投稿者: karib_sotai

  • 調から整

    おはようございます。

    今週は友松の担当となります。一週間どうぞよろしくお願い致します。

     

    今回のテーマは「ととのう」です。

    ひらがなで表現してるところがいいですね。

    漢字だと何だか枠にはめられる感じがするのですが、ひらがなだと何か意味合いが膨らむ感じとか、何か愉しそうであり、何か新たな気づきや発見が有りそうな予感がします。

     

    整理整頓という言葉がすぐに思い浮かびましたが、これなども自分でやり方や準備が「調った」上で、それをキチンと「整えて」いくものだと思うのです。

    整理整頓も、その為の条件が揃った上での行いとなり、部屋の片付け一つでも本人の美的センスや快適に過ごす為に必要なビジョン、掃除道具などが揃った上での行いとなる。

     

    順序としては「調う」から「整う」であり、いきなり「整う」をやろうとすると上手くいかないのではと思う。

    これは何をするにも当てはまる事だと思います。

     

    臨床にしても、猫背やO脚など姿かたちを整えてほしいという人も多いと思いますが、気になるところの形だけ整っても、内実が伴っていなければ整ったと思われる状態は長続きしない。

    この場合の内実とはからだの動きであり、形だけ整えた状態とからだの動きが調和していなければ、その形が崩れるのは自明の理です。

    からだの動きを全体的な観点からナチュラルに調えていく必要があり、ナチュラルに調っていく過程には気持ちが良いという感覚による調和、そこからの健康の回復、維持、増進が伴い、その上で自分の望む姿かたちへの整いがあるのです。

     

    ある程度の健康状態で間に合って、尚且つ自分の望む姿かたちを求める人には遠回りに思えるかもしれない。

    しかし、結局は一番の近道であり、そしてそこには幸福への切符が伴っている。

    生きている限り、誰もが時間の経過と空間との調和の関係性からは逃れられないのですから。

    整の前には調があるべきなのです。それを繋ぐのは感覚であり、そして、ととのう。

  • シンプルに、手近に

    からだには自ずから「ととのう」働きが備わっている。

    これはとても有難いことだ。

     

    この作用に反発することなく、

    あの手この手でいい関係を築いていくことが

    操体の臨床にとっても、大切なプロセスとなってくる。

     

    からだはモノではないのだけれど、

    でも日々の生活の中で、生活時間に引きずられるような空間が続けば

    気が付くとモノのように扱って消耗してしまっている瞬間がある。

    その関わり方は、からだの治せる治癒力の向かい風となりうる。 

     

    つねにからだとの程よい関係を持ち続けるために、

    シンプルに、もっとも手近にできることは、

    やはり、「感覚」をからだにききわけることなのではないかと

    感じている。

     

    感覚は、いうなればからだからのメッセージでもある。

    それを受け取ろうとする姿勢だけでも、

    からだにとっては、きっと追い風となる。

    からだだって、無視されているよりは、ずっと嬉しい。

    一瞬の間でもいいから、一日の中で、こういう空間を自分にもてたらいい。

     

    さて、そうしたくても受け取り方がわからない。

    感覚をききわけるといったって、何だかわからない。

    簡単なようにいうけど、手探りで行うには色々な障壁があることは事実。

     

    それなら、最初は専門家の助けを借りるという方法をお勧めする。

    そのサポートが操体の臨床家にとっても重要な役割のひとつで、

    数多ある引き出しのなかから

    そのからだとその人に適った空間となるようにあの手この手で

    臨床をデザインしてくれるはずだ。

     

    ゆっくり時間がかかってもいいから、

    その人なりの 「間」のつくり方を

    見つけていくことができれば、

    セルフケアの基盤になっていくのではないかと感じている。

     

    一週間のお付き合いありがとうございました。

    明日から友松実行委員が登場します。どうぞ、ご期待ください。

  • 波打ち際にあの言葉

    からだのなかで常に起こっているバランス現象。

    この営みに対して、できる事ならば追い風に、

    少なくとも、余計な邪魔をするようなことは

    しなくてすむのなら、それにこしたことはない。

     

    とはいうものの、理想と現実には大きなギャップがある。

    禅寺の修行道場のようなところに強制的に身をおくようなことをしないかぎり、

    生活の中には誘惑が溢れかえっている。

    健康を維持することは、このある意味ハードな環境のなかで、

    自分自身から沸き起こる色々をコントロールすることと無関係ではない。

    そこに多大なエネルギーを傾注しているようにすら感じる。

     

    静かにからだからのメッセージを受け取ろうにも、

    油断していると刺激的な情報に意識は奪われる。

    からだの本音はなんとなくわかってはいるけれど、

    ついきこえないフリをしてしまうことも度々起こる

    「自分」と「からだ」との波打ち際。 

     

