投稿者: karib_sotai

  • 四日目「おなかの調子を整える」

    今年は暖冬ですが、たまに気温差が激しい時があります。ちょっと気温が上がると、やってくるのが「花粉症」です。
     
    私はそれほどひどくはないのですが、最盛期には、目薬と漢方薬はもらいに行きます。
    また、普段は二週間使い捨てのコンタクトレンズを使っているのですが、春先はワンデーを使うことが多いです。
    夜、コンタクトレンズをはずして、マジマジとみると
     
    「うわ~」
     
    っていうほど花粉というか、汚れがついているのです。
     
    さて、昨年受講生のTさんから「ヤク○トが花粉症にいい」という話を聞いて、昨年は「シンバイオティクス」を毎日飲んでいました。
    そのせいか、朝晩クシャミが出るくらいでした。
     
    先月、Tさんから「ヤ○ルト400(お店では売っていない)」の更に凄いバージョンで「○クルト1000が出た」という話を聞きました。
    シロタ菌が1000という凄いヤツです。これもお店では買えず「ヤクル○レディ」からの宅配でしか買えません。
     
    なお、私は去年色々なヨーグルトを試しましたが、一番「こりゃ調うね」と思ったのは、グ○コの「ビフィックス」でした。
    まあ、ヨーグルトはお腹の中の状態によって、合うモノが違ったりするそうですから、私にベストなものがアナタにベストではない可能性は十分あります(実はみんなそうなんですけどね)。
     
     
    そういえば、毎月「フォーラム実行委員勉強会」というのがあるのですが、丁度岡村さんが「腸内フローラ」とか「免疫」とか「リーキーガット」「パイエル版」(の腸管壁に局在する独特でかつ重要な免疫器官)話をして下さったので、
    「そういえば、大嶋信頼さんのブログに腸内の免疫の話があったなぁ」と、検索してみました。
     
    これはちょっと古い記事ではありますが「インターネットで不愉快な記事を検索するのがやめられない」という人の話です。
     
    それと腸と免疫ってどう関係あるのか?と思うかもしれませんが、なるほど、なんです。
     
     
     

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  • 我々はなぜ「○○操体」と言わないか

    三日目です。
     
    私のところはHPを立ち上げたのが1998年です。当時は「操体やってます」なんていうところは殆どなかったのですが、最近は「操体っていろんなのがあるんですね」と言われるようになりました。
     
    しかし、私自身は「情報断ち」をしていることもあり「操体に関する不愉快な情報」は断っているので、あまり知りません。
     
    例えば、東京操体フォーラムを破門になった輩が、破門になった同士でつるんでいるとか、私が大昔教えた人が、なんだか操体を使って妙なことをしているとか、誰かさんが「○○操体」っていうのをやってるとか、他の誰かさんが「△△操体」っていうのをやっているとか、そういうのを聞くと「なんだかなぁ」とか、エネルギーを使うことがあるからです。
     
    同様の理由で、Youtubeも、エネルギーを使うので、操体関係のは殆ど見ません(笑)。
     
    別にyoutubeを見なくても、毎週「最新の操体」を見ているからということもあるのですが。
     
    たまに「ハタケヤマさんもオリジナルを作って『○○操体』って作れば」と言われることがありますが、「とんでもない」です。
     
    操体は操体なのです。
     
    以前も別ブログに書いたのですが、「○○操体」というのは、創作ラーメンのようなものです。
     
    つまり、余程技量があり、跡継ぎを育てることができなければ、一代限りです。
     
    「操体」というのは、操体法(臨床)と、創始者橋本敬三先生の哲学や生命観、死生観をも含み、自然法則の応用貢献に則したものです。
    「ラーメンも色々あるけど、ラーメンの基本と真髄はこれだよね」ということで、「操体」で行っているのです。
    当然ながら、三浦先生は後継者(ご自身も、橋本敬三先生から操体を受け継いだ後継者ですが)の育成をしっかり行っていらっしゃいます。
    「オレが作った『○○操体』」ではなく、「操体の後継者をじっくり育てている」のです。
     
