先日、クライアントに立ち方の作法を指導していた時、
どうも立ち姿が力んでいるように見えた。
原因は、何度も来られている方だったので
「拇趾球で立てているだろう」と勝手に思い込んでしまったことにある。
実際は「親趾のつけ根」で立っていた。
たった数センチの違いでも、「拇趾球」と「親趾のつけ根」では、
「立った時の感覚」が全く異なる。
修正したところ、力みはなくなった。
作法をとおすことばかりに意識がいって、
肝腎の「感覚」がすっぽり抜けてしまっていたのだ。
勉強になった。
先日、クライアントに立ち方の作法を指導していた時、
どうも立ち姿が力んでいるように見えた。
原因は、何度も来られている方だったので
「拇趾球で立てているだろう」と勝手に思い込んでしまったことにある。
実際は「親趾のつけ根」で立っていた。
たった数センチの違いでも、「拇趾球」と「親趾のつけ根」では、
「立った時の感覚」が全く異なる。
修正したところ、力みはなくなった。
作法をとおすことばかりに意識がいって、
肝腎の「感覚」がすっぽり抜けてしまっていたのだ。
勉強になった。
「からだ」が自然にととのう。
「からだ」を意図的にととのえる。
前者は「からだ」が主語で、後者は「私」が主語になる。
両者をつなげてくれるのが、操体で大切にしている「感覚」だ。
「からだの使い方」に関しても、
「からだ」の邪魔をしないように意識しながら、
「からだ」がききわけている「感覚」に委ねながら表現していく。
「からだ」を操っていたつもりが、
「からだ」に操ってもらっていたっていうのが面白いと思う。
自然に「ととのう」と意図的に「ととのえる」。
「からだ」に関してはどっちだろう。
自然とそうなるようにととのうのが一番いいような気もする。
ただ、そうはいかないこともあるから意識も必要になってくる。
操体はそのバランスを大切にしている。
操体には「からだの使い方」に関して、
法則とかルールという言葉を使うこともあるけれど、
マナーやお作法というニュアンスでもいいかなと思ったりもする。
「からだ」に対する気遣いみたいに捉えてみる。
子供の頃、ジグソーパズルが好きだった。
同じパズルを何度も繰り返していると、
そのうち完成図はいらなくなってくるし、色んな手順を試したくなってくる。
ここからが面白かった。
枠から作っていっても、図柄で合わせていっても、
やっているうちに覚えたピースの形からつなげていってもいい。
バラバラだったピースが一つの絵にととのうまで色んなやり方があった。
最後はどれだけ早く作れるか、時間を計ってやったりもしたが、
先日、娘も全く同じようにパズルをやっていたのが可笑しかった。
香さん
一週間ありがとうございます。
今週担当の瀧澤です。
テーマは引き続き「ととのう」です。
よろしくお願いします。
お正月に「日日是好日」を借りて観た。
以前このブログで半蔵実行委員が原作を紹介してくださったこともある。
映画化されてからずっと観ようと思っていた。
「習うより、慣れろ」で型を身につけていく、
長年取り組んでいても所作には工夫の余地がある、
ある時点からわずかな変化を感じ取れるようになってくる、
普段操体で勉強していることを外から見ているようで面白かった。
こんなふうにととのいたいと思う。
変化することに抵抗せず、変化をそのまま受け止めてみると、
自分の知らなかったことを知り、変化する前よりも、よりよい状態になるのだと思うことが増えたと思います。
からだのことを学ぶとは、自分と向き合い、自分の人生をととのえていくことなのかもしれません。
一週間ありがとうございました。
明日からは、瀧澤さんです。
冬は乾燥で皮膚のひび割れ、荒れがおきやすくなります。
クリームなどで手入れしキメが整うと、痛みを感じなくなります。
当たり前のようですが、普段、痛みを感じない状態にある皮膚の凄さに気づかされます。
そして回復していく力の高さにも気づきます。
テーマ「ととのう」を考えた時、小学生の頃を思い出しました。小学生の頃、入学式や卒業式などの式典にあわせて、起立や礼をするタイミングがバラバラにならず、揃っていてきれいにみえるように練習した記憶です。今の小学校でもこのような練習をしているのかどうかはわかりませんが、静かに動かず座る練習もしたように記憶しています。式典の緊張感を思い出しながら、ととのうと適度な緊張感がうまれるのだろうかと思いました。