投稿者: karib_sotai

  • 二日目

    “植物のもつうまれながらの合成能力が、動物にはまったくない”

     

    豊かにふりそそぐ太陽のもとで、地上のどこにでもある材料、つまり簡単な無機物・水・二酸化炭素をもとにして、自分の力で生命の源をつくり上げていく植物たちのすがたが見られる。

     

    このような植物たちの生活は、まさしく地球の条件に、もっともすなおに応じたもので、かれらの生き方が、いかに自然なものであるかをうかがい知ることができよう。

     

    これにくらべて、われわれ人間もふくむ動物たちの生活はどうであろうか。

     

    すなわち”餌”に向かって進むための”感覚―運動”という生活が、動物たちにとって、新たなひとつの課題となってくるのである。

    「ヒトのからだ」(16~17p)

     

  • 一日目

    前回のブログで御登壇いただいた野口三千三先生が教鞭を取っておられました東京芸術大学で、同時代に三木成夫というユニークな解剖学者が在籍されていました。

    野口先生と三木先生は、お互いに興味を持って交流されていた様で、おもしろいエピソードも残されています。(「内臓とこころ」河出文庫88p)

    三木先生は、”ヒトのからだ”を、こよなく慈み愛でられました。
    『ヒトのからだ―生物史的考察(うぶすな書院)』という本に、その思想・哲学が凝集されています。
    その中でもエッセンスと言えるのが「からだの歴史」の章です。
    今回は、そこから珠玉の言葉を掬い上げて、味わってみたいと思います。

     

    ++++++++++++++++++++

    かれらはたえず外から物をとり込んで大きくなり、やがて、みずから次代をつくって死んでいく。そして、このことを連続的にくり返していくのである。このような現象は、無生物ではけっして見ることも、想像することもできないのであって、われわれは、この”栄養―生殖”のいとなみを、生物の生物たるゆえんと考えるのである。
    「ヒトのからだ」(10~11p)

     

     

  • 「からだとじぶんの間にあるもの ~その7~」

    本日で最終日になります。

     

     

    1週間色々最近思っていることやからだと向き合っていく中で受け取ったメッセージを書かせて頂きました。

     

     

    今回皆様に一番伝えたかったことは先日少し触れましたが「からだの軸」の重要性です。

     

     

    健康でいる時も、体調が優れない時でもわたし達は常に目まぐるしく変化する環境の中でからだ共に生かされている。

     

     

    その変化に適応していく為に必要なことの1つはからだを正当に使っていくための「からだの軸」であり、その軸がどのように立っているのかを感知するためには「意識の軸」というのも必要です。

     

     

    わたしもこの軸についてはまだまだ勉強しなければなりませんが、この意識の軸とからだの実際の軸が上手く重なっている時は動きや呼吸に軽さを感じることが出来ます。

     

     

    逆にからだの動きや呼吸に重さを感じると時はこれらの軸が重なっていないように感じます。

     

     

    これについてはまた次回に触れていきたいと思っていますのでよろしくお願い致します。

     

     

    1週間お付き合い頂きありがとうございました。

     

     

    明日からは半蔵さんが担当致します。

  • 「からだとじぶんの間にあるもの ~その6」

    最近はからだの「軸」というものの大切さを実感しています。

     

     

    健康で元気でいる時はあまり感じられなかったのですが、病気になった時や疲れている時等にからだを支える軸がどこにどのように立っているかで疲労度も大きく変わってくるように感じます。

     

     

    私は立ち仕事をしていて動いている時は呼吸や動きのバランスが取れた状態なのですが、立っているだけの時に腰や膝の裏筋に力が入った状態で立ってしまうことがあります。

     

     

    その姿勢でいると腰は反った状態で背中に力が入り、両方の肩も挙がった状態になります。

     

     

    この時に感じられるからだの軸は股関節の横軸の中央、もしくは右側でからだを支えている感覚です。

     

     

    この軸の立ち方の問題点は幾つかありますが、最も問題なのは呼吸のバランスが崩れることとじぶんの意識の中に「楽」が根付いてしまうことです。

     

     

    この軸の中で本人が選択していることのほとんどはからだの要求に反することが多く、その積み重ねが病の根っこにあるような気がします。

     

     

    日常のわずかな時間に自身のからだを支えている軸がどこにあるのかを意識することはからだと良い関係を構築していくことにおいて非常に大切なことだと思います。

  • 「からだとじぶんの間にあるもの ~その5~」

    先月の初旬位から再度リウマチの症状に悩まされてきましたが、治療薬を飲むようになりだいぶ痛みは落ち着いてきました。

     

     

    正直、治療薬のからだに大きな負担がかかることを身に染みていたので薬に頼らず治療していきたいという想いがずっとありました。

     

     

    しかし実行委員の先輩達から現代医学と操体を併用していくことも大事だというアドバイスを頂いたことで薬による治療も行っています。

     

     

     

    個人的な感想になりますが、この1ヶ月現代医学の治療を続けてみて感じたことメリットとデメリットがあるということです。

     

     

    例えば薬を飲み続けて感じることは確かに痛みが消え、からだは楽になりますが、それに依存してしまうことで失われてしまうものがあります。

     

     

    1つはからだの素直な感覚、もう1つはそれに頼りきってしまい自己責任に対する意識が薄れてしまうということ。

     

     

    また先日書いた意欲の消失もその1つのように感じます。

     

     

    それに対し、操体は現代医学で失われつつあるものを取り戻す問いかけをしているように感じますが、その土台を作ることにおいては現代医学の手を借りなければならないこともある。

     

     

    どちらが良くて悪いのではなく、互いが互いのメリット、デメリットを認め、足りないものを補いながら共存していくことが未来の医学には必要なことではないだろうか?