    また、古くさいままではなく、一番新しいことをやっているのに「操体」を名乗っているのです。
     
    ここでもまた「家元ほどアバンギャルドである」という言葉を思い出しました。
     
    多分(というか本当に)、操体法東京研究会や、東京操体フォーラム実行委員勉強会でやっていることは、アバンギャルドでエキセントリックなのです。
     
    「操体」と名乗る我々が「アバンギャルドでエキセントリック」(前衛的で常識を逸脱している)のです。
     

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  • 整体師が「整体」という名称を捨てる時。

    「おおよそ,「調」は「何かをするため,始めるための必要なもの(状態,条件)をそろえる。」「物事がまとまる。成立する。」という意味で使われ,「整」は「乱れたもの,まがったもの,くずれたものを正しくする。なおす。きちんとする。」という意味のときに使われている」
     
    なるほど、。
    また「調」は、和合、「整」は、きちんと整列させる、という意味があるようです。
     
    ちなみに、いわゆる「整体師」が、操体を勉強するうちに「整体」という言葉を使いたくなくなってくることがあります。
    私は何人もそんな人を見ているのですが、「○○整体院」という屋号を変えたくなってくるのです。
     
    それは、「操体」が分かってきたから。分かってくると「自分がやりたいのは操体だ!」という意識がどんどん大きくなり、屋号から「整体」という字を外したくなってくるのです。私のところは大昔は「療術院」でしたが、今は「研究所」になっています。これも「やっぱ療術ってのもちょっとフィットしないかもなぁ」というところで、三浦先生にならって「研究所」にしたのです。
     
    そんな意味で操体を考えてみると、整体の「整」は、やはり、歪んでいる筋骨格系をきちんと整列させる、つまり他力的な感じがします。
     
    はい、肩の高さ、揃った!骨盤の傾き、揃った!足の長さ、揃った!
     
    という感じです。
     
    やっぱり、操体っぽくないですよね。
     
    ★「操体っぽくない」というだけで「整体」に文句をつけているわけではないので、ご容赦下さいね。
    整体と操体は、この辺りも違う、という話で、操体の「本質」がわかってくると「自分がやっているのは整体じゃない」という気持ちが沸いてくるということです。
     
     
    これを操体で言うならば、例えば、肩の高さが左右違う場合。
    我々ならば「右肩が下がっているから悪い。だから左右整える」のではなく「右肩が下がるには、理由がある。それはからだの事情であるし、からだは左右対照とは限らない。今、右肩が下がっているのは、バランス(調和)をとっているあらわれである。しかし、それで辛いならば、遠方(例えば足から)からもバランスをとるようにアプローチしよう。
     
    というように非対称であるからといって、それを「対称的にきちんと整列させる」ように他力的に矯正したりはしません。
    非対称でも「それはそれなりに理由がある」とみて「あっていい歪み」「あったらよくない歪み」を見極め、あったらよくない歪みでも、敵視はせずに、周囲と上手くバランスがとれるようにします。
     
     
    なんだ。私が「操体」を知ってから「整体」という言葉を使うことに対して違和感があったのは、「言葉の意味」もあったんですね。
     
    まあ、世の中には「操体っていってもわからないから、整体って言ったほうが人の受けがいいんじゃない」という人もいますが、受けがいいとかという問題ではなく、やっぱり「整体」ではないのです。
     

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  • ととのう(初日)

    こんにちは。畠山裕美です。一週間よろしくお願い致します。
     
    「整いました~」で、ねづっちを思い出した方、すみません。
    (私はダーリン寄席で何度かねづっちのステージを見たことがあります)
     
    今回のテーマは「ととのう」です。
    実は、今回このテーマ案を出したのは、瀧澤さんと私でやりとりをしていて「整う」「調う」「斉う」などの意味があるよね、ということで、決めたモノです。
     
    ここから色々な想像を広げて膨らませて書いてみようと思います。
     
    さて、自分自身で「どうして『ととのう』という単語が出てきたんだろう」と考えてみました。
    アタマの中に「ぽっ」と浮かんできた言葉なので、多分何かあるんだろうなと。
     
