投稿者: karib_sotai

  • からだとの対話

    野口三千三先生は、橋本先生と交流があった方です。その著書『原初生命体としての人間』 の中の一節で、

     『すべてのものやことに向かい合ったとき、その対象を突き放して冷静に、いわゆる客観的にみることが一般に主張されることが多い。私は、どんなに物理的に遠くにあるものに対してでも、自分が拡散してそこまで行き、その中に滲み込み、溶け合って一体になり、それを自分の主観として感ずる、という在り方がほんとうなのではないかと考える。』(170p)

     と、述べられています。

    さすがは、

     『主観・特殊・個別以外には具体的に存在するものはない。存在するもののすべては主観であり、特殊であり個別である。特殊な個の内側にもぐりこみ、それに徹したときだけ、いわゆる普遍というもの、客観とよぶものをとらえることができるのだ。』(235p)

     と、言い切られた人です。

     

    主観的なものであっても、個人我のものではなく、一切に通じる普遍性があれば、それは真理でありうる。

    かつて、釈迦、イエス、孔子などの偉大な聖賢やその弟子達が、それを実践し伝道しました。人々を共鳴共感させるものがあったから、タイム・テイストに耐えて、進化しながら今日まで残っています。

  • 論理が飛ぶ

    昭和の時代には、(業績を拝すると)東西医学の融合を目指した治療家が多く御存命でした。橋本敬三先生も、そのお一人です。

    今も受け継がれている流儀には、各先生方の苦心の痕跡が残されています(頭が下がります)。

    しかし、それらは、未だに世界標準のものには成り得ていません。思うに、文化の差異を埋めるのは、人の一生を費やしても容易ではないのでしょう。

    西洋の神は天から降臨し、東洋の仏は地から湧いてきます。将に、天と地ほどの差があります。これをどうやって融合しようというのか!

    このテーマは、今も昔も、学者、研究者、臨床家にとって、飽きることのない魅力的なものです。

    この課題は、Scienceではなく、Artで表現するしかないのです(今のところは)。

    エビデンス・ベースで組み立てて行けば、論理が飛躍してしまう所が生じてしまうのです。

    そこは、「やって見せる」「感じ取ってもらう」という伝え方しかないのでしょう。

    大事なことは、至純にその象(かたどり)を伝承して行くということです。

    後世の進んだ科学の光に照らして証明される時が来るまで(そう遠い未来ではない、と私には感じられます)。

  • シベリウス

    ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 Op.47

    どうぞ聴いてみて下さい。

     

    鳥が大空へ飛んで行くイメージ

     

    www.youtube.com

  • 信号を飛ばす

    テレビもラジオもチューニングすると、それぞれの曲の周波数と同じ周波数の弱い電波を飛ばして、曲からの電波をキャッチするという構造らしい。

    人間と同じだ。

    男女の(ビビッとくる)出逢いは、生存戦略のためのフェロモンによるものらしい。

    友人関係は、類は友を呼ぶもあるし、反発しながらも引かれるものがあってくっ着く事もあるだろう。

    臨床は、相撲の仕切りと同じだ、と言った人がいる。治療者と患者の間に相性があるのだという。しかし、そう好き嫌いもしていられない。

     

    西洋医学には、「ラポールがとれる」という概念がある。

    東洋医学には、「気脈を通じる」という言葉がある。

    操体には、「からだの要求に従う」という表現がある。

     

    それぞれ、何を相手にして対話しているのか。

  • コロナと生きる 2 on line

    感染防止のために、オンライン会議、オンライン授業・・・電波を飛ばして繋がる。

    ポスト・コロナ時代は、この様なスタイルがビジネスも勉強も主流になるのではないか、と発言する有識者や評論家も増えて来ました。

    ちょっと待って頂きたい。

    オンラインとかリモートというものは、基本にコンタクト(面識、共同作業、共有間隔など)があって、それをベースに離れていても繋がるというのが、本来のあり方ではないでしょうか?

    私は、これを機に「生(なま)」とか「直(じか)」を見直した方がいいのでは、と考えるのですが。

    皮膚感覚、現場感覚、接近遭遇・・・頭からではなく、皮膚から入って来るものや、触れる事によって生じる自分の内の変化を、もっと大切に扱うべきだと思います。

    立ち直った後で、大事なものを失っていないことを祈りつつ。

  • コロナと生きる 1 縄跳び

    最近、右足首が痛いという患者さんが来られた。50代女性

     

    交代勤務になり、自宅で居る時間が増えた。近くの公園が閉鎖中なので、運動不足にならない様にと室内で縄跳びを始めたのだそうだ。

     

    二重飛びを200回続けて飛べた、と喜んでいたら、次の日右足首が痛んで腫れていたという。

     

    診てみると、長母趾屈筋と長腓骨筋への過負荷による筋疲労と腱の炎症であることがわかった。テーピングと湿布で、数回で治った。

     

    「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないが、感染症が蔓延するとこういう患者さんが出て来るんだな。数か月前は、この人も私も、こんな繋がりが生じるとは想像もつかなかった。

     

    綾なす、織りなす、というけれど、人生は生きてみないとわからないものですね。

  • 「とばす7 ~いつしか忘れていた大切なこと~」

    本日で最終日になります。

    ここ何年かの間の自分の臨床を振り返ってみると、

     

    「いかに患者のからだにきもちよさを提供するか」

    「どのようにアプローチすればきもちよさがききわけられるようになるのか」

    「どうすれば自力で健康を勝ち取っていける状態までもっていけるか」

     

    この意識を常に持ち臨床と向き合ってきました。

     

    操体の臨床を行っていく上で、こういったことは非常に大切なことです。

     

    これらの課題をクリアすることで結果的にそのきもちよさを臨床の中で共有する中で患者自身と私のからだも悦んでいたんだと思います。

     

    しかし、こういった問いかけを繰り返す中で臨床中の自身のからだの要求にあまり意識が向けられていないことに気が付きました。

     

    相手(患者)とそのからだに意識が向き過ぎた為、自分のからだの声が聞けていなかったように感じます。

     

    何をするにしても、より質の高いことを行っていく為には患者のからだの要求に応えながらも自分自身のからだの要求に適うようなことをしていかなければと感じています。

     

    そういったことはこれから迎えるであろう厳しい時代に、そして自己責任を果たしていくためにも大切なことではないでしょうか?

