
投稿者: karib_sotai
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七日目 式神を飛ばす
「陰陽師」(小説とか映画とかマンガとか)に、式神がでてきます。紙を人形(ひとがた)に切って、それを例えば人間の姿に変えて使役するとか。「式を飛ばす」とか言いますよね。式神 / 識神(しきがみ、しきじん)とは、陰陽師が使役する鬼神のことで、人心から起こる悪行や善行を見定める役を務めるもの。式の神 / 識の神(しきのかみ)ともいい、文献によっては、式鬼(しき)、式鬼神ともいう。先日、陰陽道に詳しい方から、式神とはなんぞやというお話を伺ったのですが、「なんと!そういうことですか」ということでした。ここでは書けませんが、なるほど!というお話でした。一週間「飛ばす」というテーマで色々書いてみましたが「あなたならどう考える?」という問いかけをこめて書いてみました。明日からは、三浦寛先生です。「凜」ちゃん(りんりん)です。5月1日に一歳になりました。 -
六日目 触れずに検査(分析する)
これは、よく私が「視診触診講座」でやるのですが、
1.被験者(患者役)2.検査者3. 検査者の補佐の3人で行います。息診(呼吸で診断分析)を行ってもいいのですが、もう少し目に見えるようにしたやり方です。ポイントですが、検査者も検査者の補佐も、被験者には触れていません。検査者の補佐役は、Oリングをつくるか、手を真っ直ぐ前方に水平に伸ばし、拳を軽く握ります。検査者は、例えば「(被験者の)頸椎1番、2番、3番」と言いながら(言わなくても心の中だけでも構いません)補佐役の腕を下に押し下げます。補佐役は、Oリングならば、親指と人差し指が離れないようにしますし、腕を伸ばしているならば、手を押し下げられないように、力を入れます。そうすると、被験者の頸椎で、なにかしら「ある」ところで、補佐役の腕に力が入らなくなったり、Orリングが開きやすくなったりします。
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五日目 見える、見えない
今日ふと思い出したのは、小学生の時のことです。今の幕張メッセの近所に住んでいた私は、小学6年の夏休み、数人のクラスメートと担任の先生の家に遊びに行きました。帰り道、当時はまだ幕張メッセはなく、埋め立てもしていなかったので、国道14号の向こうは、海でした。夕方、同級生の一人と、国道沿いの道を歩きながら帰ったのですが、東京湾の上に、丸い銀色の物体が見えました。丸くて銀色で、アンテナが一本立っていて、それがゆっくりと下降してくるのです。小学校五年生くらいの頃から「ムー」(笑)を愛読していた私は「おっ!きたぞ」と思いました。私はその手のモノを見たのは初めてではなかったのですが、同級生に「あれ、見てよ」と言いました。ちなみに、東京湾はよく未確認の飛行物体が多いので、当時は結構有名でした。私の書道の先生も、そんなのは全く信じなかったのだそうですが、ある夜、ベランダから見える東京湾上空に、未確認飛行物体を見て、考えを変えたと言っていました。同級生は「アレは鳥だよ」と言いました。どうみても、銀色の球形の物体で、上に一本アンテナのようなものが立っており、それが、ゆっくりと海に向かって降りてくるのです。ゆっくりです。どうみても鳥には見えません。しかし、同級生は「鳥だ」と言い張ります。私は可笑しくなって「どこが鳥だよ」と思いつつも球形の飛行物体を目で追います。およそ1分くらいでしょうか。その物体は下降し続け、姿は海岸線に張られた網でさえぎられ、見えなくなりました。その後も同級生は「鳥だ」と頑として言い続けました。「石頭で頑固な子」で有名な子だったので、自分の認識範疇外のものは「絶対認めない」スタンスだったのかもしれません。または、私の目には球形のアンテナつきの飛行物体に見えたのですが、彼女の目には、本当に鳥に見えたのかもしれません。
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四日目 世界は水槽になっている
もうひとつ。私の気功の先生から聞いた話です。一つの部屋の中に、人間が三人いるとします。三人は離れて座っています。この三人は、離れて座っているので「離れている」と認識されますが、気功的に考えると、この部屋(もしくはこの世界)は、大きな水槽のようなもの。もし、この三人が水の入った水槽(部屋)に入っていたら、水を介して繋がっています。なので、一人が「気」や「エネルギー」を発したら、水を伝わって、他の二人にも伝わるはず。これは、誰にでもわかります。同じ事が、空気を介して起こるということです。考えてみれば、電波やWi-Fiも飛んでいるのですが、見えないんです。
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三日目 何故臨床を飛ばせるのか。潜在意識について
橋本先生は「潜在意識を変える名人だった」と、きいたことがあります。潜在意識を変えるとは、どういうことなのでしょうか。私の易の先生である、福永利貞先生から聞いた話ですが、潜在意識を考える場合、海と島を考えるとわかりやすいということです。島は海面に浮かんでいて、島と島の間は離れていますが、海底では繋がっています。もっと言えば、地球の大陸間も、離れていますが、海の底は繋がっているということですね。海面から見えている島が、顕在意識。海の底に沈んでいて見えないのが、潜在意識。