    そうしたら、ありました。
     
    「ミステリと言う勿れ」(みすてりというなかれ)というマンガです。

     

    ミステリと言う勿れ コミック 1-5巻セット

    ミステリと言う勿れ コミック 1-5巻セット

    • 作者: 
    • 発売日: 2019/09/10
    • メディア: -
     

     電子書籍で買っていたのですが、お正月に改めてまとめ読みしたのでした。

     
    これは、昨年の「マンガ大賞」の第二位に輝いた名作(連載中)です。
     
    作者は田村由美。SF対策「7SEED」の著者でもあります。

     

    『7SEEDS』1~4巻 アニメ放送記念 SPECIALプライスパック (フラワーコミックススペシャル)

    『7SEEDS』1~4巻 アニメ放送記念 SPECIALプライスパック (フラワーコミックススペシャル)

    • 作者:田村 由美
    • 出版社/メーカー: 小学館
    • 発売日: 2019/12/26
    • メディア: コミック
     

     

    田村氏のマンガは、絵柄が可愛いと言えば可愛いのですが、登場人物が結構ハードボイルドで、サバイバルもの、戦闘もの、はたまた異世界妖精譚など、幅広いのですが、私は「BASARA」(1993年小学館漫画賞受賞)の頃から「すんごいストーリーテラーだな」と注目していたのでした。
     

     

    BASARA バサラ文庫版 全16巻完結セット (小学館文庫)

    BASARA バサラ文庫版 全16巻完結セット (小学館文庫)

    • 作者:田村 由美
    • 出版社/メーカー: 小学館
    • 発売日: 2011/03/01
    • メディア: 文庫
     

     このあたりは、漫喫に籠もって読んで頂きたいところです(笑)

     
    「7SEED」も、あれは読むのが止められなくなりましたからねぇ(笑)。
     
    というわけで、ねづっちではなかったのでした。
     
     
    さて、話が長くなりました。
    「ミステリと言う勿れ」の主人公が「久能整(くのうととのう)」君という大学生です。
    多分「ととのう」というのはここから来たのです(自分で決めておきながらすんません)。
    整君は、もじゃもじゃアタマでカレーが大好きな大学生ですが、自分にかけられた殺人事件の犯人の容疑を、取調室での刑事の話から読み解く、いわゆる「安楽椅子探偵」もののようになっています。
     
    安楽椅子探偵モノで有名なのは、「成吉思汗の秘密」(高木彬光)や、「時の娘」(ジョゼフィン・テイ)が有名です。私はこの二冊、推理小説モノの中では、結構好きな部類に入るのですが、整(ととのう)君の思考の飛び方や、発想が非常に興味深いのです。というのも、整君がひたすら推理をしゃべりまくるという内容です。
     
    それも結構複雑怪奇な事件ばかりなのです。
     
    そういえば、「くのうととのう」って、苦悩がととのう(うまい状態にまとまる、つまり解決する?)っていう意味もあるのかなと気がつきました。
     
    調和するという意味もありますね。
     

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  • 60点の豊かさ。

    おはようございます。

     

    物事の成り立ちには、異質なものどうしの調和がある。

    これはフィフティ・フィフティの状態のままではなく、どちらかが歩み寄り、比率を変えてつり合いを取るようにして、両方が活きてくる状態になるのが良いと思います。

     

    どちらかが、どちらかを屈服させる状態であれば個性が活きてこないし、そこからの発展は望めないと思う。
    この場合50:50だった比率が、90:10とか一方が限りなく0に近くなる比率であり、これではまわりの状況に上手く対応できず、まわりの状況が少しでも変われば破綻に向かってしまう。

     

    まわりの状況に対応した上で、目的に応じて優先して動く側と、その動きを支えるよう違う動きをする側というように、違う個性を発揮しつつ合目的となる、その比率。

    その比率は50:50ではなく、ましてや90:10でも100:0でもない筈だ。
    その、つり合いの軸も然り。

     

    ふと、橋本敬三先生がよく言われていたという「60点取れればいい」という言葉が浮かんできた。
    更に「バランスは100パーセント取らなくてよい、間に合えばよい」という言葉も浮かんできた。

