

    昨日に引き続き、

    逆に「憶」というものに通じることはないだろうな

    と感じているのは「楽」という選択肢です。

     

    動診・操法としてあえて「楽」を通す場合は別として

    操体を学ぶにつれて、日常生活で口にする言葉、

    また意識のボキャブラリーから「楽」という概念が

    姿を消していることに気が付きます。

     

    「楽」を選択することで得られるものに、

    人間の欲は喜んでも、

    からだの方は悦んでいない。

     

    そのギャップを少しずつ身をもって感じる様になり

    楽に魅力を感じられなくなったのだろうと感じています。

     

    見渡してみれば「楽」なものに囲まれて生きています。

    その選択肢をあえて選ばない生き方もある。

    時代の抱える「先」の要求に応えるように

    「憶」というものも姿を現したように感じられます。

  • 時間も変化する?

    これも最近、講習やフォーラムなどに参加していて感じる事ですが

    半日みっちり、あるいは

    朝から晩まで操体漬けという状況の中にいて

    「あれ、もうこんなに時間が経ってるの?」

    と思う事が増えました。

     

    これは私に限ったことではなく、

    その場を共有している参加者や仲間からも

    同じ様な言葉がきこえてきます。

     

    「時間」もイノチであり、

    ある瞬間に、質的変化を起こす。

     

    これは私の思い込みかもしれませんが

    こういうことも「憶」に通ずること

    なのではないかと感じます。

  • 名前のついていないものに出会う

     最近の操体の大きな特徴として、

    まだ名前のついていない物事(モノ・コト)に

    触れる機会が増えてきているように感じています。

     

    まだ名前がついていないということは

    A:存在が認識されていない場合 と

    B:存在はわかっているけど、名前がない場合

    など様々理由はあると思いますが、

    認識されていないモノをキャッチして、

    そこに言葉を与えていく。

     

    そんな「AからB、そしてCへ」のプロセスを

    ここのところの操体の学びの中で強く感じています。

  • その先の世界へ

    おはようございます。

    瀧澤さん、一週間の投稿ありがとうございます。

    引き続き今週は寺本が担当致します。

    テーマはなんと「憶の快」ということで・・・。

    宜しくお願い致します。

     

    瀧澤さんのブログタイトルにもありましたが

    今回のテーマは私自身のなかでも

    未だ言葉になっていない、未知を歩む道の領域であります。

     

    「操体」は感覚というものをとても大切にしていますが、

    このカタチのない「感覚」を言葉で表現することには、

    まだ未開拓の部分、「可能性」とも呼べる部分が

    たくさん残っているのではないかと感じています。

     

    操体の歴史を紐解いてみても、その過程で、

    操体における「楽」と「快」の識別を丁寧に行うことに

    非常に時間をかけてきました。

    この識別も、しっかり学ぶことは「するめ」のように味わい深いものです。

     

    そして「その先」がまだあったこと。

    「快(快適感覚)」という領域には

    まるっと一緒くたにできない何かが存在することがわかってきた。

    ただ「快」を通せばいい、というのはもう古いのかもしれません。

     

    そういうことに目を向けなければいけない時代に突入している、

    と師匠の傍で学んでいて感じています。

     

  • 憶の快ってなんだろう⑦

    操体を日常に生かす。

    それには、この「からだ」が常に「うごいている」こと
    抜きには語れないでしょう。

    般若身経。

    形をつくるのではなく、感じるプロセスによって形にな
    っていく。

    毎朝「からだ」にききわけながら、生かされているとこ
    ろから始まる「うごき」を表現していると、なぜ、この
    「うごき」なのか、自然と「納得」してしまいます。

    スマホに不要なデータや使っていないアプリケーション
    をそのまま入れっぱなしにしていると、いつの間にか動
    作が重くなってしまうことがありますが、それは「から
    だ」も一緒。

    いらないデータを削除したり、必要のないアプリをアン
    インストールするように、できる限り「からだ」本来の
    デフォルトに戻していく。

    こんなふうに僕たちの「からだ」はできていたんだね。

    だから、「快」につながっているんだね。

    なんでもいいってわけじゃないんだね。

    操体が「健康維持増進」医学でホントによかった。

    ちゃんと「そこ」につながる「快」があることを体感
    できるのですから。

    一週間ありがとうございます。

    明日からは、空間に声をひびかせる寺本さんです。
    よろしくお願い致します。

  • 憶の快ってなんだろう⑥

    今も継続していただいている三浦先生との個人レッス
    ン。

    レッスンが始まったばかりのころは、毎回レッスンの頭
    に臨床を受けるところからのスタートでした。

    人にやる前に、まず自分が味わってみないとネ。

    というわけで、皮膚を介して「からだ」がききわけてい
    る「きもちよさ」をウンと味わうことができました。

    なぜ、「きもちよさ」でこんなにも変わるんだろう?