同じように、個人個人が意識できるのが、顕在意識であり、外には出て来ない、意識の深いところ(人間だけではなく、あらゆるものの意識があると言われています)が、潜在意識です。
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二日目 場を捉える
私は20数年前に、気功医師の方から医療気功を習いました。医療用、治療用の気功は「外気功」と言います。自分で気を練る鍛錬法は、内気功と言って、区別しています。今は殆ど臨床では使っていませんが、操体をちゃんと学んでいるメンバーには、三浦先生の講習とは別枠で伝授しています。これも以前に書いていると思いますが「伝えるべき人」に伝わるようです。というのは
「この人に気功系のことを教えるのはまだ早いな」
「気功を教えると、これに頼りっきりになるかも」
と、いう気持ちがあり、伝授するのを先伸ばしにしていたのです。しかし、ある時「そろそろ伝授してもいいかな。どうしようかな」と思った翌日、その二人(二人いました)が、そろって講習を辞めるという出来事が起こりました。これは「伝授しなくてよい」ということでしょう。なお、外気功は、ある特定のプログラムの鍛錬の後、伝授者(つまり、私)から「キー」(と言っておきましょう)を渡されて、初めて完成します。途中までやっても「キー」を受けとらなければ、未完です。これは「伝授」のシステムの一つだと考えています。例えば渦状波。不思議なもので、講習会場で、先生が近くにいると、現象が起こるのですが、自宅や自分の治療院、治療室でやっても、現象が起こらない場合があります。これには、いくつか理由が考えられます。つまり、講習会場でできるのは、先生の力と場の力を借りているのです。また、先生から「キー」を受けとっていない(正式に伝授されていない)ことも考えられます。クライアントの方が「家でセンセイのマネをして、ダンナに指で触ってみたけど、何も起こらなかった」ということはよくあります。また、ある人が、勉強の途中で講習を辞めたのですが、その後開業して「皮膚へのアプローチ」(渦状波というのは、商標登録されていますので、この方は、使えません)を行っていたようですが、三浦先生の渦状波を受け慣れている(?)方が、この方の「皮膚へのアプローチ」を受けた時、全く違った、つまり「現象が起こらなかった」という話を聞いた時ですまたここで、密教系の話(笑)になってすみませんが、(詳しいことは「慈童さんシリーズ」を読んで下さいね~)密教僧がご祈祷をする場合。例えば「荼枳尼天供」(だきにてんく。荼枳尼天を供養するやり方)が出来る様になるためには、師僧や上のお坊さんから「授からない」とダメなんです。また、きちんと授かっていないのに、真言を唱えたり印を組んだりすると、もののけに取り憑かれたり、「慈童さん」の中では、タヌキに取り憑かれた女性の話が出て来ます。この「授ける」というシステムは、よくできていると思います。講習会場では、先生のエリアにいるので、現象を起こすことができた。しかし、そこで「自分はできる」と勘違いして、出奔し、自分自身でやっても、先生のエリアにいたときと同じことはできない。ということなのです。
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初日 飛ばさなくてよかったこと。
友松さん、一週間ありがとうございました。
こんにちは。
畠山裕美です。一週間よろしくお願い致します。
前回フォーラム実行委員ブログを書いてから、世の中の状況がすっかり変わってしまいました。操体ができることは何か、考えて行きたいと思います。4月12日、第二日曜日の朝は、実行委員勉強会です。これはもう15年くらいやっているものですが、今回、はじめてzoomを使って勉強会を開催しました。幸いにも私はweb会議に慣れているので、不安は全くなく、無事に進めることができました。勿論、世の中にはwebを使った会議に否定的な人もいますが、今回良かったのは、長年続いている「東京操体フォーラム実行委員勉強会」を中止せずに(飛ばさずに)開催することができたということです。また、その後の「2020年春季東京操体フォーラム」も、zoomで開催することができました。これが、飛ばさなくてよかったことです。そして、今回のブログのテーマですが、一巡終わりに近づくと、瀧澤さんと私で「次、どうする?」と打合せます。三浦先生に聞くこともありますが、今回は「う~ん、飛ばす?」ということで「飛ばす」になりました。私のブログ(操体法大辞典)にも書いたのですが、今から10年前、三浦先生は「月刊 医道の日本」誌の「新年のことば」で「臨床飛ばし」ということを書いていらっしゃいます。(内容は、上記のリンクからお読みください)つまり、10年前に、東京からイギリスのクライアントを二人同時に「臨床をとばして」治療を行ったという記録です。つまり、空間と距離を越えたということです。
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読んでいて、ぶっ飛ぶ。
おはようございます。
今回のブログ担当も最終日となりました。
今回のテーマは「飛ばす」でした。
ふと、橋本敬三先生の書いた文章が浮かんできました。
生き残るものが勝つ。生き残れるか残れないか。地球上には四~五千メートルの高地に住む種族もある。平地にいるわれわれは毎日フンダンに空気を吸いながら有難いとも思っていない。公害だ、企業がわるい、国や自治体がわるい、と言う。となりで公害もなくピンピンしている人もいるのだ。手前だけ害を受けているとさわぐとき、ちょっと考えてみる必要がある。