     

    そういったことは10年以上も操体の臨床の世界に身を置くなかで、当然のこととして認識していなければならないことでしたが、いつしか結果を求めるあまりに見失ってしまっていたように思います。

     

    知っている、わかっているつもりの「つもり」の中ほど現在の自分にとって大切なことがあるということは最近は痛いほど身に染みています。

     

    一週間お付き合い頂きありがとうございました。

    明日からは半蔵さんの出番です。お愉しみに。

  • 「とばす6 ~まずは自身がきもちよさを味わう~」

    本日は昨日行った触れない臨床の内容についてもう少し書いていこうと思います。

     

    昨日は操体の施術をあまり受けられたことのない患者と、ある実行委員にも被験者として参加した頂き臨床を行った。

     

    共通の決めごととして

     

    ①からだのある部位に意識を置き、呼吸の変化を愉しむ

    ②からだの要求に委ねる。その中で意識が飛んだらそのまま寝てもよい

     

    この2点を念頭に置き、30分程度の臨床時間の中でからだがどのように変化していくのかを各々で愉しむことをしていたのですが、私自身も今回の臨床ではこれまでと意識を変えて望むことにしました。

     

    それは施術者でありながら被験者としての意識を持って望むようにしたことです。

    当然ながら治療費が頂いている以上はあくまでも自身は「施術者」としての立場に変わりはありませんが、その立場上の縛りが自身のからだの感覚を鈍らせ、からだを壊すことの原因にも繋がっているように感じました。

     

    これは自分の感覚的なものですが、今までは臨床の中でまずは患者が味わっているきもちよさを私が受け取り、また還元する。

     

    そのキャッチボールを繰り返していく中で共にからだが変っていく。

     

    これまではそんな感じの意識で臨床に望んでいましたが、この臨床を機に発想を逆転させ、まずは私とからだがきもちよさを味わう。そして患者のからだに還元していくというスタンスに変えることにしました。

     

    その意識を持ったことで「きもちよさを共有することで成立する臨床」もあるということを理解することが出来たことは私にとっての大きな気付きでした。

     

    結果的には皆様からは「呼吸がしやすくなった」「からだが軽くなった」という声を頂きました。

     

    この臨床を通じて感じたことは今まで捕われていた私の楔を外すきっかけになり、これからの臨床や生活の中でも自身の意識も大きく変えてくれる気付きでした。

    まずは私とからだがきもちよさを味わうこと。それは何をするにしても大切なことで、その波動は自ずと周囲の人達に伝わっていくのだと思います。

  • 「とばす5 ~触れる臨床と触れない臨床の違い~」

    本日は昨日臨床の中で感じたこと、気が付いたことについて少し書いていきます。

     

    昨日は久しぶりに触れる臨床と触れない臨床の両方を行い、その過程で気が付いたことがあります。

     

    操体における実際に触れる臨床は

     

    からだ(構造)→動き→呼吸→意識→感覚

    また操体における触れない臨床は

     

    感覚→呼吸→意識→動き→からだ(構造)

    という順に変化しているように感じました。

     

    この二つの問いかけではどちらも結果的にはどちらのアプローチにしても「自分で自分の健康を勝ち取るための感覚と動きの学習」ということを目的にしています。

     

    しかし同じ着地点でもそのプロセスというのは全く逆転してしまうのは非常に面白いです。

     

    もちろん、その時の患者の状態などでこの5つのどれからアプローチしていくかは変わることがあるとは思います。

     

    いずれにしても人のからだを診る立場にいるのならば、この5つが関わり合っていることを認識しなければならない。

     

    それは操体の世界だけでなく、これからの医学にも必要な捉え方ではないでしょうか?

  • 「とばす4 ~触れない臨床の魅力~」

    昨日の続きになりますが、私がなぜ触れない臨床に魅力を感じているのかをずっと考えていたのですが、意識とからだとその時の感覚が一つになり向き合うことが出来るからなのだと思います。

     

    それは回数を重ねていく中でようやく気が付けたことです。

     

    実際に触れる臨床では良くも悪くも施術者がその空間の空気感や波動に深く関与してしまう。

     

    施術者の意識や思考、技術、そしてからだの状態、その使い方、様々な要素が臨床の空間にはあり、空気や波動が患者の意識とからだに伝わる。

     

    そういった様々な要素をセルフコントロールすることも臨床家の技量の一つだと思っています。

     

    その点においても橋本敬三先生や三浦先生は患者の意識やからだが悦ぶ場の空間を作るプロなのだと思う。

     

    橋本敬三先生は恐らくこういった臨床はされていなかったと思いますが、もし触れない、意識を飛ばす臨床をされたら凄い達人だったのではないかと予測しています。

     

     そういったことがまだまだ未熟な私は触れない臨床の中で患者が悦ぶ空間作りをするためにまだまだ学ばなければならないことが沢山ある。

     

    からだの動き、意識の使い方、呼吸との向き合い方・・・

     

    これらが命、からだが悦ぶベクトルに向き、一つに収まった時に初めて操体とは何なのかが見えるような気がしています。