    そもそも「きもちよさ」ってなんなんだろう?

    この体験が「憶の快ってなんだろう」という問いの原点
    だったのかもしれません。

    定まっていないものを追求できる悦び。

    生かされていることを自覚し、共に生きているものたち
    と同期のリズムを刻み、「からだ」のデフォルトに感謝
    することができるのも、「快からのメッセージ」があれ
    ばこそ。

     

    快からのメッセージ―哲学する操体

    快からのメッセージ―哲学する操体

     

      

    そのメッセージは、個々人の主観的体験に修飾された
    「きもちよさ」のなかにではなく、「からだ」がききわ
    けている「きもちよさ」のなかにある。

    ですから、僕たちは「からだ」にききわけるのです。

    それが「からだ」の治癒力につながっているのですから。

  • 憶の快ってなんだろう⑤

    調和的な勘、それは何かと共に生きていることを直感的
    に感じることなのかもしれません。

    共生といえば、僕たちの消化管のなかにはマイクロバイ
    オータ(腸内に生息する微生物群)が存在し、消化活動
    や免疫系だけではなく、「微生物語(びせいぶつご)」
    を介して脳と連絡をとり、情動のコントロールにも関与
    しているようです。

     

    腸と脳──体内の会話はいかにあなたの気分や選択や健康を左右するか

     

    この共生関係の起源を辿っていくと、5億年前にまで遡
    ることができます。当時の海洋生物とその消化管内に生
    息していた微生物との共生関係。そこで行われていた遺
    伝情報のやり取り、それによって発達してきた腸管神経
    系、そして共生システムそのもの。

    現在僕たちが感じることができる「はらわた感覚」は、
    この時代から受け継がれてきたものであり、それは無数
    のいのちによって支えられてきたものでもあります。

    そのような共生関係は、細胞のなかのオルガネラの一つ
    であるミトコンドリアとも築いてきました。

    先日、臨床中に「ひとつひとつの細胞に空気が入ってく
    るみたい」とおっしゃった方がいます。この方はすでに
    「からだ」がききわけているものをききわけられたよう
    です。

    「ひとつひとつの細胞に空気が入ってくるみたい」とい
    う表現は比喩表現にとどまりません。

    事実、ひとつひとつの細胞のなかのミトコンドリアは、
    吸気によって取り込んだ酸素によってATPを産生して
    います。

    「感覚」というとひどくあいまいで、おぼろげで、主観
    的で、言葉を持たず、あえて言葉にすると消えてしまい
    そうでもありますが、僕らは感じることができるからこ
    そ、「からだ」がききわけているものと共有することが
    できるのです。

  • 憶の快ってなんだろう④

    感覚の源流といえば、原始感覚。

    橋本先生はこんなふうに書いておられます。

     

    からだの設計にミスはない―操体の原理

    からだの設計にミスはない―操体の原理

     

     
    「自分の原始感覚に従って、自分のからだに合った行動
    をとったり、食物をとったりする。私たちの先祖は、ま
    さにそういう生活をしていました。やっぱり自分で自分
    のからだを治す知恵を持っていたんだ。地震が近づけば
    ナマズが騒ぐ。トウモロコシのような植物でも、その年
    の風の強さ弱さで根の張り方を変えるというがそのよう
    な感覚を持っていたんです。」

    橋本先生は原始感覚のことを「勘」ともおっしゃってい
    ますが、そこには動物的な「勘」だけでなく、植物的な
    「勘」も込められていたのかもしれません。

    動物が危険を回避し、獲物を求めるという原始的な勘。
    植物がいながらにして宇宙と交流している調和的な勘。

    ヒトにも動物にも植物にも空間的に貫通している感覚。
    ヒトにも動物にも植物にも時間的に貫通している感覚。

    「今」ききわけている感覚に意味づけをすることなく、
    あるがままに受け取るということは、大脳による知覚で
    はなく、原始脳が、ひとつひとつの細胞が、そのなかで
    生きるオルガネラが反応する姿であるように思います。

    ベッドに横になるとき、頭の向きがいつもと違ったって
    いいし、座ったままだっていいし、立ったままだってい
    い。

    操者と被検者の位置関係も、距離感も、物理的な接触の
    有無も、自分勝手は許されないけれど、「からだ」にき
    きわけた自由な創意工夫はあってもいい。

    「からだ」にききわけるからこそ、「からだ」の治癒力
    につながっているのですから。

    橋本先生から三浦先生へとつながる系譜、それは原始感
    覚でつながっているのかもしれませんね。