    そんな環境にいて、理想だけが高くなればなるほどに、

    その意識高い感じが自分自身へのストレスになってしまう事もある。

     

    橋本先生はそのへんのことに関して、本当にうまいことを言い放った。

     

    「間に合ってればいいんだ」

    「及第点がとれればいい」

    「60点でいいんだ」

     

    「怠けてもいい」とか「適当にやってればいい」と受け取るか、

    この言葉を味わいながら、自分自身と程よく折り合いをとり続けていくか。

    先生の人間に対しての放言は、現代においてもまったく輝きを失っていない。 

  • のるかそるか

    からだからのメッセージのようなものは、

    特別な場面でなくてもとても身近に受け取っている。

     

    例えば、「風邪をひいて熱が出て、喉が痛い」という類のメッセージは

    よほど、根詰めて何かに取り組んで突っ走っていない限り

    からだに照準を合わせなくても自ずから感じられてくる。

    イヤでも、からだから伝わってくる。

     

    「何となく調子が良くない」というわずかな変化でも

    感じることのできる人は、普段の生活のなかで自然とキャッチできている。

     

    「お腹がいっぱい」というメッセージなら、

    膨満感やげっぷなどから日々のなかで当たり前のように受け取っているだろう。

     

    上記のようなメッセージを受け取っては、

    その内容を踏まえて休息をとったり、時に従わないで食べすぎたりと、

    意識的に、または無意識に振舞うということを繰り返している。

     

    からだは言われなくても、心臓は動くし、小さな傷であれば治るし、

    内臓も各々の役割をマイペースで果たし続けるなど、自然とバランスをとるように絶えず活動してくれている生き物のようだ。

    からだからの様々なメッセージも、ある意味ではこのバランス現象の作用の一つのようにも考えられる。

     

    メッセージに従うことは、ととのうことの追い風になり、

    従わなければバランスが取れてくるまで、

    余計に時間がかかってしまうことだってある。

     

    とてもシンプルに、のるかそるかできればいいのだけれど、

    そうも簡単にはいかないところがもどかしい。

  • サイレンが鳴る前に

    からだにとっての「無視」とは何だろうか。

    からだからのメッセージを、聞かなかったことにすることだとまず浮んでくる。

     

    「病気」や「症状」、「疾患」などはある程度まで行き着いた結果のことであって、

    メッセージとしてはかなり音量や音圧の大きなものと言っていいと思う。

    分かりやすいし、ある程度を越えれば無視することはできない。

    操体ではこれをよく「サイレン」に喩えることがある。

     

    こんなに大ごとになる前に、からだの方からはなんらかのメッセージが送られているはずだ。

    なんとなく、調子が悪いだとか、いつもと違う感じがするとか。

    不定愁訴や微症状と呼ばれることもあるこの「なんとなく」も

    立派なからだからのメッセージ。

    このレベルのことは、気が付いているけど、気付かないことにしてしまう事が多い。

    数日たてば、消え去ったように感じることも多いし、

    そのような些細なことに気をとられている余裕が、毎日の中に潤沢にあるわけでもない。

    そして、何よりも気付いたところで、残念ながらからだに対してどうすることが必要なのか、

    自分で考えてみても他人に聞いてみても、わからないことだったりする。

    そこでからだと向き合うことを少し諦めてしまう。 

     

    からだからのサイレンには、鳴り始める理由がある。

    原因となる何かが、何でもない日々の生活の中で燻っている。

    サイレンとはまた違う微かなメッセージがこのときにも届いているはずである。

  • モノもからだも

    前日テーマに挙げてみた「モノ」に関して感じたことは、

    初日にテーマで触れた「からだ」に向けても同じようなことがいえると思っている。

     

    モノは使い込まれ、人が手をかけていく事などを通して、

    良くも悪くも味わいのようなものが生まれる。

    これは新品には備わり得ない、モノに宿るなにかだ。

     

    結果的に愛着が生まれれば、そのいのちは世代を超えて引き継がれることだってある。

    使い捨ての超消費社会の真っ只中にあっても、

    人の寿命よりも長生きするモノは未だに存在する。

     

    何にせよ、「使う」、「手にしている」という関わり方が、

    初歩的で、重要なメンテナンスそのものになっていると感じる。

    「使い方」を工夫し、手入れをしていく意志があれば、モノの寿命はそれだけでも延びていく。

     

    前日のイギルの一件以降、「使わないこと」の影響について考えるようにしている。

    忘れ去られている、意識に挙がっていないなど、色々な「使わない」状況が在る中で、

    その中でも、「無視している」状況というのは、また独特な態度が在るように感じる。

     

    使い方に多少の難があっても、何とか間に合っていける。

    「モノ」にとっても「からだ」にとっても、

    この「無視する」という態度は一番堪えるのではないかと思う。

     