     

     

    薬の治療をあまり受け入れられなかったじぶんも、これからは考えを改め、からだに必要なものは全て素直に受け入れていこうと思います。

  • 「からだとじぶんの間にあるもの ~その4~」

    からだが重い時や痛みが生じている時には決まって「こうしたら痛くなる」「これだけ動いたら後々キツくなる」というような計算でからだを使っている。

     

     

    それは痛みによる呪縛のようもので、ずっと続いていたのですが、最近はじぶんの思考よりも先にからだが動いてくれる時が多くなってきました。

     

     

    その時は痛みや疲れを感じずに気が付けば結果的にやっていることが多いです。

     

     

    そんな経験は恐らくわたしだけでなく、ほとんどの人がしていることだとは思いますが、なぜそういったことが起こるのか疑問に思っています。

     

     

    何度かこういったことを体感していくと、からだがわたしの代わりにやりたいことをしてくれているように感じるのです。

     

     

     

    あれこれとマイナスにしかならないことを考えてから動いてしまうじぶんの思考のスイッチをからだは動くことでそのスイッチをオフにし、わたしの導いてくれる。

     

     

    からだが主体となっている時に感じられるのものは「楽」ではなく「快」にベクトルが向いている。

     

     

     

    そんなことを感じていると橋本敬三先生が言われていた「病気なんてない」という言葉の意味も今までと捉え方が変化してくるように感じています。

     

     

    本当の病の根っこにあるものはじぶんの思考や意識によって作り出されているのかもしれませんね。

  • 「からだとじぶんの間にあるもの ~その3~」

    最近つくづく「からだはウソをつかないな」と感じています。

     

     

    約半年前から足の裏の皮膚の状態や色、形態がどのように変化しているのかをチェックし、自身の立ち方と歩き方の評価をしています。

     

     

    この半年間、出来るだけ母趾球を意識し、からだを使ってきたつもりでしたが、左右の第三趾の下(湧泉よりも少し上)にタコみたいなものがありずっと消えません。

     

     

    その原因を解明したいと思い、日々の無意識にしていることを意識を向けて観察していたのですが、疲れてきた時にその部位に体重をかけていることがわかりました。

     

     

    じぶんの意識の行き届く中では正当にからだを使うために必要なことをしていても、意識が行き届かなくなった時にからだはじぶんに対し、正当な評価をしてくれるように思います。

     

     

    その評価は時に呼吸であったり、時にじぶんの意識の行き届かないからだの特定の部位でしてくれます。

     

     

    特に足の裏や背中、首といった自身の肉眼で確認しづらい部位に何らかの形でメッセージを送ってくれている。

     

     

    その変化に意識を向けていくこともからだとじぶんとの距離を縮めていくためには必要なことなのではないだろうか?

  • 「からだとじぶんの間にあるもの ~その2~」

    前回までのブログでも書きましたが、約1年前に患った関節リウマチになりました。

     

     

    現在も治療中なのですが、その過程の中で実際のからだの痛みよりも苦しいのは痛みから逃れるために楽を選択しようとするじぶんの意識でした。

     

     

    「楽は苦なり」とよく言いますが、動きでもじぶんの生活においても楽を積み重ねてしまうと、じぶんにとっても、またはからだにとってもそれは本当に苦痛なことなのです。

     

     

    そしてその積み重ねにより、時間の経過と共にからだとじぶんとの間に距離が生まれ、からだがききわけている感覚がわからなくなってくるように思います。

     

     

    個人的にリウマチと1年近く向き合ってきた中でこれが一番の難題だと思いますし、、現在病気を患っているほとんどの人がこのことに悩まされいるようにも感じます。

     

     

     

    また病を患っていると、よく「気力」が削がれていくというようなことをよく耳にしますが、これもからだとじぶんとの間に距離が生じていることが1つの要因なのではないでしょうか?

     

     

    最近のわたしもよくやる気が出ない、もしくはめんどくさいと言ってやらなければいけないことを痛みを理由に後回しにしてしまうことがあります。

     

     

    大抵、そういった時のじぶんは実際のからだの痛みよりも過大な痛みを妄想で作りだしているように思います。

     

     

    明日に続きます。

  • 「からだとじぶんの間にあるもの ~その1~」

    三浦先生、一週間ありがとうございました。

     

     

    本日からは三浦寛幸がバトン引き継ますのでお付き合い下さい。

     

     

    本日もそうでしたが、最近早朝5時位から7時、8時の時間帯で公園をジョギング、もしくはウオーキングしている人達をよく見かけます。

     

     

    わたしの職場は三鷹台が最寄りなのですが、朝の井の頭公園を吉祥寺にかけてかなりの人がからだを動かしているのを目にします。

     

     

    そのほとんどが年配の方なのですが、中には若い女性や子供もいて、最近はこういった人達から物凄いエネルギーを頂いているように思います。

     

     

    その頂いたエネルギーのお陰もあり、先週から空いた時間を使って可能な限りウオーキングをするようになりました。

     

     

    それまではリウマチの痛みが強くなってきたこともあり、動くことを極力避けていましたが、その恐怖心や横着してしまうじぶんの心がだいぶこれらによって変化してきました。

     

     

    その中で強く感じることは痛みとの対立していたじぶんの意識がそれを受け入れるようになってきたことです。

     

     

    明日に続きます。

  • 七日目

    右手、手関節の動きは

    手掌からの動きこそ、軽い。