    これらの言葉は、調和したバランスの比率にも、当てはまるのではないかと感じた。

     

    誰でも目的を十分に果たしたいと思うだろう。しかし、目的に向かって動く側の比率ばかりを高めても、まわりの状況(空間、時間を含む)を理解しながら、目的行動を支えてくれる側を忘れては、バランスを崩してしまう。

    アクセルとブレーキの関係でもあり、一方を外に捻れば、反対側は内に捻ってバランスを保とうとする、そんなつり合いでもある。

    目的行動が60点を越えてると感じたら、あまり欲張らず、また頑張らず、自分の我をとおそうとせずに、支えてくれている側の事も慮い、配慮するという事。

    また、支えてくれる側をはじめから優位とし、目的行動をそこに合わせていく、というバランスのとり方もあって然りだろう。

     

    橋本敬三先生はこうも言っていたという。

    「間に合っていればいいんだ! 間に合っていればよい、という心の豊かさが必要だ。
     それが、人間が生きる、ということの品性だ」

     

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。

    明日からは畠山裕美先生の担当となります。

    明日からも、どうぞ宜しくお願い致します。

     

    友松 誠。

  • 盾と矛より

    おはようございます。

     

    今回のブログでは、調和という言葉を何回も用いていますが、調和とは何なのか?を少し考えてみたいと思います。

     

    辞書には「物事の間につり合いがとれていること」とあるが、これだけだと何かあっさりしているというか、動いているものを止めて外側の状態だけを客観的に見ているだけといった印象を受けます。

    辞書ですから、これはこれでいいと思いますが…。

     

    しかし、調和というのは、エネルギーを秘めた動的な事柄だと思うのです。

    もっと何かこう、感動と歓喜あり、美しいハーモニーの調べを奏でるような、そういったものを感じるのです。

    調和が無ければ、この宇宙を含め現象界そのものが無いのですから。

     

    物事の成り立ちには、異質なものどうしの調和がある。

    例えば、中国の故事に「盾と矛」というのがある。
    これは「どんな盾も突き通す矛」と「どんな矛も防ぐ盾」を売っていた男がいて、客から「その矛でその盾を突いたらどうなるのか」と問われ、返答できなかったという話。

    これも相対して対立させる観点では、フィフティ・フィフティのまま物事は平行線となり、進まない。

    しかし、正反対なモノの間を取り持つモノが現れ、お互いの個性、主張が引き立つように調整し、フィフティ・フィフティの関係から、どちらかが歩み寄り、比率を変えてつり合いがとれるよう一体化できれば、両方が活きてくるのではないだろうか。

    この歩み寄って和親していくところに、何か凄い動きのエネルギーを感じる。
    そして、そこには感動あり、歓喜ありなのだと思う。リズムも生じるだろうし、そういった和親、調和の現象があちこちで起これば、美しいハーモニーとなっていくのではないだろうか。

    この宇宙が、時と共にひろがり、膨らみをみせているのも、こうした調和があるからこそと思う。

  • 整から調を学ぶ

    おはようございます。

     

    これからの操体臨床を学ぶ上で、この生かされし空間に調和するナチュラルなからだの動きを識り、そして自分自身でその動きの感覚をききわけながら、自然の摂理に調和していく事は大事だと思います。

    その調和が密になるほど、自分のからだのツクリも整い、そして動きも更に良くなっていく。

     

    私も20年近く前の、創始者直系の操体の門をたたいた時は、体重が100kgを超えたメタボ体型でしたが、その2年後くらいには70kg台の体型、更に60kg台の体型になり、ここ10年以上体重の変動はない。

    そして、中身の動きの調和をつうじて、ツクリも整っていると感じるし、更なる可能性も感じている。

     

    これも、操体の第一人者である三浦寛先生に学んでいるからだと感じる。

    ナチュラルな動きを知り、自分で実践するにしても、整ったお手本となる人物は必要。

    手本とする形(カタ)がイメージできなければ、形無しともなりかねない。

    良いイメージを、意識に刻み込むにこしたことはないが、それには第一人者に指導を仰ぐのが最適であろう。そして、その息遣いやからだに対する気遣いに触れておくことも大切。