  • モノのいのち

    モノには自然治癒力がないかもしれない、と前日のブログで書いてみたが、

    それでもモノにもいのちはある、と矛盾しているが感じてもいる。

     

    愛着を持って、大切にしていれば

    そのモノのいのち、というか

    寿命のようなものは延びていくように感じられるし、

    結果的に長く付き合っていくことができる。

    当たり前のことではあるけれど、

    こういう「手をかける」、ことは人間に与えられた大事な能力ではないかと感じる。

     

    そして、逆もまた然り、ということを切実に感じる出来事が昨年起こった。

     

    私は音楽が好きで、楽器も好きで、人生で一度だけ楽器を自作したことがある。

    ロシア連邦の伝統楽器で「イギル」という擦弦楽器がそれだ。

    同国のホーメイという喉歌には欠かせない、相棒のような楽器だ。

     

    このイギルをホーメイを歌うにあたって、どうしても欲しくなり、

    その頃、日本では容易に手に入らなかったという理由から、

    当時お世話になっていたホーメイの師匠の持っているイギルの寸法をとらせてもらい、

    発起して半年かけてのこぎりや彫刻刀で汗をかきながら、なんとか自作した。

     

    汗水たらして生み出したその相棒とは、その後演奏活動を冬眠しようと思うに至るまで

    ずっとともに過ごしてきた。

     

    活動を止めて2年ほどたったある日、床の間に安置していたその相棒に

    実に久しぶりに触れてみた。

    すると、弦を弾くための弓の部分の紐が切れているのに気が付いた。

    演奏活動をしていたときにも勿論、弦が切れたり、手入れをしなければ間に合わないことは度々あったが、そういうこととは別の異質な出来事のように感じられた。

     

    これは、何よりも「使っていなかった」から起こったこと。

    いや、それだけではすまない。

    意識を向けていない、呼吸を通わせていない、

    ある意味では「無視」。

    そういう関わり方の、モノのいのちに与えている影響にハッとした瞬間だった。

  • イキモノの不思議

    おはようございます。

    瀧澤さん、一週間の御担当ありがとうございました。

    今日から一週間、ブログテーマ「ととのう」を引き継いで、寺本が担当致します。

    よろしくお願い致します。

     

    「からだ」という代物は不思議なものだと思う。

    操体の世界にアタマを突っ込むと、

    今までの視点、立ち位置とは別の角度から見えてくるものに出会うことがあるけれど、

    このからだの魅せる不思議さは底無しではないかと感じる。

     

    今更ではあるけれど、ここのところ

    からだの持っている自然治癒力、自然良能作用のようなものが

    不可思議で仕方がない。

     

    例えば、指先を刃物で切ったとする。

    対処の仕方は様々できるが、

    傷口に軟膏をぬるにしても、絆創膏で保護するにしても、

    また、ほっておくにしても、

    基本的には数日のうちに傷は治っていく。

     

    その人の状況、怪我や症状の大小にも勿論依るけれども、

    からだには自ずからバランスをとろうとする作用が

    人知れず確かに働き続けている。

     

    これが「モノ」だったら、そうはいかない。

    モノは傷ついたらそのまま。

    または、そのダメージをきっかけに

    少しずつ壊れていくままのプロセスを辿っていく。

    モノには自然治癒力は働いていないのかもしれない。 

     

    その辺の違いというのが、何で起こるのかが不思議で仕方がない。

  • その都度

    一日目のその後

    「日日是好日」の映画を観た後、

    原作も読んでみたいと思っていたら思いがけず本がやってきた。

    一月に上京した際、畠山先生がこの本を手渡してくださった。

    同じタイミングで映画を観ていたらしい。

    偶然が重なることはあるけれど、さすがにこれには驚いた。

    その後、改めて購入し、再読すると、

    お茶の稽古に向かう主人公(作者)の心の葛藤に目がいく。

    稽古をとおして、その都度心の葛藤がほどけていく様子が素敵だと思った。

    「ととのう」におしまいはない。

    やっぱり、こんなふうにととのいたいと思う。

    一週間ありがとうございます。

    寺本さん、明日からよろしくお願い致します。

  • つりあう

    操体をとおして「ととのう」のイメージが変わってきた。

    以前は「かためる」で、今は「つりあう」。

    「ゴール」と「プロセス」の違いのような感じかもしれない。

    たまに抜けてしまうこともあるけれど、

    「からだに感覚をききわける」ことに出会えたことは大きい。

    般若身経や作法をとおしても、身心の状態で感じ方は変わる。

    どこに意識を置くかでさらに変わってくる。

    感じ方は違うけれど、「バランスがとれている」と感じる瞬間がある。

    この瞬間が「今ととのっている」ということなのかもしれない。