これは昭和51年の年頭所感の文章の一部ですが、はじめて読んだ時は、医師がこういうことを書くのかと、ぶっ飛んでしまいました。
しかし、臨床でからだ本然の呼吸に委ねながら変わっていく被験者を見ていると、呼吸の大切さというのを改めて感じます。
呼吸によって生命現象は変わる。
誰もが呼吸をしなければ、その存在を保てない。それだけ生命にとって重要なのであるが、その事を普段自覚できているだろうか。
日常の暮らしの慌ただしさのなかに埋没しているような気がする。
それでも、生きている限り、無意識にも呼吸がなされ生命現象は営まれている。
有難い事だと思う。
そして、その有難さを元に、呼吸の仕方が変わっていけば、健康の基を正して底上げしていくことが可能だという事。
逆に、有難さに背を向け、そんなのやってくれていて当然だという態度でいれば、健康は基の方から揺らいでくる。
冒頭の橋本先生の文章からは、他を非難して自分の権利を主張する前に、自分は自分自身の健康に対して責任を果たしているか考えてみる必要があるのではないか、といった趣旨を感じる。
呼吸の仕方、とおし方に関しては、世間一般では呼吸を単一的に考えて○○式呼吸法とか色々あるようですが、呼吸はからだの動きと密に連関している為、からだの動きとリンクした学びが必要であり、その際の感覚のききわけも重要であると思います。
それはともあれ、今のご時世、孤独感を感じている人は多いと思います。
しかし、生きているという事は、無意識にも呼吸をつうじて生かされているという事であり、生かしてくれている存在があるという事。
その存在は「ここにいていいんだよ」と、無償に生命活動の営みを陰から支えてくれている。
生きている限り、そういう味方が常に寄り添ってくれている。
そこに想いを馳せれば、一人ではないと思えるし、自信が持て元気も湧いてくると思うのです。
一週間のお付き合い、ありがとうございました。
明日からは畠山裕美先生の担当となります。
来週もどうぞ御覧ください。
友松 誠。
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今までの日常が飛ばされても。
おはようございます。
先日、ガソリンスタンドに給油に行ったところ、何か月か前に比べて随分と価格が下がっていました。
コロナ禍の影響で経済活動が停滞して需要が減り、それが価格に反映されているのだろうか。
そういえば、世界的な経済活動の停滞により空気中のCO2濃度も、随分と低くなってきているという。
地球温暖化も含めた環境の観点からもCO2が減るのは良い事だが、これほどの経済活動の低下によってであれば素直には喜べない。
CO2も減り、環境に優しく生活も豊かになる道はないものか。
思えば、今まで資本主義経済の名のもと、大きい資本を持ったものがライフスタイルや娯楽をリードし、大多数がそれにのっかり大量生産、大量消費を可能なものにしてきたように感じる。
消費は美徳とされ、本当に良いものよりも、大量消費につながり資本が循環する、つまりお金になるものが優先されていたような感もある。
何か、そうした循環システムの中で置き忘れてきたものがあるのではないだろうか。
その忘れものに気づけた時、今までよりもっと豊かになれる気がする。
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飛び交う情報により。
おはようございます。
最近は、テレビをつけてもインターネットのニュース欄を見ても、新型コロナウイルス禍のニュースばかりとなっています。
ニュースによっては恐怖を感じたり、悲観的になったり、怒りを感じたり、いろいろとネガティブな感情が湧いてくると思います。
ネガティブな感情が湧く。これは、生きていれば誰でもある事。
しかし、それをずっと引きずってしまうのは良くない。
特に今は、誰しもが外に出られない環境下に置かれている。
気分転換が上手くできず、ネガティブな感情を引きずり、精神面からからだのバランス、心とからだのバランスを崩す事にならないようにしなければならない。
精神活動をどう営むかはとても重要だが、心で心の精神制御をするのは簡単なものではない。
緊張している時に「平常心、平常心」と心の中で念じていて、かえって緊張してしまったり、あるいは「嫌な事は忘れよう」と思えば思うほど思い返してしまったり、そういった経験は誰にでもあると思う。
精神活動も、生身のからだと共存し、情感を共有している事を考慮しなければならない。
心だけ独り歩きしている訳ではないのだ。
このような面からも、操体では「からだにききわける」という事を大切にしている。
共に人生を歩むからだの要求を感じ取る。
自分の心が、自己防衛の恐怖や社会的不安に囚われているのは、からだにとっても不快な事。
そういった心情は姿勢にも表れる。これは逆も真なりで、その姿勢から本来のからだの動きの要求を感じ取り、からだから心へのバランス制御も可能だという事。
からだが気持ちいい状態となっていけば、それを快く感じない人はいない訳であり、心にも相応の変化がみられ、生きる姿勢も変わっていく。
自分と今の環境という状況だけで考えるのではなく、今の環境との関わりのなかで自分だけでなく、自分のからだも含め、どうあるべきか問い直す必要があると思う。