     

    本を読んでのイメージだけでは、自分の先入観が勝ってしまう場合が多い。また、写真やビデオだけでも、体感が伴った経験をしていないと、大切な事が写りこまれていても何が大事なのかが理解しづらい。

     

    操体の作法の動きは、筋肉を消耗させる動きではない。その為、動きと呼吸の相関性はとりわけ重要となる。

    操体の第一人者が、どう息を使い、この生かされし空間と調和しながら全身の動きを表現しているのか、実際にその息遣い、からだに対する気遣いを感じるのも大切。

     

    「整」の形(カタ)が成ったお手本から「調」を学び、自分自身で動き、からだの感覚をききわけながら「調え」そして「調和」に導き、自らも「整って」いく。

    そして更に、整った状態から、ナチュラルな動きを取り戻してゆく。そして更に…と循環する学びは凄く大切であり、そして愉しいものでもある。

  • 調和の質を高めるには

    おはようございます。

     

    操体の臨床は、初期の初期のまだ操体法の名称すらなく、創始者の橋本敬三先生が様々な療法の影響を受けて「整える」という発想をしていたと思われる頃より、長い年月の検証の積み重ねから、からだの声に耳を傾けて「調え」そして「調和」に導くという臨床体系となってきた。

    そして、それを基に今、進化した操体となってきている。

     

    治すのは、紛れもなく、からだなのです。

    治療者は、からだが治しをつけるのをサポートしているにすぎない、それが本然なのであります。これは本来、どのような療法にも当てはまる。

    治しをつけるからだを上手くサポートできるほど高い臨床効果となる。しかし、そのサポートの仕方によっては却って良くない結果を導き出す事もある。

    操体は、その本然の事実に正直であり、忠実なのです。
    だから「からだの声に耳を傾ける」「感覚をとおしてからだにききわける」という事を重要視している。

     

    昨日も書きましたが、動診の際「気持ちよく動いて」では主語、主体が治しをつけるからだではなくなってしまうのです。

    第2分析の動診では「からだにききわけて」と問いかけますが、これはあくまでも快適感覚、気持ちよさであり、調和に向く気持ちよさの質を問うているのです。

    気持ちよさをききわけるのに適った動かし方、問いかけ方があるということであり、これを実践するならば、第一分析(D1)で必須だったツライ動きを確認する必要はなくなります。
    快に向けたからだの動きの要求をわかった上で、その質を問いかけているという事。

     

    一極微とも呼ばれるこの問いかけ方には作法があります。まずはナチュラルなからだの動きを知り、自分でも実際に感覚をききわけながら実践してみる事。

    操体で学ぶナチュラルな動きは、臨床だけのものではないのです。日常生活動作のいかなる場面でも応用が利きます。

    自分でも感覚をききわけながら、動作の自然さを取り戻していきながら、作法とリンクしていく事が重要。

    これは第2分析の動診に限らず、その後の進化した操体臨床にも当てはまる事であり、まずは自分自身で体感してみなければ、他人様のからだの要求などわかろうはずもないのです。

    まずは自分自身が、動きをとおして自然の摂理に調和していこうとする事。

  • より質の高い調和へ

    おはようございます。

     

    昨日は、昭和53年に書かれた操体の創始者、橋本敬三先生の動診と題した文書より

    整復は形の上から考えるなかれ、動かして診ることだ。制限されて苦痛な動きは、体の方で止めてくれと言っているのだ。気持ちのいいように、痛い方から痛くない方向に柔らかく誘導し、最快適な時点で急速に脱力させると、元におさまる。 

    という文面をとり上げました。

    この頃の動診は、操体法の初期の第一分析(D1)でしたが、操者(施術者)は「整える」という観点ではなく、被験者のからだの感覚を重視しながら動かして診るという操体法の特徴が端的に表されている。

    一方的な物事の進め方ではなく、からだの声に耳を傾けるという「調える」「調整」の姿勢から「調和」へ導き、臨床効果を上げるという事なのです。

     

    そして、調和と時間、空間の係わりは無視できない。つまり、その時良くなっただけではなく、その良い状態がキープできる、続けていけばそれ以上により良い状態となるような効果が伴わなければならない。

     

    上記の第一分析の動診も、橋本先生の御存命中にD1からD1’へと更に改良されていった。

    D1’では「急速に脱力させる」ではなく、脱力もからだの要求感覚に委ねるように変更されたが、それだけ整復も含め整えるという観点から脱し、快適感覚により全体的な調和に導く事が大事であり、元におさまるという結果は同じでも、内容はその後の経過も順調となるよう改良されたという事。

     

    そして、D2つまり第2分析へとシフトアップされていくわけだが、そのきっかけは橋本先生の「気持ちよさをききわければいいんだ、気持ちよさで治るのだからな」という言葉だったと聞いている。

    先の第一分析の動診の文章に「気持ちのいいように」とあるが、それから4,5年たった後の「気持ちよさをききわければいいんだ」という言葉、この2つは一見同じように感じる人もいるだろうが、まるで意味合いが違っている。

    「気持ちいいように」というのは被験者本人の意思に向けた言葉であり、あくまで本人が主となり、本人のからだは対象外となっている。

    しかし「気持ちよさをききわける」となると、本人の意思よりも本人のからだが主になり、本人はからだの感覚に従動的な立場となる。

    より高次元の自然良能作用の発現に向けた調和への問いかけとなっているという事であり、ここから更なるシフトアップした診断法、更には今までの常識を覆す進化した操体へとつながっていく。

  • 整よりも調

    おはようございます。

    先日、操体の創始者、橋本敬三先生 の動診と題した文書を読み返していましたが、

    その中の文章にはこうあります。

    整復は形の上から考えるなかれ、動かして診ることだ。制限されて苦痛な動きは、体の方で止めてくれと言っているのだ。気持ちのいいように、痛い方から痛くない方向に柔らかく誘導し、最快適な時点で急速に脱力させると、元におさまる。 

    これは昭和53年に書かれたものだが、操体法の初期の第一分析(D1)の特徴が端的に表されていると思う。

     

    整復という言葉が用いられているが、この言葉自体、創始者の文献を読むと昭和30年代以前にはよく用いられていたが、昭和50年代には徐々に用いられなくなっていく。

    創始者も昭和10年代頃は、人体の基礎を成すのは骨格であるから、その力学的変位や配列異常、歪みを正せば病は良くなり、その為に痛い方から痛くない方へ動かして整えていくという考え方があった様子。

    初期の初期の頃は、鍼こい、灸こい、骨接ぎこいと様々な療法から学んでいるが、その影響も多分にあると思う。

     

    しかし、長い年月の研鑽を重ねるうち、形から判断するのではなく、その形を構成している動きの内容の方が大事だというふうに変わっていった。

    動きの内容の良し悪し、それは何で決まるかといったら、単に形からみた局所のメカニズムではなく、全体が調和して重力をはじめとする自然環境へ適応することであり、その動きには呼吸、飲食、想念も相関している。

    頭で考えると、どんどん複雑になっていくが、そこには自然の摂理や法則というものが自在しており、そこに伸るか反るかであり、実はシンプルなものだという事を、臨床実践をつうじて確信していったのだと感じる。

     

    そこに伸るか反るかの判断は、気持ちがいいか悪いかの識別にあり、法則違反をして自然の摂理に反ってしまえば気持ちが悪いし、自然の摂理に同調すれが気持ちが良く環境適応が可能となり、調和が密になって人智を超えた自然良能作用も発揮されてくるという事。

     

    確か創始者の言葉に「調和を探る」というのがあったと思うが、これも気持ちいいという感覚を羅針盤として天然自然との調和を探るという事であり、その調和を探るなかに自然の摂理の学びや、それとリンクしながらより高い次元の調和を実現するための臨床の発展があるのです。

    「整」よりも「調」であり、操体の歴史には整えるという発想が、まだ操体の名称すらない初期の頃にはあった。それを踏まえてもっと臨床効果、健康回復、維持、増進への貢献を高める為の調和を重視してきたのが操体、操体法だと感じます。